2019年05月19日

清風 2019年4月



にんじん(人参)よりは、
だいこん(大根)がいい

人身(にんじん)受け難し、今すでに受く
(「三帰依文」冒頭の言葉)を聴いた、幼児の発言




お勤めの前には「三帰依文」を読むのですが、寺では家族が揃いやすい夕食の前に夕時勤行をすることにしています。
孫の在ちゃんが、まだ保育園入園前後の頃だったと思います。
「三帰依文」の最初の言葉「人身受け難し、いますでに受く」の「人身」を「にんじん」と詠み慣わしていますので、いつものように「にんじんうけがたし…」と読み、終わったところで在ちゃんが「おじいちゃん、にんじんは苦いし臭いも好きじゃないから、私は大根がいい」と言いました。

仏教の言葉は、中国の呉の時代の読み方をすることがあります。今の日本では
ふつう「人身」は「じんしん」と読みますが、三帰依文の読み上げは、仏教の伝
統的な読み方 ― 呉音読みで「にんじんうけがたし…」と詠み慣わしています。

その時は、その在ちゃんからの「異議申し立て」に可愛いな…と思ったぐらいに聞き流していたのですが(在ちゃんもこの4月から6年生です)、先日あるところでの法話にうかがって、この「にんじんよりは、大根がいい」という発言を紹介しながら、初めて何気なく「大根」と板書しました。
話としてはこれまでにも紹介していましたが板書したのは初めてで、「大根」と書いてみてあらためて気付いたことがありました。
それは、大根の「根」の字についてです。
『大辞典』には、「根本原理、根本となり動かすべからざる原理」
『広辞苑』には、「根、よりどころ。物事のもと」
などの意が出ていました。
「大根(だいこん)」は、「大きい」というか「深い」というか、そういうメッセージの込められた言葉であるということです。
「根」そのものが、そういう意味を持つのでしょうが、それにたまたま「大」の字が付いて「大根」と。

考えてみると、どうでしょうか。
私ども、人間の生きているという営みは、要するに一言で言えば、言葉そのものの表現している「大根(根本となるよりどころ)」を求めて…ということになるのではないでしょうか。
いわゆる、人間の営みの集積である歴史というものは、洋の東西を問わず、大根(根本となるよりどころ)を求めてきた歩み(=歴史)と言えるのではないかと思うのです。
人間の歩み(歴史)とは、本当に安らげる ― 不安・不平・不満の無い、過去には感謝・現在には満足・未来には希望を持てる ― 社会・国を求めてきたのです。過去の先人達も、結果(というか評価)は様々に分かれるでしょうが、その時代にあっては「自分の国を愛するのに、どうして他人の国を憎まねばならぬ必要があろうか」〔中野重治 作家〕との発言もあるのですが、結局は治安維持法などで、そういう発言は認められず、愛国という(正義の?)旗印を立てて“鬼畜米英”という結果になって、殺し合いをしてしまいました。

「私には、敵は いない」(劉暁波(リュウ・シャオ・ポー) 1949年~2017年 2010年ノーベル平和賞受賞)この言葉はリュウ氏の遺言として一考しなければならないのでしょう。

次に安田理深(1900年~1982年 思想家)は、師・曽我量深のその生涯にわたる念仏についての思索を、「念仏の仏教を、単なる救済でなく、自覚自証の途としてみなおしてくるところに革命的な意義がある。」と言い、「よく考えれば、宗教を救済としてのみ見るのは、人間の自己肯定である。」、それなら「根元的意味でのエゴイズムである。それを破って、人間をして深い根元に呼びかえす、自覚こそ宗教の本質でなくてはならぬ。」(『清風』2018年11月号1面の言葉参照)と述べています。

さてあなたは、生きる上で何を「大根(根本のよりどころ)」として生きていますか? 
これらの先人のご苦労を手引きとして、上に掲げた問題意識(「大根」)を考えていきたいと思います。
4月14日(日)午後1時開演、花まつり チャリティ 筍コンサート。
皆さま、どうぞお出かけください。
  

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2019年05月19日

清風 2019年3月



「清風紙」1月号・2月号の一面で紹介した浅田正作さんの詩の題と語句を改めて紹介します。
1月号は「ここ」と題し、「ここに居て喜べず ずい分 よそを捜したが ここをはなれて 喜びは どこにもなかった」。2月号は「足もと」と題し、「なにもかも 当たり前にしているほどの不幸が またとあろうか 如来(ほとけ)はつねに 足もとの幸せに気づけよと 仰せくださる」
これは、冒頭で紹介した釈尊の言葉に呼応している人の受け取りと言えるのではないでしょうか。
この詩で紹介した内容が、実は、現実の私の暮らしで飽きずにしていることで、「人が本当に何を欲しているのかを知るのは、多くの人が考えるほどに容易なことではないこと、それは人間が誰でも解決しなければならない最も困難な問題の一つである」と(「清風」先月号2面に)指摘していることなのでした。
「よく考えれば、宗教を救済としてのみ見るのは、人間の自己肯定である。根源的意味でのエゴイズムである」(2018年11月号1面)という安田理深先生の言葉を紹介させてもらっていますが、要するに親鸞という人は、私たちの宗教観を改めて問うてくださった方ではないかと思います。
宗教観とは宗教をどのように見ているか、受け止めているのか、ということなのですが、少し角度を替えてみれば、幸せについてどのように考えているのかと、一度立ち止まって考えてみるということで
身近なことで言えば、丁度今は受験シーズンの3月ですから受験生の親さんから言えば、何と言っても志望校に合格することでしょう。天神さまへ行ってお札を求め、志望校への合格を祈る方も居られることと思います。子のため、また孫のためと。
合格すれば、当座はそれで良かったというわけですが、しかし入学してみれば、当然のことながら校内ではみんな合格した生徒・学生ばかりです。つまり入学してみれば、合格した喜びは受験生本人からすればもう過去のことで、当たり前の日常生活にもどります。校内での成績が、また当然のことながら、関心事の中心となります。また、志望校を受験し、その希望が適わなかった場合は、第2の志望校への進学ということにしなければならないでしょう。
しかし、その合格・不合格いずれにしても、そのとき、受験できた健康な身体と能力を与えられていたことは、もうこれも当たり前のことになります。

宗教観の一つの典型例として受験を例にしてみたのですが、ここで遠藤周作さん(作家、カソリック教徒)の宗教観を紹介することにします。
「神も仏もあるものかというところから、本当の宗教は始まる」
「私の都合」が作り出している神・仏、それはエゴ(基準は自分の都合に合うか、合わないか。
合えばいただこう、合わなければ排除する)が対象的に作り出しているのであって、狐や狸まで神として祀られていることもあります。
因みに遠藤さんは、自分を「狐狸庵」と称しておられました。
私はこの遠藤さんの狐狸庵という名告りに、私たちが平常忘れ去ってしまっている奥ゆかしさ、本当の意味での謙譲、懐の深い人間観を教えられる心地がします。
これは、大岡昇平さんの作品『俘虜記』の本文、冒頭に添えられてある「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(我が心の善くて殺さぬにはあらず)(『歎異抄』第13章)の言葉とも、響きあっていることを感じます。
これらの作家の作品の心情の底を流れているものこそ、上に掲げた安田先生の文章には、続いて「それを破って人間をして深い根元に呼びかえす、自覚こそ宗教の本質でなくてはならぬ」(2018年11月号「清風」冒頭の文)と記されている、「人間を深い根元に呼びかえす」と言われている、その根元に気づいた人の生き様なのでしょう。
その「深い根元」とは、誕生の言葉それ自身、「私は生まれた」という表現に示されていたのです。
その「深い根元」からの呼びかけ、浅田正作さんの詩で言えば題の「ここ」「足もと」なのですし、それこそが冒頭の「あなたは あなたで在ればよい。あなたは あなたに成ればよい。」という言葉であったのでしょう。

  

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2019年05月19日

清風 2019年5月



人間とは   
その知恵ゆえに
まことに深い闇を生きている

高史明(コ・サミョン) 作家
1932年下関生まれ、在日朝鮮人2世。高等小学校中退。
親鸞聖人の教えに縁を結ばれる。
著書『念仏往生の大地に生きる』『真実のいのちに導かれて』
(いずれも東本願寺出版部発行)他多数

私ども人間は他の生き物とは異なり、意識・理性を備えています。
その知恵のおかげで、いわゆる進歩・進化を遂げてきました。
しかし、その進歩・進化は、逆に退化と呼ばれるような様相を帯びつつあることが、知られるようになってきました。
例えば地球温暖化と言われるように、人間のエネルギー消費が、他の生き物が持続して生息するのに困難とされる地球環境の破壊をもたらし、その原因とされるCO2の排出量を減らすという施策を行い、特にGNP(国民総生産)の高い国に対しては達成目標数値を示す事態となっています。

先月号では「人身受け難し」という三帰依文の冒頭に置かれている言葉を紹介しながら、人身(野菜の人参、そして大根)という幼児の言語感覚に教えられて、私たちは何を生きる上での大根(根本のよりどころ)として生きようとしているかを考えてみました。

仏教の基本的な教えを語る言葉としての「縁起(因縁生起)」、それをもう少し説明している「重々無尽 法界縁起」という言葉をご存知でしょうか。
「重々無尽」とは互いに関係し合って際限の無いこと、また「法界縁起」とはあらゆるものが互いに縁となって現れ起こっている、という意味とされています。
こんなことを語られている本に出会いました。
普通、日常的な時間と神話的な時間があって、その片方の日常的時間だけを思っているときもある。
「早く早く、ご飯を食べないと遅れるわよ」と言ったときに、その時のお母さんの考えは日常的な時間で、これは神話的時間ではない。
それにせかされている子どもも神話的な時間ではない時間を生きていることになります。
東京で調査したところが、子どもがお母さんから聞くことばの中で多いことばは、「はやく、はやく」だそうですよ。
「はやく、はやく」って、これは神話的時間じゃないんで
これは近代的時間です。能率的なその瞬間の中で生涯を過ごすとどうなんですか。
五十年、六十年生きていても、早く早くで生涯終わってしまったらどうなんでしょうね。
文学にも何にも縁がないですよ。
『神話的時間』熊本子どもの本研究会刊 1998年1月9刷
鶴見俊輔(1922~2015年)
ハーバード大学で哲学するということ、「生きるとは思索する、考えるということ」であることと学ぶ。
1946年、雑誌『思想の科学』創刊の中核を担う。
ベ平連などの社会運動にも参加。

そこで「根本的なよりどころ」を考えるヒントとして、冒頭の高史明さんの言葉と、上記の鶴見さんの『神話的時間』の一節を紹介しました。
これらの言葉を紹介するのは、「清風」昨年11月号1面で紹介した安田理深先生の言葉、「念仏の仏教を、単なる救済ではなく、自覚自証の途としてみなおしてくるところに、曽我先生の思索、学びの)革命的な意味がある。
(略)人間をして深い根元に呼びかえす、自覚こそ宗教の本質でなくてはならぬ。しかもその自覚は理知的というよりも、根元の深みへ呼びかえし目覚ますという意味での自覚である。」に、実は導かれてのことなのです。

冒頭の高史明さんの「人間とは、その知恵ゆえに、まことに深い闇を生きている」という指摘は、私たち人間にとっての“大根”とは、自己の他に求められることではなく、私の知恵・理性の底(根っこ、内観するその気づき)にこそあるのだと見出したのが仏教(佛陀の教え、目覚め・気づきの教え)であったからです。

仏教の「救い」とは、これから努力して実現する次元のことではなく、すでに救いのド真ん中にいるのにそれに気づけない私である、という目覚めから出発することであったのです。親鸞聖人の言われる「難信」も、そういう意味であるのです。
私の知恵・分別こそが、私を救いから遠ざけていたのです。だから「ただ念仏」の教えは「難信」と言われてきたのです。
「苦悩する」というのは、既に与えられているからこそ、生じるのです。

  

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2019年03月04日

清風 2019年2月



先月号の最後に、釈尊は、この世に出てきた用事は何であったのかを「出世の本懐」と受け止められ、念仏の教えを聞いてきた先輩は「仏法を聴聞することである」と受け止めてこられたのです、と記しました。
さあ、どうでしょうか。冒頭で紹介した詩「足もと」にも記されているように、私どもは日常生活の中では、それこそ「なにもかも 当たり前にしている」のですね。
「進歩」という名称・レッテルを付けて。変わっていくのは、身につけている「コロモ」だけなのですね。
平均寿命という数字で、長生きが出来るようになっても、かつての敬老という言葉が内容がなくなっていき、少子・高齢化というコロモが付けられてきました。
子育ては手間のかかること、高齢者は身体機能が衰えて、要するに「間に合わない」というわけです。                      (2面に続く)

(1面より)
進歩とは、先進七カ国(G7)と言われるように、その内実はGNP(国民総生産)であり、豊かさ ―例えば物の生産高の高いことと数字で示されているごとく― で、先進とは経済に特化した生産高からの評価です。
ですから、万博を契機として海外からの人も当てにして儲けようと、カジノ依存症が心配されている賭博場を開設しようと大阪、愛知でも検討されている始末です。
ここで、この経済・豊かさということを考える場合の考え方を巡って、一思想家の指摘を紹介しましょう。
そして、その言葉の解説と言える、冒頭に掲げた詩の「足もとの幸せに気づけよ」という如来(ほとけ)の呼びかけが意味するところを、少し脇道をしながら、ゆっくり考えてみることにします。

「私は自分を幸福にしてくれると予想され、しかもそれに到達した瞬間、巧みに私をはぐらかすような目的を追っているのではなかろうか。
(略)すなわち現代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎないというのが真実」ではないかと。
そして次のように結論する。
「このことを認めるためには、人が本当に何を欲しているかを知るのは多くの人の考えるほどに容易ではないこと、それは人間が誰でも解決しなければならないもっとも困難な問題の一つであることを理解することが必要である。」と。(下線は引用者による)
『自由からの逃走』P278(E・フロム著 東京創元社刊)

現代は、商品社会です。お金さえあれば何でも欲しいものはすぐ手に入るという、欲望が肥大化した社会を迎え、お金が異常なまでに評価されている社会と言えます。
そこでは、我々の自我が肥大化しているということですが、自分がどう評価されているかという、ある種、商品化され、評価の対象とされています。
わかりやすく言えば、どんな“コロモ”(学歴・能力など)を身に付けているかによって評価される、つまり間に合うか、間に合わないか、人も物もすべてが道具扱いされることになってしまっている時代となっているのです。

今こそ「いのちは尊い」という場合の、そのいのちには、人間以外のいのちは含まれていたのだろうか、この先人の伝えたかったメッセージとはどんな内容のことであったのか、我々が「当たり前」としてきた代償が、今問われ始めたのでしょう。
例えば、欲望の肥大化が地球温暖化という事実をもって突きつけられているように。
これが実は、現代人の根本的課題なのでしょう。
いのちを育んできた環境、地球を、単に資源としてのみ受け止め、栄華を誇って、後世にそのツケを追わせるのはいかがなものであろうかと。
まこと、足もとの幸せに気づけよと、仰せくださる。
(続く)

  

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2019年02月26日

清風 2019年1月



「私の出世本懐」について
先月号で、「長生きはめでたい事なのか」というテーマで投書された男性(83歳)の意見を紹介しました。
人類は長生き出来ることを願って生きてきたと言っても過言ではないでしょう。
そして我が国は、その長生きを世界でもいち早く達成したと思われる、その時に上記の投書があったのです。
その投書の内容は、「日本では安楽死が出来ないので、出来るように法の整備をして欲しい」というものでした。
釈尊は、人生に於ける苦として「四苦(生老病死)」を挙げておられます。
そしてこの四苦は、四つの諦(「諦」は真理を表現する言葉です)であると言われます。
苦が真理である ― 生まれることも苦諦であり、真理を表現している事柄なのだと。
では何故、苦が真理を表現している事柄なのでしょうか。
仏教では「人身受け難し」というのが、その教えの基本です。
「生まれた」と過去形で表すように、「生まれる」とは「身体が先に この世へ 出てきてしまったのである その用事は何であったのか いつの日か思い当たるときの ある人は 幸福である」と詩人(杉山平一)が記していますが、誰にとってもまったく受動的な出来事に違いないのでしょう。
その出来事を、「人身受け難し」と、仏教では教えています。
それは仏法が「目覚めの教え」と言われるように ― 佛陀・ブッダはインドの言葉で「目覚めた人」の意ですから、「成仏」は目覚めたものに成るという意味です― 人間は生まれた限り、上に記した詩人の「その用事は何であったのか」という問いを誰もが抱えていたのです。
その問いが83歳にして、やっと意識の上にあがってきた、ということです。

人間が、動物と違って「苦悩する」というのは、実は人間には「その用事は何であったのか」を問わなければならないのに、その男性は気づかずに今まできてしまった…ということであったのでしょう。釈尊は、この世に出た用事は何であったのかを「出世の本懐」と受け止められ、念仏の教えを聞いてきた先輩は仏法を聴聞することであると受け止めてきてくださっていたのです。
さぁ、何を聴聞するのでしょう? 勿論「その用事は何であったのか」を、でしょう。

  

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2019年01月04日

清風 2018年12月



当流上人の御勧化の信心の一途は、つみの軽重をいわず、また妄念妄執のこころのやまずなんどいう機のあつかいをさしおきて、ただ在家止住のやからは一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたがいなくたのむこころの一念おこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちてそのひとを摂取したもうなり。
これすなわち、仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ、信心を如来よりあたえたもうというもこのこころなり。
されば、このうえには、たとえ名号をとなうるとも、仏たすけたまえとはおもうべからず、ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることのかたじけなさのあまり、弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり。
これまことの専修念仏の行者なり。これまた、当流にたつるところの一念発起平常業成ともうすも、このこころなり。あなかしこ。

本願寺8代留守職 蓮如上人作(寛正2年(1461年)蓮如上人47歳)
帖外御文 … 五帖に編集したものからもれたものが   
「帖外御文」として編集されたものと伝わる。


この「お文」で注目させられるのは、波線の部分ではないでしょうか。

親鸞聖人の言葉としては「ただ“念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせを蒙(こうむ)りて”信ずるほかに別の子細なきなり。」(『歎異抄』第2章)と伝えられています。

上記、蓮如上人の「ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることのかたじけなさのあまり」の文意が分かりにくいのではないでしょうか。
この文章に「やすく御たすけあることのかたじけなさ」と言われている、その「たすかる」という言葉の意味が、現代を生きる私どもには分かってしまっているのではないかと思うのです。
この場合の「たすかる」こととは、私の目の前の状況が自分の都合のいいように成ることでしょう。例えば、風邪を患っている人なら、風邪が治る…というように。

宗教といえば「たすかること」、あるいは「たすけてほしい」と願う行為と考えられているのではないでしょうか。
この御文で「このうえには、たとえ名号をとなうるとも、仏たすけたまえ(①)とはおもうべからず、ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけ(②)あるかたじけなさ」とあるうち、①でいう「たすけ」と②でいわれる「たすけ」が同じなのか違うのか、同じだとすれば重複して使われている意味は何なのか、また違うなら①と②はどう違うのか、それぞれ明らかにしなければならないでしょう。

このことは、83歳男性の新聞への投書にあった「長生きはめでたいことなのか」という心配にも表れているように思わされました。
長生きは、人類が願ってきた大きな共通の願望と言えるでしょう。
しかしこの男性は83歳を過ぎて、少子高齢化対策が取り沙汰されていますが、「高齢化対策は、もっぱら、いかに支えて長生きさせるかという観点からの対策です。
これでいいのでしょうか。私も介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない日がくるかもしれません。
その時、そんな状態で生き長らえたくはありません。介護を拒否し、安楽になることを願います。しかし、自分で安楽になることはできません。
社会が措置してくれることを願います。これは多くの高齢者の願いではないでしょうか。皆さんは、どうお考えでしょうか。」と。
要するに、安楽死・尊厳死を社会が許容する、そういう制度の整備をして欲しいということが、この男性の願望のようです。

科学(ここでは医学と医療技術)の発達は、今や過剰な延命治療を可能にし、自然で静かな最後を拒むようになった、と言われているようです。
長生きが達成されたその時、長生きを実現した高齢者が安楽死・尊厳死を願っている…。
これが、望んできたことが実現したときにぶち当たった鉄壁でした。
思いどおりになった時、自分の身体が私の思い通りにならないという事態に直面しなければならなくなったわけです。

さて、上に挙げた①と②の「たすけ」という言葉を大切にして、仏教でいう「たすかる」について、この男性の訴えをどういう視点から考えようとしたかを、次号で明らかにできたらと思います。

  

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2019年01月04日

清風 2018年11月



念仏の仏教を、単なる救済でなく、自覚自証の途としてみなおしてくるところに革命的な意義がある。
よく考えれば、宗教を救済としてのみ見るのは、人間の自己肯定である。根元的意味でのエゴイズムである。
それを破って、人間をして深い根元に呼びかえす、自覚こそ宗教の本質でなくてはならぬ。
しかもその自覚は理知的というよりも、根元の深みへ呼びかえし目覚ますという意味での自覚である。
安田理深(1900~1982『選集』別巻1・P33~34)


毎年「報恩講」として勤まります親鸞聖人のご法事が、今年も守綱寺では11月10日(土)・11日(日)と執行されます。
両日とも午前・午後と勤まりますので、一座でも参詣・聴聞いただきますよう、ご案内いたします。

さて、話は少し飛びますが、この10月3日・4日・5日と南九州(旧薩摩の国)へ行ってきました。
すでにご存知の方もおられると思いますが、薩摩の国では親鸞聖人の「お念仏」の流れに身をおく者は、江戸時代ほぼ300年間(明治9年まで)禁制とされました。
勿論、禁を犯した者は処罰され、本願寺の流れの念仏申す人は「かくれ念仏」者として、おおっぴらに念仏申すことは禁止されていました。
今も、なぜそのような扱いを受けたのか、その理由については定かにはなっていないようです。

そのことについて小生は、私どもが明治150年、近代化の歩みの中で、そうした当時の民衆の魂のありようというものが分からなくなってしまったのではないのか、と思わされました。
一体どういうことかというと、まず、2017年8月号『清風』の巻頭で紹介した「私には敵はいない」という劉暁波さん(中国のノーベル賞作家)の言葉と、同じく『清風』2018年6月号の巻頭で紹介した「「生きる」とは奇跡の自覚に他ならない」という若くして亡くなった池田晶子さん(1960~2007)の言葉が思い起こされてきました。
(これらの言葉については、その月の『清風』をお読みくださればと思います。)
この薩摩で起こった念仏者への藩指導者からの偏見・差別の視点から、私どもは念仏者としてあらためて念仏の教えに対する大切な一点を教えられているのです。
これらの言葉はいずれも、先に挙げた安田先生の言葉「根元の深みへ呼びかえし、目覚ますという」ハタラキを持った言葉と言えるのでしょう。
これも先に指摘しておいたのですが、明治150年、近代化の歩みの中で、江戸時代の民衆が持っていた魂の有り様、つまり「生きる」とは「改めて学ばなくても分かるものなのか」という問いを持つことすら、現代に生きる私どもはなくなってしまっているのではないかと思うのです。
例えば「報恩講」の「恩」とはどういうことなのでしょうか。「報恩」と言う限り「恩に報いる」ことであり、また「恩を報せる(知らせる)」ということでもあります。
それが少なくとも750年余り「報恩講」という名のもとに勤められてきました。
その報恩講は今の時代にはどういう意味を持つのか、今回薩摩へ行ってから、私の意識に上がってきたのでした。
「恩」は、「因」と「心」から作られています。「因」の字は「口」と「大」から出来ていますが、これは布団あるいは蓆(むしろ)に大の字になって寝ている形を示し、その敷物は常に使用し親しむものであるから、「因」に「心」を添えた「恩」は恩沢・恵みを意味する(『常用字解』)と記されています。
恵みという言葉も、今ではあまり使われなくなりましたが…例えて言えば「敵」も与えられたものでしょう。
敵の反対は味方ですが、それも与えられたものなのです。行動(発言)すれば反応があります。
その時に「私には敵はいない」と言えるのは、そこから対話が始まるということを示すのでしょう。
先月号の1面で「対話は、それを通じて各人が自分を超えることを希(ねが)ってなされる。相手へのリスペクト(尊敬)と自己へのサスペクト(疑念)が無ければ成り立たない」、そういう意味からすれば、対話は「相手を敵としてやっつける、勝ち負けのためのディベートよりははるかに難しい」とありました。

相手も生きておられるのは奇跡であり、私もまた奇跡のような生をいただいているという池田晶子さんの指摘にあるように、「いのちをいただいて生きているのは尊い」という「恵み」をいただいた今、そのいのちでエゴを満足させるだけでは勿体ないと言える人生がこの私に開かれた、その驚き・感動こそが、薩摩の「かくれ念仏」という形で念仏相続していかれた証なのでしょう。
身分に上下はあっても一人の凡夫として一人一人は尊いということを、念仏の教えに出遇って頷いていかれたのです。
この気づきこそ、人間としての本当の意味での生まれ甲斐なのだという境地を、薩摩のかくれ念仏の同行(門徒)はいただいていかれたからこそ、迫害の中も念仏の教えを相続していけたのではないかと、改めて自坊の報恩講を勤める意味を受け止めさせてもらいました。

  

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2019年01月04日

清風 2018年10月



対話こそは、暴力・戦争に対する
真の意味での反対語なのです。
 (暉峻淑子『対話する社会へ』経済学者 岩波新書2017.1刊)

ディベートは、話す前と後で考えが変わったほうが負け。ダイアローグは、話す前と後で考えが変わっていなければ意味がない。 <平田オリザ>

ディベート(討論)とダイアローグ(対話)の違いについて訊(たず)ねたとき、劇作家(平田オリザ)から即座に返ってきた答え。
対話は、共通の足場を持たない者の間で試みられる。呼びかけと応えの愉(たの)しい交換であり、吐露と聴取の控えめな交換であり、埋まらない溝を思い知らされた後の沈黙の交換でもある。討論よりおそらくはるかに難しい。
『折々の言葉』(2018・2・20)朝日新聞より 鷲田清一 執筆

論破禁止 <高橋源一郎>

明治学院大学・高橋ゼミの方針は何かと問われ、作家(でもある高橋)はこう答えた。「誰かを論破しようとしている時の人間の顔つきは、自分の正しさに酔ってるみたいで、すごく卑しい感じがするから」と。
対話は、それを通じて各人が自分を超えることを希(ねが)ってなされる。相手へのリスペクト(敬意)と自己へのサスペクト(疑念)がなければ成り立たない。(2018・1・15のツイッターから)
『折々の言葉』(2018・2・19)上記に同じ

現在の我が国では、議論というとディベートになってしまい、対話にはならないようです。
「囲い込む」というのでしょうか、「レッテル貼り」とでもいうのでしょうか、「相手への敬意と自己への疑念がなく」、せっかく議論の場が設定されても言いっ放しになっているようです。
議論が展開してお互いが「埋まらない溝を思い知らされた後の沈黙の交換」にはなっていない後味の悪さのみが残るという非生産的な議論しかされない内容となっているのは、何故でしょうか。
対話は、「それを通じて各人が自分を超えることを希(ねが)ってなされる、相手への敬意と自己への疑念がなければ成り立たない」と言われています。
「討論よりおそらくはるかに難しい」と言われている理由かもしれません。

さて、話はちょっと飛ぶのですが、日本国の憲法を読まれたことはありますか。
それこそ多忙で、ゆっくり読んだことがないという方もおられるのではないかと思いますが、今の憲法は、1930年からの戦争の惨禍(アジア、ことに朝鮮・中国並びにアジア各地の人々に、我が国は五百万を超える犠牲者を出した、これらの犠牲)の上に、この憲法は生まれたのでした。その願いが次のように示されています。
先ず「前文」の冒頭です。「日本国民は、(略)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
そして第9条には「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

そういう事実の上に立って、日本国民はこの憲法を確定したのです。

憲法第99条に、わざわざ「憲法尊重擁護の義務」として「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と記されています。
「憲法尊重擁護の義務」に国民は入っていません。
なぜなら、国民は主権者として政府がこの憲法の制定の願いを外さないよう監視する義務をこそ、先に述べた、我が国の犠牲になったアジアの諸国民に負っているのです。
勿論、この国の犠牲者である、広島・長崎の原爆犠牲者、連合軍の空爆の犠牲になった人々の願いも込められていることも忘れてはならないことですが。
国会議員の諸氏は、先ずもって第99条の「憲法擁護の義務」には「国民」の語が無いことの確認、確かめから議論を始められるよう願われていることを忘れないでいただきたいと思います。

冒頭に掲げた言葉に「対話こそは暴力・戦争に対する真の意味での反対語なのです」とあるように、話し合いがいい加減にされ、議論が成り立たないということは、もうすでに暴力の行使・戦争状態にあるということなのです。
なぜなら、戦争・暴力は対話を無視するところ、つまり冒頭の「論破禁止」で述べられているように、「対話はそれを通じて各人が自分を超えることを希ってなされる。
相手へのリスペクト(敬意)と自己へのサスペクト(疑念)がなければなりたたない」からなのです。
対話こそが暴力・戦争に対する真の意味での反対語なのです。
平和であることのキーワードは「いのちは尊い」ということがスタート地点であり、また結論なのですから。
  

Posted by 守綱寺 at 15:48Comments(0)清風

2019年01月04日

清風 2018年9月



君は   
何をしに この世に
生まれてきたのだね。
西村見暁


今夏の盆会のお勤めをしながら考えさせられたことを記します。
今年の夏は、天気予報でも「今までに経験したことのない異常気象」が続いていると毎日伝えていましたが、正直参りました。
残暑お見舞い申し上げます、と言いたいのですが、この暑さ、どうなるやら…。
引き続き、お体に気をつけてお過ごしください。

さて、お盆にちなんでと前置きしたのですが、お盆は正式には盂蘭盆会と書いて「うらぼんえ」と呼び習わしてきました。
お盆はその略称です。これはインドの言葉(サンスクリット語のULLAMBANA)ウッランバナの音を漢字で写した文字です。
「ウッランバナ」の意味は「顚倒している」で、「苦悩、悩んでいる」という意味です。
顚倒とは「頭を下に、足を上にしていること」で、これは苦しい状態です。
つまり人間が苦しみ悩むのには、それなりの理由があるというのです。顚倒、それが理由であると。

そこで、仏教という言葉に返って、仏教の考え方(原理・原則)を確認しておきたいと思います。
仏教とはブッダの教えです。
ブッダとは、これもインドの言葉で、目覚めた人・迷いを克服した人の意味です。
ですから、「成仏」も意味のある言葉なのです。
成仏とは「目覚めたものに成る」という意味なのです。
現在、日本で圧倒的多数の方の理解は、成仏とは死ぬことになっています。
「あいつもとうとう成仏した」というように。そしてまた、亡くなった人が迷っているという意味で、「まだ成仏しとらん」と使われているようです。
成仏とは「亡くなったこと」や「成仏しとらん」と他の人のことについて言う言葉ではなくて、私が人と生まれたことには「成仏」という課題のあることに気づかねばならないということを示す、仏教からのメッセージなわけです。
成仏は、釈尊においては「出世本懐」といわれているように、私が世に出た(出生した)意味を問う言葉なのです。
それを簡潔に表現したのが、冒頭のことばです。

ところで宗教というと、「救い」「救われる」というように日常的には使われ、「救い」の内容は自分の思い通りに成ること、自分の都合のいいように成ること、のようです。
都合よくならなければ「神も仏もあるもんか」となり、もし思った通りに成れば「オレにも相当運が向いてきているぞ」と。
仏教も宗教の部類に入れられているようですが、多くの人は、仏教についてもだいたい上に述べたように理解されているのではないでしょうか。

ふつう仏教は、古来「仏・法・僧」と言われているように、仏(人)・法(真理)・僧(サンガ=ブッダの法を聞く仲間・グループ)と、三つの宝から構成されていると言われます。
法が真理と言われてきたように、釈尊もその法(真理)に目覚めた人であり、ブッダとも言われます。
目覚めた人は何に目覚めたのかといえば、法(真理)に目覚めたのでしょう。
だから釈尊も、自らこの法を真理として尊んでこられ、後世、ブッダ(仏)は「法から生まれた人」と呼ばれてきました。
仏教で法というのは、ダルマ(真理)を指す言葉です。
我が国で法といえば法律を意味していますので、同じ語(法)を使いますが、相当意味は違っています。

親鸞、その人もお師匠・法然上人を「阿弥陀如来の化身」と敬っておられます。
阿弥陀如来化してこそ  本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば  浄土にかえりたまいにき (源空=法然上人)

仏教で「愚痴」ということをいいます。愚痴とは「道理がわからない意。言ってもどうしようもないことをくどくど言うこと」とあります(『新明解国語辞典』三省堂書店刊)。
ここで面白いのは「道理がわからない意」とあることです。
「ものの道理」という言い方もあるように、ものごと、そのことがそうなっているのにはそうなる道理があるのに、その道理が分からないから愚痴を言っているわけで、言ってもどうしようもないこと(つまり、愚痴)を言っているというわけです。
その道理とは一言で言えば、「私が悩めるのは、すでに与えられているからであるのに、そのことは“当たり前”としてしか受けとめることができず、足らざるものがあるから悩むのだと思っている」ということを示しているのです。
                                (つづく)
  

Posted by 守綱寺 at 15:34Comments(0)清風

2019年01月04日

清風 2018年8月



いつでも何でも好きなものが手に入る。
それは「豊かさ」ではないのかもしれない。
松村圭一郎


人類の「豊かさ」を求める行動の結果である「地球温暖化」という現象が、地球の生態系の変化やら様々な異常状態を巻き起こしているということを、ここ10年ほど耳にするようになりました。
そして今年、その具体的現象としての夏の異常な暑さ、また異常な降雨量による各地の水害を聞いています。
ここ数年、毎年夏の長期休暇が取れる頃、アフリカ・エチオピアの現地調査に行かれる松村圭一郎氏(人類学者)が新聞に寄せた随想で、こんな風に文章を結んでおられ、大変感銘を受けました。
その随想の結論の言葉が、巻頭に掲げた文章です。

ことに最後の「ではない」の次に置かれた「のかもしれない」との言葉遣いは、進化・進歩と、何か「今日よりは明日、明日よりは明後日」と追い立てられる様にしてきた、
そしてこれからもしていくだろう今の我々人間の生き様について、「それは物(道具)の世界のことであって、考える英知を与えられている人間には成熟ということが必要なのだ」と指摘されているのではないでしょうか。
人間に生まれたということの課題性、つまり問いを持つこと、もっと云えば問いを持てる可能性こそ人間の特色ではないかと。

「何のための豊かさなのか」とは、「生きるとは」という問いを含んでいることであったということなのでしょう。

かつて、歌手・植木等さんの持ち歌に「わかっちゃいるけど、やめられない」のフレーズがメインの「スーダラ節」という歌謡曲がありました。
この歌が作られてきた時、生真面目な植木さんは歌う気がおこらず、大変に落ち込んでいたのだそうです。
その苦境から抜け出せたのは、植木さんの父・徹誠氏の「お前の今度の歌は、親鸞聖人・念仏の教えに深く通底している歌だ」という一言だったと聞いています。
「努力と頑張る」、そして稼いだ金で消費する、これが現代では最高の人間を表現する形容詞なのでしょう。
「悪いこととわかっておってもやめられない」。何故でしょう? それは一面でも記しているとおり、人間には「考える知恵」が備わっているからでしょう。

国会では、カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法案が可決される見込だと報じています(7月19日現在)。
カジノは本来、刑法の「賭博罪」にあたり、禁止されています。それにギャンブル依存症を増やしかねないとする意見も根強く、慎重に審議することが各界から求められています。
しかし国会では、先刻そんなことはわかっている、しかしやめられない、ということで法案は通過する予定です。
人間の持っている知恵とやらは、「理屈はどうにでも付けられるもの」と云われているように、刑法の賭博罪にあたろうとも、「適用除外」という無理を重ねて賭博を法律で認めようというわけです。
やはり、無理は無理なわけで、法案成立後、国会審議を経ずに規則・政令・省令で決める項目が331にも上ると言われています。
ではその「理屈」というのは何かというと、要するに、カジノではかなり儲かるらしいのだそうです。
カジノ依存症というマイナスはあるけれども、カジノの賭け金が我が国の経済成長に貢献するというわけです。
「人間のためにある経済」が、「経済成長のために人間もいる」ことにされてしまっています。
経済成長の為なら、例え悪いとわかっていても実現していくのです。まさに「わかっちゃいるけど、やめられない」のでしょう。
人間は病んでいるもの、これが仏教の人間観です。

ブッダ(佛陀・BUDDHA)は目覚めた者という意味です。
目覚めとは、私は眠っていた・迷っていたと気づくことを指します。
人間(私)は何のために生まれてきたのか、それが、本当はわかっていないのにわかっていると錯覚していて、その錯覚から目覚めることが容易ではない生き物…それがどうやら人間(私)であるらしいのです。

愚かで迷いが深い故に、迷っていることも知らずに生きている。(『狂雲集』一休禅師)
  

Posted by 守綱寺 at 15:19Comments(0)清風