2018年08月05日

清風 2018年7月



天上天下 唯我独尊
天にも地にも われは独尊(一人であって尊いの)である
                              その5

現代が解決を強いられている最も重大な問題は、人間存在の問題である。
我々は社会や文化の問題を後回しにしても、まず「人間とは何か」という問題と取り組まなければならない。   
(『現代における人間の運命』)

ベルジャーエフ(1874~1948)ロシアの哲学者
常に自分の問題を深く掘り下げてゆく姿勢が、生涯一貫していた思想家と言われている。


「いのちは尊い」という言葉について、どんな立場に立つ人も一致しているのではなかろうか。しかし、次のように指摘されてみるとどうだろうか。

「我々の所有する一切が ― 物質的なもの、精神的なもの、個人的なもの、社
会的なもの等、何もかもひっくるめて、我々の誇りとする一切の富が ― 我々
の手から辷り落ちてゆくとき、我々のうち一体誰がそれでもなお人として在る
ことを祝うであろうか。その人生を喜んで生きかつ死ぬことができるであろうか。
「人間存在」というのはいったい何なのであろうか。人であること、そして
人として在ることそのことが、私にとって本当に大切なことならば、そこには
何か、私の持ちものの如何によって左右されない、確かなものがなくてはなら
ないはずであろう。」   (『万人の事としての哲学』1967年刊 滝沢克己)

前記ベルジャーエフは、記している。

「戦時の倫理は、そのまま戦後の倫理となって幅を利かしている。この倫理は
人間はどんなことをしても良い、とにかく、非人間的な、あるいは反人間的な
彼らの目的を成就しさえすれば他人をどんなに利用しても構わない、というの
である。今や、我々は非人間化の時代、つまり人間でないものが人間の世界に
世の中に入りかけている。例えて言えば、現代人は一つの膨大な集団をなして
原始人の群れへと復帰していると言えよう。しかもこの「原始人」たちは、文
明の衣服をまとい、精巧な機械を動かしているのである。この「世界革命」は、
まさに人間の発明した機械と技術の力なのである。機械から見れば、人間は一
つの機能でしかないのだから。」(註「戦時」は第一次世界大戦を指す)

ベルジャーエフは、「この倫理は、反・非人間的な、彼らの目標を成就しさえすれば、他人をどんなに利用しても構わない」時代が来たと1934年に書き記している。
もう一人、マックス・ウェーバーは「精神の無い専門人、心情の無い享楽人。
この無(ニヒッツ)のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう」と、その著『プロテスタンティズムと資本主義の精神』(1904年発表)で述べている。

滝沢克己が、「私の持ちものの如何によって左右されない、確かなものがなくてはならないはずであろう」と指摘している世界というか、立場が問題ともされないというか、かって神学者・ティーリッヒによって「人間の究極的関心事」と言われてもいる宗教が、ほとんど課題とされなくなっている日本の状況は、考えてみれば、上に紹介した「非人間化」が、まだ進められている途中であるからであろうか。
そういう中にあって、安田理深は次のように述べている。

「人間の宗教心とは自己が自己にかえる関心(ulutimate concern)である。人間
は究極的な根底についての関心がある。いろいろなものへの関心ではない。
つまり菩提心、願生心である。
資本主義はこの関心を失わせるところにある。
資本主義の時間は、永遠といった時間を考えることを与えない。
存在の場はマーケットとなり、我々は経済的な意義をもった時間とか空間の中にいる。ヒューマニズムの喪失でなく、むしろ自己喪失こそ問題である。」
(1961年3月10日講義『教行信証真仏土巻聴記』Ⅱ P299
                     1997年 京都 文栄堂書店刊)

人間が機械を使うのではなく、利潤をあげる「一つの機会」として、機械に人間が使われていく時代とは、まさしく巻頭に掲げた「天上天下 唯我独尊」と言える根拠を失っていく事態が進行している(末法の時代)ということであろうか。

原点に帰って、未来を開く
仏教の時間論には「去・来・現」という時間を生きる、それが救済(仏教の教えに遇うた者)のあり方であると言われる。
末法の時代とはまた、釈尊の悟られた法が、それから2500年後の私が生きる原点として今に蘇り、私の生きる未来の導きとなると言う意味と聞かされている。
             (「去・来・現」とは、過去・未来・現在を指す。)

その事実に気づいた方(念仏者)がおられる。
なにもかも あたり前にしている程の不幸が またとあろうか
如来はつねに 足もとの幸せに気づけよと 仰せくださる
(「足もと」 浅田正作)

今日もまた、「宗教」を求めるのは困難なことである。
なぜなら、悩むことに意義を認めないからである。
だから、悩みを無くそうとする。
なぜ悩むのだろうか。浅田正作さんの詩を、今一度読んでみよう。


3月号から掲載してきた「天上天下唯我独尊」は今月号で一先ず終わりとします

  

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2018年08月04日

お庫裡から 2018年7月



和讃は「正信偈」のお勤めの時、念仏に続いて6首読みます。
勤行本に載っているのは限られたものですが、親鸞聖人は76歳という晩年になられてから500首を超える和讃を作っておられます。
岡崎市在住の真宗に帰依しておられる若い作曲家、平田聖子さんが、その和讃に次々と曲をつけておられます。
「清風宝樹をふくときは」「浄土真宗に帰すれども」の二曲は当方の委嘱で作って頂いた曲です。
最近、大切な友人が脳梗塞から生還し、形見にと和讃曲を平田さんに委嘱し、発表されました。

正覚の華より化生して
南無阿弥陀仏  如来浄華の聖衆は
        正覚の華より化生して
南無阿弥陀仏  衆生の願行ことごとく
        すみやかに とく満足す

和語で作られているとはいえ、現代に生きる我々にはとても難しい言葉ばかりですが、平田メロディーに載って歌うと、歌う度に言葉が私の身にふりかかり、ふりかかり、ふりかかりして、私の頂き方が深まってくるように感じます。
満足を求めて人生という旅路を歩んでここまで来てみると、満足は外から与えられるものではなかったと知らされます。
道を求めて歩んできた行程、それが今につながる満足の歩みであったと深く頭が下がり、手が合わさるのです。
7/15、豊田コンサートホールの合唱交歓会で、この曲を含め4曲和讃曲を歌います。
是非聴きに来てください。
  

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2018年08月03日

今月の掲示板 2018年7月










  「この私」を死んだと思って捨ててみなさい。
  そこに私が想像もしなかった世界が明るんできます。
  不思議ないのちのやすらぎと
  よろこびの世界が明るんできます。 小松昌幸

  自我という眼鏡を外してみると
  大きな生命の海の真っただ中にいることがわかる
  樹や草にさえも
  まして動物たちにも
  自分と同じいのちの囁きが聞かれる

  小鳥も虫も住めない世界には
  人間も住めない

  「私の感じ」
  「私の利益を」
  とこだわる私を捨てて
  ものを見よう

  私は私の力で生きていると
  思い上がっていた
  私は許されて生きているのだ 倉田百三

  病気の一日も
  健康の一日も
  共に私にいただいた
  かけがえのない一日である

  もったいない
  勿体とは本体のこと
  相手に対して
  その本体を失うようなことをするのが
  「勿体ない」ということだ

  私たちの中には
  どうやら二種類の眼が
  ものを見ているようである
  一つは、現実しか見えない眼
  もう一つは、現実を超えて
  現実を見ぬいていく眼


  

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2018年08月02日

本堂に座って 2018年7月



先日、次男を誘って三谷宏治さんの講演を聴きに出かけました。
講演では、子どもたちに「AI」に負けない人に育ってもらうには、親としてどう関わっていけばよいか…を教えていただきました。
でも三谷さんのお話には「学力をつける」とか「能力を磨く」「こんな習い事がよい」といったことは出てきません。
三谷さんが新しく出される書籍から、お話の内容を振り返ってみます。

これからのAI・ロボット時代に求められるものは新しい何かを生むための試行錯誤力です。
逆にそれさえ十分なら、将来の心配は要りません。そしてそれは、「発想力」「決める力」「生きる力」の組み合わせに他なりません。
だから子どもたちのこの3つの力を、家庭という場で鍛えることが、この本の目的なのです。

<決める力の鍛え方>
会社でも家庭でも、若者や子どもたちの「決める力」を奪う方向にばかり進んでいます。
相談しに来る子はかわいいので、親は必ずアドバイスという名の答えを与えます。
どんな考えを持っていっても、必ずよりよい「アドバイス」を示されるので、子どもはそのうち、面倒になって自分で考えることを止めてしまいます。
与えるべきものは答えではなく、考え方であり調べ方です。
意志決定のための方法をこそ伝えましょう。
そして決めることは、ちょっと怖いことでもあります。
そうだよね~と言っていれば必ず多数派になれるのに、Aと決めればBじゃないんだと人にばれ、かつ少数派になってしまうかもしれないからです。
たとえそれで少数派に落ちようが、もしくはB派に恨まれようが、自分はAなのだと主張する強さが必要なのです。
子どもたちにその覚悟を持たせるために、親にできることはその意思決定力を、常に全力で支持すること以外にありません。

<発想力の守り方>
家庭こそは、子どもたちの発想力を鍛える原点です。
そもそも子どもたちは発想力の宝庫で、創造性に満ちていますが、学校や家庭、地域の中でその力をどんどん奪われています。
発想力や創造性を発揮する場も鍛える場もないのです。
例えば、砂場とジャングルジム、その共通点は「自由度の高い遊び場である」ことと「最近、数が減ってきている」ということです。
自由度の高い遊びの場がどんどんなくなっています。
そういった状況を作っているのは他ならぬ親自身です。
子どもたちの発想力を上げようと本当に思うのなら、変わらなくてはいけないのは親自身なのです。
子どもたちを無闇に保護し、習いごとに追い立て、定型の遊びばかり与えていては、子どもたちの心は決して発想や創造には向かいません。
皆と同じじゃないと日本人は不安になります。
でもそれは遺伝でも何でもなく、育てられた性格です。
頑張って逆転させましょう。
皆と同じだと不安、という感覚こそが発想力の根源なのです。

<生きる力の育み方>
過保護も過干渉も、「子どもを守りたい」という目的は同じです。
その「親が(今の子どもを)守ってあげよう」という気持ちや行動が、子どもの未来を壊します。
親の過保護・過干渉によって、子どもたちから奪ってしまっている能力や姿勢は膨大です。
自己判断力、主体性、発想力、意欲、コミュニケーション力、などなど。
中でも主体性・意欲は「生きる力」の根幹といえるでしょう。
過干渉とはつまり、子どもに対する過剰なヘルプ(直接的な助力)であり、「答え的なアドバイス」はそのひとつです。
自分で決めた(と思う)ことならば、成功したとき「自信」に、失敗したとき「前向きな反省」につながるでしょう。
でも親(や教師や塾)が決めたことで失敗したら、それは親への非難やそれに従った自分への後悔にしかつながりません。
ヘルプでなくサポート役に徹しましょう。
何かを代わりにやってあげるのではなく、やり方を伝えるのです。
ただし、サポート役に徹するとは相手の失敗を甘受するということです。
その覚悟が親には必要です。
親が不完全だなんて、子どもは知っています。
でもそれを認め、どうにかしようと努力している、その後ろ姿こそが子どもにとって何よりの叱咤激励になるでしょう。
(『戦略子育て 楽しく未来を生き抜く「3つの力」の伸ばし方』三谷宏治著 東洋経済新報社発行より引用しました。)

本ではこの後、より具体的な内容で3つの力の伸ばし方が語られていきます。
とても読みやすく、すぐに実践できることばかりなので、ぜひ読んでみてください。
  

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2018年08月01日

今日も快晴!? 2018年7月



我が家の子どもたちはとても仲が良いのですが、三人それぞれ個性は違います。
先日も、三人で百人一首をしていたのですが、取り組み方があまりに違って面白く思いました。
まず長男。常に冷静でフラットな精神状態を保ち、着々と札を取り続けます。
次男は、最初は(あ~、かったるいなぁ)というような態度で全然やる気を見せず。
しかし、途中から(やばい!このままじゃ、おれ最下位だ!)と気づいた瞬間から猛烈なやる気を見せ、後半ぐんぐん追い上げます。
長女は最初からやる気全開で、「はい!」の声も勇ましく、自分が狙っていた札をお兄ちゃん達に取られようものなら、泣いて怒って大騒ぎです。
かくして一勝負終えた後、それぞれ取った札を数えてみたら、長男32枚。次男31枚。長女32枚と、見事なほど互角な闘いでした。
残り5枚は、読み手の私がうっかり取ってしまった札ですが、これを我慢すればもう少し差が付いたかもしれません。
この子達がそれぞれ大人になったとき、どんな大人になっているのかな。
どんなお父さん、お母さんになるのかなと、とても楽しみです。
5月の土曜日に、長男の通う高校のPTA総会がありました。
総会は午後からですが、生徒は午前中のみ授業を受けて帰って来るらしく、「お弁当はいらない」とのこと。
中学生の次男の部活もお休みでお弁当がいらなかったので、「お弁当がいらないなら、お母さんは土曜日は朝ドラが始まる時間まで起きません。自分で朝ご飯食べて行ってください」とオフ宣言し、予告通り寝ていたら、長男はどうやら寝坊したようでした。
普段なら6時前に起きて7時の電車に乗っているのに、その日は6時45分に起きてしまい、朝ご飯も食べずに飛び出して行ったそうです
(何も知らずに寝ていた私ですが・・・)。
総会から帰宅して、「今日は大変だったねぇ。お腹空いたでしょ?」と聞くと、「まぁね。とりあえず7時15分の電車に乗れたから間に合った」、「起こせば良かったのに・・・」、「だって、お母さん起こしたって何にもならないじゃん」。
・・・確かにそうですね。
「母親の仕事は、いかに母親が役に立たないかを教えることだ」と言うのが私の持論ですが、見事に伝わっていたようです(苦笑)。
全く出来の悪い母親で、子どもたちにはごめんなさいと言うしかありません。
(いや。でも起こしてくれたら、お握り作って駅まで車で送るくらいしてあげたのに・・・)と思うのですが、「何で起こしてくれなかったんだ!」とか、「車で駅まで送って!」等々言わない長男は本当にえらいなぁ。
親に頼らずよく頑張っているなと思います。
昨今の若者による無差別殺傷事件など見るにつけ、一人の人間をまっとうな人間として育て上げると言うことがいかに難しいか考えさせられます。
子どもを育てるということは、片手間では出来ない。ものすごい重責を担った大仕事をしているのだと思えます。
親にならせて頂いてからは、無我夢中で、とにかく今できる精一杯のことを・・・と思いながらも、失敗の連続だったように思います。
「この子たちが大人になったとき、自分の頭で物事を考えることの出来る人間に育てたい」という思いがありましたが、果たして親が子どもを育てるなんて、そんな大それた事が出来たのだろうか。
三人それぞれの個性を持ち、仲良く遊んでいる様子を見ると、親の思いや力の及ぶ範囲を超えて子どもたちが自身で育ってくれているのだなあと思えます。
親が子どもに育てて頂いていたんだなぁと、改めて感じます。
  

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2018年06月21日

清風 2018年6月





 「生きる」とは、奇跡の自覚に他ならない
                 池田晶子

天上天下 唯我独尊  釈尊「誕生偈」 その4

池田晶子(1960~2007)
哲学を日常の言葉で表現してきた。
主な著書『14歳からの哲学』トランスビュー社刊。
上記の文章は、朝日新聞朝刊(2005年4月9日)コラム「見出し」から。


池田さんは、「今、ここに、こうして生きていることが奇跡と呼べる特別なことなのだと、私が自覚する」、それが生きることだと言われる。
仏伝には、釈尊がお覚りを開かれたときの、次のようなエピソードが伝えられている。

釈尊がお覚りを開かれた時、釈尊は「自受用法楽」の境地におられたとされている。覚りの内容を説いて聞かせたとしても、誤解して受け止められてしまうのではと考えられたのである。
その時帝釈天(インドの神)から「そうおっしゃらずに人々に教えを説いてください。
真面目に内容を汲み取る者もいるのでしょうから」とお願いされても、その要請に直ちに応答しようとはされなかったと伝えられている。

釈尊が心配されたごとく、人間(私)は功利心を離れることができない。
功利心とは、求めることにおいて何らかの直接的な(目に見える形の)利益を得たいと思う心のこと、すなわち、直接的な効果がなければ求めたような気がしないということであろう。
釈尊の配慮にも、また仏教が伝えられてくる中での経験にも教えられるように、釈尊のお覚りの内容を「ただ念仏」と伝えてきた浄土教の歴史においても、蓮如上人(本願寺第8代門主 1415~1499)が次のように諭されている。
「たとい名号をとなうるとも、仏たすけたまへとはおもうべからず。」なぜなら「弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべき。」だと。
如来回向の念仏を、我が功績にしてしまう ― 要するに私の思いを叶えるための手段にしてしまっているが、そうではないのだと蓮如上人は言われるのである。
ここでもう一度、前号でも紹介した『自由からの逃走』(E・フロム著)の次の指摘に学びたい。

「現代人は、どちらかといえば、あまりに多くの欲望をもっているように思われ、かれの唯一の問題は、自分が何を欲しているかは知っているが、それを獲得することが出来ないということであるように思われる。」

しかしここには、困難な問題が一つあると指摘する。

「すなわち現代人は自分の欲するところを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎない」

という一つの問題があると。これは一体どういうことか。

「これを認めるためには、人が本当に何を欲しているかを知るのは多くの人が考えるほど容易ではないこと、それは人間がだれでも解決しなければならないもっとも困難な問題であることを理解することが必要である。
(略)われわれはみずから意思する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人間となっている。(略)現代人はかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。
そこでは人であれ物であれ、全て道具となってしまっている。」

道具とは、人間に便利で快適な生活を可能にする物であって、いつも効率性・機能性という基準で存在している物であるといえよう。
ここでフロムが指摘する「人が本当に欲していること」とは何を指すのだろうか。
それは、欲求の満足に対し「存在の満足」と言われるものであろう。
釈尊の遺教の「汝は汝で在ればよい、汝は汝に成ればよい。」という言葉がそれであろう。
そういう主体の発見こそが「本当に欲していること」、すなわち「存在の満足」と言われていることであった。
「欲求の満足」は、満足すれば「当たり前」のことでしかなくなる。
要するに「もっと、もっと」と欲求に追い回されていく、仏教が流転と教えてきた生活である。
主婦の短歌がある。

まだほかに なすべきことがあるはずと 片付け終えた 夜半に思う

一日の家事を全て終えたその時、家事を軽んずるのではないが「主婦の私」ではなく「人間(実存)としての私」にとって…という、何かそこに「人として、本当に欲しているもの」という「存在の満足」への欲求が、誰からも教えられたのではないが、突き上げてきたのである。
これこそ、日常的人間生活を超えしめる心の発動とも言うべきことであろう。
それを仏教では、発心・発菩提心という出来事なのだと伝えてきた。
先程の蓮如上人の「弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつ」りたいという「存在の欲求」と言えよう。
本人さえも気づいていなかった「こころざし」とも言えようか。
「存在の満足とハッピーということを、我われしばしば混同しますから、一度よく反省することが課題になるでしょう。」とは、故今村仁司氏の指摘である。
「聴聞」と言われてきたのは、身を運び聴くことにより、生活の中で私は、私の身そして家族を、私の都合を満たす道具としている根性が見えてくる、と教えられてきた。私のハッピーが、私以外の人のハッピーとどうして言えるのか?
新たな問いをいただいたことである。
「誕生偈」は、人間の隠された問い「本当に生きるとはどういうことか」を表にあらわに出したものであったのだ。
いつの時代にあっても、人間は「生物的にただ生きるものではなく、生きる意味を求めて生きている」というのが、生きるその根本的動機と言えるからである。
だから「唯、生きる」、それが奇跡なのである、と。

  

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2018年06月21日

お庫裡から 2018年6月




5月13日、児玉暁洋先生が亡くなられ、14日、京都の岡崎別院でのお通夜に、夫とお参りさせていただきました。
急逝だったので、病みやつれも無く、大きいまんまの先生で、どうしてこんな所におられるのか、と不思議な気持ちで、棺の中の先生と、最後のお別れをさせていただきました。
1970年、大谷大学博士課程に在籍中の夫との結婚式で、先生に初めてお目に掛かりました。
その頃先生は、専修学院(お坊さんを育てる全寮制の学校)の先生で、鞍馬口の古いお屋敷で、寮長を兼ね、女中部屋のような狭い一室をご一家の私室にして、学生さんたちとの共同生活をされていました。
新婚の私は、生田晃純という人と一緒になったという事は、こういう事なのかと、先生ご一家の生活ぶりを、深く心に刻みつけました。
夫がお寺作りをしたいと言った時も、無住のこの守綱寺へ入寺した時も、逃げ出さなかったのは、先生の生活を最初に見せていただいたおかげだったと、今にして思います。
先生のご本を読み、先生のお話を聞くと、いつも元気が湧いてくるのです。
そうして歩ませていただいてきました。
一昨年の6月6日、碧南の西方寺の臘扇記(清沢満之先生の命日)でお目に掛かったのが最後となりました。
念仏に生きられた偉大な先生とご縁を頂いた事は、私の大きな財産です。
六時のみ名を称えつつ、私は私の分を果たし尽くして、歩ませていただきます。
児玉暁洋先生、ありがとうございました。



  

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2018年06月21日

今月の掲示板 2018年6月




  諸行無常
  これは仏教の旗印
  あらゆるものは みな変わる
  どんなものでも 変わっていく
  しかし
  諸行無常の真理(道理)は変わりません
  道理というのは 永遠なのです

  時代が変われば 変わるというようなものは
  真理ではない
  どう時代が変わっても変わらないものを
  真理という

  仏さんは、私の言いなりになる
  甘いものではありません
  仏さんは厳しいのです
  私を叱って下さるのが仏さま
  私を助けようと思ったら
  私を厳しく叱らなければならん
  それが仏の慈悲です

  人間というものは
  自分の心を信用し過ぎる
  それで心に振りまわされる

  人間 迷うというけれど
  むちゃくちゃに迷っているわけではない
  迷うには 迷うようになって迷っている
  材料がなければ
  迷ってみようがない

  事実に迷っている
  わが心に迷っている
  自分の心に迷っている
  だから悟るというのも
  やはり 事実を事実として悟る
  心が心であったのだと悟る
  事実を離れて
  悟りというのはありません

  何かをまちがいなしに押さえたのが悟りです
  何かを取り違えたのが迷いです
  だから 迷いと悟りは
  一つになっているのです
  どこで一つになっているかというと
  心のところで一つになっている
  迷うということがなかったら
  悟るということもありません



  

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2018年06月21日

本堂に座って 2018年6月





以前からインターネット上で内海聡医師が書かれる情報をよく読んでいるのですが、今回は内海先生ががんの治療について書かれた本から文章を紹介します。
ネット上では賛否それぞれ意見の分かれる内海先生の文章ですが、とても大事なことを書いてくださっていると思います。
(具体的な療法についてはぜひ書籍をお読みください。)

病気を治すには病名を捨て原因に対してアプローチすること、自分だけが治せるのだということを知り様々なことを学ぶこと、そして医療業界や食業界や社会の裏に至るまで、いろんなことを知ること、そしてあらゆる局面において自分の今までの価値観を否定してみる、そして自分を直視して発想を転換することです。
それによって初めて真の意味での自立心と自己肯定という状況が生まれます。
このような発想の転換がもたらされてはじめて道具(食事療法、健康食品、水、デトックス、断食委その他)は効果を発揮するのです。
この本を読んでいるあなたの家族や親しい友人ががんにかかったとき、何とか治す手助けがしたい一心で「これをやったほうが良い」「これはやらないほうが良い」「西洋医学の治療はあぶない」「この代替療法はすばらしい」など自分が知っている情報を教えたくなるかもしれません。
しかし私が見る限り、良かれと思ってした行為が「価値観の押し付け」になってしまい、マイナス効果になっているケースが往々にしてあります。
なぜなら、周囲に流されて行った治療には患者本人の意思がないからです。
重要なのは患者本人が自ら調べた上で、納得する=腑に落すということなのです。
もしあなたの身近な人ががんにかかった場合は決して「価値観の押し付けにならない」ように、患者自らが考える手助けをしてあげてください。
もし、その人があなたにとって大切な人であり、どうにかしてあげたいと心から願うのであれば、あなたが良いと思う治療法について、何時間でも時間をかけてその人とコミュニケーションを取り、あなた自身の知識も高めて必要なら土下座してでも本人を説得ではなく納得させてください。
ちょっとでもめんどくさいと思うなら、あなたが相談に乗ることをやめてください。
無意識に他者をコントロールしようとする思い、わかったふりをやめて、本音で語り合い、腹を見せ、本気でぶつかりあってこそ、患者本人の心からの納得が生まれるのではと考えています。
これこそが唯一無二、親、家族、子ども、友人などに私がやってほしいことです。
これは医者にできる仕事ではないし、むしろやってはいけないことなのです。
病気というのは人生においてひとつの転機であり、それががんとなると命さえも左右する問題なのです。
そこで重要なのは具体的方法論以前に、本人の納得、選択、人間関係なのだということを改めて念頭に置いていただけたらと思います。
あなたがもし真の意味で、病気を治したいということを「自覚」すれば病気は治ります。
(中略)しかしここでいう「自覚」というのが厄介です。
「自覚」というのはわかりやすくいうと「依存心を捨て去ること」です。しかし自分の依存心とは非常に意識しづらいものです。
大半の方は「いや自分は依存などしていない」と考えているのではないでしょうか?しかし、少なくとも「医者に治してもらいたい」という気持ちはなかなか捨てられないのではないかと思います。(中略)また例えば本当に病気が治る人は、今の仕事などやめてしまうくらいに行動します。仕事しながらがんを治すといって、がんで死んでしまったら元も子もないのに、まだ周りの目を気にする人は助からないケースが多いのです。この人の目を気にして思うように行動できないのも、依存の専門家である私から見るとやはり依存の一種なのです。
ここに気づくことによって医者から見放されたがんであっても、治る可能性が生まれるでしょう。自覚が芽生えるタイミングは人それぞれであり、もちろん私は手術をほとんど勧めておらず、緊急回避時のみと考えていますが、たまに手術によってさえ自覚が芽生える人がいるのです。「自覚」とはいい方を変えればこのがんを作った原因は今までの自分自身にあるという自覚であり、自分がなるべくしてこの病気になったと理解した状態なのです。
(『医者に頼らなくてもがんは消える』内海聡著 株式会社ユサブル発行 より引用しました。)

きちんと原因を見つめ直して正しく対処する…もの作りや科学研究などでは当たり前に行われることですが、身体や心の問題に対して行うのはなぜか難しい様です。



  

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2018年06月21日

今日も快晴!? 2018年6月




私の子育ては、基本ケチで貧乏性です。
「なぜ親が子どもに高い携帯(スマホ)を買い与えて、月々の使用料まで払ってやらなければならないのか?」と、どうにも納得がいかず、子どもたちはまだ携帯やスマホを持たせて貰っていません。
「お母さんだってスマホやってるじゃん!」と言われるのが嫌なので、私自身も頑なにスマホを拒否し、ガラケーユーザーのまま今に至っています。
しかし、LINEが全盛の今、一人だけ「ごめん。私ガラケーでLINEやってないんだわ」と言うのも面倒になってきました。
長男も高校生になったので、スマホを持つのも時間の問題だろう。
もし長男が「お母さん。ぼくもこうした理由でスマホが欲しい」と、きちんと必要な理由を説明し、相談してきたならまぁ仕方が無い。
その時が来たら自分も一緒にスマホに替えようと思い、そのチャンスを待っていました。
ところが、一向に長男が「スマホが欲しい」と言い出す気配がありません。
中学時代の友人たちとの連絡はLINEのようだし、高校のクラスLINEや部活LINEもあるらしいので、「ぼくもLINEがやりたい」と言い出した時に(お?チャンス到来)と思ったのですが、旦那さんが昔使っていたノートパソコンをリビングに置き、「LINEのチェックはここでやる」ということにしたら、案外それですんなり納得してしまいました。
また、通っている高校が少し遠いので、雨の日はどうしようか少し迷いました。
子どもに不親切な母親なので、「高校生なんだからカッパ着て自転車で行くのが当然でしょう」と思っていましたが、実際に通い出すと、家を出るのが6時半過ぎで、肩紐が千切れそうなほど重たいリュックを背負って駅まで15分ほど自転車に乗り、7時の電車に乗り、途中乗り換えて45分ほど満員電車に揺られて、向こうの駅からさらに10分ほど坂を登ってようやく学校に着きます。
毎日慣れない通学に疲れた様子を見ていると、雨の日に、カッパを着て同じコースを行くのがどうも気の毒に思えて来ました。
そこで、雨が降った日は駅まで車で送り、「帰りは公衆電話から電話を掛けるか、バスで帰っておいで」と言っておきました。
しかし、待てど暮らせど連絡はありません。(おかしいなぁ・・・。そろそろ着く頃だけど・・・)とヤキモキしながら連絡を待っていると、「ただいま~」と声がするので、「あ、お帰り。バスに乗ってきたの?」と聞くと、「歩いて帰ってきた」と言うのです。
「え?この土砂降りの中、歩いたの?30分も??」「うん。」「電話すれば良かったのに・・・。」「だって、公衆電話がどこにあるか分からないし。」「じゃぁバスは?」「丁度良い時間のがなかったし、バス代が勿体ない。」「え?片道180円じゃん。」「うん。お金ないし。」どうやら高校生にとって、180円はたいそうな金額なようでした。
そういえば、私も学生時代、駅までのバス代が勿体ないと、駅まで歩いて行ったことがあったっけ・・・。
ああ、親子だ。
ケチで貧乏性が遺伝している・・・。
連絡手段として、子どもに携帯を持たせたがる親の気持ちが何となく分かるようになりました。 
かくして、うちの長男はいまだスマホを欲しがらず、結果、私もスマホに替えるタイミングを逸したまま今に至っています。
春先には、新しく入学する高校生を狙った「学生割引」や「家族割引」のプランの案内がじゃんじゃん来ていたのに、もうその特別な割引期間も終わろうとしています。
ああ!スマホを持たせるなら、スマホに替えるなら、チャンスは今だったのに・・・!!



  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?