2024年03月11日

清風 2024年3月


天命に安んじて 人事を尽くす
清沢満之
註)人事 … 文字通り、私のしていること(私の努力)を指す。
(「人員の配置」のみを指すのではない。)

清沢満之師は「祈祷は迷信の特徴なり」(『仏教』158号 明治33年1月発行)の文章中に、「余は天命に安んじて人事を尽くすというのが可なるを思う」と記している。
(『清沢満之集』岩波文庫P234~に掲載)
何故なら、普通に言われる「人事を尽くして天命を待つ」とは、どこか不安が残るからである。
私の限られた経験で得た経験は、やはり完全ではないからである。
十分ということが言えないで天命を待つのは、結果に悔いが残る。
うまくいかなければ責任を他に転嫁したくなるし、うまくいけば有頂天になって人から嫌われるだけである。

天命に安んじて人事を尽くす ― 母親の胸に懐かれて、安心して乳を飲む赤子、とでも言おうか。
一生懸命努力するのであるが、しかし「評価は他人にまかす」とでも言おうか。

人は何故、疲れるのか ― 自分で自分の行為の結果を評価していることに気づけないからである、と聞いたことがある。
行為によってただちに疲れるのではないらしい。評価をしようとする私の心が、疲れさせるのだそうだ。

人事を尽くして天命を待てない、そこにはもがく以外ない私がいる。
「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』第2章)という言葉がある。
人間(私)のしている行為のすべては、すべて危なっかしい。楽を求めて苦しむ自分であることを知らされる。
ウクライナへ攻め込んでいったロシアのプーチン、イスラエルでのイスラム組織ハマスとイスラエル軍の戦闘。
人間の努力は危なっかしい。善のすべてが地獄に化けてしまうのだから、と。戦争は両方共に、善と善の立場に立って始められる。

さて現代日本の中枢も、「利の追求」という当座の目的を「新○○」とか言うけれども中身は何もないのだということが、「政治資金」の流れも「政治資金収支報告書」の不記載の経緯もそのお金の使い道も調べようとはしていないと、新聞には書かれている。
要するに「経済、経済、経済」と言いながら、裏金作りに忙しいだけで、特に「経済」と連呼した中身は、勝手に使って報告の必要がない「裏金」が欲しいということだけのことだったのか?

もうそろそろ、日本人も目を覚ますべき時に来ているのではなかろうか。
何に?我が国では「政治家たちが、社会的に問題のある団体と結託してでも遮二無二多数を取って、国を私物化して、自分たちが甘い汁をすすって、40年間私腹を肥やしてきた ― そういう人を代表者として国会に送り出していた」ことに目を覚まして、次の選挙を、これからの国を再起させる最後のチャンスにするべきだということに。

我々の先輩は、現行憲法の前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」と内外に表明したではなかったか。
この憲法が施行された2ヶ月前、1947年3月31日に「教育基本法」が制定・公布されている。その前文に、

「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を
 期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす
 教育を普及徹底しなければならない。
 ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の
 教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」

 と記されている。

 しかし、この憲法の精神を立法化した「教育基本法」は、第1次安倍政権成立直後の2006年12月に廃止された。その直後、第1次安倍政権は参議院議員選挙で惨敗し退陣している。
憲法を改悪する準備として、学校教育の現場を政府の立場(改憲)の邪魔にならないようにしておく必要があったからであろうか。

  

Posted by 守綱寺 at 14:51Comments(0)清風

2024年02月15日

清風 2024年2月


禍(わざわ)い 転じて 福となす


1月1日、文字通り正月の午後4時頃、大きな地震がありました。
能登半島に大きな被害を与え、復興についての計画も、インフラ(道路・水道・電気など)の復興、そして住まいの課題と、今も余震の続く中で、困難な事態(大地の隆起・沈没等)も起こり、日常の生活を取り戻すのも大変なようです。
災害地から離れて生きている私達にも、実は問われていることがあるのです。
池田晶子さんは、こんな風に言っておられました。

「奇跡とは何か変わった特別の出来事を言うのではなくて、いつも「当たり前」
に思っていたことが、実はすごいことだったと気がつくことなのです。」

この度の能登地震の状況をテレビで見、新聞で読むにつけ、平和というか、「普通の生活を生きることの貴重さ」ということを、自分自身に全く感じられない日常の感性というものの貧弱さを、改めて思われた方もおありになるかと思います。
それにつけても、昨年頃から「清風」紙上でも紹介しているように、憲法第9条(戦争の放棄・軍備及び交戦権の否認)が、現在の与党の解釈で全く骨抜きにされ、もう人間の身体の状況に比して表現すれば、9条はほとんど死に体の状況と言えるような症状に追い込まれています。
自民党は予算に、「専守防衛」を空洞化させる“敵基地攻撃能力”のための長距離ミサイルや、現にある戦艦を改造して航空母艦にする、また陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・システム搭載艦」の費用も計上しました。
敵国のミサイル基地を自衛隊の戦闘機や艦船から巡航ミサイルで叩きつぶそうと、防衛力強化を目指しています。
攻撃は軍事施設だけでなく、民間も犠牲になるでしょう。侵略と亡国の歴史を忘れ、専守防衛の国是を逸脱した暴論でしかありません。
憲法の前文を読み、憲法に込めた先輩の願いを確かめなければならないと思うことしきりです。
日本国憲法前文には、こう書かれています。
日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする
ことを決意し、この憲法を確定する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

以下に、『憲法と戦争』(C・ダグラス・ラミス著)より、著者と対談したチャールズ・M・オーバビー氏の発言を紹介します。

日本を講演旅行していると、アメリカ人が日本国憲法第9条に興味をもったりするのかとよく聞かれます。
よその国の国民に、日本の憲法9条に興味をもってもらえるのか、ということです。
米国内でアメリカ人一般に9条に興味をもってもらえない理由はいくつかあります。
米国政府に、日本国憲法第9条を規範として奨励する気持ちが一つもないことが大きな理由の一つです。     (P142より)

私自身はそれでもまだ諦めようとは思いません。
この73ワードの英文(第9条は英訳されると73ワードになる)は日本人のみならず全人類への未来からの贈りもののようなものです。
地上に生きるすべての人びとのものです。(P143より)

日本がいわゆる「普通の国」になるのではなく、主権者としての日本国民がその指導者に、創造的な「普通ではない国」となるよう働きかけるように私はお願いしたい。
「日本国憲法に書かれているこの言葉は全人類への贈りものなのだ、埃をかぶった意味のない憲法の条項ではなく、全世界で生かされるべきものなのだ」と言えるほどの自信を、何とかして身につけてほしい。日本国憲法を救うことができるのは主権者としての日本人だけなのです。
(P161~162より)

『憲法と戦争』C・ダグラス・ラミス著 2000年8月30日初版刊
C・ダグラス・ラミス
1936年サンフランシスコ生まれ。カリフォルニア大学で政治思想史を学ぶ。
1960年に来日。以来、京都・奈良・東京などに暮らす。津田塾大学教授等を歴任。
チャールズ・M・オーバビー
1926年生まれ。朝鮮戦争に従軍後、ウィスコンシン大学で博士号取得。
湾岸戦争後の1991年「第9条の会」を米国で設立し、日本国憲法第9条・
戦争の放棄を世界に伝える運動を展開。

1947年に施行された憲法が持つ大いなる使命は、戦争終結(1945年)までに世界で第一次・第二次世界大戦などがあり9千万人が戦死したとされる、この尊い犠牲を思う時、日本の戦争責任の告白は、この憲法第9条こそが、世界に向けた、ことにアジア各国への戦争責任を果たすことだったと思います。
今、能登地震の惨状を聞くにつけ、この震災をきっかけとして、この地震の犠牲を無にすることのないことを願い、「日本人は勇気を出して、9条の原理と一致する方向に進路を変えよう」と働きかけていく責務を果たしていきたいものです。


  

Posted by 守綱寺 at 13:42Comments(0)清風

2024年01月09日

清風 2024年1月


私たちはどこから来たのか、わたしたちは何者か、
私たちはどこへ行くのか
フランスの画家  ゴーギャン

「清風」紙・2023年11月号に掲載した、昭和21年11月3日に公布された「新憲法」についての鈴木大拙老師の講演(昭和22年3月出版)の中で、「序」において次のように述べておられる。

新憲法の発布は日本霊性化の第一歩と云ってもよい。
これは政治的革命を意味するだけのものではない。戦争放棄は「世界政府」又は「世界国家」建設の伏線である。
これはただ日本の憲法の条文中に編み込まれたと云うだけでは済まされぬ、霊性的なものがその裏にある。
これに気付かないかぎり日本の更正は期待せられぬ。
そうして、この更正には大いに世界性のあることをわすれてはならぬ。

そして、前記、11月号で紹介した文中で、「ところが幸か不幸か知らないが、今日の日本は敗戦の故に全ての軍備を放棄することになった。
(略)今日吾ら日本人全体に課せられた課題がある」といわれている。
それは、憲法が施行された2ヶ月前の昭和22年3月2日に公布された「教育基本法」の前文に述べられている、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」という原理・原則が、新しく成立した「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため」に教育基本法も制定された。
しかし2006年12月、その年の9月に成立した第一次安倍内閣によって廃棄・改悪されてしまった。
その影響は、「戦争放棄は世界政府または、世界国家建設の伏線である」と大拙老師が指摘されているが、昭和21年の詔書(天皇の「人間宣言」ともいわれている)の内容にも触れられているように、天皇自らが「朕はここに誓いを新たにして、国運をひらかんとす欲す。須らくこの御趣旨(「人間宣言」の巻頭に『五ヶ条の御誓文』をあげている)に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達して、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊に文化を築き、もって民政の厚情を図り、新日本を建設すべし(略)我が国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く(略)独り我が国のみならず、全人類の為に輝かしき前途の展開せらるること疑わず。」と記されている。

「霊性化」という大拙老師の指摘について、その意味を次号の清風紙上で説明させていただきます。
少しヒントだけになりますが、ここにゴーギャンの言葉をあげておきました。
 私は問うものでありますが、その前に実は「問われているものである」と。

  

Posted by 守綱寺 at 17:24Comments(0)清風

2023年12月26日

清風 2023年12月


今   坂村真民
今を生きて 咲き
今を生きて 散る
花たち

今を忘れて 生き
今を忘れて 過ごす
人間たち

ああ 花に恥ずかし
心いたむ日々
<出典 『歎異抄に学ぶ ―人間そのものからの解法―』法蔵館刊
神戸和麿 著 P167より


今月号では「忌と命日」によりながら、仏事・法事(年回法要、一周忌・三回忌など)の折に確かめておくことについて記してみます。

 Ⅰ 「忌」の字について
  「忌」は「己」と「心」から作られている。
   忌む … 嫌う、はばかる。
   己の心を嫌う、はかる(比べて、評価する)

  その「忌」の字を作っている「己」に似た文字として
   ① 己 … 読み「おのれ」自分のこと
   ② 已 … 読み「すで(に)」過ぎた過去を表す。
   ③ 巳 … 読み「み」蛇のこと。(巳年 十二支の一つ)

 人間の心は絶えず判断をし、評価をしています。そして己(自分・私)は己の下した己の判断に囚われています。例えば、善・悪の評価をして、善なることは受け入れましょう、悪なるものは受け入れません、と判断をしていきます。日常生活では「思いどおり」になれば受け入れ、思いどおりにならないことは受け入れを拒否します。しかし「思いどおりになったこと」は、成ってみれば全て「当たり前」として見過ごしていくことになるのです。

 Ⅱ 命日について
 本願寺8代蓮如上人は、「御文」(手紙)の3帖目9通を次のように書き始めておられます。「そもそも、今日は(親)鸞上人の御明日として、かならず報恩謝徳のこころざしはこばざる人これすくなし」。この冒頭の文で注目したいのは、「命日」と記すところを「明日」と書いておられる点についてです。
 常識としては「めいにち」といえば「命日」という漢字を当てるところですが、蓮如上人は「明日」の字を当てておられるのです。
 この事実から私が特に取り上げたいのは、「命日」とはご縁のあった亡き人からそこに集った人への「贈りもの」という意味があるのではないか、ということです。この御文の最後で「わがこころのわろき迷心をひるがえし」と確かめておられます。これは、命日に仏事を行うのは「我がこころこそ「お粗末」ないたらぬものである」と気付く機会であるのに、「今日は亡くなった親も喜んでおってくれます」というお礼の言葉のみで終わるならば、まことに残念なことであるよという蓮如上人からのメッセージなのだと思います。また、なぜ亡くなった方を「ほとけさん」と呼んできたのかを改めて思い起こさねばならないということでもあるのでしょう。
 私が命をいただいてきたこと、そしてまた、たくさんの方とのご縁をいただいておりながら、その事実を「当たり前」のこととして見過ごしてきているうっかり者であったこと、それに気付かされていく機会とすべきである、ということが、「命日」についてわざわざ「わがこころのわろき迷心をひるがえして」と記されなければならなかった理由なのでしょう。

私のこころは、「親・先祖が迷っているから」「法事を勤めないでは世間体が悪いから」となるのです。そうではなくて、「迷っているのは私だった」という目覚め、それが、わざわざ「命日」と書くべきところを「明日」と書かれた蓮如上人の配慮であり、先輩方が命日に行う行事も「法事・仏事」として勤められてきたのでしょう。

ここで使われている法事の「法」は、インドの言葉では「ダルマ」といい、中国で「法」の字が当てられたのです。意味は「真実の道理」で、お釈迦様もその「法」によって、成仏された人・ブッダ(仏・ほとけ)と呼ばれてきたのです。
「迷っているのは、先祖ではなく私だった」という気づき・目覚め、それこそが仏式で行事を行う意味であったのです。
「ああ 花に恥ずかし」と冒頭の詩に読まれているのは、この「気づき・目覚め」をさすのでしょう。

  

Posted by 守綱寺 at 17:30Comments(0)清風

2023年12月26日

清風 2023年11月



人間の本質はGDP(国内総生産額)によってのみ計りうる
ものではない。われわれは「学びの社会」の時代に入ったと
いうことをしばしば耳にする。
これは確かに、真実であることを希望しよう。

『人間復興の経済』(『スモール イズ ビューティフル』P15)
シュマッハー(1911~1977)著 佑学社 1976年刊


昨年の「清風」9月号の巻頭に紹介させていただいた文です。
今月号では、この中に書かれている「人間の本質はGDPによってのみ計りうるものではない」の句の内容の、特に「人間の本質」ということについて、鈴木大拙師の著『日本の霊性化』(1947(昭和22)年3月出版)から、あらためて学びたいと思います。
まず、この本の最終章で「日本国憲法」について、次のように書かれています。「人間の本質」を考える一助として、紹介させていただきます。

ところが、不思議な因縁で、われらは今日何といっても、この霊性的なるものをしっかりと掴まなくてはならぬようになってきたわけなんであります。
それは日本の敗北です。日本軍の無条件降伏です。
いまや日本は武器というものをすべて捨てなくてはならぬことになった。
独立の国家というところから見ると防御の羽翼も爪牙もみな剥ぎとられて誠にみじめな存在である、あるいは存在でないともいわれましょう。
しかし、こうならないと、すなわち真裸にならないと、中核の霊性は露出してこないのです。
人間の真実は真裸になって初めて見え出すのです。武器がないのはかえっておおいに喜ぶべきことだと思います。
だいぶ前、今から15,6年か20年ほど前でありましたか、世界の強国が軍備縮小をやろうといいました。
そのとき自分の考えでは、軍備縮小をしないで、軍備全部を止めてしまったらいいじゃないかというのであった。
それを当時2,3の友達に話したら、みないわく「そういうとりとめのない漠然とした夢物語は何の効果をも挙げえない。
何といっても、戦争は人間の仕業だ、軍備などは止められない。」と、こう友達は申しておりました。
私としては、しかし、今日に至ってもこの考えは捨てていないのであります。まず最初に誰かが真裸になればいいんだ。
何かで裸にならぬから、いろいろなことが出てくるのです。
本当の無抵抗主義・アヒンサー主義で押し通すという覚悟・大覚悟ができさえすれば、やれぬことはないと信ずる。
ところが幸か不幸か知らないが、今日の日本は敗戦の故に全ての軍備を放棄することになった。
これが普通の動物であったら大変なことになるのだが、さいわいに我ら人間である。真裸では狼一匹にも敵しえない人間も、智慧があるので、何とか防御の手段も考えられる。
ことに相手もまた人間であるので向こうにも智慧はあるが、そのほかにまた道義性もあり、霊性もある、ただの力だけでない、それで霊犀一点通ずる(犀の角は中心に穴があって両方が通ずるから、人の意思の疎通、投合するたとえ)ものがあるに極っている。
ここに人間のありがたさがあるのです。至誠天を貫くとも至誠神のごとしともいいます。
これは大悲願力です。大悲願力には、武器はない。武器の必要がない、いつも赤裸々でいるのです。力はいらないのです。
元来、力は二つのものが対抗するときに出てくるものです。
何か対抗するものがないと、力がまた発揮せられぬのであるが、この力のなかからは、どうしても宗教は出てこない。
信仰というもの、大悲というものは出てこないのです。
本願も大悲であるが、無縁の大悲といって、大悲は無縁で無上であるから対抗的・対象的・相関的なものではないのです。
故に大悲 ―これは宗教の本質であるが― は力以上のものです。
すなわち、力からは決して大悲は出てこないのです。これはまちがいのないところと信じております。
今日我ら日本人全体に課せられた問題はどうしてこの大悲を体得し、これを現実化していくかというところにあるのです。
特にこれは仏教徒に課せられたものといってよい、まず、仏教徒が中心になって大悲願運動を展開して、これをもって日本全国の人びとを動かすのです。
日本全国を動かすというだけでない、さらに進んでこれでもって全世界を動かしていかなければならぬのです。
そこに日本として世界文化に貢献すべきものがあると、私は信ずるのです。
これがあるいは日本国が生まれて日本国民全体として果たすべき世界的使命であったのではなかったかしらん、我ら日本人は始めからこのように運命づけられていたのではないかと、こういうような感じがするのであります。
『日本の霊性化』第一講
岩波版全集第8巻(P245L16~P247L9)

鈴木大拙(1870~1966)
1921年、大谷大学教授として、西田幾多郎の勧めもあり着任。世界に向け、英文季刊誌『イースタン・ブディスト』を刊行。
東本願寺は1961年に勤修する宗祖親鸞聖人の御誕生800年・立教開宗750年の記念事業として、宗祖親鸞聖人の著『教行信証』の英訳を依頼し、1973年に刊行された。
『日本の霊性化』は、日本国憲法の発布と施行の間という時期に書かれています。1946(昭和21)年6月に大谷大学で5回にわたって行われた講演の筆記をもとにしてできたものです。
新憲法の発布について大拙師は、その意義をこの本の「序」で次のように述べておられます。
「新憲法の発布は日本霊性化の第一歩と云ってよい。これは政治革命を意味するだけのものではない。
戦争放棄は「世界政府」又は「世界国家」建設の伏線である。」 註)霊性について(大拙師の解説)
知性からは霊性は出ないが、霊性からは知性が出るのです。すなわち霊性には般若の
智慧が含まれていると同時に大悲または悲願という面がまたあるのです。霊性は大智で兼ねて大悲なのです。
  

Posted by 守綱寺 at 10:19Comments(0)清風

2023年12月26日

清風 2023年10月



私が言っている「脱成長」というのは、仏教的な考えで言えば「足るを知る」という、単純な話です。
「人新世(ひと―しんせい)という時代」 斉藤幸平

註)『サンガ』隔月刊誌
    (180号 P2~P3 2022年11月発行 東本願寺真宗会館刊)
斉藤孝平 1994年生まれ、経済学者。
『人新世の「資本論」』(集英社新書 2020年発行)がベストセラーに

「人新世」とは、時代区分を表す地質学の言葉である。
人類が地球の地質や生態系に与えた影響に注目して付けられた名前を、斉藤さんは「人類が地球を破壊しつくす時代」と捉える。
はたして人類は生き延びることができるのだろうか。

斉藤さんは「現代社会は成長をあきらめきれるでしょうか?」という問いに対し、有限の地球環境で無限の経済成長は出来ないという当たり前の現実を受け止めるべきだ。
この間、成長をめざした必死の改革で格差は拡大し、幸福度は下がった。
そもそも私たちが生きていくために不可欠な、教育や介護、保育のようなエッセンシャル(生きる上で誰もがお世話にならなければならない)分野で利潤を求める必要はない。
成長を前提にせずに、人々の基本的なニーズ(必要)は満たされる社会を構想する必要がある。
(「朝日新聞」2022年6月19日付「環境と成長 両立できる?」の紙面にて)と答えている。

仏教では、今の世を末法と、時代状況を五濁(ごじょく)の世と名付けている。
五濁 … 五つのにごり。劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・寿命濁をさす。
見濁 … 人々が誤った思想・見解を持つようになること。
誤った思想・見解 ― 人間の欲望は無限である。それなのに、有限の地球
              環境で無限の経済成長が可能であるとする立場。

ダーウィンの「進化論」により、人間は生きものの中で一番進化した動物であると位置づけする見解が生まれ、人間を「万物の霊長」と表現した。
人間もその中で生まれ育てられてきた環境である自然を、人間のための資源としてのみとらえる考え方がされるようになった。(母胎を資源とする…現代人の思考?)
「濁」というのは、濁っていることであり、対象が人間の持つ意識で解釈されて、ぼんやりとしか受け止められなくなるということ。

「清風」2022年9月号の巻頭言で、「人間の本質はGNP(国民総生産額)によって計られうるものではない」(『人間復興の経済』E・F・シュマッハー著 1976年第1刷発行 佑学社刊 P14)と記している。
その本のP28下段L2から、
人間が必要とするものは無限であり、その無限性は精神的領域においてのみ達成でき、物質の領域では決して達成出来ない。
人間はこの単調な“世の中”で身を処する以外にない。英知がその道を教えてくれる。
その英知がなければ、彼は世の中を破壊するお化けのような経済を作り上げることに駆り立てられ、まるで月に着陸するようなすばらしい満足を求めてやまない。
(略)富と権力と科学、あるいは考えられる限りの“競技”に卓越することによってそれを克服しようとする。

これらが、戦争の真因であり、最初にそれらを取り除くことなく平和の基礎を作ろうと試みることは空想的である。
ではどうするか。
まさに人間を紛争に駆り立てる力、すなわち貪欲と妬みの組織的な助長に依存する経済的基盤の上に平和を築こうとすることは疑いもなく空想的である。
我々はいかにして貪欲と妬みの武装解除を始めることができるか。
(略)人々は、貪欲、妬み、そして自分自身の内部の抑え難い欲望を克服する力をどこで発見できるのだろうか。

そこでシュマッハーはガンジーがその答えを当ててくれると記している。

私は日本人として、仏教、ことに浄土教の教えの伝統に連なる者として、その解を親鸞聖人、近くは明治初期に出られた清沢満之師(1863~1903)にご縁を得られた方々から、学びを深めていきたいと思う。

11月号から、既に2022年5月号に紹介している日記(『臘扇記』清沢満之著)の「万有の進化」で始まる文章などにより、特に「その無限性は精神的領域においてのみ達成できる」について、学んでゆくことにする。  
(この稿続く)

  

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2023年09月13日

清風 2023年9月


家は雨露をしのぐほど
食は飢えをしのぐほど  世阿弥


世阿弥は600年程前の能の役者であり、作者である。
これは能の役者としての彼の覚悟といったものを、私共に教えてくれるものといえよう。
この世阿弥の言葉は、たんに節約を説いたものではなく、「モノ」には「モノ」の本来の「分」があり、もしその「分」を知れば、私の生きることの本来の「分」があきらかになると教えていてくれるものであろう。
立派な家、名誉、地位を持たなければ意味がないと考えてしまうとすれば、その時、逆に、私の生きる姿勢の貧しさを露呈しているのだし、生き方に顚倒が起こってしまっているというのである。
何故なら、私の生きる意味を、立派な家に住むことや、豪華な食事をすることのような、外なるモノに置くならば、その時私は、私の生きる固有の意味を喪失してしまうことになるからである。
家の分は雨露をしのぐこと、これが第一義であり、食は飢えをしのぐことが第一義である。
家や食等の第一義が明瞭になると、雨露をしのぎ、飢えを癒して生きることの意味、つまり生きることの第一義がはっきりするというのである。


(2面)

男は女でないから女がわからない
女は男でないから男がわからない
そのわからないところでこそ
男女は一つとなる   (毎田周一)


いよいよ結婚シーズンである。あちらこちらでスピーチが始まる。とにかく、2人の男女が一緒になるのだから、まあ、いろいろある。
しかし、人間 -人の間- と書くように、相手あっての私なのだ。あんまりわかったようなことを言わないで、2人になったところから新たに始まるということにしよう。

お互いに、やっぱり一緒になろうと思ったのだから、2人に責任がある。誰にも責任を転嫁することはできないのだ。
ところで結婚というのは、いうまでもなく、一組の男女のいるさまざまな風景である。背景はどうあつらえようと自由である。
結婚生活をうまくやる方法を教えようか。そんなうまい方法があるなら、僕が聞きたい。他人の意見を聞いてやるのは二番煎じで面白くない。モデルがあるようなものは,初仕事ではない。2人の結婚は、とにかく2人の初仕事だ。
比較する必要がないから面白いということを知ればよいのである。

  

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2023年09月13日

清風 2023年8月


①「日本には憲法9条があるからなのです」
②「真に問われるのは、戦争を始める能力ではなく、戦争を回避する能力である」


ここに挙げた言葉は、1990年代初め頃日米の高校生の言葉である。
①は高知に住む男子高校生の原稿で、米国の新聞に載った。その頃米国では「何故日本は自衛隊を戦争に派遣しないのか」という問いが飛び交っていた。
それに答えた高知の高校生の投書であった。
②は、その頃米国から100通を超える手紙が土佐の高校に届いていた、その中のシカゴ郊外の高校生の言葉である。
その中には「米国にも平和憲法があればいいのに」「日本の政治について教えて欲しい」との言葉もあり、日米の若者が平和を追い求め、やりとりを重ねていたのである。
これらの言葉は時を超え、今こそ改めて襟を正して聞かねばならない対話と言えるのではないだろうか。
そんな記事を読んだ数日後、2023年7月の新聞に日米合同委員会がある合意に至ったと記されていた。
米海兵隊のオスプレイは今後、沖縄を除く国内の山岳地帯を高度60メートルで飛べるのだという。
自衛隊さえ、そんなこと原則許されない危険な行為だと言わねばならないのに。日本の法令は最低安全高度を150メートルとしている。
これまでも米軍は低空飛行を繰り返しており、基地のある地域の知事らは「国内法の適用を」と政府に求め続けてきた。
日米合同委員会がそんな内容の回答しかまとめられないならば、前記高校生の視点に学ぶべきではないであろうか。
「日米合同委員会」が、単に米国の言うままに国内法に抵触する既成事実を作り続けているのは、何故なのだろう。
日本国民は、今こそ襟を正して、我が国の憲法をよくよく読み、自己の立ち位置を見直さなければならないのではなかろうか。
その場合、まず何よりも、今から75年前に国民がこのような憲法・前文の文章を作成した願いと決意に思い致すことではあるまいか。
その決意と思いは、次のように記されている。

日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、(略)われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第九十九条〔憲法尊重擁護の義務〕
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

そして日本国民一人ひとりが、この憲法が制定された背景を学び、この憲法に託されている、それこそ国内外の人々の祈りを、我等生きものの母胎であるこの地球を、将来の世代に引き継いでゆくのかどうか ― 少なくとも次の言葉に恥じない内容であって欲しいとは思わないだろうか。

歴史に正対せよ      これがいちばん大事だよ
それだけの国として    歴史から逃げたらあかん
また国民として勇気を持て ということです
道義性を持て
後藤田正晴 作(2005年死去 徳島出身。官房長官・副総理を務める。)

1987年9月、中曽根康弘首相は後藤田官房長官に「海上自衛隊の掃海艇か海上保安庁の巡視船をペルシャ湾に派遣したい」と言った。
後藤田長官は「ペルシャ湾はイラン・イラク交戦海域。日本が武装艦艇を派遣してタンカーを護衛するから正当防衛と言っても、相手は戦争行為に日本が入ったと理解します。閣議では私はサインしません。」と真っ向反対、結局首相は断念した。
日米の高校生が通信をやりとりしている件について、日本の政府内でも実はこのようなやりとりがあった。

「敵基地攻撃云々」ということが、いつの間にか白昼堂々とされる現在、攻撃は報復を招き、軍事施設だけでなく民間も犠牲になる。
侵略と亡国の歴史を忘れ、専守防衛の国是を逸脱した暴論である。
「歴史に正対せよ」、歴史に学ぼうとしない者は、滅びざるをえない。(続く)

  

Posted by 守綱寺 at 11:42Comments(0)清風

2023年09月13日

清風 2023年7月


終戦記念日? 敗戦記念日?
廃戦記念日
“どうする日本” 8月15日とは?

8月15日 敗戦とはどういう日なのか?どういう日とすべきなのか。
廃戦(憲法第9条の願い)とはどういうことなのか。


我が国の場合、敗戦がきっかけとなり「平和憲法」を制定しました。
「平和憲法」と呼び習わしているのですが、それは簡単に言ってしまえば、先ずそれは第9条の条項があるから、ということなのであって、それ以上でもそれ以下でもない、「当たり前」と見過ごしていける程度のものになってしまっているのではないか ― 
これは、少し言い過ぎかもしれません。
しかし、それは大変残念な事態なのだとは思いませんか?「平和主義」の平和とは、どういう事実を指すのでしょうか。

対話こそは暴力・戦争に対する真の意味での反対語なのです。
『対話する社会へ』(P182)
岩波新書2017年1月刊 暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)著

ところが、最近の社会は対話しにくい、むしろ対話の価値を認めようとしない社会になりつつある … と、日本において対話がなかなか根付かない具体例(経験)を、暉峻さんは次のように紹介されています。

厚生省(当時)局長が、国会でウソの答弁をしたために私の正しい研究の調査結果のほうが間違っていることにされ、文部省(当時)検定によって教科書から削除された経験を持っています。
(私の3年あまりの抗議によって最終的には教科書に復活しました。)その時私は尋ねました。
「もし、いま、外で雨がザーザー降っていても、局長が晴れと言ったら晴れになるんですか」と。
「はい、そうなります。」と課長は平然と答えていました。(同上書P167~P168)

最近の国会での答弁でもありますね。
「記憶にございません」と首相や大臣が答えて、事態は曖昧なままになっていて、それ以上進展しない(大臣の責任は問われない)まま、うやむやになってしまっている事案があります。
(安倍首相の時の官僚で、報告書の改竄を命じられ、結局自死した事件など。)

人間同士のもめごとを解決する方法は二つあります。
一つは暴力。ケンカをして腕力で黙らせる。
もう一つは言葉。話し合って折り合う。同じように国と国のもめごとを解決するにも二つの方法があって、一つは暴力による戦争。もう一つは言葉による外交です。
日本の場合、前者は防衛省、後者は外務省が担当します。
第9条は「戦争放棄」を命じています。
これは言うまでもなく、外国とのもめごとを解決する手段としての暴力、つまり戦争を否定し、その一方で言葉、外交交渉による解決を求めているのです。

さて、ここまで考えてきて思われることは、憲法改正の名のもと、第9条を変えて普通の国になると言われますが、これはどういう内容を指しているのか…という疑問です。
それはもう、言うまでもないことでしょう。
権力を笠にして命令に従え、言葉でのやりとりをさせない、ということになっているのですね。
ここであらためて参考にしたいのは、残念ながら憲法に先がけて改正されてしまいましたが、改正前の「教育基本法」(1947年3月31日公布)の前文です。
憲法第9条に掲げられた戦争放棄による国際平和実現という理念を受けて書かれたものであることは、明らかでしょう。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。
この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。(教育基本法 前文)

この教育基本法は、第一次安倍政権の2006年12月に改悪されてしまいました。
平和主義の「平和」とは、とりもなおさず「言葉の戦争」です。
国際紛争を戦争によらず解決するには、国、特に外務省の言葉による交渉能力が不可欠です。

上記、教育基本法前文に掲げられた「真理と平和を希求する」にあたっては、「清風」2022年5月号の巻頭で紹介した「絶対無限を追求せずして」は、不可能なことなのです。
憲法改正の前提として「教育基本法」を改正(改悪)したのは、実は「清風」2022年7月号の巻頭言で「暴力は言葉の放棄である」(毎田周一)を紹介したように、「言葉の戦争」である“対話”には欠くことのできない前提であるからです。

  

Posted by 守綱寺 at 10:59Comments(0)清風

2023年06月16日

清風 2023年6月



仏教は
「人間奪還の教え」
である

高光大船(1897~1951)清沢満之に師事
暁烏敏・藤原鉄乗・師で、加賀の三羽烏と言われている。


現代は、「宗教」という言葉自体を吟味しなければならなくなっている時代と言えます。親鸞聖人は比叡山を下って法然上人に出会われ、その感激を『教行信証』に執筆され、その内容を同書「後序」において「真宗の詮を鈔し、浄土の要を?う」と述べておられます。
「真宗」との名告りについて、この2、3年の「清風」巻頭で紹介してきた文を参考にしつつ、宗教について共に考えたいと思います。

人間の本質はGDP(国民総生産額)によって計られうるものではない。我々は「学びの社会」に入ったということをしばしば耳にする。これは確かに、真実であることを希望しよう。    (『人間復興の経済』佑学社刊 P14上段L10)
シュマッハー(1911~1977)

シュマッハーは次のように述べた後、続いてガンジーの言葉を引用しています。

経済的観点からすれば、人間の英知の中心的概念は永続性である。我々は永続性の経済学を研究しなければならない。長期にわたる継続が不条理に陥ることなく確保されるのでなければ、なんら経済的な意味はなさない。限定された目標に向かっての“成長”はありうる。しかし、無制限に一般化される成長はありえない。
(同書P24上段L11~下段L1)

地球はすべての人間の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての貪欲を満たすほどのものは提供しない。          (同書P24下段L2)
ガンジーの言葉(貪欲は「欲望」と理解すべきであろう。)

このガンジーの言葉について、「生命科学」に代わり「生命誌」という名のもとで研究をしておられる中村桂子さんの提言を、次に紹介します。

“科学”から“誌”への移行にどんな意味があるのか、この生命誌から生きものやヒトについてどんなことがわかるのか、それが、自然・人間・人工の関係づくりにどうつながっていくのか。そこからどんな社会がつくれるのか。ヨチヨチ歩きを始めたところですので、スパッと答えは出ませんが、一緒に考えていただくための素材を提供したいと思います。
(『生命誌の世界-私たちはどこから来て どこへ行くのか-』
           NHK教育テレビ講座テキスト 1999年4月~6月)
中村桂子(1936~)前生命誌研究館長

「人間は生きものであり、自然の中にいる。」これから考えることの基盤はここにあります。これは誰もがわかっていることであり、決して新しい指摘ではありません。しかし、現代社会はこれを基盤にしてでき上がってはいません。そこに問題があると思い、あらためてこの当たり前のことを確認することから出発したいと思います。

まず、私たちの日常生活は、生きものであることを実感するものになっているでしょうか。朝気持ちよく目覚め、朝日を浴び、新鮮な空気を体内にとり込み、朝食をおいしくいただき……これが生きものの暮らしです。目覚まし時計で起こされ、お日さまや空気を感じることなどまったくなしに腕時計を眺めながら家を飛び出す……実際にはこんな朝を過ごすのが、現代社会の、とくに都会での生活です。ビルや地下街など、終日人工照明の中で暮らすのが現代人の日常です。これでは、生きものであるという感覚は持てません。(略)そこで、ここでの提案は、まずは一人ひとりが「自分は生きものである」という感覚を持つことから始め、その視点から近代文明を転換する切り口を見つけ、少しずつ生き方を変え社会を変えていきませんかということです。一人ひとりの気持ちが変わらないまま、例えばエネルギーだけを脱原発、自然エネルギーに転換と唱えても今すぐの実現は難しいでしょう。しかもそれはあまり意味がありません。自然エネルギーを活用する「暮らし方」が大切なのであり、その基本が「生きものである」という意味なのです。
(『科学者が人間であること』中村桂子著 岩波新書 第6刷 2018年発行)

  

Posted by 守綱寺 at 12:50Comments(0)清風