2023年06月10日

本堂に座って 2023年5月


近ごろ各地の学校で、放課後や学校に行かない選択をしている子どもたちの「居場所づくり」という話を聞くことが増えてきました。
放課後については、保護者の帰宅時間まで学校に残る時間・場所を作ってくださっています。
また学校に行かない選択をする子には「フリースクール」が増えてきています。そんな子どもたちの「居場所」について、小沢牧子さんが書いてくださっています。

多くの専門家、とくに「有名な」専門家は、社会を動かす権力をもつ人びとの意向や都合を、学問的な言葉を使って世の中に流す仕事をしている。
だからその言説は、しばしば人びとの生活を、事実からズラしていく。
それなのに、専門家とはえらくて間違いはしない人ということになっているから、生活の事実つまりほんとうのことのほうが軽視され、ゆがめられ、ときには覆い隠されてしまうことが、あちこちに起こる。
親子関係とくに母子関係ばかりが強調され、その陰に「子子関係」の大切さが見えにくくされてしまうのも、そのひとつだ。
子どもと暮らせば、子どもが「友だちといっしょにいたいよ」と、いつも身体で伝えていることがよくわかるのに。
子どもがいちばん元気で満足した顔をしているのは、友だちと思い切り遊んだときだと、まわりのおとななら誰でも知っているのに。
学校に行っている子どもたちについても、もちろんおなじだ。
ところが学校といえば、とかく学力、進学、規則への服従と、おとなの願望ばかりが語られる。昨今の学力論争も、子どもの事情とは無関係に白熱するばかりだ。
もちろん学校制度は、国家という権力がつくったものだから、基本的には、その都合に支配されている。残念でも、それは否定しがたい現実だ。
しかし一方で、そこに集まり過ごす子どもたちの側の現実も、またある。子どもの現実認識に沿った定義は、「学校とはいろいろな友だちと過ごす場所のこと」というものであろう。
それはシンプルな事実そのものであり、しかも子どもの日常にとって、重要な意味を持っている。
子どもはみずから学び育つ生きものだが、そのためには何がしかの元気が必要で、その元気は仲間といっしょにいることで生まれるからだ。
その意味では、地域の学校ほど便利で貴重なところはない。
子どもが住む身の丈の地域、その地域に暮らすさまざまな子どもたちが、一日の長い時間そして何年にもわたる長い期間を、いさかいやもめごとをも含めて、なじみ合って過ごすことができるのだから。
子どもはおとなに、暮らしの原点を思い起こさせる。
「学校は、地域の仲間と過ごす居場所」も、譲れない原点のひとつだ。学校に通わなくなった子どもたちや親たちが求めてつくった場所は一般に「居場所」とよばれる。
学校外の「居場所」はこの十数年の月日のなかで、増えていく一方だ。「学校には行かないで、居場所に行っている」という子どもにもたびたび出会う。
「居場所」はますます数を増やしていくのだろうか。でも、ちょっと待てと思う。学校の居場所性をあきらめてはならないと思うからだ。
学校には期待できないからと、学校の外に居場所をつくることは、いま現在がだいじな子どもにとって現実的な方策なのだとはわかっている。
そこで解放された子どもたちの元気さに接すると、いつもうれしい。しかし、居場所性はどの子にとっても重要なのだ。まさに学校のなかにこそ。
もし、居場所を望む子は学校の外へ、学校にくる子は居場所性など期待するな、と二つに分けられていくとしたらそれこそ問題だ。
地域の学校に、さまざまな子どもが集まる。親たちが出会う。基礎的な学習もだいじだが、学校の居場所性もそれに劣らずだいじだと考えつづけたい。
(『子どもの場所から』小沢牧子 著 小澤昔ばなし研究所発行より引用しました)

子どもたちにとって「居場所」があることはとても大切です。小沢さんも言われますが、できることであれば、特別な場所を作るのではなく、学校や家庭・近所の遊び場など、日常的にいられる場所が「居場所」となるよう考え続けたいものです。



  

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2023年06月10日

本堂に座って 2023年4月


先月に引き続き、今回も『不親切教師のススメ』から文章を紹介します。
教師の立場として、本当の意味での「親切」「不親切」とは何なのか、どこにあるのか?をわかりやすくまとめてくださっています。

【おわりに】
本書を一通り読んでもらえるとわかる通り、実は不親切教師の目指すところとは、本当の意味での親切教育である。
子どもが主体的に育つことで、親や教師の手を離れ、あらゆる問題に自ら立ち向かい解決しようとするようになる。
子どもの人生が子どものものとなり、同時に親や教師もそれぞれの人生を自分のものとすることができる。
つまり、お互いが自由になれるということである。相手のことを心から強く思い行うことが親切であるならば、教育における真の親切とは、あれこれ世話を焼くことではなく、子どもを自立へと促す行為である。
これまでの教育はどうしても「横並び」「揃える」「みんな一緒に」という方向性が強かった。
経済成長が上向きの時代においては、周りに言われた通りに動くことで人生が安泰だったからである。
それが時代の要請する最適解だったといえる。しかし日本という国の成長が誰の目からも明らかに右肩下がりになり傾いてきている今、それでは上手くいかないことに人々は気付き始めた。
そこに上乗せする形で教育界には突如「個別最適な学び」というスローガンが出てきて、一人歩きし始めた。
このままでは上手くいくはずがない。
今までと真逆の方向性のものをそのままとり入れたら、矛盾し混乱が生じる。
一種類の作物を育てようとしていた土壌に、それぞれ全く異なる種の作物を植えて一律に育てようとすれば、上手くいかないのは目に見えている。
土壌から、作り直す時である。育つものも「違っていい」ではなく、「違う方がいい」というのを常識にしていく時代である。
「個別最適な学び」を本当に追求していこうというのであれば、子どもたちはそれぞれに個性的であることを改めて認識し直すところからである。
子どもたちは、それぞれ異なる「種」を持つ。
故人だが、私の初任者指導を担当してくださった遠藤満先生という方は、「子どもは作物を育てるように」とよく仰っていた。
まず、コンテストに出す菊のような揃ったものを作ろうとしてはいけないということ。
次に、どんな作物もどんな形のものも大切にすること、それぞれに異なる合った環境があるということ。
植えてからどうこうよりも、それ以前の土づくりが全てだということ。芽が出て弱いうちは水やりや虫の駆除も必要だということ。
それがどれだけ大きくなるかは、小さい段階だと全くわからないということ。ある程度まで大きくなったら後は勝手に育つということ。
不親切教師の目指す主体性を伸ばす教育は、子どもの「種」に内在する力を引き出す手伝いをすることである。
それが最終的に、全ての子どもにとって公正な質の高い教育を提供することへとつながる。そして教育において子どもたちは「教えてもらう」「管理される」受動的な存在から、「自分で考えて学ぶ」「自分で責任をもって行動する」という主体的で自立した存在となっていく。
本書における不親切教師のススメとは、即ち自立型人間を育てるための心構えとその方策を説いたものである。
(『不親切教師のススメ』松尾英明 著 さくら社発行より引用しました)

 子どもが困っている様子を目にすると、「何とかしてあげたい」と思い、動いてあげることがあります。
その際に、「何を」「どこまで」してあげるか(してあげないか)…が大切だと、この本の中では具体的に実例が挙げられています。
子どもの様子をきちんと見て、必要最小限な分だけ手を差し伸べることが、結果として子どもの自立を促すことになると教えてくださっています。


  

Posted by 守綱寺 at 10:06Comments(0)本堂に座って

2023年04月03日

本堂に座って 2023年3月


地域行事の「教育講演会」を企画するにあたり、“破天荒校長”こと澤田二三夫先生に講師をお願いしました(詳細は「今日も快晴」をご覧ください)。
事前に澤田先生にお話をうかがった際、『不親切教師のススメ』という本を薦めていただきました。
 【不親切こそ学力を向上させる】
きめ細やかで個に寄り添う丁寧な授業。
そう聞けば、教師でなくても多くの人が「それはいい授業だ」と思うのではないだろうか。
実は、この丁寧で親切でサービス満点の授業が、本質的な学力低下を招いている可能性がある。
「本質的な学力低下」と書いた理由は、丁寧で親切でサービス満点の授業をすることで、一時的には学力が向上しているように見えるからである。
例えば「やる気が出た」ように見えるし、その単元の学習直後に実施したワークテストや小テストの点数も上がることが多い。
しかし問題は、その先である。「やる気が出た」ように見えたのも、こちらがサービス満点で支えている間だけ、ということが多々ある。
これを続けていくことで、「さて、次はどうやって楽しませてくれるの?」という受け身の姿勢が子どもたちの基本になる。
さらに、小テストやワークテストの点数向上も、一時的な効果しかなく、年度末の学力テストのようなまとまった問題になると、一気にできなくなるという事態が珍しくない。
その理由は、個別に丁寧に寄り添って噛んで含めるように教えたために、自分の頭で考えずにできてしまったということが一つ。
もう一つは、できるようになった際も、実はよくはわからず解法を丸暗記しただけということがある。
自分の頭を絞って考えた結果ではないため、これらの学習効果は、脳内の短期記憶あるいは中期記憶程度にとどまる。
やり方を生み出したのではなく直接教わって学んだだけのため、結果的に、長期記憶としての定着率が悪く、少し出題形式が変わるだけでさっぱり応用が利かないといった事態に陥ることとなる。
要するに、自分の頭で考えて考えて、考え抜いてできるようにすることで、脳はそれを「重要」と認識し、結果的に長期記憶として自然に定着する。
加えて、そのような姿勢で学習を進めていけば、はっきりとした答えがないような問題や見たことのない問題に対してでも、自ら考えて自分なりの答えを生み出していけるような本質的な学力が向上する。
そのような本質的な学力をつけるためには、あまり細かく教えたり支えたりし過ぎない不親切教師の接し方が適している。
目的意識がどこにあるかである。
とにかくミスなく機械のように繰り返させたいだけのことならば、細かく丁寧に教えた方がよい。
これは、単純作業を能率良く教え込むようなものである。
例えば仕事として一日限り、機械の代わりをしてもらうのなら、自分で工夫するとか考えるとかさせずに、とにかくさっさと覚えてもらってせっせと働かせ、短期でなるべく多くの結果を出してもらえればそれでいい。
丁寧にわからせる授業がつまるところそれと同じであることが少なくない。
一方で、正式な仕事として長期的に働いて貢献してもらおうというのなら、まず仕事の理念から学んでもらい、その基礎から覚えてもらい、自分なりに工夫してやっていくよう促す必要がある。
何でもかんでも人にきくのではなく、技を盗んだり自分で編み出したりして、仕事そのものの楽しさを追求していく姿勢が欲しい。
自分の頭で考えて苦労してできるようになる授業の目指すところはこれである。
一見突き放すような厳しい教育であるかのように見えるが、実際には、遠目に見守る教育である。
手を出したいところをぐっと我慢して、あえて不親切なように振る舞う教育の仕方である。
(『不親切教師のススメ』松尾英明 著 さくら社発行より引用しました)

公立小学校教員である松尾先生は、「教育における真の親切とは、あれこれ世話を焼くことではなく、子どもを自立へと促す行為である。」と言われます。
一見“不親切”に思われることが、実は子どものため…という事例はたくさんあるようです。

  

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2023年02月20日

本堂に座って 2023年2月


先月に引き続き、河合隼雄さんの『こころの子育て〔誕生から思春期までの48章〕』から文章を紹介します。
今回は「豊かさとこころ」についてのお話です。

Q.豊かな時代なのに、なぜいろいろ問題が起きるのですか。
A.みんながこころを使うことを忘れているからです。

物が豊かになれば人生は楽になるはずだ――日本人はみんなが長い間、そう思ってがんばってきたんですね。
だけどそんなことはない、人生はむしろそれだけ難しくなるんです。
どうしてかというと、物が豊かになった分だけこころを使わないといけないからです。
それなのに豊かになると、どうしても物事を安易に物やお金で解決しようとして、こころを使うことを忘れる。
そこをちょっとサボってしまう。だからいま、子育てについても、問題がいっぱい出てきているんです。
豊かになると、世の中便利になってきます。便利になると、人間関係はどうしても希薄になってくるんです。
切符ひとつ買うのも、昔は駅員さんと顔あわせて「京都一枚」なんて言ってたのが、いまは機械でポンと出てくるでしょ。
買い物でまけてもらおうとしたら、お世辞のひとつも言わないといけなかった。ところがスーパーだったらもうまけてあるものねえ。
つまり「こころのエネルギーを節約して便利にしよう、それが進歩や」とみんな思い込みすぎたわけです。
かといって、物が豊富になったことを嘆いていてもしょうがない。
豊かになったときの生き方を探さなきゃいけないわけでね、「昔はよかった。節約してわれわれはつつましく生きておった」、そんなことを言っても何に
もならない。
それよりこれだけ物が豊富になったときに、子どもをどう育てるか、こころ豊かに生きるにはどうしたらいいかと、そっちの方を考えることが大事です。
昔は、こころを使うことをそれほど意識しなくても、物がなかったし、食べていくので精いっぱいだったから、知らず知らずにこころを使ってたんです。
親はなんとかして買ってやろうと努力するし、子どもは買ってもらいたいけれど、欲しいと言うのを我慢するしね。
だから豊かな時代には、子どもに楽しみを与えるにも、それぞれ家でコントロールしていかなければならない。工夫が要るんです。
それがこころを使うということです。
たとえば「うちは誕生日にしかデコレーションケーキは食べない」とか決めればケーキを食べるのが楽しみになるでしょう。
親がこころを使うと、子どもはこころが躍る体験をするわけです。
それが工夫なんです。毎日食べていたら、こころが躍りません。
本を買うにしても、物を買えない時代だとすぐには買えないから、子どもは必死になってお金を貯めるわけです。
お金が貯まるまでの間、節約もするし、手に入れたときのうれしさを想像したりもする。ずっとこころを使っているわけで、自然にうまくいっていたのです。
親が買ってやりたくても、お金がたくさんあるわけではないからすぐには買ってやれない。「ほんなら正月のお年玉に」と約束したりすると、いい具合に形がつくわけです。
ところがいまは子どもに「買って」と言われればだいたい買ってやれる時代です。
その時に親がこころを使って、「この本を買うのは、はたしてこの子のためにいいことだろうか」と考えてみる。
全集10巻をいっぺんに買った方がいいのか、今日は一冊だけ買う方がいいのか……。
「誕生日まで待ってね」と待たせた方がいいのか、「よしっ!」とすぐに買った方がいいのか、「うちではそんなもん買わんっ!」と言った方がいいのか……。
選択肢はいっぱいあるわけです。
いまはそうしたいと思ったら、どれでもできる。
ほんとの金持ちの家は、伝統的にちゃんとケチなシステムを持ってるんだけど、われわれ日本人は「成金」ですからね。
やっぱり、お金を使いたくてかなわんのですよ。
日本中がバブルとかで成金の悲劇になってしまった。
いま不景気になったというのは、こころを使う工夫をするにはチャンスかもしれません。




  

Posted by 守綱寺 at 16:49Comments(0)本堂に座って

2023年02月20日

本堂に座って 2023年1月


 トイレ改修のために移動させていた本を片付けていたところ、河合隼雄さんの『こころの子育て〔誕生から思春期までの48章〕』という本が目に入りました。どの文章からも教えられることばかりですが、その中から一つを紹介します。

 Q.子どもがしていることがどうしても受け容れられません。
 A.そういう状況を、親も一緒になって作ってきたわけです。

 親がほんとに嫌っていることを子どもが好きになった場合は、親はものすごく考える必要があります。それ、ほんとに好きかって、絶対聞いてみる必要があります。
 高校生や中学生とのカウンセリングのときは、ぼくはほとんど好きなことの話から入ります。「パチンコが好きや」と言ったら、「ああ、そうか。どこがおもしろい?」とか、「なんでそんなにおもろいんや」とか聞いていると、「実は、あんまり好きではありません」なんて言いだす。
 ある大学生は「ぼくは楽しみのためにパチンコに行ってるんじゃなくて、パチンコを苦しみに行っているような気がする」と言いました。嫌なのにやめられない、と。そして「やめたら家に帰らないかん。それがかなわん。先生、パチンコへ行って、ほんとにパチンコを楽しんでいる人は、これはもう相当な人ですよ」。ほとんどは苦しみに行っている、って言うんです。「同じ苦しむんやったら、もうちょっと上手に苦しんだらどう?」「そうですねえ」。そんなふうになってきたら、話が変わってくる。こういうとき、どうしても「そんなんしたらダメやないか」と外側に立って物をを言いたくなる。そうではなくて「パチンコってそんなにおもろいんやろうか」って言ったら、スッと相手の気持ちの中に入るでしょ。それだけわかってくれるなら、もう少し話してもいい、自分の中の話をしてもいい、ってことになります。今まで蓋をしてたものが、一挙に外に出てくる。この大学生の場合は、自分が母親と対決することを避けるために、家に帰らないでパチンコをしていることに気づいていきます。そしてついにパチンコをやめて母親と正面から対決していくんです。
 しかし考えてみたら、子どもがそこまでパチンコにのめり込まざるを得ない状況を、親も一緒になって作ってきたわけです。だから、親が容認できないことを子どもがするときは、親は考える必要があります。ところがだいたいそういうとき、みんな自分のことは棚に上げて「変な子どもになってしまった」とか「おれの子どもにしてはどうも」とか言ってます。でも「おれの子どもだから」そうなったんです。
 子どもの話を聞くときに、共感するのが大事だとわかっていても、たとえばぼくらにしても、「パチンコが好きや」と聞いた途端にパチンコのおもしろさがわかることはまずないです。だから相手のこころの側へ沿っていって話を聞いていくんです。わからないのに、わかったように「うん、わかるわかる、お父さんが憎いやろね」なんてカウンセラーが聞いていたら、子どもは「お父さんを殺します」というところまで行ってしまう。それは「父親を殺す」ということでしか表現できないところへ、カウンセラーが追い込んでいるんです。「わかるわかる」と口では言ってるけど、ほんとはわかっていないことが子どもに伝わってるから、子どもはもっと激しい表現をしてくるんです。それを距離にたとえて言うと、遠いところにいる人に言おうと思ったら、怒鳴るよりしょうがないですね。近くにいる人だったら小さい声で言えるけど、遠かったらワーッと大声を出さなければならない。それと同じことで、物わかりの悪いやつには「親父を殺す」とまで言わないとわかってもらえない。そういう表現でしか通じないからそこまで言うんです。それは親子でも同じです。親が気がつかなければ、子どもはどんどん激しいことをやってきます。そういうときは、親は自分自身についてよく考えないといけない。実際、盗みをした子が言ったことがありますよ。「せっかく盗みまでしたのに、親はまだわかってない」って。
(『こころの子育て』河合隼雄 著 朝日新聞出版発行より引用しました)


  

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2022年12月20日

本堂に座って 2022年12月


先月に引き続き小沢牧子さんのお話です。子どもに対する願望(欲望?)がもっとも表に出てくるのが「子どもが学校に行かなくなる」時でしょう。そうした状況について小沢さんが書いてくださっています。

学校に行かないとき
子どもが自分の思うようにならない、と親が大きく動揺するできごとの代表的なものは、子どもがいわゆる不登校をしたときだろう。
子どもが学校に行かない、または行けないとき、親がひどくうろたえるのは、「子どもが自分の予定通りにならない」といういらだちをふくむことが多いのだと思う。
「学校社会で成功し続けてもらいたい」という願望を、親は強く持っているからだ。
しかし、わたしのささやかな体験からすれば、子どもが学校に行かないのは、そうすることがなぜかどうしても必要だからで、そんなとき親はただ傍らにいる以外にできることはない。
本人のことは本人にしかわからない。いや本人にもわからないし、わかる必要もないだろう。
ただ、いまはそうするしかない行動をしているだけだ。
子どもだって生きていれば、おとなと同じようにいろいろなときがあるのだ。
その状態を「不登校」や「登校拒否」と呼ぶことに、わたしは違和感をもつ。
それらの呼び名は、親や教師つまりおとなの立場からの名づけであって、子どもにすれば、子どもの毎日を生きていくことに疲れたり行きづまったりして、うずくまった状態なのではないか。
だから、学校にも行けない。または、行かない。
子どもなりの生きる悩みをかかえた必死の毎日のなかに、学校に行かない行為がふくまれているのだ。
そんなとき、学校に行かない行為だけを取り出して「不登校」と呼んだとたん、子どもの事実が歪められ、一面的になる。
「まいってしまって、ダウンしていたことがあったよ。学校にも行かなかったしね」。
あとで思い返して、そんなふうに表現したい子どもも多いのではないか。
そうわたしは考えるが、どうなのだろう。
できるだけ子どもの事実に近づいて、ものごとを考えたいと思うから。
もちろん「学校がイヤな場所だから行かないんだ」という理由も多く、それは重要なテーマであるとは思っている。
学校へ行かない子どもが行くようになることを、「良くなった」と表現することが多い。
しかし村田(由夫)さんの言葉を借りればそれは、学校に行くことが正しいから行かせよう、つまり「良くしよう」というおとなの支配性にほかならない。
村田さんも息子さんが小学4年生で学校に行かなくなったとき、「最初はなんとか行かせようといろんな手を使って、かなり子どもを追いつめた」と語っている。
でも「学校より子どもの生命が、その方向のほうが大事だとようやく気づいて、行かなくてもいいんではないかという気持ちになってきた」と。
村田さんがそう思うようになった場面のひとつが、強く印象に残る。
息子さんは自転車が好きで、小学4年生のある日に遠出をし、戻ってくるのがとても遅かった。
心配して迎えに出向いていったときに、長い坂をうつむきながら一心不乱に自転車をこいでくるのに出会った。
「その姿を見たときに、声かけられなかったですね。そのときに、どういうわけだかわかんないけれども、この子はもしかしたら一人で生きられるかもしれないと、そういうふうに思って、それが一つのきっかけになって、私の中で学校とか学力とかいうことに、そんなこだわり感じなくなったですね」と、村田さんは語っている。
その場面からは、思わず子どもにひとりの対等な人間として向き合った瞬間にわき起こった相手への信頼と愛情が伝わる。
良くしよう、支配したいという親子の関係から、とっさに解き放たれたのだ。
親と子はいつも揉めながら、こうしてかけがえのない仲間になっていくのだなと、なんだか胸が熱くなる。
(『子どもの場所から』小沢牧子 著 小澤昔ばなし研究所発行          
「支配欲、この厄介なもの」より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 13:59Comments(0)本堂に座って

2022年11月07日

本堂に座って 2022年11月


“コロナ禍”と言われる状況は、今もさまざまな分野に影響を及ぼしていますが、子どもたちが過ごす環境も以前とは変わってきている様です。
外へ遊びに出かけることが少なくなって親子だけで過ごす時間が増えることで、子どもに対する願望(欲望?)も増えてしまっているのかもしれません。
そうした願望(欲望)について、小沢牧子さんが教えてくださっています。

子の服装ひとつにも
「良くしよう」という願望は、支配欲望のことでもある。
相手を自分の望むようにしたい、という願望だ。その代表的なものは、子どもに対する親のそれだろう。
「よい子に育てたい」という願いだ。
もちろんそこには、相手への愛情も入り混じっているから、かんたんな話ではないのだが。
子どもを良くしよう、と親や教師が力を入れれば入れるほど、厄介なことが起きやすくなる。
子どもの側は、支配される圧力から逃げ出そうとする。
するとおとなの側は、「反抗する困った子ども」と勝手に名づけて、ますます熱心に「良くしよう」とする。人間は情けない生きもので、自分より力弱い相手を思い通りにしたいという気持ちから、なかなか自由になれないのだ。
いやむしろ、それが生きがいになってしまう。
たかだか、何を着るかという場面にも、子どもへの支配欲望は顔を出す。
中学・高校生に対するきびしい制服管理もそのひとつだろう。
親としてのわたしは、そのことに拒否感を強く持っていたのに、気づけば自分自身、子どもに強い服装支配の気持ちを抱えていたのだった。
思い出すのは、かつてのこんな場面だ。
息子が中学一年生のときのことだった。新しいシャツをいっしょに買いに出かけたとき、どれを買うかでもめたことがあった。
彼は、色鮮やかなアロハ風のものを欲しがった。
わたしは反対した。自分が着るわけでもないのに、なぜ嫌だったのか。
あきらかに息子に、わたし好みの「しぶい」格好をさせたかったからである。
そのとき彼は渋々あきらめたが、わたしの後味はひどく悪いものだった。
相手を支配しようとする自分の根性は、われながら情けなく思われたからだ。
着るものについてのいざこざは、だから、それが最後だったと、わたしのほうは記憶しているのだが。
もうひとりの息子のほうも、こちらは高校生のひところ、相当にすっとんきょうな身なりをしていたことがあった。
もうそのころには、わたしのほうも鍛えられて、「なに、その格好」と呆れながらも、たまにはそれをおもしろがったりしていたけれど、こんどは彼のほうが世間の目をよく知っていて、玄関で「さあ、近所のおばさんたちに後ろ指さされながら行こう」と言いながら、出かけて行ったりした。
子どもは自分なりに試行錯誤しながら、世の中との折り合いをつけていく。
でも、そんなふうにわたしが納得するまでに、けっこう時間がかかっている。
子どもへの支配欲を親が洗い落としていくには、年季が要る。
わたしの場合先のエピソードにも現れているように、上の子どもは、その分余計に気の毒だったなあと思う。
はじめての子どもをやるのは、ご苦労さまなことなのだ。
とはいえ、誰かが最初の子どもをやらなくてはならない。
親の試行錯誤を引き受ける一人目の子は、その役割を負ってくれるだけで、親にとって申し訳なくもありがたい存在である。
(『子どもの場所から』小沢牧子 著 小澤昔ばなし研究所発行          
「支配欲、この厄介なもの」より引用しました)

 子どもを「よい子に育てたい」と願うのは、小沢さんも言われるように親としての愛情だと思います。
ところが、その思いが強くなりすぎると、知らず知らずのうちに「子どもを思い通りにしたい」という“支配欲望”になってしまう…と指摘されます。
小沢さんでさえ「相手を思い通りにしたいという気持ちから、なかなか自由になれない」「年季が要る」と言われます。
親の愛情(欲望?)は根深い様です。

  

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2022年10月11日

本堂に座って 2022年10月


今年の全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)は仙台育英高校が優勝し、東北勢では初の優勝ということで話題になりました。
また、須江航監督(39歳)の優勝監督インタビューも、多くの人の心に響いたと評判になりました。
そのインタビューの要旨と須江監督について書かれた記事がありましたので、ここに紹介します。

――今年の3年生は入学時からコロナに翻弄(ほんろう)されてきました。それを乗り越えて優勝した3年生にどんな言葉をかけたいですか?

◆入学どころか、おそらく中学校の卒業式もちゃんとできなくて。高校生活っていうのは、なんていうか、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とはまったく違う。青春って、すごく密なので。でも、そういうことは全部ダメだ、ダメだと言われて、活動していてもどこかでストップがかかって。どこかでいつも止まってしまうような苦しい中で、でも本当に諦めないでやってくれた。

でも、それをさせてくれたのは僕たちだけじゃなくて、やっぱり全国の高校生のみんなが本当によくやってくれて。例えば今日の下関国際さんもそうですけど、大阪桐蔭さんとか、そういう目標になるチームがあったから、どんな時でも諦めないで、暗い中でも走っていけた。本当にすべての高校生の努力のたまものが、ただただ最後僕たちがここに立ったというだけなので。ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います。
(以上、優勝監督インタビューより。)

あのフレーズは優勝インタビューのために事前に考えていたのかと尋ねると「ああいう質問が来るとは思っていませんでした。彼らの苦しさを思った時、とっさに出てきた言葉です」と返ってきた。
「元々は、生徒たちを諭すために、使わざるを得なかった言葉なんです」と続ける。
当たり前の高校生活が送れない部員に申し訳なさを感じながら、ミーティングでは普段から「『青春は密だ』って分かるんだけど、今は距離を置かないと部活動ができなくなる」と語りかけていたという。

優勝インタビューでは、入学前からコロナ禍に耐えてきた高校生へのねぎらいの気持ちがあふれた。
「僕らが過ごした高校生活を100とすると、今の高校生は30もないと思う。それでも、不満を言うのではなく投げやりにもなっていない。これからは、学生生活を少しでも『濃密』にしてあげたい」と力を込めた。
(毎日新聞 2022年9月4日付『とっさに出た「青春って密」 甲子園V仙台育英監督が込めた思い』より引用しました)

「青春は密」「全国の高校生に拍手してもらえたら」…これらの言葉を聞いた時、ふとウチの子どもたちの姿が思い浮かびました。
当時小学6年生だった娘は、小学校生活最後の3週間が休校になってしまい、卒業に向けた様々な行事や卒業式練習もできないまま、卒業式を迎えました。
さらに娘は中学に、次男は高校に入学した途端に休校…。
まさに須江監督が言われるような中学・高校生活を送ってきたのだと思います。
ここに来て少しずつ、修学旅行や学校祭、合唱大会などの行事が催されるようになってきましたが、それでもまだ「100」には足りない状況が続いています。
そんな中、涙を流しながらこうした言葉をかけてくださった須江監督の姿を見て、もらい泣きをしそうになりながら、学校での出来事が原因で時々不安定になっている子どもたちをどう受けとめてあげられるのか、考えるきっかけをいただきました。



  

Posted by 守綱寺 at 14:40Comments(0)本堂に座って

2022年10月11日

本堂に座って 2022年9月


先月号では学校における「評価」の問題点、特に「出席を取る」ことについて、大学でのやりとりを例に挙げて指摘されている小沢牧子さんの文章を紹介しました。
学習の評価以外の部分で、子どもたちに「息苦しさ」を感じさせているものがあることを、引き続き教えてくださっています。

評価に覆われた学校システムを変える、というと、その試みはすでにこれまでさんざんなされてきたではないかと指摘されるであろう。
その内容のいくつかを示せば、子ども自身を評価主体とすること、指導要領を廃止すること、内申書を開示すること、コミュニケーションとしての評価を充実させることなどで、それらはいずれも早急に取り組みを進めるべき重要な指摘である。
しかしいま考えれば、これらはいずれも、根本的な発想転換であったとはいえない。
学校の問題がその後も噴出しつづけ、なにより子ども・若者が「学び」への願望を評価の圧力のもとに断ち切られ「学び」をあきらめている事情が、これまでの評価論の不十分さをよく示している。
「学力低下問題」があるとするならそれは、学校システムが「学び」を「学校的忠誠心」に置き換えてきた構図そのものが招いた結果としてなのだ。
子ども・若者は学び考えて自分たちの力をつけていく場と機会を取り上げられている。
出席を取るおとなの点呼行為を考えてみよう。
それは「わたしは教師で上位にあり、あなたがたは生徒で下位にある。
わたしは出席を取り、あなたがたは取られる」
という権力関係を確認する儀式の意味が大きい。
その行為は、堕落を作りだしやすい。
教師はこの儀式によって自身の権威を守られ安易な仕事に流れがちになり、生徒は権威に屈伏しながらささやかな反逆-「代返」や授業中の睡眠やメール交換など-にエネルギーを消費する。
ある子どもが学校をさして「耐えるところ」と定義していたが、教師にとっても生徒にとっても、権力装置の上に成立する教室は、耐えかつ疲れるところとなってしまう。
膨大な無駄の発生である。
人間が集まる教室という場は、お互いの学びあいが起こるからこそ面白さがあるのだが、忠誠心を評価しされる関係は、その面白さを閉めだしてしまう。
評価のさまざまな手直しが無駄であるとは言わない。しかし「出席をとらない」との根源まで立ち戻らないと、ねじれきった学びの問題は解けないところに来ているのではないか。
「出席をとらない」とは、もちろん象徴的な意味を含む。
しかし文字通り学校の名にふさわしい学びを取りもどそうとするなら、不可欠かつ具体的な発想転換でもある。
大人が出席簿をかざさないひとりの人間として、素手で子どもたちと向き合う。それは人と人との関係の基本であり、礼儀でもあろう。
そのための勇気が大人の側に求められるであろうが、しかしそれはおそらく最初の小さな勇気ですむだろう。
なぜならそのような場に、学び考える面白さがしだいに息を吹き返してくるであろうからだ。
現時点で意味を失っている「学力」という言葉は、そのときはじめて、新しい意味をもって復活するのかもしれない。
(『「こころの時代」と教育』小沢牧子著 青土社発行 より引用しました)

学校での様々な出来事は当たり前になり過ぎていて、そこに“権力関係”があるなんて考えたこともありませんでした。
知らず知らずのうちに、学校が“耐えるところ”になってしまい、「学び」をあきらめてしまっている…という指摘は、確かに身近で起きているように感じます。
「ひとりの人間として向き合うことは、人と人との関係の基本である」とは、大切で当たり前のことでありながら、大人同士でも、また親子でも(親子だからこそ?)難しいことだなぁ、と思います。


  

Posted by 守綱寺 at 14:27Comments(0)本堂に座って

2022年08月16日

本堂に座って 2022年8月


子どもが夏休みに入り、通知表をもらってきました。各科目の評価はさておき「皆勤賞」が話題になりました。
学校を休まないに越したことはありませんが、そもそも「皆勤賞」って…?と思っていたところ、小沢牧子さんの文章に出遇いました。

学び考える営みと評価とは、相性が悪い物だと思う。
学ぶことが自分や自分たちのためでなく、他人のためになりがちだからだ。
とはいえ、数計算や漢字書き取り、技術習得や語学学習など、課題が限定されているものの評価=点数化の意味までを否定するつもりはない。
百個の漢字を正確に書けるようになろうと目標を立てた子どもが、今日は70点あしたは90点をめざそうと思ったり、今度こそ跳び箱を成功させるぞと意気込むのは、自然でわかりやすい話だ(もっともそれらは、他から評価される筋合いのものではないが)。
しかし「学力」概念があいまいになったいま、学校の評価はいったい、子どもたちの何を測っているのか。
その答は「学校的な忠誠心」である。
もともと学校評価の基本にはその主旨が含まれていた。
まず出席をとる。「ズル休み」という言葉がある。
どうしてずるいというかと言えば、学校は権威への忠誠心を育むところというのが、陰のカリキュラムだからだ。
古くから存在した「皆勤賞」なども、その典型だ。
学校に毎日来ることが忠誠心の証であり、それが踏み絵のひとつになっている。学校への忠誠心は、おとなへの服従の度合いを表すものである。
その種の評価はいまに始まったことではないが、しかし相当にエスカレートしてきたのではないか。
そしてその種の評価は、みずから何かを発見し考え会得する「学び」の営みとは相反する性質を持っている。
大学での授業場面にもどる。
わたしは週にわずか数科目の講義を担当してきただけだが、それでも年数にすると25年にわたる。
その間、出席というものを取ったことはない。
出席を取る意味がそもそもわからないし、時間の無駄だとも思う。
学生たちも10年ほど前まではたしかに、それが当然という顔をしていた。
ところがこの5~6年、「出席は取らないんですか?」という質問が、学生から出るようになった。
「出席を取る意味がわからないから、わたしは取りませんけど」と答えると、なにか言いたそうな顔をする。
「取ってほしいわけ?それはどうして?」とやりとりが始まり、このテーマで丸1時間討論をしたこともあった。
取ってほしいという学生の言い分は次のようである。
「出席した者と、しないでレポートだけ出した者とが同じ評価なのは不公平です、差をつけてほしい」。
わたしは驚いて言う。「講義を聞こうと思って出ているんじゃないの?わたしはもちろん講義を聞いてほしいですよ、準備をしてきて話すんだから。でも強制する筋合いのものじゃないでしょう」。
そんなやりとりをしながら、長い学校生活は人から自発性というものを奪い、自発性の意味を理解することすら困難にするのだと知る。
学ぶということが、忠誠心を評価してもらうことにすっかりかわっているのだ。他人の考えを知り、それをきっかけとして自分や自分たちが考える場としての教室の意味は、放っておけば相当に薄れていく。
教室にともかく身を置いたことの証明によって、人と差をつけたいというのだ。システムのなかではそういうことも場合によってはあるだろうから全否定するわけではないが、以前は正面から堂々と言うことではなかった。しかしだんだんその論理が当然のもののように「学び」の場の中心に座を占めるようになっているとしたら、相当に考え直さなくてはならない。評価が学びを圧殺している。それは学力論よりはるか手前の大きな問題だ。
この頃の学生は意欲がないとか、大学生の学力低下が起きていると嘆く以前に、急いで取り組むべき課題がある。
それは、評価に覆われた学校システムを、根本から変えることである。
(『「こころの時代」と教育』小沢牧子著 青土社発行 より引用しました)

 当たり前のようになされている「評価」「出席を取る」ことにこうした問題があるとは、まったく知りませんでした。(来月、この続きを紹介します。)

  

Posted by 守綱寺 at 11:15Comments(0)本堂に座って