2019年05月19日

本堂に座って 2019年5月



先日、あるお寺さんの寺報を開いて、とても久しぶりに小沢牧子さんの文章を目にしました。
10年ほど前に講演会でお話を聞き、また『子どもの場所から』という本を何度も読み返し、子どもたちとの接し方にとても貴重な助言をいただいた、そんな中から、こちらの文章を紹介します。

雨あがりの午後のこと、あたたかな陽ざしのなかを、ひよこ色のセーターを着た一歳の息子と出かけ
息子はいま、よちよち歩きをはじめたばかりの人間初心者である。
とつぜん彼が道ばたにしゃがみこんだ。
何かに見とれている。
私もつられて彼の隣にしゃがんで、いったい何があるのかとのぞきこんだ。
道ばたにはむき出しの排水溝があって、そこを流れる水に、子どもは一心に見入っているのだった。
わずかにくだるゆるい坂道に沿ったコンクリートの細く浅い水路に、きらめく幾何学模様を描いて、澄んだ水が勢いよく流れていた。
粗い舗装のきめが作る砂利の凹凸が規則正しい水の菱形模様を生み、陽をあびて光りながらどこまでも続いていく。
それは思いもかけない美しい世界だった。
私は驚いた。毎日急いで通りすぎていたなじみの道とありふれた風
そのなかに、小さな雑草の列にかくれて、水が絶えまなく描きだすこんな光景が広がっていたとは。
たまたま小さな子どもにつられてのぞきこむことがなかったら、決して気づくことのなかった視界だ。
大人になった人間にとって、道はただ歩き過ぎるための場所なのだから。
もし大人が道ばたにひとりしゃがんで溝をのぞきこんだりしていたら、どうしたの、気分が悪いのですかと、通りかかった人にたずねられてしまうだろ
まだ人生をはじめたばかりの子どもにとっては、毎日が新しさの連続だ。
だから子どもの目はたいてい、大きく丸くひらかれている。
大人は子どもを抱き上げ遠くを見せ、鏡をのぞかせ笑わせなどしては、子どもが生まれてきたこの世の中を見せる。
しかし大人が子どもにするのとおなじように、子どももまた大人の世界を揺るがせ、広げ、おどろかせ、楽しませるのだ。
文字どおり、おたがいさまに。
子どもと暮らすことは、人生を二度生きることだなあ、といつも思っていた。
自分もこんなふうにしておとなになったのか、人間誰もがこんなふうにして育っていくのか、と。
おとなになって当たり前になっていることでも、子どもにはすべてが新鮮だ。
虫を見つけても木の葉が落ちても雪が降っても、どれもはじめて出会うことばかりなのだから。
道ばたの石ころさえも。おとなの生活になぞらえれば、いわば毎日、新しい国を旅行しているようなものだ。
日常に飽きることなど、あるはずがない。
おとなは、自分にとっては見慣れた日常を、子どもに連れられてもういちど旅するのだ。
「そうか、なるほどね」と、あらたに発見し、おもしろがりながら。
ときどき、若い母親たちのための講座に招かれる。
「毎日おなじ生活で、子どもが飽きるだろうから、どこかへ連れていってやりたい」という若い親がいた。
わたしは、「小さな子どもはなんでも珍しいのだから、子どものためにわざわざ連れ出さなくてもいいのじゃない?親をやるのは疲れることだから、あなたが行きたいところへ連れていって、自分のやりたいことにつきあわせるなら別だけれど」と言った。
「ああそうか、子どもはおとなのすることをなんでもやりたがりますものね、生活に飽きるなんておとなの考えなんですね」と、その人は答えてくれた。
「おなじ絵本ばかり読んでほしがるんです。
いろいろな本を読んであげたいと思うのだけれど」と言う人もいた。
「自分のお気に入りができたのね、その絵本をいっしょに楽しんであげたら子どもはきっとうれしいでしょ」と、わたしは言った。
なんだか先輩づらばかりしているな、と苦笑しながらも。
でも、一方的に意見を言うばかりではない。
世代のちがうわたしは、考え迷いながら現代を生きている若い親たちから、いつもたくさんのことを学ぶ。
小さな子どもと、若い親、その親世代、みんな順繰りおたがいさまに、子どもを仲立ちにして教わりあい、子どもをきっかけに、考えあっていく。
暮らしの問題、社会のしくみ、時代と世界のありよう。
おとなは子どもを介して、日々いやおうなしに考え、いつのまにか自分たちの視野をひろげ、考えを深めていく。
子どもはいつの世も、おとなの無心な案内人だ。
(『子どもの場所から』小沢牧子 著 小澤昔ばなし研究所発行 より引用しました。)

近所の新1年生の男の子は、下校の際にふと立ち止まっては虫や花を見ているそうです。
通学班長の在ちゃんは、並んで歩かせるのに一苦労の様ですが、この文章を読んで、こんな子どもらしさを大事にしてあげたいなぁ、と感じました。

  

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2019年05月19日

清風 2019年4月



にんじん(人参)よりは、
だいこん(大根)がいい

人身(にんじん)受け難し、今すでに受く
(「三帰依文」冒頭の言葉)を聴いた、幼児の発言




お勤めの前には「三帰依文」を読むのですが、寺では家族が揃いやすい夕食の前に夕時勤行をすることにしています。
孫の在ちゃんが、まだ保育園入園前後の頃だったと思います。
「三帰依文」の最初の言葉「人身受け難し、いますでに受く」の「人身」を「にんじん」と詠み慣わしていますので、いつものように「にんじんうけがたし…」と読み、終わったところで在ちゃんが「おじいちゃん、にんじんは苦いし臭いも好きじゃないから、私は大根がいい」と言いました。

仏教の言葉は、中国の呉の時代の読み方をすることがあります。今の日本では
ふつう「人身」は「じんしん」と読みますが、三帰依文の読み上げは、仏教の伝
統的な読み方 ― 呉音読みで「にんじんうけがたし…」と詠み慣わしています。

その時は、その在ちゃんからの「異議申し立て」に可愛いな…と思ったぐらいに聞き流していたのですが(在ちゃんもこの4月から6年生です)、先日あるところでの法話にうかがって、この「にんじんよりは、大根がいい」という発言を紹介しながら、初めて何気なく「大根」と板書しました。
話としてはこれまでにも紹介していましたが板書したのは初めてで、「大根」と書いてみてあらためて気付いたことがありました。
それは、大根の「根」の字についてです。
『大辞典』には、「根本原理、根本となり動かすべからざる原理」
『広辞苑』には、「根、よりどころ。物事のもと」
などの意が出ていました。
「大根(だいこん)」は、「大きい」というか「深い」というか、そういうメッセージの込められた言葉であるということです。
「根」そのものが、そういう意味を持つのでしょうが、それにたまたま「大」の字が付いて「大根」と。

考えてみると、どうでしょうか。
私ども、人間の生きているという営みは、要するに一言で言えば、言葉そのものの表現している「大根(根本となるよりどころ)」を求めて…ということになるのではないでしょうか。
いわゆる、人間の営みの集積である歴史というものは、洋の東西を問わず、大根(根本となるよりどころ)を求めてきた歩み(=歴史)と言えるのではないかと思うのです。
人間の歩み(歴史)とは、本当に安らげる ― 不安・不平・不満の無い、過去には感謝・現在には満足・未来には希望を持てる ― 社会・国を求めてきたのです。過去の先人達も、結果(というか評価)は様々に分かれるでしょうが、その時代にあっては「自分の国を愛するのに、どうして他人の国を憎まねばならぬ必要があろうか」〔中野重治 作家〕との発言もあるのですが、結局は治安維持法などで、そういう発言は認められず、愛国という(正義の?)旗印を立てて“鬼畜米英”という結果になって、殺し合いをしてしまいました。

「私には、敵は いない」(劉暁波(リュウ・シャオ・ポー) 1949年~2017年 2010年ノーベル平和賞受賞)この言葉はリュウ氏の遺言として一考しなければならないのでしょう。

次に安田理深(1900年~1982年 思想家)は、師・曽我量深のその生涯にわたる念仏についての思索を、「念仏の仏教を、単なる救済でなく、自覚自証の途としてみなおしてくるところに革命的な意義がある。」と言い、「よく考えれば、宗教を救済としてのみ見るのは、人間の自己肯定である。」、それなら「根元的意味でのエゴイズムである。それを破って、人間をして深い根元に呼びかえす、自覚こそ宗教の本質でなくてはならぬ。」(『清風』2018年11月号1面の言葉参照)と述べています。

さてあなたは、生きる上で何を「大根(根本のよりどころ)」として生きていますか? 
これらの先人のご苦労を手引きとして、上に掲げた問題意識(「大根」)を考えていきたいと思います。
4月14日(日)午後1時開演、花まつり チャリティ 筍コンサート。
皆さま、どうぞお出かけください。
  

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2019年05月19日

本堂に座って 2019年4月

 

しばらく前に購入していながらなかなか読めていない、という本(積ん読というそうで…)が何冊もありますが、ようやく開くことができた本『生きる職場』について紹介したいと思います。
この「職場」・パプアニューギニア海産では、「好きな日に働き、好きな日に休む。好きなことを優先させ、嫌いなことはやらない。」という働き方が採り入れられています。
その働き方の内容や発想の原点は、次のようなものです。

はじめに取り入れたのが「フリースケジュール」という制度です。
毎週決められた曜日に出勤するという、これまでの会社の常識を変えるところから始めたのです。
要するに「好きな日に出勤すればよい。連絡の必要はありません」というだけのことなのです。
うちの工場で働いているパート従業員は子育て中のお母さんたちです。
そんなお母さんたちが働きやすい職場をと考えたときに、僕が真っ先に思いついたのが「好きな日に休める会社」でした。
小さな子どもがいつ熱を出すかいつ怪我をするか、運動会や授業参観といった学教行事だって頻繁にあります。
そんな時、会社に気兼ねせず心置きなく休むことができたらどれ程いいだろうと考えたのです。
もう一つ、僕たちの工場では、「嫌いな作業はやらなくてよい」というルールを作っています。
人はそれぞれに好き嫌いがあり、得手不得手があります。
それは仕事でも同じはずです。
当然、嫌いな作業を担当することになれば、嫌な気持ちで仕事をすることになりますし、自分が好きな作業をほかの人ばかりがやっていれば、その人に対しての不満が募ります。
ですから、こういった個々の向き不向き、好き嫌いの多様性を仕事の中に取り入れられたら、さらに働きやすい職場が実現できると考えたのです。
それが「嫌いな作業はやらなくてよい」というルールです。
僕は従業員に「早くして」とは言いません。しかし「一生懸命やってください」とか「集中してください」と言うことはあります。
似たようなニュアンスに感じるかもしれませんが、これは全く違う言葉です。
人には得手不得手がありますから、一生懸命やって遅いのは問題だと思いません。
じゃあ遅い人がいたらどうすればいいのかというと、その人を急かすのではなく、その遅い人が少しでも早く仕事ができる、またその人が力を発揮できるような職場環境を整えるということが必要です。
このルール作りからも分かるとおり、働きやすい職場を作っていくには、これまでの常識からの発想の転換というものがとても重要になります。以前は、午前中だけ働いて帰ることを「自分の都合を優先させて楽をしている」と考えていましたが、今は「午後に用事があるのに午前は来てくれた」と考え方が変わったのです。こうした発想の転換を起こすためには、まずやってみることです。実際にやってみると、それぞれの立場においての感情が出てきます。ある意味では、それが発想の転換に繋がるかどうかの答えなんだと思います。考えすぎずに、これはいいかなと思ったことは、まずやってみて、その結果が出たときの自分の気持ちが、ポジティブなのか、ネガティブなのかを見極める。ポジティブに感じたことを素直に受け止めて、これまでの習慣にとらわれず、変えるべきものは変えているにすぎないのです。
働き方を考えることと、子育ては似ています。
縛らず、強制せず、自分の力を出せるようにサポートし、仲間や友達と仲よく協力する、そのためにちょっとした秩序を作る。
そんな感じでしょうか。結局、子どもの世界や学校で問題になっていることは、大人の世界が鏡のように映し出されているだけなのではないかと僕は思っています。
過去にはうちの職場でもいじめがありました。
しかし、会社が働きやすい職場を目指して努力することによって、なくすことができました。
もし多くの会社でいじめや差別をなくすことができれば、その心地よさを実感した大人は子どもにも、心地よい社会や学校になるような知恵を与えていけるのではないでしょうか。
子どもの世界が大人の世界の映し鏡だとするならば、今の大人たちはそのような知恵や心地よさを持ち合わせていないのかもしれません。子どもは大人の背中を見ているのです。
(『生きる職場』武藤北斗 著 イースト・プレス発行 より引用しました。)

これらの働き方は「人を縛り、管理し、競い合わせる、今の会社や社会のあり方が、果たして正しいのかという疑問」が出発点で、結果として、効率・生産性・品質向上につながったのだそうです。
“管理”することが当たり前だと思っている、その当たり前を疑うところから、働き方も子育ても見直していけるのだと思います。

  

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2019年05月16日

本堂に座って 2019年3月



ののちゃんが帰って早2ヶ月ほどになりますが、もう一つ、ののちゃん滞在中にふと考えたことについて書いてみます。
来た当初から言葉をよく知っていてしっかり会話ができるののちゃんは、言葉の覚えも早く、また言葉の使い方も状況にぴったり合っていて、関心するほどです。
そんなののちゃんなので、当然「発する言葉=自分が言われている言葉」になります。
時々、ののちゃんが大人と同じ言葉を使うことを「ののちゃんは○○って言ってね」と注意されているのを見て、思い出したのが三谷宏治さんの本でした。

「脱ワンワード週間」でケンカが減る
ワンワードとはその名の通り1つの単語です。
ここでは子どもたちがよく使う「イヤ」「ムリ」「びみょ~」などを指します。
「水」とか「くつ」とか名詞だけで要求を伝えるのも同じです。
そういったワンワード・コミュニケーションを禁止するのが、この「脱ワンワード週間」です。
脱ワンワードとは、逆に言えば「文章で話す」ということです。
5W1Hをハッキリさせて会話するということです。
これで、兄弟喧嘩が減ります。言葉づかいが良くなります。
子どもとの会話が増えます。
そのためには、2つの努力が必要です。
①親自身がワンワードにならないこと、
②子どもから「くつ!」と言われたら、「お母さんは靴ではありません」と言い返すこと。
ちょっと面倒ですが、でもたったそれだけです。

親が変わる① 自らが、気をつける
「脱ワンワード週間」をやりはじめて、すぐ変わるのは子どもではなく、実は親たちです。
自分たち自身がどれほどワンワード・コミュニケーションになっているか、すぐ気がつくからです。
朝は「起きなさい」「食べなさい」「早く!」「急いで!」、夕方は「宿題しなさい」「後片付けして」「お風呂!」「寝なさい」……。
当然、脱ワンワード週間をはじめれば、子どもたちは親のそんなワンワード・コミュニケーションを指摘もしま
「お母さん、それワンワードだよ」と。
みなさんがそうだったように、子どもたちは親の話し方を、驚くほどマネるものです。
特に悪いほうは、迅速かつ忠実に…。
まずは、親自身が5W1Hで話すことからはじめましょう。

親が変わる② 察しの悪い親になる
次女は保育園児の頃、ワンワードどころか0.3ワードくらいで生活していました。
「だい」がちょうだい、「い」が欲しい、「ない」が要らない、そんな調子です。なぜかというと、2歳上にとても察しのいい姉がいたからです。
でも多くの親は、さらに先回りまでします。
子どもが話す前に、いや、下手すると考える前に、経験を積んだ親たちは「きっとこうだろう」と理解し準備を整えます。
それこそが、子どもの思考力やコミュニケーション力を奪っているとは気づかずに。
察しのいい親たちは、子どもが「くつ…」と話しかけてきただけで、「洗って干しておいたわよ」と即答してしまうのです。
ちょっと待ってください。もっと察しの悪い親になって、子どもの思考と言葉を引き出してください。
「くつ」と呼びかけられたら当然「私は靴ではありません」と答えましょう。
「くつが汚れた」と言われたら「だからどうしたらいいと思う?」と問いかけましょう。

親が変わる③ 子どもの機嫌に左右されず少しがんばる
親にとって、なにより面倒なのは「子どもの機嫌の悪さ」でしょう。
でも、少しガマンして続けてみてください。
子どもの「めんどくさい」という不機嫌に、そのまま乗っかることなく、しばらく無視しましょう。
「そうだよね~、面倒だよね」と受け流すのです。
それでも面倒がる子どもに対しては、その意義を説きましょう。
そして、少しでも努力を見せたなら、それをきちんとほめることで達成感を持たせましょう。
人間の、自発的なやる気の素は「有能感」と「対人交流」です。
やればできる、と思えること。
そしてそれが自分と関係の深い人に認めてもらえること。
その2つが子どもに「自らやろう」という気持ちを起こさせるのです。
そして「めんどくさい」の壁を、親子で乗りこえましょう。
(『親と子の「伝える技術」』三谷宏治 著 実務教育出版発行 より引用しました。)

本では、子どもが変わる点として①みんななかよしになれる、②部屋がきれいになる(!)と続き、親子でコミュニケーション力を磨く実践方法が書かれています。
まず自分がどんな言葉を投げかけているかを見直してみて、今更ながら“察しの悪い親”になってみようかと思います
(察しの悪い“夫”はダメでしょうね…)


  

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2019年03月01日

本堂に座って 2019年2月



昨年9月中頃から3ヶ月半の間、里帰り出産のため一緒に過ごしてきた姪っ子ののの葉ちゃんが、正月明け早々に東京へ帰っていきました。
すっかり「台風一過」という感じですが、これだけ長期間一緒に過ごしていると、どことなく寂しい感じも漂います…。
2歳半のののちゃんの一つひとつの行動に悪意があるはずもないのですが、その一挙一動にやきもきしたりイライラしたり…。
それでも良くないこと・してはいけないことをした際には、それぞれ気づいたところで注意します。
そんな中で誰からともなく聞こえてきたのが「ごめんって言いなさい」の一言。
この言葉を聞いて、以前読んだ『反省させると犯罪者になります』という本のことを思い出しました。

これまでみてきたように、反省させると後々にまずいことになるのが理解していただけたかと思います。
問題行動を起こしたら、「すみません。ごめんなさい」と謝罪して、2度と過ちを犯さないことを誓う。
これが学校現場だけでなく、家庭でも社会でも普通に行われてきた方法なのです。
しかし、これでは問題を先送りするだけなのです。それももっと悪化させた形で。
反省させるだけだと、なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることになりません。
言い換えれば、反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っているのです。
問題を起こすに至るには、必ずその人なりの「理由」があります。
その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになるのです。
この場合の「内面の問題に気づく」ための方法は、「相手のことを考えること」ではありません。
親や周囲の者がどんなに嫌な思いをしたのかを考えさせることは、たしかに必要なことではありますが、結局はただ反省するだけの結果を招くだけです。
私たちは、問題行動を起こした者に対して、「相手や周囲の者の気持ちも考えろ」と言って叱責しがちですが、最初の段階では「なぜそんなことをしたのか、自分の内面を考えてみよう」と促すべきです。
問題行動を起こしたときこそ、自分のことを考えるチャンスを与えるべきです。
周囲の迷惑を考えさせて反省させる方法は、そのチャンスを奪います。
それだけではありません。
寂しさやストレスといった否定的感情が外に出ないと、その「しんどさ」はさらに抑圧されていき、最後に爆発、すなわち犯罪行為に至るのです。
(中略)
ここまで本書を読んでくださった方は、問題行動が起きたときに最も大切なのは、「反省させないこと」であることは分かっていただけたかと思います。
反省させるのではなく、「なぜこの子(あるいは自分)は問題行動を起こしたのだろうか」と周囲の大人がいっしょに考える視点を持つことが必要です。
叱るとしても、その後でいいでしょう。
否、原因が分かると、多くの場合、大人の方に問題があることに気づき、自ら恥じ入る気持ちになるかもしれません。
しかし、それはそれで親子関係や生徒と教師の関係だけでなく、あらゆる人間関係にとってとても良いことです。
普通、問題行動を起こした子どもは、叱られるものと思っています。
そこで大人が、「今回、問題を起こしたことは、君がいい方向に向かうためのチャンスとしたい」と伝え、「今回、なぜこのようなことが起きたのか、いっしょに考えよう」と問題行動を起こした背景を子どもといっしょに考える姿勢でいることを伝えます。
(中略)
問題行動を起こした者に対して内面を見つめさせるために、手厚いケアをしないといけません。
「反省」という形を求めるのではなく、「更生」という視点を持つのです。
更生とは、字が示すように、「更に生きる(=立ち直る)こと」を意味するけで、「誤りを正す」という「更正」ではありません。
(『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹 著 新潮新書 より引用しました。)

「ごめんって言いなさい」と言われたののちゃんは、初めのうちは「ごめんなさい」と返事をしていましたが、しばらくすると「ごめんちゃ~い」と言うことも増えてきて、この本のことを思い出したのです。
本の内容としてはもっと年齢を重ねてからの話が中心なので、ののちゃんにはまだ少し早かったかもしれませんが、年齢に関係なく、「ごめんなさい」と言わせる前に、何がいけなかったのかをゆっくりじっくり伝え、一緒に考えることが必要なのだと、あらためて確かめ直すことができました。

  

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2019年02月23日

本堂に座って 2019年1月



そろばん・習字・ピアノと習いごと三昧で過ごしてきた在ちゃんでしたが、この冬、1級合格を機にそろばんを卒業することになりました。
習いごとの中でもそろばんは週3日通っていたので、そろばんを卒業できることは在ちゃんにとって(送迎する僕らにとっても)大きな肩の荷が下りた感があります。
時間に余裕ができる在ちゃんは、「これでやっと友達といっぱい遊べる!」と期待に胸を膨らませているのですが、そんな在ちゃんに対して、親の(勝手な)願望が沸々と沸き起こってしまいます。
開くん・誓くんは読書好きで、暇があれば(暇じゃなくても?)本を開いている子たちなのですが、何かと忙しかった在ちゃんは、本好きではあるもののじっくり読書にふけることがなかったように思えてしまうのです。
「せっかく時間ができるんだから、在ちゃんの読書時間を増やそう!」という親の勝手な願望を、いかに自然に(!?)在ちゃんに向けていこうか…と考え出した矢先、ネット上で「昔、娘と一緒に読んだ懐かしい本」と紹介されているのを見つけて、「これだ!!」と思う書籍に出会いました。
そのタイトルは『アリーテ姫の冒険』。内容よりも何よりもタイトルに打たれました。
在ちゃんに勧めるにはもってこいの本です(短絡的過ぎますが…)。
さっそく図書館で本を借りてきたのですが、この本、とても面白くて読みやすい内容というだけでなく、実はとても深い思い・願いの込められたものだということがわかってきました。
本の内容について適確にまとめられているコラムを引用させていただき、お話を紹介します。

お話の魅力はヒロインのアリーテ姫が読書家で賢く、前向きで得意分野を生かして難関を次々突破していくところ。
姫を殺そうとたくらむ魔法使いとその家来の意地悪さが巧みに描かれているため、姫が彼らをぎゃふんと言わせるたびに、子どもはもちろん、読んでいる私もすっきりした気分になります。
お姫様に王子様、良い魔法使いに悪い魔法使い、ヒキガエル、蛇、ネズミ、馬、そして不思議な宝石や水など、おとぎ話の要素をふんだんに盛り込みつつ、一般的なお姫様物語とは逆の世界観を提示していることに、大人はすぐに気づくでしょう。
ヒロインのアリーテ姫が闘う相手は、意地悪な魔法使いや娘に無関心な王に象徴される「女性差別社会」です。
読書好きでお城にあった本を片端から読破してしまい、賢くなって自分の意見を堂々と述べるアリーテ姫に、家庭教師は怒ります。
なぜなら家庭教師は、お姫さまは自分の意見を言うべきではない、と考えているからです。
王様は財産を増やすことに執心し、アリーテ姫がお金持ちの王子と結婚することにしか興味がありません。
挙句の果てに宝石と引き換えに娘を悪い魔法使いと結婚させてしまいました。
面白いのはアリーテ姫が、父親と結婚相手から酷い目に遭わされても、泣くことも落ち込むこともせず、前向きに物事にあたり、日々を楽しみつつ、欲しいものを手に入れていく描写です。
彼女は賢いがゆえに「結婚できない」と人格を否定する親や、劣悪な環境に彼女を閉じ込め、難題を与えて殺す口実を探す魔法使いなど、気にもしません。
現実の世界では、このような目に遭えば自己肯定感が下がったり、何もやる気が起きなかったり、もしくは自分の境遇を嘆いて暮らすことが多いはずです。そこをあえて反転させ、あくまで前向きに生きて最後は自らの手で幸せを勝ち取るお姫さまを描いたところに、この物語の価値があります。
そうです。この物語はひどい現実を目の当たりにした時、あきらめ、希望を失いかける私たちに前に進む勇気をくれるのです。
(「賢いお姫様の物語『アリーテ姫の冒険』。児童文学のベストセラーを日本に絶望しそうな大人が、読むべき理由」治部れんげさんのコラムより引用しました。)

悪い魔法使いがアリーテ姫に3つの難問を持ちかけると知り、姫を助ける良い魔法使いのおばあさんは“3つの願いを叶えられる魔法の指輪”を姫に渡します。
ところが姫は、この指輪を難問を解決するためには使いませんでした。
姫にとっていちばんつらくて危険なことは、なにもすることがない“退屈”で、その解決のため、自分の生活を楽しく素敵にするために指輪を使ったのでした。
この本は30年ほど前に女性差別社会の視点から書かれたものですが、物語を読み進めていくにつれて、差別の根本は女性問題に限らず共通のものがあるんじゃないか…と感じました。   
(在ちゃんはこの本をとても気に入ってくれました。)
  

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2019年01月04日

本堂に座って 2018年12月



先々月、先月と中川先生のお話から「私を知る」ことを教えていただきました。
今月は、その前に紹介した本多雅人先生のお話から、「私」についてもう少し聞いていきたいと思います。

普通の動物園では、パンダとか、コアラとか、人気のある動物を集めて、来園者数を伸ばそうとするそうですが、この(旭山動物園の)坂東園長の考えは違うのです。
園長の言葉が次のようにあります。

動物は、そのまま死を受け入れていく。死を認めるところで生がある。人間はあらがって環境さえも変え、不都合なものに蓋をする。
さらに価値観を変化させていくんですね。
(中略)だから動物は常にお前の価値観は何だと問いかけているように思いますし、その問いかけを感じていただくのが、動物園の大切な役割だと思います。

動物は病気になったら病気のままでじっとしているらしいのです。
人間みたいに嫌なことがあったら、誰かのせいにするということはないのです。
ありのままを生きているのです。
しかし私たちは、ありのままに生きられない。
『同朋新聞』には出ていませんが、坂東園長は次のように話されました。

ありのままの中に素晴らしさやすごさがあります。
ありのままの中に尊厳を感じてほしいということを、動物園は理念にしています。人間の価値観や生き方を基準にして動物を見せるのではなく、動物のありのままの生態を通して、それがいかに尊く素晴らしいものであるかを伝える場だと考えています。
パンダやコアラでなくても、どの動物も素晴らしいのです。

これは全く仏教と同じだと思います。
色々な縁によって、私たちのいのちは与えられているのです。
それで、生まれてきたときに、男であっても、女であっても、あるいは健常者であっても、障がいを持った人であっても、縁のなかで生まれてきたいのちだから、どのいのちもかけがえのないものなのです。
園長は続けて、こう言われました。

どのいのちも皆尊いのです。ヒトは自分たちにとって都合のいい愛し方や関わり方をす
る一方で不利益になる生き物は排除してきたのです。

ここで「排除」という言葉が使われています。
排除とは、動物に対して、他者に対して尊く思わないどころか、自分のことを尊いと思わないことをも意味していると思います。
『同朋新聞』の2018年1月号では、アザラシの写真を掲載しました。
なぜ、アザラシかといえば、大人が「なんだ、アザラシか」と言うそうです。
そうすると、アザラシというのは大した動物ではないというふうに子どもは認識するそうです。
坂東園長は、「行動展示」という方法で、ありのままのアザラシを見て、人間の勝手な判断基準、エゴに気づいてもらいたいという願いをもっておられます。
私は、アザラシたちのようにありのままに生きることができないことを痛感させられました。
都合よく生きられたら幸せになれるという妄念にがんじがらめになって生きているのではないでしょうか。
私たちは、生まれたときから競争社会のレールの上を歩かされ、学力だけがすべてのような教育しか受けていないのではないでしょうか。
「なぜ、こんな勉強をするのだろう」と思いながら、教科書を一方的に与えられて、学力があるかないかによって、そこで既に人間が序列化され、劣等感と優越感を植え付けられるのです。
そして憎しみややっかみを感じたり、あるいは相手を上から目線で見る心が起こったりするのです。
結局、この社会のなかで生きるためには、自分が他人から、どう思われているのかということばかり考えて生きていくしかないのです。
関係性が希薄化され、自分が分からなくなってくるだけでなく、共に生きるといった感覚が極端に乏しくなってしまっているのではないでしょうか。
一生懸命生きてきたつもりだけど、なんで生きているかが分からないというのが現代に生きる私たちの共通した課題ではないかと思うのです。
ありのままに泳いでいるアザラシなどの動物を見て、人間の本来性を回復していくということが、とても大事なことだと思うのです。

(『ともしび』2018年6月号 真宗大谷派教学研究所 編集
本多雅人先生の講演抄録「縁を生きぬく意欲」より引用しました。)

私の本当の価値・尊さとは、できること・競争に勝つことの中にあるのではなく、「私は私でよかった」と言えるところに見いだされるものだと思います。

  

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2019年01月04日

本堂に座って 2018年11月



今月は、先月に引き続き中川先生の本からお話を紹介します。
「苦」の原因、「苦」と「私」の関わりについて、「一(いち)」をキーワードに教えてくださっています。

仏教の「慈悲」を説明する言葉に「抜苦与楽」、苦を抜きて楽を与えるというものがあります。
私たちが自らの苦から解放されたいと思うとき、その苦の原因を正しく見ることが、本当に大切なのです。
普通、私たちはお金がないことが、苦の原因であると考えます。つまり、お金のあるなしが、自分の生きることの苦楽を決定すると思っています。
それは、能力についてもそうですし、環境についてもそうですけれども、結局いつでも自分の外にある何かが、自分を苦しめるものだと考えているのです。
そして、その苦の因を逆転させることによって、自分の生きることを楽なものにしたいと思っているのです。
貪欲の心をわが心として生きるかぎりは、どれだけ恵まれた結構な状態にあっても、これでよしとすることができないのです。
その意味するものは、私たちには、この世の何ものによっても満たされることのない欲求があるということです。
では、生きていることを貫いてある私たちの欲求は何か、ということですが、それは「一(いち)」を獲得したいということです。
自分と自分との間に、そして自分と他人との間に「一」を獲得したいということです。自分と自分が一つにならない、自分と他人が一つにならないことが苦なのです。
自分が自分と一つにならないことで言えば、自分が自分自身を受け取ることができない、自分の中に隠さなければならない自分を持っているのです。これが自分だと知っているけれども、その自分を公開できない、つまり、見られないのです。
実は、私たち人間の問題は、コンプレックスなのだと教えられます。劣等感からどう解放されるかという問題です。
どのようなすがたで苦があっても、苦と感じるところには、必ず、二つにものが分かれています。
劣等感は自分と自分とが、孤独は自分と他人とが二つに分かれて、切れたままになっているのです。
そのことを我々がいちばん感じるのは、自分の思いと現実とのギャップです。自分はああしたい、こうしたいと思うのだけれども、思ったとおりにならないというかたちで、私たちは苦を感じるのです。
自分の思いと、思いどおりにならない現実というかたちで二つに分かれるのです。
つまり、「二」に分かれていることが苦の構造なのです。
なぜ「二」に分かれるのか、なぜ一つになれないのかというと、普通は、あいつが俺の言うことを聞かないからだとか、性格が違うからだとか、自分に能力がないからだとか、生活環境が悪いからだとか、いろいろありますが、私たちは自分の外に一つになれない原因を見て、それを変えることによって、一つになろうとするわけです。
よく、自分の時間がないと言う人がいます。二十四時間という時間があるけれども、それが、プツ、プツと切れている、と。
働いておられる人は特にそう感じておられるようです。
プツ、プツと切れて、自分の時間がない、と。
ところが、そう我々が言うとき、そのように言う自分というものが全然問われていない、そういう自分を前提にして、その自分の思いにかなった、自由に使える時間がないと、こう言っているわけです。
実は、この前提にしている自分こそが、あらゆる時間を、プツ、プツと切っているのです。
本当は、自分の時間といえば、全部自分の時間なのです。それを自分の思いの中に取り込んで、いろいろと言っているのです。
普通、我々が「私」と言うとき、その私は、私以外の他の人と離れて別にあると考えているわけです。ところがそんな私は幻想だと、そんな私はもともと存在しないのです。
そういう私に立って、自分の思いどおりに使える時間がないと言って、悩んでいるのです。それがもともと幻想なのだということがわからないのです。
私たちが、真に苦から解放されるためには、私たちが、何ら疑うことなく前提にして生きている、この「私」を立場としない新しい「私」が生まれなければならないと思うのです。
(『ただ念仏せよ 絶望を超える道』 中川皓三郎 著 東本願寺出版発行より引用しました。)

自分と自分、自分と他人を「二」に分けてしまう、「一」になれないのは、相手でなく「私」に原因がある…その「私」を知るために、仏さまの教えがあるのです。

  

Posted by 守綱寺 at 15:59Comments(0)本堂に座って

2019年01月04日

本堂に座って 2018年10月



このところ身の周りのことが慌ただしくて、なかなか本を読めずにいました。
そんな中、あらためて中川皓三郎先生の本を読み返してみたところ、“豊かさ”についてお話してくださっている一節が目に留まりました。
本当の豊かさとは何なのか、わかりやすく教えてくださっています。

現代は、信頼関係が利害関係にやぶられている時代だと思います。
現代という時代を生きる者にとっては、経済的に一応豊かな人も、また、経済的には貧しく苦労しておられる人もふくめて、お金が象徴しているものは、非常に大きいと思います。
これはある先生に聞いたことなのですが、現代の新興宗教が説く人間の苦しみのすがたというのは、「貧・病・争」で表せるのだそうです。貧しさと病と争いです。
経済的に豊かでないこと、そして、健康が思わしくないこと、そして、家庭の中がうまくいかない、人間関係がうまくいかないという、こういう三つの言葉で、現代を生きる人の課題がおさえられています。
つまり私たちは、お金がないことが苦しみの原因なのだと考えているのです。
生きることそのことを喜べないのは、お金がないからだと。(中略)
また、イギリスの経済学者であるシュマッハーという人は、『人間復興の経済』という本の中で、私たちは、ただがむしゃらに豊かになろうとして生きてきたのだが、では、その“豊かさ”とは何だと、どう定義できるのかと問うておられます。
普通私たちは、豊かさとは、持ち物の量、どれだけたくさんの物を持っているかということで見ていると思います。
だから、持ち物が増えるということは、自分の満足度が増えるということであり、持ち物が少ないということで、自分の生きることそのことが喜べないということもあるのです。しかし、シュマッハーは、こういう言葉で問いかけておられます。

まず吟味すべき問題は明らかに、「行き渡るべき十分な富はあるか」ということである。
ここで直ちに逢着する深刻な難問は「十分な富」とはいったいなにか、いったい誰がわれわれにそれを教えてくれるのか、という点である。
「経済成長」をすべての価値の至高のものとして追求し、したがって「十分」という概念を持たないエコノミストが、これを教えてくれないことは確かである。
あまりにも少ない富しか持たない貧しい社会は存在するが、「止まれ、もう十分だ」という富める社会はどこにあるのだろうか。
どこにもありはしない。

(中略)豊かさとは、量の問題ではないのだということです。
つまり、自分が自分であることに、これでよしと言えるかどうかという問題だということです。
シュマッハーの言葉では、「止まれ、もう十分だ」と、こう言えるところに、実は、本当の豊かさがあるのだというわけです。(中略)
先ほどのシュマッハーという人の言葉に、「止まれ、もう十分だ」というものがありましたが、どんな自分であっても、「これでよし」と言えた人は、別の自分になる必要がないのだから、お金がなくてもいいのです。
なくてもいいということの意味は、少しもいらないという意味ではなく、これでいいと言える人は、別な自分に変わる必要がまったくないのだから、お金といっても大きな力を持たないということです。
こんな自分を嫌だと言っている人だけが、別な自分にならなければならないわけだし、そして、別な自分になるためには、お金というものが非常に大きな力を持ってくるのです。(中略)
そういうことから言えば、私たちを苦しめる本当の原因は、お金がないということではなく、「これでよし」と言うことのできない、自分と自分の間に、そして、自分と他人の間に裂けめをつくる、私たちの心であるということなのです。
(『ただ念仏せよ 絶望を超える道』 中川皓三郎 著 東本願寺出版発行より引用しました。)

先生はお話の中で、「(お金によって)人をだますことはできるけれども、自分自身を嫌だと言っている、その自分自身をだますことはできない」とも語られています。
「止まれ、もう十分だ」と言える“本当の豊かさ”は、自分を見つめ直し「これでよし」と真っ直ぐに言える自分を見い出したところに見えてくるのでしょう。

  

Posted by 守綱寺 at 15:45Comments(0)本堂に座って

2019年01月04日

本堂に座って 2018年9月



毎年8月下旬に豊田市の街なかで「夏季講習会」開催されます。
今年は本多雅人先生を講師にお迎えし、お話を聞かせていただきました。
本多先生のお話は、穏やかな語り口のなかにスパッと切れ込む鋭さ(!?)があって、楽しくわかりやすく聞くことができて、でもしっかり自分が問われていく…という、とても聞きごたえのあるものです。
そんな本多先生が京都・東本願寺で話された講演録から、葬儀についてのお話を紹介します。

それまでの私は、努力すれば自分の力で何でも解決できると思いこんでいました。
縁を無視して、何でもできるということが、自力ということなのです。
それに対して、他力というのは、そういう私が如来に照らされて、傲慢な自分のあり方に気づいていくということでしょう。
私は、そういう人間のあり様をひっくり返していく一番大切な御縁が真宗の葬儀だと思うのです。
「これぞ人間が明らかになっていく真宗の葬儀だ」という例を、一つお話したいと思います。
お盆に、いつもお参りに行くご門徒宅がありました。
その家の奥さんは、結婚するまで、九州のお寺の日曜学校にも行って真宗の教えを聞いてきた人で、結婚後も連光寺でよく聞法をされていました。
その奥さんが乳癌になられたのです。
お盆でお邪魔した時は、癌と共に生きていける道があるのかということを尋ねるかのように、私と一緒に同朋唱和をされておりました。
乳癌が完治した8年後のことです。
ある日、奥さんが「体中に癌が転移して、年内はもたないかもしれません。
自分が亡くなったら、ぜひ蓮光寺さんでお葬式をしたい」と電話がありました。
奥さんは、自分の人生全体を南無阿弥陀仏に受け止められて一生を終えたいというお気持ちがあったようです。
家族は病院ではなく、奥さんが自宅で過ごしてもらいたいと自宅医療を決め、奥さんは日々弱りながらも明るく過ごし、それから半年ほど経て浄土に還っていかれました。
65年の尊い人生でした。
私は枕勤めのためご自宅に行き、奥さんと対面しました。
奥さんのお顔には布が被せてありました。
私は「自然のままがいいから取りますよ」と旦那さんに言いました。
旦那さんは「いや、うちの女房は痩せこけた顔を見られたくないってよく泣いていたから、被せておいてほしい」と言われました。
私は「奥さんは教えを聞いてきた人ですから、愚痴を言うのも南無阿弥陀仏の世界のなかにおられますから大丈夫です」と言って布を取りました。
生前の面影はなく骨と皮だけになっていました。
奥さまの願い通り、お寺で通夜、葬儀、還骨が勤まりました。
葬儀後の出棺前のご主人の挨拶が忘れられません。
「私たちは長らく夫婦生活を送ることができましたが、妻が亡くなるまでの半年間が一番深い夫婦生活を送ることができました。本当の夫婦になりました」と。
この言葉は私の胸に深く突き刺さりました。
骨と皮だけになっていく奥さまとの夫婦生活が、今までで一番深い夫婦生活であったということはどういうことでしょうか。
「日常では、条件に振りまわされながら、自分の思いを見たそうと生きています。ところが、妻の姿は無条件に尊かったのです」と旦那さんが言われました。
生きてあることの存在の重みを感じたのです。どうにもならない状況のなかで、日常見失っていた、存在の尊さを奥さんが病気の身のままにお伝えしてくださったのではないでしょうか。
それは「どうか念仏申す生活をしてください」という奥さんの願いの姿だったのでしょう。
人間は死を受け止めることで、本当に今を生きられるようになるのです。
(『ともしび』2018年6月号 真宗大谷派教学研究所 編集
本多雅人先生の講演抄録「縁を生きぬく意欲」より引用しました。)

近頃、葬儀の形や葬儀に対する考え方も様々になっていますが、亡き人と出会い直し、また自分自身と向き合い、自分について学び知らされていく…という、葬儀の意義についてあらためて受け止め直すきっかけをいただけるお話

  

Posted by 守綱寺 at 15:31Comments(0)本堂に座って