2024年03月11日

本堂に座って 2024年3月


今回も中島岳志さんの「利他」についての文章を紹介します。他の誰かのため…という「利他」は、どのように成り立つのか?を“時間”を視点に教えてくださっています。

私が先生の「一言」を、しっかりと受け取ることができたのは、十年以上経ってからのことでした。先生が言葉を発した時点では、私は言葉を受け取り損ねています。
しかし、先生の一言は、無意識のまま自分の心の中に沈殿していきました。
そして、私の未来を切りひらいてくれました。先生は私の恩人です。
先生の一言は、私にとって「利他的なもの」に他なりません。しかし、そのことに気づいたのは、言葉が発せられたときではなく、それから長い年月を経たあとでした。
つまり、受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがあります。
ここに「利他」をめぐる重要なポイントがあります。
「利他」は、受け取られたときに発動する。この原理は、次のように言い換えることができます。
――私たちは他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる。私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。発信と受信の間には、時間的な隔たりが存在します。
ここでようやく利他の時制が見えてきます。繰り返しになりますが、自分の行為が利他的であるかどうかは、不確かな未来によって規定されています。自分の行為の結果を所有することはできず、利他は事後的なものとして起動します。つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものです。行為をなした時点では、それが利他なのか否かは、まだわかりません。大切なことは、その行為がポジティブに受け取られることであり、発信者を利他の主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということです。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができません。一方、受け手側にとっては、時制は反転します。「あのときの一言」のように、利他は過去からやって来ます。当然ですよね。現在は過去の未来だからです。発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、過去からやって来るもの。これが利他の時制です。すると、私たちはあることに気づかされます。それは「利他の発信者」が、場合によってはすでに亡くなっており、この世にはいないということです。よく考えてみると、私たちの日常は、多くの無名の死者たちによって支えられています。
――利他は死者たちからやって来る。私たちは、そのことに気づき、その受け手となることで、利他を起動させることができます。つまり、死者を「弔う」ことこそが、世界を利他で包むことになるのです。私たちは、死者と出会い直さなければなりません。そして、その存在や行為、言葉の上に私たちが暮らしていることを自覚しなければなりません。死者と対話し、自己の被贈与性に思いを巡らせるとき、そこに「弔い」が生じ、「利他」が起動します。私たちは死者たちの発信を受け取り、まだ見ぬ未来の他者に向けて、発信しなければなりません。歴史の静かな継承者になることこそが、利他に関与することなのではないかと私は考えています。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)

「利他」というと、相手も時間も身近な範囲ばかりを考えてしまいますが、「利己的」でない本来の意味での「利他」は、時間を超え、場合によっては相手も選ばず、受け取られたところではたらくものだということを教えていただきました。

  

Posted by 守綱寺 at 14:50Comments(0)本堂に座って

2024年02月15日

本堂に座って 2024年2月


少し前から「利他」ということばをよく耳にするようになりました。
まず相手の利益・幸せを考えること…という意味では大切なことですが、そこに“自分”が入ると「利己」になってしまう危険もあります。
「利他」とはどういうものかを考えるきっかけを、中島岳志さんの文章から教えていただきました。

利他は自己を超えた力の働きによって動き出す。
利他はオートマティカルなもの。利他はやってくるもの。
利他は受け手によって起動する。そして、利他の根底には偶然性の問題がある――。
私たちが利他的であろうとするとき、そこには利己的な欲望が含まれていることも見てきました。
利他には、意識的に行おうとすると遠ざかり、自己の能力の限界を見つめたときにやって来るという逆説があります。
そうすると、私たちは何をすればいいのかわからなくなってしまいます。
利他的であろうとすると利他が逃げていくのだったら、私はどうすればいいのか。
利他が偶然性に依拠しているとすれば、偶然の出来事が起こることをただ待っていればいいのか。
そんなふうに思うかもしれません。
しかし、偶然は偶然には起こりません。
九鬼周造は『偶然性の問題』の中で次のように言っています。
「東洋の陶器の鑑賞に偶然性が重要な位置を占めていることを考えてみるのもいい。いわゆる窯変は芸術美自然美としての偶然性にほかならない。」窯変とは、陶磁器を焼く際、炎の性質や釉の中に含まれている物質などの関係で、色彩光沢が予期しない色となることです。
では、窯変は本当に偶然だけに依拠しているのでしょうか?
私は陶器を制作したことが全くありません。ろくろを回したこともなく、窯を使ったこともありません。
そんな人間が、唐突に窯変の美しい陶器を作ることができるかというと、不可能でしょう。
そもそも私は釉薬のかけ方も知らず、焼き方も知りません。
そんな人間が、いきなり秀でた芸術作品を作ることはできません。
つまり、裸の偶然は存在しないのです。職人は、長い年月をかけた修行と日々の鍛錬の積み重ねの上で、偶然を呼び込みます。
窯変は、蓄積された経験と努力のもとにやって来ます。確かに、陶器がどのように焼きあがるかは、窯から出してみなければわかりません。
人間の力では制御できない火の力によって化学反応が起き、思いがけない美が誕生します。そこには「他力」としか言いようのない「力」が働いています。
しかし、その美が生まれるためには、窯に入れるまでに様々な技巧が施されなければなりません。
「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではありません。
大切なのは、自力の限りを尽くすこと。
自力で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。
そうして、自己の絶対的な無力に出会います。重要なのはその瞬間です。
有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。
そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。
そして、その瞬間、私たちは大切なものと邂逅し、「あっ!」と驚きます。これが偶然の瞬間です。
重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。
しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、その器にやって来るものが「利他」です。
器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。
その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。
このような世界観の中に生きることが、私は「利他」なのだと思います。
だから、利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。
私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。
能力の過信を諫め、自己を超えた力に謙虚になる。
その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。
 いま私は、利他をそういうものとして認識しています。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)
  

Posted by 守綱寺 at 13:40Comments(0)本堂に座って

2024年01月09日

本堂に座って 2024年1月


今月も引き続き、くればやしひろあきさんの『自走する組織の作り方』から文章を紹介します。
子どもが勉強しているときなど、その様子を見ていてひと言ふた言、声をかけたくなることがあります…が、その前に気をつけるべきことがある様です。

求めていないのにアドバイスをしてくる人っていませんか?実は、相手が求めていないのにアドバイスをすると、相手を傷つけてしまうことがあるのです。

たとえばあなたがハンバーグを作るとします。
家族に美味しいハンバーグを食べさせたいと、挽き肉をしっかりこねて、丁寧に丁寧に作りました。
夕食のテーブルを囲んだ家族の目の前には、ソースのたっぷりかかったハンバーグ。
ナイフを入れると、ジュワッと肉汁が溢れ出し、立ちのぼる湯気まで美味しそう。
一口食べて旦那さんが言いました。
「美味しいなぁ。けど、ソースがなぁ……。もう少し濃かったら、もっとよかったなぁ」
今度は娘が一口食べて、また口を開きます。
「ママ、すごく美味しい。お皿が冷たいのが残念かな。これだとすぐに冷めちゃうから、次からはお皿を温めておくといいよ」
最後に息子が一口食べて、
「うん、本当に美味しいね。あとは見映えだね。彩りがイマイチだから、ミニトマトぐらい乗せてもよかったかもね」とダメ押しをします。
きっとあなたは思うはずです。(二度と作ってなんか、やるものか!)
求めていないアドバイスに人は傷つく。だから、アドバイスは求められたときに、求められた分だけ届けるといい。
「このハンバーグさ、美味しくするためにどうしたらいいと思う?」と問われてはじめて、アドバイスは相手に受け取ってもらえるのです。

教室の後ろに大きな掲示板があります。
そこに画鋲を使って子どもたちが描いた絵などの掲示物を貼っていくわけですが、いつも率先して手伝ってくれる男の子がいました。
ところが、なぜか掲示物を左から右に貼っていくに従って、だんだん上がっていってしまう。それで教室中の掲示物が右肩上がりです。
善意で「掲示物を貼る」ということをしてくれているのに、僕がそのことを指導すれば良い気持ちはしないでしょう。
せっかくお手伝いしたのに、指導されるのは面白いことではありません。
こんなときは、「行動したこと」と「行動の質」を分けて考えることが大切です。行動したことは褒めて感謝を伝えます。
行動の質については、そのときには指導せず、別の機会に取り組みます。
ある日の放課後、彼と一緒に掲示物を貼ることにしました。
彼は左から、僕は右から。スタートの高さを揃えて貼り始めたのですが、案の定、中央でぶつかったときには、僕のそれよりもずいぶん高い位置になっていました。
「あれ、おかしいなぁ」とつぶやき、右肩上がりになっていることに彼自身が気づきました。
「先生、なんで僕が貼ったのは上がっていって、先生の貼ったのはまっすぐなの?」と言いました。
それで僕は、「掲示板に点々が打ってあるの、わかる? これに合わせて貼っていくとまっすぐ貼れるよ」と伝えると、「あぁ……そうか……」とポツリつぶやいて彼は掲示板を貼り直していきました。
それ以来、彼は「掲示の名人」となったのです。
ついつい一言言いたくなるのがリーダーです。そこはグッと我慢が必要です。
でも、どうしても我慢できないときは、一言これだけ伝えてください。
「アドバイスしたいことがあるんだけど、伝えてもいい?」
(『自走する組織の作り方』くればやしひろあき著 青山ライフ出版発行 より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 17:23Comments(0)本堂に座って

2023年12月26日

本堂に座って 2023年12月


今月も引き続き、くればやしひろあきさんの『自走する組織の作り方』から文章を紹介します。
9月号に紹介した文章を受けてのものですが、「目標設定」の確認をしっかりしておかないと、思いがけないすれ違いが起ってしまいます。

(9月号で紹介した文章)「『目標』や『期限』の解釈を伝え合う」で、我が子2人の会話をお伝えしました。兄にとって「目標」とは達成する見込みがあること。
目標はあくまでも「できる範囲」を示します。いわば「ノルマ」のようなものでした。
反対に妹にとっての「目標」は「こうなったらいいな」という願望のようなもの。
「夢」と呼んでもいい。できるかどうかはどうでもいいのです。

彼女のようなタイプは、気分が乗れば大きな成果を出すこともありますし、気分が乗らなければまったく成果を上げないタイプです。
100期待される仕事に対して、200の成果を出すこともありますし、0かもしれないのです。
まったく計算できません。
一方、彼のようなタイプは100期待される仕事に対して、100の成果を出します。
彼らの特徴は目標が到達可能でなければならないということです。何せ「目標」の捉え方が違うのです。
彼らの目で見て、「それは不可能でしょ?」という目標を設定されると、一気にやる気が萎んでいきます。
いつも頭の中には「どうやって達成するの?」という問いがありますから、到達できそうにない「目標」を設定されると、早々にあきらめてしまうのです。
目標なんて達成できてもできなくてもいいじゃん!と思っているタイプのリーダーはできもしない目標を掲げがちです。
同じタイプの部下も、「できなくてもいいか」と思っていますので、大きな問題にはなりません。
しかし、彼のようなタイプは違います。

そもそも人間には明確な目標が必要なタイプと、なんとなくの方向性だけ決まっていれば良いタイプがいます。
目標設定というのは、明確な目標が必要なタイプには必要であり、彼らが求めているものは「到達可能」な目標なのです。
「やればできる」という目標でなければなりません。

ある会社では、社長さんがトンデモなく高い売り上げ目標を設定しました。
その会社は社長さんも自ら営業をする小さな会社でした。そのとき設定した目標は、当の社長ですら達成したことがないような目標設定だったのです。
「社長、この目標は無理ですよ。社長だってやれたことないじゃないですか」ベテラン社員が吠えました。
社長も負けじと「やってみなければわからないじゃないか。なんでやる前からお前たちはあきらめてしまうんだ」と顔を真っ赤にして怒りました。
その様子を社員たちは冷静に眺めていました。
「で、どうやってやるんですか?方法はあるんですか?」そう尋ねられた社長さん、「できるか、どうかじゃない。できなくたっていい。高い目標を掲げることが大事なんだ」と言ってはみたものの、別の社員がぽつり「そんなの目標って言うんですか?」と言って話は平行線に終わりました。
「どうしたらよかったんだろう?」と尋ねる社長さんにお伝えしたのは2つ。
社長が伝えたかったことは、仕事に取り組む姿勢の部分。
それは夢やヴィジョンとして共有していった方が、社員さんには受け入れやすい。
そして、目標設定はあくまでも達成可能なものがいい、と伝えました。

そもそも目標は達成できたかどうかを確認できるものがいいでしょう。
「できた」「できてない」が明確にわかるものです。そして、目標達成までの道筋を明確にした上でタスクを遂行していきます。
目標達成ができなければ、筋道の作り込みに問題がなかったか、どこかに未完了のタスクはなかったか、問題点を洗い出すことができます。
そこに問題がないのであれば、そもそも目標設定を誤ったということです。
ですから、組織の状態を可視化する上でも、目標設定は到達可能なものでなければなりません。
(『自走する組織の作り方』くればやしひろあき著 青山ライフ出版発行 より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 17:27Comments(0)本堂に座って

2023年12月26日

本堂に座って 2023年11月



今月もくればやしひろあきさんの『自走する組織の作り方』から文章を紹介します。
相手に「何かをして欲しい」とき、どのように声をかけると良いでしょう?自分の側か相手の側か、どちらに立って伝えるかによって結果は大きく変わる様です。

「やりたい人」がいなかった場合、リーダーが指示をして業務をさせます。
でもこれ、「指示」という形で有無も言わさずやらせようとすると、どうしても「やらされ感」が生まれます。
「やらねば」という外的動機だけでは、どうしても仕事のクオリティーは下がってしまいます。
僕が心がけていたのは「オファーする」という方法です。
たとえば、「教室の窓を開ける」ということをやってもらうとします。
「窓を開けなさい」と指示を出しても、窓は開くでしょう。
でも、「窓を開けてほしいんだけど、お願いしてもいいかな?」と問いかけるんです。お願いされると、人はそれに応えたくなるものです。
「窓を開けてほしい」というオファーに対して、自分で「イエス」という答えを出しました。
「自分で行動を選択する」という経験を常にさせていくのです。
以前、あるベテランの先生が、「何を言ってるんだ。子どもに対しては命令でいいんだ」と言いました。
どちらが上でどちらが下かを理解させるうえでも、命令をして「はい」と言わせることが大事だ、と言うのです。
「何時代の人ですか?」と思いました。そういう教育が現代社会の「考えない大人たち」を生み出してきたのです。
仕事をさせるときは、オファーを出して、相手に「イエス」と言ってもらいます。
そして、行動してくれたらこちらのオファーに応えてくれたわけですから、「ありがとう」と感謝の意を伝えます。
仕事をしてもらうときは、指示や命令ではなくオファーする。
これは、子どもから大人まで、みんな同じです。
「これ、コピーしてもらいたいんだけど、お願いしてもいいかな?」「この資料、明日までに用意してほしいんだけど、頼めるかな?」オファーですから、断られるかもしれません。
それでいいんです。
相手の目の前に「仕事」を置いてあげて「やる」「やらない」は相手に選択してもらう。
大切なことは、相手の心からの「イエス」を引き出し、内的動機の「やりたい」に変換してもらうことです。
そのためにもリーダーとその人との関係性は極めて重要だと言えます。「この人にお願いされたら仕方ないな」と思ってもらえる関係をつくっておくことです。
「この人のお役に立ちたい」だって、立派な内的動機です。その業務自体を「やりたい」とは思ってないけれど、「この人が喜んでくれるならやりたい」なんてことはよくある話です。
さて、そのような考え方で仕事を眺めていると、「誰でもいいからやっておいて」という業務は一つもないことがわかります。
たとえコピーの一つでも、「この子はコピーしたあと、丁寧にクリアファイルに入れて渡してくれる」とか「仕事が早いから明日までと言ったけれど、朝イチで持ってくるんだろうな」とか、こちらも相手の個性を考慮に入れてオファーすることになります。
逆にオファーしづらい人もいると思います。仕事が雑な人や期限までにできないような人には仕事って振りにくい。
そういうときは、サポート役に回ってもらうと良いでしょう。
さて、オファーするうえで、みんなが嫌がりそうな仕事というのもあります。
そんな難しいオファーならば、その仕事から得られるメリットを伝えてあげるのも良いです。
「この仕事をすると、こんな力がつくよ。こんなご縁があるよ。こんなものが得られるよ。」このように、この仕事を通して何が得られ、仕事が終わったあとどんな未来が待っているのかを伝えます。
また、なぜあなたにオファーしたのか、どんなことを期待してオファーしたのか、も合わせて伝えると効果的です。
 大切なことは、相手に「イエス」と言わせることです。無理矢理言わせるのではなく、「イエス」の選択を選ぶ流れをつくることです。
自分で「やる」と決めたから人は動きます。また、たとえやりきれなかったとしても自分で「やる」と言った人の方が指導は入りやすいものです。
頼んだ仕事をやってないのと「やる」と言った仕事をやってないのは大違いだからです。
(『自走する組織の作り方』くればやしひろあき著 青山ライフ出版発行 より引用しました)
  

Posted by 守綱寺 at 10:17Comments(0)本堂に座って

2023年12月26日

本堂に座って 2023年10月


今月も先月に引き続き、くればやしひろあきさんの著書『自走する組織の作り方』から文章を紹介します。
質問を受けたときに、何と言ってあげられるか…。本当に相手のためになる言葉とは何かを考えるきっかけをいただけるお話です。

廊下のベンチに腰を下ろして、一人の男子生徒が落ち込んだ表情をしていました。
その表情が気になって隣にそっと腰掛けました。
「元気ないな、どうしたよ?」彼は担任の先生とのやりとりを話してくれました。
「受験する高校の行き方とか、お金がどのくらいかかるかとか知りたくて先生に聞いたら、叱られたんだ」「へえ、なんて?」「そんなの自分で考えろって」ここだけを聞くと、なんて冷たい先生だろう?と思うかもしれません。でも僕らは案外実生活の中でも「自分で考えろ」という言葉を使いがちです。それはなぜでしょうか?調べればわかることをよく調べもせず尋ねてくる人がいます。リーダーは他者より多くの案件を抱えている人が多いですから、忙しいときに尋ねられれば「そんなの自分で考えなさい」と言いたくなる気持ちもよくわかります。ただ「自分で考えなさい」と言われた人だって考えています。でも、その人の能力では答えに辿り着けなかった。だから相談してきたのです。
以前、地方に講演で呼ばれたときのことです。参加される女性から、問い合わせのメールが届きました。「講演会の会場の近くに美味しい食事場所はありますか?教えてほしいのですが」それこそ「自分で考えなさい」という内容です。もちろん無視したっていいのですが、きっと考えてもわからなかったのだろうなと思いました。ここで大切なことは「美味しい食事場所を調べて情報を送ってはいけない」ということです。それをしてしまうと「困ったらメールを送ればいい」と学習してしまいます。次はきっと「どうやって行けばいいですか?」「どのくらいかかりますか?」「コンビニはありますか?」と全部聞いてくるでしょう。ですから「答え」を教えるのではなく「答え」に辿り着く方法を教えるようにします。僕は某有名グルメランキングサイトのURLを貼り付けて「こちらで調べるといいですよ」と返信しました。彼女からは「親切に対応していただき、ありがとうございます。調べてみます」と返事がありました。彼女が知りたかったのは「美味しいレストラン」ではありません。「美味しいレストランの調べ方」だったのです。
前述の生徒も同じです。「自分で考えなさい」ではなく「こうすれば答えに辿り着けるよ」という情報を与えてあげれば解決できた話なのです。「教室に一冊ずつ受験ガイドって本があるの、知ってる?」と伝えると、彼は首を縦に振りました。「あそこに知りたい情報が載ってるから、一度見てごらん」と伝えました。彼の表情はパッと明るくなって、教室に戻っていきました。ほんの3分間の出来事です。
リーダーは「答え」を与えてはいけません。「答え」を与えると「困ったら聞けばいい」となり、考えない人を育てます。だから「答え」に辿り着くための「方法」を教えます。ではなぜ「自分で考えなさい」という言葉もまた、考えない人を育てるのでしょうか。実は彼らだって自分なりに考えたのです。でも自分では「答え」に辿り着けなかったからリーダーに相談をしました。そこで「自分で考えなさい」と突っぱねられたら、彼らは当然「相談しなきゃよかったな」と思います。「相談しても無駄だった」という経験だけが残ります。受験校の情報が知りたいと思い、調べてみようと行動した彼にとって、自分で考え自分で行動することが苦い経験として残ってしまいます。その経験が、自分で考えて自分で行動しようとするエネルギーを枯渇させてしまうのです。次にわからないことができたとき、(まあいいか。叱られたくないし…)となってしまうわけです。相談されたら「このサイトで調べるといいよ」「この人に聞くといいよ」「この本を読むといいよ」と教えてあげます。Googleで調べたらすぐにわかることを尋ねてくる人もいます。そんなとき「Googleって知ってる?」と嫌味も込めて伝えていたのですが、それでも答えに辿り着けない人がいて驚きました。よくよく観察してみると「検索ワード」がわからないのです。だから「検索ワード」もセットで教えてあげることを心がけました。「答え」ではなく「答えに辿り着く方法」を教えてあげる。これが正解です。「自分だったら、この人の疑問に対してどのように答えに辿り着くだろう?」と問いかけてみると、「自分で考えなさい」とは異なる言葉がけが見つかります。困ったとき寄り添ってくれるだけでなく、成長までさせてくれるリーダーのことを信頼しないはずがありません。
(『自走する組織の作り方』くればやしひろあき著 青山ライフ出版発行 より引用しました)





  

Posted by 守綱寺 at 09:57Comments(0)本堂に座って

2023年09月13日

本堂に座って 2023年9月


今月も先月に引き続き、くればやしひろあきさんの著書『自走する組織の作り方』から文章を紹介します。
同じことについて話しているはずなのに話がかみ合わない…原因は案外こんなところにあるのかもしれません。

中学生になったばかりの妹に、中3になった兄が尋ねました。
「今度、はじめてのテストだろ? 学年順位は何番が目標?」 
「そんなの1番に決まってるじゃん?」
「あのなぁ……、1番を取ろうと思ったら、そんな勉強時間じゃダメなんだぞ」 
「はあ? お兄ちゃん、なんかウザいし」
このやりとりがなんだかおかしくて印象に残っています。
目標という言葉の意味は、実は人それぞれ違います。
まだ彼が中学校2年生だったころ、「学年順位30位」という成績表を持ってきました。
妻がそれを見て、次の目標を尋ねると、「次は35番くらいかな」と言うのです。
妻はガッカリしながら
「何を弱気なこと言ってるの。せっかくだから、25位とか20位とか、上を目指しなさいよ」
それを聞いて、長男は
「なんで?」という表情を浮かべています。
それで僕は彼に「35番」を目標にした理由を尋ねました。
「だってさ、父ちゃん。テストが終わったらすぐに部活の大会だからさ、テスト週間中も練習があるんだ。いつもみたいにテスト勉強できないし。それに、今やってる化学の分野があんまり得意じゃないんだよね。だから、順位は下がると思うけど、でも下がっても5番くらいかな、って思ったからさ」と教えてくれました。
彼は僕と同じように「できないこと」は言わないタイプの人間です。
達成する見込みがあるから「目標」なのです。
「できない自分」は好きではありませんから、目標は「できる範囲」を示します。
他の人には「目標設定が低い」と感じられますが、彼にとってそれは「ノルマ」のようなものです。
一方、妹は違います。「目標」はあくまで「目標」。
できるかどうかはどうでもいい。「こうなったらいいな」が「目標」なのです。
「夢」と呼んでもいいかもしれません。
壮大ですから、達成されないことが多い。
ですから、妹は「1位」を目標にし、兄はそれを聞いて「そんなの無理」と言う。
「取れたらいいな」ぐらいの妹にとって、「目標に掲げたなら努力しろよ」と言う兄は、やっぱりウザかったわけです。
言葉の解釈が異なりますから、会話がまったく噛み合わないのは仕方がありません。
職場でアンケートがありました。提出期限は3日後。もちろん期限を守って提出しました。
ところが、です。
4日目の朝を迎えてもアンケートの回収袋がそのまま残っているのです。
僕は尋ねました。
「アンケートって昨日までじゃないの?」すると、アンケートの担当者がこんなことを言い出します。
「提出期限を言っても出さない人がいるんですよね。だから、期限を前倒ししていて。一応、明後日までに出してくれれば大丈夫です」 
「期限」を守った僕からすると、(守らなくてもよかったのか…)という気持ちになります。
次回からはきっと(まあ、遅れてもいいか…)になるでしょう。
それから2日が過ぎましたが、案の定提出しない人がいて、一人ひとりに督促の声かけをしていました。
期限は守るためにあります。
提出の目安なのか、それとも期限なのか。こういうことを共通理解しておかないと、組織の中に期限を守らない文化ができあがります。
このような文化が、成果を出さない緩い組織づくりにつながります。
「目標」や「期限」などに対して、リーダーがいいかげんでいると、組織は弱体化していきます。
それはなぜでしょうか。組織の活動の推進力となるのは、「目標」を掲げたらそれを達成しようとするタイプの人間であり、「期限」を掲げたらそれを守ろうとするタイプの人間です。
大きな成果をあげるわけではありませんが、コツコツとコンスタントに成果を出し続け、それが組織の成果の底上げをしてくれます。
そのようなタイプの人間に「ちゃんとやって損した」と思わせてはいけないのです。
彼らは損得に敏感です。
「計画」や「スケジュール」も同様です。
コロコロ変える人と、変えてはいけない人がいます。
基本的に成果を出すタイプの人は、コロコロ変えられると、「あれはなんだったのか?」という気持ちになります。
変えるなら、「変える理由」を明確に伝えて納得させることです。
こういった言葉は、普段何気なく使っていますが、実は人によって受け止め方や解釈が違うことがあります。
言葉の理解について、きちんと共通理解をしておきたいものです。
(『自走する組織の作り方』くればやしひろあき著 青山ライフ出版発行 より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 11:51Comments(0)本堂に座って

2023年09月13日

本堂に座って 2023年8月


元教員で組織マネジメントをサポートする活動をされているくればやしひろあきさんの著書『自走する組織の作り方』を読みました。
組織を上手く運営する方法が書かれているのですが、実は一人ひとりの考え方が大切なのだと気づかされます。

僕らは自分のことすらコントロールできないのに、なぜか他人のことを意のままにコントロールしようとする傲慢な生き物です。
「もっとこうしてよ」「もっとああしてよ」と人を動かそうとし、意図通りに動いてくれない人間にイライラします。
人間は、その人自身が「行動すること」を選択して初めて行動してくれます。
だから、従来型の組織は上意下達型の組織でした。
指示や命令をして、それを選択するという選択肢しか用意しませんでした。
簡単に言えば、考えなくてもいい状態を作ってあげていたのです。
その一つの手法が「マニュアルをつくること」です。
マニュアル通りに動けば、一人ひとりが考えなくても、誰もが同じクオリティーの仕事ができるようになるわけです。
このように人を動かしてきた結果、この国には、「自分で考え自分で行動できない人」がどんどん量産されていくことになりました。
僕が自走する組織をつくろうと考えたとき、最初に手放したのは指示や命令でした。
 でも、最初からうまくいったわけではありません。それはまだ僕が若いころの話です。
下校時刻になったのですが、どうしても生徒指導で手の離せない案件があり、通りがかった学級委員の女の子に「ちょっと先生、教室に行けそうにないからさ、あとは頼んで良いかな」と伝えました。
彼女は「わかりました」とニッコリ微笑み、教室に駆け足で向かいました。
30分ほどして(もう下校しているだろう…)と思いつつ教室に向かいましたら、何やら騒がしい。扉を開けてみてビックリ。
なんとフルーツバスケットが始まっていたのです。
(これは一体…?)と口をあんぐりさせている僕に、学級委員の二人が意気揚々と「先生が来るまでみんなでゲームをしてました」と報告してくれました。
他のクラスは全員帰っており、教室も廊下も静まり返っています。
彼らなりに自分で考えて自分で行動してくれたのですが、(違う、違う、そうじゃなぁい!)と心の中で叫びました。
そこからは試行錯誤の連続です。
指示や命令を手放すだけでは自走する組織にならないのです。
一人ひとりの人間が変わり始めたのは、それぞれが「問い」をもてるようになってからでした。
先ほどの例で言えば、「他のクラスは下校しているけれど、レクをしていて大丈夫だろうか?」という「問い」を持つ人がひとりもいなかったことが原因でした。
もしかしたら、その「問い」を持っていた人もいたかもしれませんが、それを言葉にできなかったのです。
つまり、組織として「問い」を共有できなかったことが課題でした。
考えない人は「問い」を持たないまま思考停止しています。「問い」を持てる人は自分で考え答えを導き出します。
その答えが行動につながります。
「今どうしたらいい? できることはない?」と常に「問い」を自分で生み出すことができる人を育てなければ、自分で考え自分で行動できるようにはならないのです。
自分で「問い」を持つ → 自分で答えを出す → 答えに従い自分で行動する
このサイクルで人は自発的に行動します。
答えの良し悪し、正解不正解は別にして、何らかの答えに辿り着く。
だから、行動できるのです。
考える人を育てるために、最初は「問い」を持たせるところからスタートしました。
与えるべきは「答え」ではなく「問い」なのです。最初の問いはいつだって「どうしたい?」もしくは「何ができそう?」です。
「どうしたらいいですか?」「何をしたらいいですか?」と尋ねてくるたび「どうしたいですか?」「何ができそうですか?」と問いかけます。
そして、出した答えを承認し続けます。
「いいね、やってみて」「なるほど、じゃあよろしく」その答えが僕の意に反するものでも構いません。とにかく問いかける。
そして、答えを承認して行動させる。すると、そのうち気づき始めるんです。
「どうしたらいいですか?」「なにをしたらいいですか?」って聞いたところで、この先生は「どうしたいですか?」「何ができそうですか?」しか言わないことに。
その頃になると、だんだん自走する組織になってきました。
気づいた頃には、僕自身が指示や命令を手放していることに気づきました。
指示や命令を手放すことが大事なのではありません。
みんなが自分で考えるようになったから、指示や命令が必要なくなったのです。
(『自走する組織の作り方』くればやしひろあき著 青山ライフ出版発行 より引用しました)


  

Posted by 守綱寺 at 11:40Comments(0)本堂に座って

2023年09月13日

本堂に座って 2023年7月


今月も先月に引き続き、JAF(日本自動車連盟)から発行されている機関誌『JAF Mate』の連載「幸せって何だろう」から、文章を紹介します。
今回は、戦火のウクライナから日本へ避難されたズラータ・イヴァシコワさんの文章です。
突然奪われた日常と死と隣り合わせの日々から気づかされる幸せとは何かを書いてくださっています。

当たり前の幸せ
昨年の2月24日、私の人生は大きく変わることになりました。
愛する故郷ウクライナがロシアからの侵攻を受けたことによって、普通の生活が立ち行かなくなってしまったからです。
それまでの私は、毎日何事もなく平穏に過ぎていく暮らしを特にありがたいとも思っていませんでした。
それどころか、そんな日常に少々退屈し、いつか必ずここから羽ばたいて夢を実現させようと、そんなことばかり考えていました。
自分に都合のよい変化を思い描いては「いつか今よりも幸せになろう」と胸を高鳴らせていたのです。
私の夢とは、故郷での基礎的な勉強を終えたら、大好きな日本に留学して漫画家になることでした。
母に負担をかけないように自分で費用を工面できたら、いつかそんな日が来たら必ず実現させよう、それが私の心の支えでした。

“変化”は突然やってきました。
ただし、それは私が想像していた類いのものではなく、不気味な空襲警報と爆撃音、死と隣り合わせの恐怖とともにやってきたのです。
自分の人生が戦争と関わることになるなど、考えたこともなかった私は、今日一日の命があることの大切さを、初めて身をもって痛感したのでした。
それまで当たり前にあったものが一瞬で消え失せてしまいました。
人は失って初めて、そのものの大切さに気づくといいますが、本当にそのとおりです。
朝目覚めて学校に出かける。
授業を受け、友達と笑い合い、帰宅して家族と過ごし、温かいベッドで眠る。
ただそれだけの、あれほど退屈に思えた日常のどれもが、どれほどかけがえのないものだったか、どれほど素敵で恵まれたものだったか、身に染みてわかったのでした。
その後、母の後押しを受け、多くの方々の支援を得て、紆余(うよ)曲折のすえ、ポーランド経由で日本に避難できた私は、今、かつて夢見た日本での生活を送っています。
思いがけない形ではありましたが、夢は徐々に叶(かな)いつつあります。
けれどもその夢はかつてのようにフワフワしたものではありません。
来るか来ないかわからない明日に幸せを託すのではなく、今日この一日を精一杯に生きることこそ幸せなのだと、今は痛いほどわかるからです。
かけがえのない人たちと一緒にご飯を食べ、学校へ行く。
帰宅したら宿題を片付け、お風呂に入る。そんな毎日です。
でも、眠るときに「明日も目覚められるかしら?」なんて心配はしなくてもよいのです。
そんな当たり前の日々が、とてもありがたく、幸せなことに感じられます。

今この瞬間、瞬間を、精一杯自分を出し切って生きる。それができたならもう十分。
それ以上に望むことなどありません。
それが私にとっての幸せです。
そもそも、生きていることそのものが「何ものにも代えがたい最大の幸せ」なのです。今の私は心からそう思っています。
(『JAF Mate』2023年春号 JAFメディアワークス発行より引用しました)

「失って初めて、そのものの大切さに気づく」とはよく言われることですが、“死と隣り合わせ”という状況から身に染みて感じた幸せは、やはり“何ものにも代えがたい”ものだと思います。
こうした文章を読んで「わかったつもり」になるのではなく、想像力をはたらかせて“当たり前の幸せ”を心から感じたいものです。

  

Posted by 守綱寺 at 10:57Comments(0)本堂に座って

2023年06月10日

本堂に座って 2023年6月



JAF(日本自動車連盟)から発行されている機関誌『JAF Mate』には、「幸せって何だろう」というテーマの連載があります。
毎回、さまざまな分野の方がご自身の“幸せ”についての考え方・日々の生活で感じる“幸せ”について書いておられます。
たまたま目にした小山薫堂さんの文章を紹介します。

幸せの閾値(いきち)
子供の頃、ゴーカートが大好きだった。ある日曜日、父親の運転で遊園地に向かう車内での出来事。
渋滞に巻き込まれて疲れ切った表情でハンドルを握る父親に、8歳の僕は熊本弁でこう言った。

「これからゴーカートに乗るとに、どうしてそぎゃんつまらん顔ばしとっと? 嬉しくなかとね?」
すると父親は冷静にこう返してきた。
「お父さんはな、ゴーカートよりも速く走れる車ばここまで運転して来たとよ。だからもうこれ以上、運転はせんでよか。ゴーカートには乗らんけんね」
何てつまらない人間だろう、とその時は思った。
ゴーカートに乗る……それは8歳の自分にとって最高に幸せな時間だった。
「閾値」(いきち)という言葉をご存じだろうか? 簡単に言うと「刺激を感じる境目となる値」を意味する学術用語である。
嗅覚の閾値を例にしてみよう。
ニンニクを臭いと感じるのは、閾値を超えるから。
その瞬間、ニンニクを臭いと感じる閾値は上昇するらしい。
よってニンニクを食べた本人はその臭さをあまり感じなくなる。食べていない人がそこに来ると、すごく臭いと感じるのは、閾値が正常のままだから。
それと同様に幸せにも閾値がある、と僕は思っている。
子供の頃はゴーカートに乗るだけで幸せを感じるのに、大人になると本物の車でなければ幸せを感じなくなる。
それは明らかに、幸せの閾値が上がったからだ。最初はどんな車でもワクワクしていたはずなのに、徐々にもっといい車が欲しくなっていくのも、閾値が吊り上がっていくからに他ならない。
自分の幸せの閾値を保つ、もしくは下げる! それこそが、自分が常に幸せでいられる秘訣だと思う。
あらゆる閾値が低かった子供の頃の幸せを思い返してみると、実は今の自分が手に入れられる幸せがまだまだたくさん存在していることに気づく。幸せは探し求めるものではなく、気づくものなのだ。
先日、84歳になった父親から久しぶりに電話がきた。免許を返納することにしたと言う。
その声はとても淋しそうだった。50年ぶりに父親とゴーカートに乗りに行くのも悪くないと思った。
(『JAF Mate』2022年夏号 JAFメディアワークス発行より引用しました)

初めのうちは「幸せ」と感じていたことが、いつしか当たり前になって(=閾値が上がって)しまって、幸せを感じられなくなってしまう…。
小山さんの「幸せは探し求めるものではなく、気づくもの」という指摘は、私たちの日常を見事に言い当ててくださっています。
“幸せの閾値”を確かめてみると、日常の中に気づかずにいた「幸せ」をたくさん見つけられるのだと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 11:00Comments(0)本堂に座って