2018年04月29日

清風 2018年4月



天上天下唯我独尊

釈尊
(仏教を開いた祖、現在のネパールに生まれる。紀元前6世紀~5世紀の人)

お釈迦さまはこの宇宙のただ中にあって、「人はそのままで尊いのである」と語られた。
「いのちが尊い」と言える根拠を示す。
明治の清沢満之は、この釈尊の「天上天下唯我独尊」について、次のように述べている。
「自己に充足して、求めず、争わず、天下、何れの処にか之より強勝なるものあらんや、何れの処にか之より広大なるものあらんや。
かくして始めて人界にありて、独立自由の大義を発揚し得べきなり。」(「絶対他力の大道」)


近代の人間が求めた自由への希求は、フランス革命によって掲げられた「自由・平等・博愛」というスローガンによってよく知られています。
人間のその歩みは、この「自由・平等」を求めてのものでした。
そしてまた、この「自由・平等」の内容は、「スタートの平等、競争の自由」と語られてきました。

「スタートの平等」について言えば、日本の近代化は明治維新にスタートしたのですが、制度の上でスタートの平等を実現しようとしたのは、教育制度にその形を見ることができます。
それまでは身分制度(士農工商)によって、教育が平等に保障されることはありませんでした。
農工商階級に生まれたものは、他の階級・侍(士)階級のものとは対等ではなく、農工商の身分のものは同席することも許されませんでした。
ですから、教育も全く独自の形で行われ、農工商階級の身分のものは、読み・書き・ソロバンとも言われる基本的な素養を身につける程度でした。
それが明治維新によって、四民は平等であるということで、不十分ではあったでしょうが小学校が設立され、かつての士農工商どの身分のものも、小学校では誰でも7歳になる年の4月に入学し(スタートの平等)、その教育の場では結果は試験によって成績がつけられて、その結果に差がつくことも(競争の自由として)認められることとなりました。
そしてこの自由と平等の下では必ず差がつきまとい、その差を補っていくために、自由と平等に加え、博愛の名において、援助というか制度的保障が加えられることとなりました。
フランス革命で提唱された「自由・平等」という目標は、「博愛」という語が付け加えられているように、実は大きな課題を内包していると言えるのです。
例えば、先月号で紹介したターミナル・ケアの医師、キュープラ・ロスさんが患者から受けた、「先生、私は良い生活はしてきたけれど、本当に生きたことがありません」という問いに込められている、「本当に生きるとは、ということが問われることなく」教育によって「人材」として評価されていく点です。
現代においては、便利で快適な生活をすることが人生全体を貫く目的となってきました。
もう少し生活に即した言い方をするなら、私の思い通りになっていく人生ということでしょう。
苦しいこと、悩むこと、空しさを感ずる感性の存在する意味が分からなくなった … 誰もそういったことについて、「生きていてこそ、命あってこその内容」だという事実について、思いを巡らす余裕がなくなったということでしょうか。

『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著 創元社刊)には、「中世末期以来のヨーロッパおよびアメリカの歴史は、個人の完全な解放史である。
(略)しかし、他面「…からの自由」と「…への自由」とのズレもまた拡大した。」(同書P46)とあります。
先に挙げた患者さんの訴えは、まさにこのズレの告白と言えるでしょう。このズレが深刻な事態をもたらしつつあることがことが、オウム事件(1995年)、障がい者施設・津久井やまゆり園事件(2017年)から見えてきます。

こうした状況から、自由を求める我々の目的は「欲望の充足」であって、「存在の満足」にはならないということが、あらためて問われねばならない時代になっていると思われます。

  

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2018年04月28日

お庫裡から 2018年4月



季節が巡って、桜の開花便りが届く頃となりました。
寒さにふるえる時は、これで本当に春は来るのか、と不安になるほどだったのに、春にはちゃんと春が来て、『自然(じねん)』というのは本当にすごいなぁ、大きいなぁと感じます。
生まれた赤ん坊も15年経つと高校生に。
その分、私もしっかり老いの階段を上っているのですが、その両方共に、いのち頂いている上でのことです。
おかげさまです。
先日来られた50代の方から、「私の母も含めて、母くらいの年令の方は皆一様に「迷惑かけたくない」「子に迷惑はかけられない」と言われるのだけれど、何故でしょう」と、尋ねられました。
「うーん、何故でしょう」
年令的に戦中のひどさも知っておられるし、戦後の高度成長を身をもって支えてこられた。
その方々だと思います。進歩し(技術)、発展した(経済)、そのさなかの人生だったことでしょう。
前へ進むことを是としてこられたはずです。
しかし、老いて何もできなくなる、介護される、そして死んでいかねばならぬ。
その事実が、どうしても負の物差しとしか受け取れないのではないでしょうか。
身の事実は、全宇宙の全協力をあげて生かされている無量寿のいのち、大自然の中の一コマ。
自分だけの力で生きているのではありません。
ご迷惑をおかけします、すみません、お世話になります、ありがとう。
言葉の要るのが人間と教えられています。私は人間になっていきたいです。



  

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2018年04月27日

今月の掲示板 2018年4月




  “空(くう)”は、何もないというのではなく
  “なんでもない”ということです。
  なんでもないから
  条件次第でなんにでもなる。

  だいたいこの世の中で
  持っておるもので失わないものは
  一つもない

  我々は、危ないものを頼りにしている。
  自分の支えにしている。
  やがては必ず
  失わなければならないというのに。

  あいつも困ったやつだ
  こいつも困ったやつだ
  と言わなければならない自分が
  一番困ったやつだ

  与えられ方が足りないから
  満足できないのではない
  いくら与えられても不足なのです
  その根性のために
  満足がない

  壁が壁だとわかった時に
  壁は破れる

  深いつもりで浅いのが 知恵
  浅いつもりで深いのが 欲

  念仏とは
  自分がわかるということ

  自分が喜べないやつだと
  頭が下がったら
  そこに満足がある
  そこでわが身を知る

  心の目が開き
  心の耳が開いてくる
  それが聞法のひとつの功徳

  

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2018年04月26日

本堂に座って 2018年4月




今月はタイトルが気になって読んでみた本、『一汁一菜でよいという提案』から文章を紹介します。
食べ盛りの子どもたちと同じように食べていて、体重が気になる今日この頃、と思って読んでみたのですが、「食事」についての文章が、思いがけず仏教につながっていると感じた…そんなお話です。

私たちは日頃、ご飯を食べることを「食事する」と簡単に言いますが、そもそも「食べる」ことは「食事」という営みの中にあることで、単に食べることだけが「食事」ではありません。
食べるとなれば、家族のだれかが買い物をして材料を用意する。
野菜を洗って下ごしらえをする。ご飯を炊いて、菜を煮て汁を作り、魚を焼いて盛る。
そして食卓にその皿を並べるのです。このように、ものを食べるとなると、必ず一定の行動がともないます。
その食べるための行為のすべてを「食事」と言います。
生きるためには身体を動かし、立ち上がり、手を働かせ、肉体を使って食べなければならない。
ゆえに、「生きることの原点となる食事的行動には、様々な知能や技能を養う学習機能が組み込まれている」のです。
それは、人間の根元的な生きる力となるものです。
このことを知っている身体は直感的に感じ、「毎日の食事をきちんとしたい」と(自我に)伝えているのだと思います。
食べ終われば、後片付けをして掃除する。
ほっと一息ついて、他の用事を済ませてしばらくすれば、また次のご飯の準備がはじまる。また料理して、食べる。
そして片付ける。
翌朝起きれば、また朝ご飯を作って、食べる。
この毎日の繰り返しが「人間の暮らし」であり、その意味は、やがてそれぞれ美しいかたちとなって、家族である人間のそれぞれに現れてくるものと信じます。
人生とは、食べるために人と関わり、働き、料理して、食べさせ、伝え(教育)、家族を育て、命をつなぐことです。
料理することは人間として生きるためには欠かせないものですが、今、私たちのいる現代の日本では、必ずしも料理をしなくても良くなりました。
できあがった料理を手軽に買い求めて食べることで、「料理する」を省略できるからです。
となると、人間は食べるために必然であった行動(働き)を、捨てることになります。
「行動(働き)」と「食べる」の連動性がなくなれば、生きるための学習機能を失うことになり、行動して食べることが心を育てると考えれば、大いに心の発達やバランスを崩すことになってしまいます。
同時に、現代社会では、料理したくても時間が取れないという問題や、働いても満足に食べられないという貧困の問題が起こっています。
これはもう社会システムのほうに問題があるのではと疑ってしまいます。
それを企業家は「資本主義の競争の原理による必然」と説明するのですが、そのような社会の状態を、数学者であり、日本人の心の働きや文化に関わる著作も多い岡 潔は、「生存競争」と言って憂えています。
生存競争とは生きるために殺し合いをすることです。
けれど、人間の努力は人間の幸福に向かっていなければならないのです。 (中略)
少なくとも、人間にとって人生の大切な時期に手作りの良い食事と関わることが重要です。
新しい家庭を築くはじまりに、また、子どもが大人になるまでのあいだの食事が特に大切だと思います。
そして自分自身を大切にしたいと思うなら、丁寧に生きることです。
一人暮らしでも食事をきちんとして欲しいと思います。
そうすることで、自分の暮らしに戒めを与え、良き習慣という秩序がついてくるのです。
どうぞ踏ん張って下さい。なぜならば、料理することのない人生は、岡 潔が「生存競争とは“無明”でしかない」とすることにも、重なるのかもしれません。
無明とは、仏教でいうところの人間の醜悪にして恐ろしい一面です。
(『一汁一菜でよいという提案』土井善晴著 グラフィック社刊 より引用しました。)

まず、「食事」とは、ただ「食べること」ではなく「買い物から片付けまで」であるという捉え方が新鮮でした。
そしてふと、「食事」を「仏事」と置き換えてみたら…自分自身の仏さまとの関わり方が問われている様に感じたのです。
「食べる→法事・月参り」、「料理→お内仏のお給仕(日常のお仏壇のお世話)」、と考えていくと、日々の仏さまとの関わりが、心を育て、暮らしを見つめ直し、良い習慣が身に付くことにつながる…またそれは「新しい家庭を築くはじまり」「子どもが大人になるまでのあいだ」「一人暮らし」に特に大切なこと、なのです。
食事も仏事も、今一度、生活の中で見直さなければいけないのだと思います。

  

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2018年04月25日

今日も快晴!? 2018年4月




今年の3月13日は、震災から一番近い日にちのお寺の絵本の読み聞かせ会でした。
丁度その日の朝は中学校の読み語りボランティアも当たっていたので、(震災に関係したものが読みたいな)と思い、「ふくしまからきた子」(松本猛・松本春野作 岩崎書店)という絵本を選びました。
広島に住むサッカーが大好きな男の子の近所に、原発事故をきっかけに福島から女の子が引っ越してきます。
二人の交流を通じて、原発と私たちの未来を考える絵本です。
絵本の内容も良いのですが、巻末の作者からのメッセージ「これからの日本を生きる君たちへ」という文章がとても素晴らしかったので、中学校では一年生の教室で最後まで読ませてもらいました。
「これからの日本を生きる君たちへ」 松本猛
2011年3月11日、東日本大震災の日。福島第一原子力発電所が地震と津波で壊れ、大量の放射能があたりにまき散らされました。
原発の近くの人々は、家も町も畑も大きな被害はなかったのに、ほとんど何も持たずに逃げなくてはならなくなりました。
・・・放射能をたくさんあびると、ガンをはじめとした色々な病気にかかりやすい身体になってしまうからです。
・・・原発事故は、他の事故とは大きく違う点が二つあります。
一つは事故の範囲がものすごく広いこと・・・もう一つは、事故が何十年も年百年も続くことです。
焼いても水で洗っても放射能はなくなりません。灰や水の中に残り続けるのです。
・・・原発は何重にも保護されているから「安全」だと政府も電力会社も説明してきたけれど、何重にもバリアを張らなければならないということは、本当はものすごく危険だということです。
今回の原発事故で分かったように、人間が作る機械で100%安全なものはありません。
アメリカの先住民の言い伝えに「七代先のことを考えて判断しなさい」という言葉があります。
一本の木を切るときも、それが七代先、子どもの、子どもの・・・子どもの時代、つまり200年から300年先の自然や人々の生活を考えて判断しなさいということです。
地球が作り出した素晴らしい自然があるから人間は生きていけます。
だからこそ人間は自然を汚さずに大切にしなければなりません。
私たち大人は、自分たちの豊かで便利な生活を求めたために、原発を作ることを止められませんでした。
君たちの子孫のことももっとしっかり考えなければならなかったと反省しています。
・・・みんなが「原発いらない」というようにならないと、原発はなくなりません。
君たちは自分のことや自分の世代だけの豊かさを求めるのではなく、ずっと先の子どもたちのことを考える人になってください。
もちろん私たち大人も努力しますが、豊かな自然と美しい地球を取り戻せるかどうかは、君たちの力にかかっているのです。」
震災から7年が経ち、何かのきっかけがないと震災のことを思い出さなくなっている自分がいます。
今年も3月の26日~29日に、「福島のみんな!遊びにおいでんプロジェクト」に関わり、福島から二家族の方をお迎えします(放射能の影響を避け、保養のため)。
ここ豊田に居ながら、何か出来ることがあるというのは本当に有り難いことだと思えます。
「私たち大人の努力」の一端になればいいなと思います。



  

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2018年03月23日

清風 2018年3月




 天上天下唯我独尊

お釈迦さまが世に出られたことの意味を伝えてきた物語。誰でも、この
宇宙のただ中で、人はそのままで在って尊いのである、ということ。

註)言うまでもないことだが、「我が一番偉いもの」という意味ではない。
それは比較の上でのことであり、「独尊」の最も対極(反対)の意味である。


4月8日は「花祭り」と呼び習わしてきたように、お釈迦さまの誕生された日とされています。
冒頭に掲げた「天上天下唯我独尊」には前後に言葉が付けられており、「お釈迦さまは誕生の時、七歩歩いて“天上天下唯我独尊”と宣言された。」とあります。
まぁ、誕生してすぐに歩いたり、宣言するということはあり得ないことなのでしょう。
ただ、釈尊の教えに触れた人(仏弟子)の間で、釈尊の教え(釈尊の誕生が意味するもの)を完結に一言で言い表すとすればこのような言葉として表現するのが的確であるという共通の了解が、認知されていったのだと思います。
私たち一人ひとりが、誰しもこの世に出世(誕生)したことについて、表現は様々であっても、関心を持っているというのは、人間であるからなのでしょう。
人間は、それぞれの民族が固有の物語を持っています。
その神話は、大抵の場合、その民族が他の民族に比べて一番優れた民族であると誇る筋書きになっているようです。
これは、人間が「我・自分」というものを他と比較して認識するという、猿とは違い知恵を持ったことによって人間となったことによるのだと思われます。
これは、インドに釈尊が生まれられた頃(紀元前5、6世紀ごろ)、ギリシャのソクラテス、中国の孔子などの賢人から、人間として生まれた誰にとっても究極的課題であるという共通関心事を一言で言い表せば、「修身(身を修める)」であるということが明らかになったからであるとされています。
ソクラテスは「自己とは何ぞや」との問いを掲げ、孔子は「我十有五にして学に志す。三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩をこえず」と。
本当に生きることは七十にしてわかったというわけです。人間が人生を生きることについて、アメリカの臨床医キュープラ・ロスは患者から次のように訴えられたのです。
「先生、私はいい生活はしてきたけれど、本当に生きたことがありません。」この患者さんの訴えには「先生、本当に生きるとはどういうことか教えて欲しい」という問いが含まれているのでしょう。
私どもはこの隠された問いを誰もが内深くに持ちながら、古今東西、表現は違えども、生きる上での質といったものを問いとしてきたのです。
釈尊も「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている」(『ダンマパダ』115句)という言葉を残されています。
これは、生きる上で日常感じる悩み・不安・むなしさ・空虚といった感情として、誰しも経験している事柄だと思います。
冒頭に「天上天下唯我独尊」という釈尊の言葉を紹介したのは、現代の豊かな時代に忘れられている「自由」という言葉の持つ深い意味合いを、もう一度吟味しなければならないことを、私どもに提起していると思われるからです。
今までも、そしてこれからも、人間は、生きる上で私を束縛するあらゆる「拘束からの自由」を求めて生きてきたと言えるのですが、そこで求められてきた「~からの自由」という動機が、それだけ満たされたら満足できるのかといえば、(臨床医キューブラ・ロスさんの患者が提起している問いが)実は解かれないままになっているのではないかということが、はっきりしてきたのが現代ではないのかと思われます。
仏教の教えには、自由とよく似ている言葉で「自在」という言葉があります。
仏教が「自在」という言葉で表現してきた内容こそが「唯我独尊」という「我ひとりであって尊い」という宣言の中に込められてきたメッセージであると言えるのでしょう。(続く)

  

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2018年03月22日

お庫裡から 2018年3月



今月の掲示板は、この度63才で芥川賞をもらわれた若竹千佐子さんの『おら おら おらでいぐも』からことばをいただいています。
この本で私が一番共感したのは、「自分に対する好奇心」という言葉でした。
私も、自分に対する好奇心が強く、それが生きる意欲につながっていると感じていたからです。
そして、この本全体を通して流れているのは、お念仏の世界だ(阿弥陀さんの阿の字も出ていませんが)と思いました。
この後で、「わがかくし念仏」(阿伊染徳美 著)を読みました。
岩手地方では、世間生活をしていながら、いつの時代からか黒ぼとけさん(親鸞聖人の遺灰を塗ったと伝わる阿弥陀像)を中心に講が組まれ、リーダーが選ばれ、講の日は見張りを立て、リーダーの家に集まり、早口に「正信偈」を勤め、お文さん(蓮如上人のお手紙)が暗唱されて、何代にも渡り、お念仏に生きる人々の暮らしが息づいていたのです。
若竹さんも、そんな背景の中で育たれ、この本が生まれたのだと思いました。
岩手のかくし念仏と同じように、薩摩地方では、かくれ念仏が伝わっています。
300年の長きに渡って島津藩から念仏を禁制され、弾圧され、明治9年の西郷隆盛の「信教の自由は奪うべからず。よろしく禁令を解くべし」まで弾圧が止むことはありませんでした。(『薩摩のかくれ門徒』星野元貞 著)
念仏は畢竟依、よくぞ私にまで伝えてくださいました。ありがとうございます。
10月3・4・5日、薩摩かくれ念仏の旧跡をたずねる旅を計画いたしました。
20名募集。
詳細は寺までお尋ねください。


  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)お庫裡から

2018年03月21日

今月の掲示板 2018年3月



(芥川賞 若竹千佐子 著『おら おら おらでいぐも』より)

  知らないごとが分かるのが
  一番、おもしぇいごと

  この痛み
  生きているからごそだおん

  人生は、
  言ってみれば失って得た人生なのだぁ
  失わなければ
  何一つ 気づけなかった

  死は 
  恐れではなく 解放なんだ なす

  笑いは、こみ上げる意欲だ

  自分に対する好奇心
  これを十分に探求し味わい尽くすのが
  この先 最も
  興味津々なこと

  死は
  あっちゃにあるのでなぐ
  おらのすぐそばに
  息をひそめて待ってるのだず

  生ぎで死んで 生ぎで死んで
  生ぎで死んで 生ぎで死んで
  生ぎで 気の遠くなるような長い時間を
  つないで つないで つないで つないで
  つないで つなぎにつないで
  今 おらがいる
  そうまでしてつないだ だいじな命だ
  おらはちゃんと 生きだべか

  右手に伝わる左手の温かみ
  左手が感じる右手の手応え
  それがほら
  あちら側からの励ましに受け取れて
  深く痛み入る

  まぶしい
  みな光り輝いている
  何事も
  ここを先途だと思えば
  何もかも違ってみえた

  おめはただそこにある 何もしない
  ただまぶるだけ 見守るだけ
  それがうれしい
  それでおらは おめを信頼する
  おらの生ぎるのは おらの裁量に任せられているのだなぁ
  おらは おらの人生を引き受ける
  そして 大元で おめに委ねる
  引き受けること 委ねること
  この二つの対立で成り立っている

  

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2018年03月20日

本堂に座って 2018年3月





先月は、日本国憲法の草案作成に関わったベアテ・シロタ・ゴードンさんについて、経歴の部分を紹介しました。
今月は、どのような思いをもって草案を書き上げたのか、その草案はどのような経緯で憲法の条文に採用されたのか…を紹介します。

22歳のベアテは、憲法や法律の専門家ではありません。
GHQの幹部というわけでもありません。
しかし彼女には、日本語をはじめ6カ国語をあやつる語学力と、『タイム』時代に磨いたリサーチ能力がありました。
家族にさえ漏らしてはならない、と念を押されたほどの極秘プロジェクト。
日本人スタッフを入れるわけにはいかず、日本語を母国語のようにあやつる彼女の力は、どうしても必要だったのです。
ベアテはさっそく大学や図書館を飛び回り、世界中の憲法をかき集めてきます。
アメリカやソビエト連邦(現ロシア)といった超大国はもちろん、アイルランドやウルグアイなど、小国の憲法まで集められるだけ集めました。
「世界中の知恵を結集して、大好きな日本に、最高の憲法を届けるんだ」ここから彼女は、人生でもっとも濃密な9日間を過ごすことになります。
憲法草案作成チームの中で、ベアテの担当は「女性の権利」でした。もともとベアテは、日本女性が置かれた立場にずっと疑問を感じていました。
日本人は「アマテラス」という女神を崇拝している。
古代には何人もの女帝がいたし、『源氏物語』の紫式部や『枕草子』の清少納言など、女流作家も活躍してきた。
それなのにサムライの男たちが国を支配するようになると、女性の立場がどんどん弱くなっていく。西洋化を図った明治憲法でも、女性の権利はほとんど改善されていない。
さらに、ベアテがいやだったのが「女子ども」という言いまわしです。ベアテはこの言葉を聞くたびに、女と子どもは半人前で、人間として認められていないような違和感を覚えていました。
そして彼女はつねづね、日本の女性と子どもが幸せになったとき、日本に平和が訪れ、日本人が幸せになれるのだ、と考えていたといいます。
こうしてベアテは、女性や子どもの人権に関する条文を、ありったけの情熱を注いで書いていきます。
1946年3月4日に開催された、日本政府とGHQの憲法草案会議。
会議がはじまって16時間ほど経った深夜、ついに議論はベアテが手がけた女性の権利に及びました。
日本側の担当者は、ベアテの案に反対します。
「日本には女性と男性が同じ権利を持つ土壌がない。
日本女性には適さない条文が目立つ」というのです。
あくまでも通訳としてその場に参加しているベアテには、反論する権限がありません。
彼女の仕事は、お互いの言い分を正確に通訳すること、それだけです。
ベアテが日本側の主張を伝えると、GHQ側の実質的リーダーだったケーディス大佐がこう言いました。
「この条文は、日本で育って、日本のことをよく知っている、この『シロタさん』が日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に書いたものです。
日本にとって悪いことが書かれているはずなどありません。
彼女のためにも、これを通してもらえませんか?」日本側の担当者たちは、いっせいにベアテのほうを見ます。
会議のなかに唯一の女性として参加していた彼女の日本語能力、日本に対する理解の深さ、献身的な態度などは、すでに日本側の担当者たちから絶大な信頼を得ていました。
「このシロタさんが書いたのですか。……わかりました、それではこのまま通すことにしましょう。」こうしてベアテがずっと訴え続けた女性の権利は、現在の日本国憲法のなかに第24条として残されています。

日本国憲法 第24条
一 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本と
  して、相互の協力により、維持されなければならない。
二 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその
  他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定さ
  れなければならない。
(『ミライの授業』瀧本哲史著 講談社発行 より引用しました。)

 ここ数年、「日本国憲法は押しつけられたものだ」「みっともない憲法だ」「憲法を変えなければ!」という声を頻繁に耳にするようになりました。
でも、この1つの条文でさえ、ベアテさんの経験・思い・願いが込められていて、さらに日本側の担当者も納得して制定されたものだったのです。
 憲法改正に関する議論をするにあたって、あらためて日本国憲法の内容や制定の経緯について学び直さなければいけないと、考えさせられるお話でした。



  

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2018年03月19日

今日も快晴!? 2018年3月




いよいよ長男の高校入試が近づいてきました。
昨年の4月には、(この一年は、きっと親も気になって落ち着かないんだろうなぁ・・・)と思っていました。
しかし、中学生になった次男が強豪運動部に入ったので、夏休みまでは弁当の準備や練習や試合の送迎に追われ、受験どころではありませんでした。
秋以降は、お寺の行事に小学校や中学校の読み語りボランティアの仕事、自分が出演する豊田市民野外群読劇の練習やら、12月の「冬休みお楽しみ会」の劇「てぶくろ」の練習に明け暮れ、また受験どころではなくなりました。
年末年始が終わって、(この1、2月は長男のために予定を空けておこう)と思っていたはずなのに、突如として持ち上がった家のリフォーム話とオリンピックに夢中になり、またまた受験どころではなくなっています。
さすがに申し訳ないなぁと思い、長男に「ごめんね。お母さん、開くんの受験に興味ないわけじゃないんだけど、自分のことに必死で全然そっちに気が行かないんだわ。」と謝ったら、「クラスの友達で、毎日親に勉強しろって怒られるって言ってる子がいたから、(自分は全然怒られなくて楽でいいな~)って思ってた。」と、あっけらかんと言ってもらえました。
そんな話を友人としたところ、「(アドラー心理学の)課題の分離だね」と言ってもらえたのですが、アドラー心理学をよく知らなかったので、少し調べてみました。
 
『「課題の分離」とは、「自分の課題と相手の課題を分けて考える」というアドラー心理学の理論の一つです。
「課題」というのは、目の前にある問題や、やろうとしている事と言い換えてもいいかもしれません。
例えば、「仕事をすること」「勉強をすること」「嫌な人と付き合うこと」「今晩の夕飯をどうするか」…などなど、 人生には「課題」がたくさんあります。
アドラーはその課題を、「相手の課題」と「自分の課題」と分けて考えると良いとしています。
では、どうやって分けるかというと、自分でコントロールできるものは「自分の課題」。
相手にしかコントロールできないものは「相手の課題」と分けます。
例えば、子どもが勉強をしないことでイライラしている親のAさんの場合。Aさんの状況を「課題の分離」で考えると、「勉強をしない」は子どもの課題。「イライラする」は親のAさんの課題ということになります。
このように課題の分離をすると人間関係の問題がわかりやすくなって、 自分が何をすべきかが明確になるというメリットがあります。
例えば、先ほどのAさんの話に戻ると、「勉強をしない」のは子どもの課題です。
親がどんなに努力しようがイライラしようが、勉強をするかしないか決めるのは子ども自身です。つまり、「子どもが勉強をしない」という課題は、Aさんには取り組めない課題なのです。
一方で「イライラする」のはAさん自身の課題です。
イライラするのはAさんの感情ですので、それとどう付き合うかはAさん自身が取り組める課題です。』

「子どもを親の所有物としない」という発想は、お念仏の世界から頂いた眼かと思っていましたが、心理学という手法を用いても、同じような視点を提供してくれるのだなぁと思いました。


  

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