2023年06月10日

今日も快晴!? 2023年5月


3月に、音楽家・アーティストの坂本龍一さんが亡くなられました。
ミュージシャンとしての活躍はもちろん、環境問題や憲法をはじめとした諸問題に関する運動に積極的に参加・発信された方でした。
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から12年となったことに合わせ、坂本さんが東京新聞に寄稿された文章があります。
直腸ガンとの闘病の最中に、最後の力を振り絞って届けて下さったメッセージを是非紹介したいと思います。
「2011年の原発事故から12年、人々の記憶は薄れているかもしれないけれど、いつまでたっても原発は危険だ。いやむしろ時間が経てば経つほど危険性は増す。コンクリートの劣化、人為的ミスの可能性の増大、他国からのテロやミサイル攻撃の可能性など。なぜこの国を運営する人たちはこれほどまでに原発に固執するのだろう。ロシアによるエネルギー危機を契機にヨーロッパの国々では一時的に化石燃料に依存しながらも、持続可能エネルギーへの投資が飛躍的に伸びているというのに。わが国では、なぜ未完成で最も危険な発電方法を推進しようとするのか分からない。発電によってうまれる放射性廃棄物の処理の仕方が未解決で増えるばかり。埋める場所もない。事故の汚染水・処理水も増えるばかり。事故のリスクはこれからも続く。それなのに何かいいことがあるのだろうか。世界一の地震国で国民を危険にさらし、自分たちの首もしめるというのに、そこまで執着するのはなぜだろう。」
また、2020年5月の「朝日新聞デジタル」に掲載された「『芸術なんて役に立たない』そうですけど、それが何か?」という見出しのエッセイも、私たちの社会がどんな方向に向かうのか、考えさせられるものでした。
「でもね、根本的には人間にとって必要だからとか、役に立つから保護するという発想ではダメです。芸術なんてものは、おなかを満たしてくれるわけではない。お金を生み出すかどうかも分からない。誰かに勇気を与えるためにあるわけでもない。例えば音楽の感動なんてものは、ある意味では個々人の誤解の産物です。理解は誤解。何に感動するかなんて人によって違うし、同じ曲を別の機会に聴いたらまったく気持ちが動かないことだってある」、「僕自身、音楽を聴いて癒やされることはありますよ。でも、それは音楽自体が力を持っているということではない。僕の音楽に力なんてないですよ。何かの役に立つこともない。役に立ってたまるか、とすら思います」
かつてナチス・ドイツはワーグナーの音楽を国民総動員に利用するとともに、ゲルマン精神の涵養に役立つ芸術とそうではない芸術を峻別した。芸術に体制賛美を担わせ目的に沿う作品のみを支援したのは、戦時中の日本や旧社会主義圏の国々も同様だ。
「そういう悪い見本が近い過去にあるんです。文化芸術なんてものは、必要があって存在するわけではないと思った方がいい。だから、行政の側が支援対象を内容で選別することはもちろん、作り手側が、何かに役立とうとか、誰かに力を与えようなんて思うことも本当に不遜で、あってはならないことだと思います」、「芸術なんていうものは、何の目的もないんですよ。ただ好きだから、やりたいからやってるんです。ホモサピエンスは、そうやって何万年も芸術を愛(め)でてきたんです。それでいいじゃないですか」



  

Posted by 守綱寺 at 10:50Comments(0)今日も快晴!?

2023年06月10日

今日も快晴!? 2023年4月


約3年前に代替わりをして、それまで父と母でやっていた仕事を徐々に譲り受けることになりました。
まだまだ分からないことばかりで、母と同じようには出来ませんが、父母が元気なうちに交替してゆけるのは本当にありがたいことだと思います。
中でも、「お寺参り」の仕事は、本当に学びの多い場になっています。
「お寺参り」とは、お葬儀を済まされたご家族の方が、お寺に足を運び、本堂(冬期はお内仏の部屋)でお勤めのあと、今後のお仏事の日程などを相談する場です。
ご葬儀を終えられた直後のご家族の方と色々とお話させて頂くと、亡くなられたときのご様子、ご家族の思い出等々、本当にどれ一つとして同じお葬儀は無く、それぞれが大切なご家族の方との関係の中で、唯一無二のかたちでいのちを終えられて行くのだということをつくづくと感じます。
ご自宅で長く介護をされてきた方が、寺参りの席でぽつりと言われた「…寂しくなっちゃったな。」という言葉が印象に残っています。
「介護」と聞くと、終わりが見えず大変なイメージや、介護疲れによる虐待や暴行のニュースを目にすることも多いので、「(亡くなって)ホッとした。肩の荷が下りた。」といった言葉が聞かれるのかなと思っていたのです。
けれども、そんな私の浅はかな予想に反して、家族の不在を悲しむその言葉を聞いた時に、なんて尊いのだろうと感じました。
たとえ寝たきりでも、介護を必要とする状態であっても、どのような状態であっても、亡くなって良い命など一つも無く、その人にしか出来ない役割があるのだと教えて頂きました。
また、ご自宅でお葬式をされたご家族の方にお話を伺っていた時のことです。
「おばぁちゃん、綺麗にお化粧してもらって、10歳くらい若く見えて良かった」、「おばぁちゃんの好きだった着物を着せてあげられて良かった」、「毎日のように身につけていた帯を、私が繕って付けてあげられて良かった」、「自宅葬だったので、近所の方が普段着のまま気軽に来て手を合わせて貰えたので良かった」と、「良かった」という言葉が何度聞かれたか分かりません。
悲しみの場であるはずのお葬式が、こんなにも「良かった」という気持ちで満ちあふれ、満足して終えることが出来るなんて、これこそが本来の葬儀の姿なのでは無いかと強く感じました。
そして、その場を任される僧侶という仕事が、お寺の役割がどれだけ重いものであるか、改めて感じずにはいられません。
私が小学生だった頃、ある男の子に「おまえん家、寺だろう。お葬式で金儲けしているんだろう。お賽銭で生活してるんだろう。」と言われたことがありました。
本当に悔しくて情けない気持ちになりました。
でも今は「葬儀を任される」ということが、どれだけ尊いことなのか。
年を重ねて、少しずつ分かるようになりました。
「命を終える」という行為は、誰もが人生でたった一度だけ経験するものです。
その時を、本当に満足する形で終えられるかどうか。
「満足」というのは、お金を掛けたり派手なことをするということではなく、 亡くなられた方が寿命を精一杯生ききられたことを尊び大切に受け止めることで、そうでなければ、後に残された方達が自分自身を大切にすることも出来ないのではないかと思えるのです。
大切なご家族が亡くなられたとき、「どこでも良い」ではなく、「守綱寺に頼む」と言っていただけるのは、本当にありがたいことだと思えます。
そういって守綱寺を選んで下さるお檀家の皆さんに、「守綱寺で良かった」と言ってもらえるように、精一杯勤めさせて頂きたいと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 10:06Comments(0)今日も快晴!?

2023年04月03日

今日も快晴!? 2023年3月


1月に「教えない教育のススメ」という講演を聞きました。講師は、「宿題を無くした校長先生」として有名な、元市木小学校校長の澤田先生です。
宿題なんてあることが当たり前で、何の疑問も抱いていなかった私ですが、当たり前の常識をひっくり返すような取り組みをされるのは本当に凄いことだと思います。
「宿題をなくす」ということの背景は、「宿題だからと、もう書ける漢字を何度も書いたり、解ける問題を繰り返したりと、何の疑問も持たずにただ言われたことをやるくらいなら、自分が本当にやりたいことや学びたいことに主体的に取り組んで欲しい」という願いがあってのことですが、その本来の目的が理解されず、保護者から苦情が来ることもあったそうです。
澤田先生の「出過ぎた杭は打たれない」という言葉はとても響きました。
自分も、横並びの「みんな一緒」を逸脱するのは、怖いと感じるからです。
 以下、澤田先生の講演を聞きながらのメモをとったものです。
○(宿題を無くしたことで保護者から苦情が来たとき)
 保護者「宿題を無くして、子どもが勉強しなくなったらどうしてくれますか?」
 先生「では、ご自身は宿題があったから進んで勉強するようになりましたか?」と聞き返す。
○今川義元は、竹千代(家康)に「むごい教育をせよ」と命じる。むごい教育とは、寝たいと言ったらいつでも寝かせて、学問が嫌だと言ったらやらせなくて良い。そのようにすれば、大抵の人間はダメになる。現代の「むごい教育」は、大人が余計なお節介をする。そのようにすれば、大抵の人間は無責任になる。
○昔の親は、自分の子どもが注意を受けると「すみませんでした。」と謝ったが、今の親は「(悪いのは)うちの子だけですか?」という。
○日本の教育は、受け身の勉強をやり続けている。だから勉強が苦しいものになる。本来、学ぶことは楽しいもの。家庭では、「待つ」ことをして欲しい。子どもが、自分で考えるようになる。大人は、子どもが褒めて欲しい時に褒める。大人は「大人になるって素敵だよ。楽しいよ。」と、子どもに伝える。
○これまでは、「先生の言うことは絶対正しい」という時代だったが、今は、答えのない時代をどう生きるか。みんなで答えを見つけましょうという時代。これからは「教えない教育」が大切になるのでは。
○今は「親を喜ばせるための幼児教育」になってしまっている。
○教育とは、子どもの今と未来を引き出す。子どもの今の力を最大限引き出すもの。
○子どもが何かやらかしてそうな時は、「何やってんだ(怒)!」ではなく「何がしたかったの?」と尋ねる。
○教師が常に答えを持っている時代は終わった。これからの社会を生き抜くための力は、
 ・人を大切にする力・自分を表現する力・自分の考えを持つ力・チャレンジする力・人に頼る力それらを総合した「人間力」が問われる。自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する。
こうしたことは、時間の余裕があれば出来る。自分が教員だった時は「とにかくやってみよう」と子どもたちに声をかけた。

「むごい教育」については、現代にも通じるなと感じます。
親が先回りして子どもに苦労をさせないようにと進路や人生のレールを敷いたり、怪我をさせないように、衝突を避けるようにと、遊びや喧嘩の経験を奪ってしまう。
塾、習い事、スポーツ活動等々、「子どものために良かれ」と思ってしていることが、日々子どもを忙しくさせ、時間の余裕をなくし、肝心な「自分で考える力」を削いでしまっているのかもしれません。

  

Posted by 守綱寺 at 09:56Comments(0)今日も快晴!?

2023年02月20日

今日も快晴!? 2023年2月


この1月に長男が成人式を迎えました。
長男に関わり、様々な形で支えて下さった皆さまに、改めて感謝の気持ちで一杯です。
子どもの誕生と同時に私も親にならせて頂き、子育てを通して(自分は何を大切にしたいのか?)と自問する機会を数多く与えて貰いました。
悩み、迷いながらの日々でしたが、子どもたちが「自分の頭で物事を考えることの出来る大人になること」は、私の子育ての目標でもありました。
劇作家・演出家である鴻上尚史さんがネット上に公開された「成人の日に寄せて」という文章がとても良かったので紹介したいと思います。
成人、おめでとう。でも、「大人になる」とはどういうことでしょうか?僕は、親や先生や先輩や友達の意見にただ従うのではなく、「あなた自身の頭で考えること」だと思っています。
自分の人生を自分で決めるということですね。けれど、これはとても難しいことです。
だって、日本の若者達はずっと「自分の頭で考えるな」という訓練を受けてきたからです。
日本の多くの中学校や高校では「中学生らしい」「高校生らしい」服装や髪形にしようと言われています。
けれど、「高校生」というイメージは、様々です。それぞれの人の頭には、それぞれのイメージがあります。
それを「高校生らしい」という一言でまとめるということは、「考えるな」ということです。
リボンの幅が3センチは「高校生らしい」が、4センチになると「高校生らしくない」ということを論理的に説得できる大人はいないと思います。
僕は愛媛県出身ですが、「愛媛県人らしい服装をして下さい」と言われたら、絶句すると思います。
あなたも「出身の都道府県人らしい格好をして欲しい」と言われたら混乱するでしょう。
それと同じくらい「高校生らしい服装」というのは定義不能なのです。
「服装の乱れは心の乱れ」という日本中でくり返される標語がありますが、大人に気付かれないように巧妙にいじめる奴らの服装は乱れているでしょうか。
陰湿な奴ほど、ちゃんとした服装をしていじめることをみんな知っています。
黙ってブラック校則に従え、疑問を持つなと教えられて来たのに、成人する時にいきなり「自分の頭で考える人になって下さい」と言われるのです。
ずっと「一人で泳ぐな!」と言われてきたのに、成人したらいきなり「一人で泳げ!」と言われるようなものです。
それは無理です。僕は、日本の若者に深く同情します。
が、嘆いてもしょうがないです。
自分の頭で考える訓練を始めるしかありません。そのためには、本を読んで下さい。
僕達は、国語の授業でずっと「退屈な本ほど価値がある」と思い込まされてきました。
でも、ワクワクドキドキしながら、本当面白く、あなたの生き方の役に立つ本が間違いなくあります。
本屋さんに行って、面白そうに感じた本の最初の1ページをとりあえず読んで下さい。
つまらなければ、すぐに次の本に移ります。
それでいいのです。
何十冊とくり返すうちに、あなたにぴったりの本がきっと見つかります。
読書は作者との対話であり、あなたの考えを深めます。
やがて、「自分の頭で考えること」が身につくようになるのです。
さあ、成人して、やっとあなたは自分の頭で考えていい世界に来たのです!
  

Posted by 守綱寺 at 16:49Comments(0)今日も快晴!?

2023年02月20日

今日も快晴!? 2023年1月


 長男が中学校に入学してから足かけ8年、中学の読み語りボランティアに参加しています。読み語りボランティア仲間と「もう中学になると、子どもがボランティアで絵本を聞いてくれているんだよね。」と苦笑いしながらも、普段はなかなか足を運ぶことのない中学校の様子を見ることが出来る楽しみな活動です。子どもから「学年の最後の読み語りは、自分のクラスに絵本を読みに来ても良いよ」とお許しを貰えたので、3年生の最後の読み語りになる12月は、娘のクラスに入らせて貰いました。中学生になると、自分の親が教室に絵本を読みに来るなんて恥ずかしくてたまらないと思うのですが、「最後の回なら来ても良いよ」と言ってくれる我が家の子どもたちは優しいなと思います。
 中学生の貴重な15分を貰っているのだから、何か伝わる内容のものをと思い、絵本選びは毎回四苦八苦しています。試行錯誤しながら選び続け、ここ数年は、『世界で一番貧しい大統領のスピーチ』、『赤ちゃんの誕生』、『福島から来た子』などに落ち着いています。娘のクラスで読む絵本は、娘と相談して『葉っぱのフレディ』(レオ・バスカーリア作 童話屋)にしました。哲学者でもあるバスカーリアが書いたこの絵本は、1998年に発売された時にはベストセラーとなりました。「いのち」をテーマにして、「死」という言葉が繰り返し出てくる大人向けの絵本です。
 フレディは、春に生まれた葉っぱです。夏におひさまの光を一杯受けて成長し、秋には紅葉して同じ木に生まれた仲間達と、それぞれの色に変わります。そして冬には、風に吹かれた葉っぱ達は次々地面に落とされて行きます。フレディが親友のダニエルと交わす会話には、毎回はっとさせられます。子どもたちに絵本を読んでいるときも、「引っ越しをするとか、ここからいなくなるとかきみはいっていたけれど、それは―――」「死ぬ ということでしょう?」「ぼく 死ぬのが怖いよ。」というフレディの台詞を読むとき、教室はシーンと静まり返ります。「この木も死ぬの?」「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ」「世界は変化し続けているんだ。…死ぬというのは変わることの一つなのだよ」。冬が来て、フレディにもいよいよ「そのとき」がやってきます。迎えに来た風に乗って、枝を離れて地面に落ちました。引っ越し先はふわふわして居心地の良いところだったのです。フレディは静かに眠りにつきます。「冬が終わると春が来て 雪は解けて水になり 枯れ葉のフレディは その水に混まり土に溶け込んで 木を育てる力になるのです」「“いのち”は土や根や木の中の 目には見えないところで 新しい葉っぱを生み出そうと 準備しています。大自然の設計図は寸分の狂いもなく“いのち”を変化させ続けているのです。」
 フレディのように、「死ぬのが怖い」、「ぼくは生まれてきて良かったのだろうか?」と子どもたちが悩んだときに、この絵本を手に取って貰えたら良いなと思います。フレディは「葉っぱに生まれて良かったな」と思います。フレディのように、「わたしがわたしに生まれて良かったな」と思えるような人生を歩んで下さいという仏さまの願いも、絵本を通して子どもたちに届くと良いなと思いながら、教室をあとにしました。

  

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2022年11月07日

今日も快晴!? 2022年11月


子育て中に大好きだったものの一つが絵本です。
中でも思い入れがあるのは、「自分が昔好きだった絵本」です。
そうした作品の一つが『おしいれの冒険』(ふるたたるひ・たばたせいいち/作 童心社)です。
田畑さんが描く元気な子どもたちや、恐ろしいねずみばあさんの絵は本当に印象に残っています。
2020年に田畑さんは亡くなられましたが、直後に親しかった仲間達が集まり『ありがとう 絵本作家田畑精一のあるいた道』という本が出版されました。
たまたま図書館でこの本を手にした読んでみたところ、田畑さんが平和に対する願いを絵本に込めていたことが分かりました。
あの生き生きと描かれた子どもたちは、田畑さんにとって「未来への希望」だったのです。この本から、田畑さんの言葉をいくつか紹介したいと思います。
「あの悲惨な戦争が終わったとき、ぼくは中学の2年生、「お国のためにいのちを捧げよう」と考える、いっぱしの"軍国少年"でした。でも正直に言えば、ぼくにとって死ぬことは、決して悩み抜いた末の決心ではなく、早くから当たり前、と決まっていたのです。戦争は人と人との殺し合い。大勢の人が死にます。死ぬのを恐れていては、戦争は始めから負けです。それでいっぱい美談が生まれたのです。…(略)…戦争が始まった年に生まれたぼくのまわりには、こうした「いさぎよく死んだ軍人の物語」で満ち満ちていたのです。ですからあの戦争が、間違った戦争だと知るのには、随分長い時間が必要でした。それは死ぬはずの少年が、もう一度生きようと決心する、長い時間でもありました。」
「戦争って一体何だったんだろう……。親父は死んじゃったし、貧乏で、母親が苦しい思いをしている。誰も得をしないし、むしろ悪いことばかり。にもかかわらず、日本は今度アメリカに協力して朝鮮戦争に参加している。いったい何なんだ!?そう考え始めると、本当に国は平和を求めているのかと疑うようにもなりました。
じゃあ、戦争をなくすためにはどうしたらいいのか。日本が引き起こした戦争をはじめ、世界のいたるところで戦争が続いている。数千万人の人が亡くなり、とうとう原子爆弾まで作り出してしまった。
そんな大人たちに平和を生み出すことを期待できるのだろうか。ならば、希望は子どもたちだ!と思いました。
子どもたちは未来の主人公ですから、子どもたちが『人と人とが殺し合う戦争なんて野蛮なことは大嫌いだ。もっと楽しく生きようよ。』って思える世界になればいい。
子どもは人間の核なんだ。核は核でも、人間の核が人間らしくなれば戦争とおさらばできる、と思ったわけです。」
「韓国を訪れたいと、ずっと思っていました。でも私にとっての韓国は、とても近いのに簡単には訪れることのできない国でした。…なぜ来られなかったのか。それは日本の植民地支配が、この国の人たちに与えた色んな深い罪悪のことを考えると、『すみませんでした』と謝って許されるような簡単なこととはどうしても思えないからでした。そして私は、絵本を作る人間としてこんなふうに考えたのです。――人間らしい子どもたちを育てよう。戦争なんて大きらいな子どもを育てよう。絵本を通してそんな子どもたちを育てることが出来れば、この国の人たちへのいくらかのお詫びになるだろう。…(略)…でも残念なことに、今の日本はそんな状況ではありません。8月15日、韓国ではお祭りですが、小泉首相は反対を押して戦争犯罪人をまつった靖国神社に参拝しました。歴史を歪曲し、かつての戦争や植民地支配を正しかったとする間違った思想がしだいに力を得だしたのです。」

  

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2022年10月11日

今日も快晴!? 2022年10月


子育て中に仲良くなった友人たちとは、子育ての悩みや園や学校での出来事をその都度お喋りして共有し合って来ましたが、最近は「お墓の悩み」「離れて暮らす両親のこと」「目前に迫る介護」といった話をすることが増えました。先日も、「明日父が退院することになってね…。」と、子どもたちがほぼ同世代の友人の話を聞くことになりました。
彼女のご両親は、隣県でご夫婦二人暮らしです。
半月ほど前に、とてもお元気だったお父さまが腸閉塞で急に入院することになり、自宅に一人残されたお母様は軽度の認知症で一人で生活出来るとは思えず、彼女が出向いて「しばらくの間、豊田の私の家に来て一緒に生活しよう。」とお母様を説得して家に連れて来たそうです。
友人は時々笑顔を交えてお母様の様子を話してくれましたが、なかなか厳しい状況でした。
「認知症って、言っても言ってもすぐ忘れちゃうんだよね。30分に一度、『手術になるならお父さんに会いに行かないと。』、『お父さんの顔を見に病院に行かないと。』と言うので、私が『病院に行ってもコロナで会わせてもらえないんだよ。お医者さんと看護師さんがちゃんとみててくれるからね。大丈夫だよ。』と説明すると『そっか…』と納得していたけど、それが5分に一度になり、説明しても『私は妻だから会えると思う』とか『私はコロナじゃないから会えると思う』、『会えなくても行く。看護師さんと話してようか。』、『会えなくても家に帰る。一人で大丈夫。お父さんを待っていないと。』などと言うようになってね。『会えるようになったら病院から連絡が来るから、そしたら行こうね。』と言って落ち着かせるけど、すぐに忘れちゃう。他のこともすぐに忘れちゃう。」
「何でも食べちゃうんだよね。棚にしまっておいたお菓子とかも全部探して封を開けちゃうし、子どもが友達から貰って大切に取っておいたおやつもなくなってるし、聞いても『知らない』と言うし、『お腹一杯だからご飯そんなにいらない』と言いながら一番よく食べる(笑)。」
「洗濯物も畳んでしまってくれるんだけど、色んな場所に勝手にしまっちゃう。あれがないなぁと思って探していると、(え?なんでこんなところに??)ってところから出てくるし、『私があとで畳むから大丈夫だよ』と言っても、習慣で洗濯物見ると畳んじゃうみたいで。」
「子どもたちが、怒ったり説明したり注意したりするけど、母はすぐ忘れちゃう。私は度々実家に行って母の様子を見ているからなんとなく受け入れられるけど、子どもたちは今まで一緒に暮らしていなかったから理解出来ないみたいで。『おばぁちゃんは認知症。病気だから仕方ないんだよ。いずれママもこうなるかもしれないよ。』って言ったら黙っていたけど…。」
「認知症のお年寄りのお世話は子育てと一緒だね。子育ては、まだ希望があるから良いけど、介護は大変だね。でも、母は何かを食べる時は、『こんなふうに娘の料理食べて過ごせるなんて幸せ。』と言ってくれるんだよね。」
そんな話をしながら、これが年を重ねていくと言うことの現実なのだと、つくづく感じました。
身近な友人の話を聞かせて貰えたのはとてもありがたく、介護が「自分事」になった時に、どこまで何がやれるのか。自身の想像力を巡らせる日々です。


  

Posted by 守綱寺 at 14:39Comments(0)今日も快晴!?

2022年10月11日

今日も快晴!? 2022年9月


友人からの紹介で『「学校」を作り直す』(苫野一徳 河出新書)という本を読みました。
本の帯に書かれていた以下の言葉を読んだだけで、(これは読みたいなぁ)とうずうずしました。
「義務教育はこのままでいいのか?」小1プロブレム、「スタンダード」の流行、学力別クラス、無言給食、無言清掃、いじめ、体罰、学力向上至上主義…。
みんな一緒、みんな同じの、150年変わらないこの国のシステムは、本気で変えなくてはならない。
 数多の“現場”に携わる教育学者による渾身の提言!学校をこう変える!
①「学びをもっと遊び(探求)に」 受け身のガマンではなく、能動的忍耐力を。
「言われたことを言われた通りに」から「自分なりの問いを立て、自分なりの答えを見つけ出す」へ。
教師は共同探求者。
②「みんな一緒」をやめる。時間割もテストも一人一人別々に。
人の力を借りながら、人に力を借しながら。こどもたちに“学校作りのオーナーシップ”を。

私の周りでも、学校と距離を取るお子さんが増えている印象があります。
原因は様々ですが、単純な「いじめ」などではない場合も多く、もっと根本的な学校のシステムの問題である、と考えるこの本の姿勢は、とても共感できました。
この本では、第2章「先生もつらい」の中で、「授業のスタンダード化」ということに触れています。
「みんなで同じことを、同じペースで、同じやり方で」という学校の慣習化されたシステムは、先生たちもまたひどく縛り付けていると言います。
こどもたちに「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」を要求する以上、先生たちもまた、個性を活かした授業や学級経営をやってもらっては困ります。
だから多くの自治体や学校では、先生の裁量がひどく制限され、文字通り「言われたことを、言われた通りにやるしかない」状況が続いています。
(なるほど、そうだったのか…)と思い当たることがありました。
小学校の時、我が家の子どもたちを担任して下さった先生の中に、毎日のように学級通信を出して下さる先生がいらっしゃいました。
普段は目にすることの出来ない子どもたちの学校やクラスでの様子がよく分かり、保護者の間では好評だったのですが、ある年から通信の発行数がガクンと減ってしまいました。
学校に足を運ぶ機会があったときに、「先生、もう通信は作られないんですか?皆楽しみにしていたんですよ。」とお声かけすると、先生は暗い顔で「実は…通信をあまり出さない隣のクラスの先生と差が出るから、毎日のように出してはいけないと上から…。」と、信じられない言葉が聞かれました。
自分の時間を割いて通信を出して下さる熱心な先生のやる気を損ない、「やらない方のやり方に揃えなさい」と言われた先生の悔しさを思うと、当時の校長先生を恨むような気持ちにもなりましたが、校長先生の問題ではなく、仕組みの問題だったのです。
この本では、 「(先生や)誰かを非難したいわけではなく、システムを変えたいのです。
先生がこどもたちを過度に統率する必要の無い、温かい信頼と承認に満ちた学校教育のシステムへ」 と書かれています。
そんな風に変化して行く学校を見てみたいと思いました。

  

Posted by 守綱寺 at 14:27Comments(0)今日も快晴!?

2022年08月16日

今日も快晴!? 2022年8月


長男が中学に入学した頃、「通学カバンが重すぎる」ということが話題になりました。
教科書を学校に置いて帰る「置き勉」が禁止されていたので、毎日六時間分の授業の用具を持ち帰りするカバンはかなりの重さがありました。
当時は「T中バッグ」と呼ばれる片肩に掛けるタイプのカバンだったので、体の歪みも気になり、「両肩で背負えるリュックサックにして欲しい」と学校側に要望したこともありました。
カバンの重さは変わらぬ悩みのようで、今年の5月に「ランドセルが重すぎる」ことを解決しようと、栃木県の小学生が開発した「さんぽセル」と言う商品が話題になりました。
「さんぽセル」はアルミ製のフレームで、2本のスティックの先にキャスターが付いた商品で、ランドセルをキャリーバッグのように手で引くことができます。
今は「脱ゆとり教育」で教科書の量が多くなっていることと 、ICT(情報通信技術)教育の一環で、教科書の他タブレット端末などを持ち帰ることもあり、ランドセルの平均の重さは3,97キロあるのだとか。
実は、今の子どもたちは、歴代の小学生の中でも一番重いランドセルを背負わされているのだそうです。
「さんぽセル」は、商品化されると約3000件の注文が殺到したそうです。
しかし、そのことがニュースになると、ネットでは大人からの批判的なコメントが相次ぎました。
「重たいだろうけど、楽したら筋力も低下していかん!心も体も鍛えないと!」という意見に代表されるように、「自分たちも我慢してきたのだから、子どもが楽をするな」という発想は、いつの時代の根性論なのでしょう。
小学生が、自分たちの問題を自分たちで解決しようと知恵を絞ったアイデアを批判する大人たちは、一体何を考えているかと呆れます。
ところが後日、それらの大人からの批判に、子どもたちが真っ向から反論した返答を目にする機会がありました。
これが実に的確で、(子どもたちが大人に潰されなくて良かった。よくやった!)と、痛快でした。
大人の批判コメント「子供って、予想外の行動を取ることがあるから、思わぬ危険が生じるかもしれませんね。大人目線の商品開発はではありませんか?」、「これを開発した人は、子供のことをよくわかってないですね」
➔小学生の反論「いま小学5年生です。作ったときは4年生です。子どものことよくわかってなかったらごめんなさい。」
大人「体のバランスが悪くなり、背骨にゆがみが出て体調が悪くなると思うので心配です」
➔小学生「それは重いランドセルでなる「ランドセル症候群」って言われている病気です。僕たちは、それを解決しようとしてるんです。心配する方向が反対です!」
大人「なんでランドセルを背負うのかって、両手が塞がったら登下校中が危ないから。」
➔小学生「なんで、キャリーを持ったまま転ぶって思うの?ふつう手をはなします。」
大人「坂道とかでうっかり手を離したら大惨事ですね。結構スピードが出ると思いますが、それが人に当たってしまったら?そのことまで考えているのでしょうか。」
➔小学生「2つのタイヤだけでどうやって坂道を転がすの??そんなことできないように考えてるんですよ。ちゃんと見て文句言ってよ!」
大人「ランドセルは後ろに転けた時に頭をうたない為にあるってことを知らない人、結構多いよね」
➔小学生「そもそもランドセルが重いから後ろに転ぶんじゃん!」
 (子どもたちは、大人の堅い頭と貧しい発想を軽々飛び越えて行くなぁ!)と、頼もしく思いました。

  

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2022年08月16日

今日も快晴!? 2022年7月


久しぶりに図書館で夜回り先生こと水谷修さんの本を借りてみました。
震災後に書かれた『いのちの授業』という本でしたが、「平等」と「公正」について書かれた章の中で、消費税のことに触れている部分がありました。
たまたま選挙を間近に控えたタイミングでしたので、(そうか。消費税とは、こういう種類の税金だったのか)と、とてもよく分かりました。
「平等」ではなく「公正」を -優しさと思いやりを大切にする。
君たちは「平等」と「公正」と言う言葉を知っていますか。
そして、二つの言葉の違いがわかりますか。
今私たちの国とその周りでは、この「平等」と「公正」という言葉の本当の意味を理解していない人たちがたくさんいます。
そして、大変な問題が起きていると、私は感じています。
この二つの言葉の意味の違いを、一緒に考えてみましょう。
君とプロゴルファーの石川遼くんがゴルフをするとします。
ハンディキャップなしで戦うこと、これが「平等」です。
一方、それまでのゴルフの経験やスコアの実績を考えて、ハンディを付けて戦うこと。
これが「公正」です。
日常生活の中でなら、たとえば現在のように、すべての商品に一律5%の消費税をかけて、貧しい人からも富んだ人からも同じく税金を徴収する。
これは「平等」です。
一方、かつての日本にあった物品税のように、貴金属屋外国の高級車などといった、生活にゆとりのある人が買うであろう贅沢な品物には高額の税金を課し、全ての国民が日々消費する食料や生活必需品には課税しない。
これは「公正」です。
身近な例では、学校の給食をみんなが同じ量をもらって食べること。
これが「平等」です。そうではなく、体の大きさや体調によってそれぞれの量を変えて配り、食べること。これが「公正」です。
どうですか。「平等」と「公正」の意味が分かりましたか。
君たちが石川遼くんと「平等」にゴルフで戦っても、絶対に勝つことは出来ません。
競技にもならないでしょう 。
また、貧しい人からも富んでいる人からも「平等」に税金を徴収することは、貧しい人にとって大きな負担となります。
さらに給食ではみんなが同じ量を「平等」に食べれば、足りない人もいるでしょうし、残す人もいるでしょう。
つまり、「平等」は正しく美しい言葉に聞こえますが、現実の社会では「悪平等」ということになります。
悪平等とは、公正な評価をせずただ一律に平等に扱うため、かえって不公平になることを言います。
これは、大きな問題と弊害を持っています。
さらに、私は「平等」に機械的な冷たさを感じます。
優しさや思いやりを感じることができません。          
「夜回り先生 いのちの授業」より。
現政権は、将来的に消費税を25%まで増税する計画だそうです。
防衛費も5兆円の増額を予定しているようです。
5兆円を教育や医療、年金に使えば、給食の無償化、大学の無償化、公的保健医療の自己負担ゼロ、年金を一人年12万追加等々、様々な事が実現出来るそうです。
公正な社会の実現に向けた政策を打ち出している党を選んで投票に行きたいと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 09:54Comments(0)今日も快晴!?