2023年06月10日

清風 2023年4月


自己とは何ぞや
これ人世の根本問題なり
清沢満之

何のために人は生まれてきたのか。

人生を生きるにあたって 清沢満之
先ず、死後のことは不明であり、生前(生まれる前)についても不明である。
それでは、自己(僕、あるいは私)とは何ぞや。(以上意訳)
是人世の根本的問題なり。
自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾に此の境遇に落在せるもの、乃ち是なり。(『臘扇記』清沢満之 著)


「自己」とは自分のことです。さらに分かりやすく言うならば「僕・私」を指す言葉です。
「自己とは何ぞや」。「自分の」と言えば、すぐ分かります。
自分の心・自分の身体・自分の顔・自分の子・自分の妻・自分の夫 … 「の」を付ければ皆分かります。ではその「自分」とは何でしょうか。
これが分からないのです。
不思議なことではありませんか?「の」の字さえ付ければ皆分かります。しかし「の」の主体である自分自身とは何かといったら何か分からなくなってしまう、それが無明ということです。

20世紀の革命が、総体に言えばベルリンの壁の崩壊によって一人ひとりの人間の解放、すなわち「本当の自由の獲得」という課題を、あらためて人類の前に提出したと言えるのでしょう。
現在多くの国は、GNP(国民総生産)を共通の課題として追求する姿勢を取ってきています。
しかし、そうした追求の仕方に待ったをかけたというか、問題を提起したのが、シュマッハー(1911~1976)の著書『スモール イズ ビューティフル(小なるは美なり)』(佑学社刊)でした。

人間が必要とするものは無限であり、その無限性は精神的領域においてのみ達成でき、物質の領域では決して達成することができません。
英知がその道を教えてくれます。
その英知が無ければ、彼は世の中を破壊するお化けのような経済を作り上げることに駆り立てられ、富と権力と科学、あるいは考えられる限りの“競技”に卓越することによって、それを克服しようとします。
シュマッハーは結論として、次のように記します。
「要するに、われわれが今日言いうることは、人間は賢すぎて英知を失っているということである。」と。(同書24ページ上段2行~)

「永続性の経済学は、科学と技術のオリエンテーション(方向づけ)の深遠な再検討を要求する。
それは英知に扉を開くものでなければならず、実際に科学と技術の構造そのものに英知を合致させるものでなければならない。
環境を毒し、社会構造と人間自身を堕落させるような科学的な“解決”は、如何に優れた構想に立ち、いかに大きな外面的魅力を持つものでも、無益である。
機械をますます大きくし、経済力をますます集中し、環境に対しますます大きな暴力を行使することは決して進歩を意味するものではない。
それらは英知の否定である。(同書24ページ15行~25ページ上段3行)

「此の如く四顧茫々(見渡す限り広くはっきりしないこと)の中間において吾人に亦、一円の自由境あり。自己意念の範囲、乃(すなわ)ち是なり」
 註)一円 … 自己が「自己中心的な殻から自由になっていないと気づける、一つの自由境がある、という。

 要するに、GNPの成長は、何が成長しようと誰が成長しようと関係なく誰かに利益がありさえすればよいものなのである。
(同書36ページ下段16行~18行)
(続く)

  

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2023年02月20日

清風 2023年2月


南無阿弥陀仏
人と生まれたことの意味を
たずねていこう
(宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃テーマ)



人生とは ないものねだりの 歳月か 得てはすぐなれ 無くて欲しがる(朝日歌壇より)

本当に欲しいものは何だろうか?

29歳で出家し6年苦行をされた釈尊(上山の釈尊)は、35歳で苦行から離れ下山し(下山の釈尊)、山での苦行により衰弱した身を回復するため、しばらく養生をされました。
その養生に乳粥を供養したのが、スジャータという名の娘さんだったと伝えられています。この乳粥の供養を受けていた時に直感されたといわれる、次のような「言い伝え」があります。

乳粥の供養のおかげで、身には精気が、心には元気が回復してきた。この供養を受けられたのは、スジャータの一家が乳牛に草などの飼料を食べさせ、その草などが牛乳になったからである。
またその草も、大地に草の種が落ち、太陽の恵みや、雲が気象の変化によって雨となって地上へと降り注ぐなど、芽が出る条件が整ったことで草として成長できたのである。
そうであるなら、私のこのいのちは、宇宙いっぱいのハタラキを受けた、実に豊かな、豊穣な内容を持つのだ、と気づかれた。
やがて乳粥の供養によって元気になられたゴータマ・シッダールタは、ブッダガヤのピッパラ樹の下に草を敷いて、瞑想に入られた。
瞑想に入られて八日目の明け方、ゴータマは成道された(覚りを得られた)。その時「我は不死を得たり」(無死ではない)と宣言された。
この「不死を得たり」の宣言は、このいのちは豊穣なものであるという、スジャータの供養を受けられた折の気づきがあってのことと言える。
この豊穣ないのちについて、釈尊の次のような言葉が残されている。
「私は草であり、牛であり、大地である。」

この故事は、次のような物語にもなって伝えられています。
「そこを動くな、そこを深く掘れ。」、「そこで止まれ、そこで深く考えよ」と。

我が国では、一月一日は元日(正月)と言われています。
この正月の「正」の字は「一」と「止」の字から作字された表意文字として、「一に止まり、そこで深く考えよ。」と伝えられています。
ここで言われる「一」とは私の存在の事実を言い当てた言葉であって、「“唯一無二”の存在としての私である、その事実に気づけ」という仏からのうながし、あるいは「勅命・命令」であるとも言われます。

現代に生きる私どもは、科学技術のもたらした世界の中で「コスト(費用)とGNP(国民総生産高)」という数字による一元的評価基準にさらされて生きざるを得ません。
そのため、私という存在が「一」なるもの、つまり「唯一無二」という比較を超えた存在であることに気づけない、あるいは出会えない生活環境 ―個人の評価基準として、学歴や会社での地位など比較できるもの― に振り回され、左右されっぱなしという事態に押し込まれての生活を余儀なくされています。
(コスト…人の勤労に払う経費は人件費。人は代替可能品として扱われている。)

私たちはそうした思考にとらわれてしまっていることが、ほとんどなのではないでしょうか。
そういう時に「そこを動くな、そこで深く考えよ。」という言葉を通して、「私は先入観にとらわれて、身動きできなくなっているのかもしれない。」と、一度考えてみなさい、と呼びかけられていると思いますが、いかがでしょう。

「深く掘れ、深く考えろ。」の「深く」の文字に、それこそ先人からの暖かい「唯一無二性」の深い意味が込められているように思うのです。(続く)



  

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2023年02月20日

清風 2023年1月


自己というのは問うたことがない
当たり前のことではないか、と
自明のことを
疑うということが 問いなのです
安田理深

本年もどうぞよろしくお願いします
        2023年 元日



吾人は絶対無限を追求せずして、満足し得るものなりや。
『臘扇記』(明治31年10月12日の記)清沢満之著

 「絶対無限を追求せずして」と言われていることを、日常の生活で感得されているエピソードを、紹介します。
 紹介するのは、東井義雄(1912~1991)先生が紹介されているものです。
 
 私の県の県立盲学校の6年生の全盲の子どもの言葉を聞かせていただき、ほんとうにびっくりしました。
 「先生、そりゃ、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔がみたいわ。でも見えたら、あれも見たい、これも見たいいうことになって、気が散ってあかんようになるかもわからん。見えんかて別にどういうこともあらへん。先生、不自由と不幸とは違うんやね」といったというのです。
  この子は全く見えない世界、光の無い世界を生きているのです。でも、何という明るさでしょうか。闇の世界にありながら、闇が闇のはたらきを失ってしまっています。
  光の世界を生きさせて貰っている私なんかよりも、もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています。    (以上 東井先生著『よびごえ』という冊子より)

 「見えんかて別にどういうこともあらへん。先生、不自由と不幸とは違うんやね」という発言から、この子が生きている立脚地を教えられる事です。目が見えない、これは事実のことです。その事実を「不自由」だと判断した時、同時に、それは「不幸」だという評価をします。そしてその評価こそが正しい判断であるとして、わたしどもは、疑わないのです。

 小6年の男子児童の返答を詠まれていかがだったでしょうか。
 聞法とはどんなことを聞くのでしょう。
 私どもは、「当たり前」という判断の前に、身の事実である、呼吸して生きているということの不思議さに全く注意がいかない、つまり「感性の劣化」に陥っていて、現代では、子どもから大人そして老人にいたるまでとにかく評価される者であれという強迫症に罹っている状態といっても過言では無いような状態です。

  成熟という言葉があります。生きものは成長し、て成熟するということでしょう。
 「稔るほど 頭を垂れる 稲穂かな」という俳句もあるように。
 
 「絶対無限を追求せずして、満足し得るものなりや」この清沢満之先生の指摘は、人生とは「先生、不自由と不幸はちがうんやね」と言える智慧を頂くことにつきるのでしょう。「先生、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔が見たいわ。でも見えたら、あれも見たい、これも見たいいうことになて、気が散ってあかにようになるかもわからん」。「あれも見たいこれも見たい」、そして気が散ってしまっている。現代人の忙しさは、ここからきているのですね。

  

Posted by 守綱寺 at 16:48Comments(0)清風

2022年12月20日

清風 2022年12月


汝 無量寿に帰れ
無量寿に帰って
無量寿に生きよ
(『信國淳選集』第8巻P378)大谷専修学院長(1904~1980)



何故、南無阿弥陀佛と称えるのか。それに応えて、信国先生が示して下さった了解の言葉です。
「何故、念仏申すのか」、この問いの背景には次のような現実があるから、と申しても良いのでしょう。
近代・現代の人は、自然の一部としてではなく、自然を支配し征服すべく、彼(私)は運命づけられた外からの力として、自らを体験しています。
彼は自然との闘いについて語りさえするのです。
その闘いに勝てば、そのまま敗れる側に立たされることも忘れて、ごく最近まで、無限の力を持つような幻想を与えるに十分なほど、闘いはうまくゆくように見えました。
しかし完全な勝利を実現するまで、うまくゆきはしませんでした。
このことがわかってくると、多くの人々は、なお少数派としてではあっても、人類の継続的な生存にとってそれが何を意味するのかを認識し始めています。
どうも、「生産の問題」は解決されたというのは誤謬に満ちた見解なのではないか、と。
現在の資本がはるかに大きいのは、人間によってではなく、自然によって提供されている資本、つまり、地下資源です。
しかし、我々はそれをそのようなものとして認識さえしていません。
ここまでの内容は、地下資源(要するに化石燃料といわれる石炭・石油・天然ガスなど)を指しています。
地下資源は、1945年以降、驚くべき危険な速度で使い果たされてきました。
これこそ、生産の問題は解決されたと信じ、それに基づいて行動してきたことがいかにも不合理で、自殺的な誤謬と言われる所以です。
(異常気象問題・線状降水帯など。)


今日の高度な消費生活は、快適、解放、知的変化、個人的自由のマクシム(極点)という点で、人類のかって経験しなかったものであり、その「たのしみ」と「よろこび」の讃美は数多の文筆業者たちの尽せぬ商売のネタとなっているほどだ。
すべての抑圧を解除し、個人の遊動的自由に最大の価値を置く今日の文明は、なるほど利便と長所をそなえた「開かれた社会」であるだろう。
だがそれは、存在の一切の意味を無化する虚無の遊動に対して開かれた文明でもある。
自由な市場経済が保障する高度消費文明の行手に待っているのは、たんなる環境破壊でも資源枯渇でもなく、心の荒野なのである。
人は何のためにコスモス(宇宙)に生を享けて来たのかという古い問いの前に、自由社会(西側)の勝利は色褪せるであろう。
私たちの課題は資本主義か社会主義かなどというとんまな課題ではない。
「経済」を超克する途こそ私たちの唯一絶対の課題であって、東欧圏の崩壊を巡って空騒ぎをやっている連中には、このことすら自覚されていないようである。
渡辺京二著『荒野に立つ虹』P150葦書房発行より

 
「経済を超克することこそが、われわれに課せられた唯一絶対の課題である」と渡辺京二氏は述べています。
仏教では、あらゆる迷いの根を無明という言葉であらわしています。
明とは智慧ことで、いろいろな「わかる力」を光にたとえて明といいます。
無とはそれがないこと、智慧の無い状態です。仏とはこの智慧を得て「真」に帰った人です。
この人類の史上に、初めて前人未踏の内観の途を完成し、自ら佛になってこの道の確かなことを証明したのが釈尊です。

ここで改めて、清沢満之の指摘「吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなりや」(「清風」5月号巻頭の言葉で紹介)や、安田理深先生が「宗教を救済としてのみ見るのは人間の自己肯定である。
根源的意味でのエゴイズムである。」(同10月号巻頭の言葉で紹介)と語られていることに、着目させられます。
人間というものは自分を失って迷うものである、と同時に、迷いを破って目ざめることもできるものでもあります。
こういう人間存在の深い意味を、あらためて近・現代に明らかにして下さった先人といえるでしょう。
ブッダと成られた釈尊の道を、南無阿弥陀佛という言葉として伝えてくださった法然・親鸞という方々のご苦労を、信国先生もまた、明らかにしてくださった方でした。

  

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2022年11月07日

清風 2022年11月


パンの為、職責の為、人道の為、
国家の為、富国強兵の為に、
功名栄華のために
宗教あるにはあらざるなり。
人心の至奥より出ずる
至盛の要求の為に宗教あるなり。
宗教を求むべし、宗教は求むる所なし。
『御進講覚書』清沢満之(1863~1903)


親鸞という鎌倉時代に生きた人が明らかにされたことは何であったのかと言えば、明治時代に生きた清沢満之師のこの文言に示されていることであったと言えるでしょう。
つまり「人心の至奥より出ずる至盛の要求のために宗教はあるのである」と。
鎌倉時代も江戸時代も、また現代も、宗教と言えば「……の為」という了解が宗教観の大きな流れではないでしょうか。

先月号の「清風」巻頭言で、安田先生の言葉を紹介しましたが、いかがだったでしょうか?「宗教を救済としてのみ見るのは人間の自己肯定である。
根源的意味でのエゴイズムである。」として、いわゆる「宗教観」をエゴである ― 簡単に言えば、「神・仏を信ずる」と言っても、その場合の「神・仏」は私のエゴのための小間使いとして消費されている ― と言っておられます。
法然・親鸞という方は、神・仏を始め、私の周りにあるものを全て小間使いにする煩悩成就の者だ、と教えられました。
仏・如来は、私に「念仏申せ」と、それこそが私の至盛の要求なのだと仰るでしょう。

21世紀を生きる私どもが「何となく不安」…つまり未来が見通せないという、人間のエゴに立った宗教観を、一つは自然観から、そしてさらには人間観から問い直すことを指して、9月号の巻頭に紹介したシュマッハーさんの文章には「学びの時代」に入ったと指摘されているのでしょう。

受験のシーズンを迎えるのですが、親御さんの気持ちもよく分かる気がします。
合格のための祈願やお札を購入します。
また病気快癒の願いのために「お札を求める」のもそうでしょう。
要するに「自分の思いに適うように」との考えを前提として生きていくのが「当たり前」とされている時代、それが現代という時代を生きる私どもの宗教観の前提にもなっているのです。
「恐るべきは、現代の文明社会にも呪術が跡を断たぬということではなく、呪術が呪術にすぎないという自覚の失われてしまったこと。」(福田恒存「折々のことば」朝日新聞)だ、との指摘もあるのですが。
商品があふれ、欲望満開の時代、それが現代の表面を覆う時代だとも言われています。
現代はさらに、言うならば、欲望を100%成就していきたいとするのが「当たり前」として前提されている時代なのでしょう。

シュマッハーさんは、それを次のように指摘されているのでした。
われわれの時代のもっとも致命的な誤謬の一つは、“生産の問題”は解決されたという信仰である。」、「人間の本質はGNP(国民総生産)によって計られるものではない。」として、物の総生産高によって国の豊かさを計るのが世界共通のモノサシとなっているのですが、「われわれは“学びの社会”の時代に入ったということをしばしば耳にする。これは確かに、真実であることを希望しよう。」と付け加えておられます。
シュマッハーさんは、その「学びの内容」を「これは確かに、真実であることを希望しよう。
それでも、われわれ人間仲間とだけでなく、自然とも、いかにして調和して生きるか。」とも付け加えていることに、注目したいと思います。

「吾人は絶対無限を追求せずして満足を得るものなりや」という清沢満之師の指摘の検討に入らなければなりません。
そのこと(絶対無限の追求)を、安田先生の言葉はさらに次のように指摘されます。「人間としての深い根元に呼び覚ます自覚こそが、宗教の本質といわれるものである。」と。
「人間の本質」とは、何を指すのでしょうか。
「絶対無限を追求する」の“絶対無限”、「“学びの社会”の時代に入った」の“学び”の内容についても、自分の生き方を考えていく場合、こうした問題提起は大切なキーポイントだと思います。
(続く)

  

Posted by 守綱寺 at 14:23Comments(0)清風

2022年10月11日

清風 2022年10月


宗教を救済としてのみ見るのは、
            人間の自己肯定である。
根源的意味でのエゴイズムである。
それを破って、
人間としての深い根元に呼びさます自覚こそが、
宗教の本質といわれるものである。

『安田理深選集』(全22巻)安田理深(1900~1982)
私塾・相応学舎を主宰


現在の我が国では安倍前首相の死後、二つのことが問題となっています。
一つは安倍前首相の葬儀を巡っての、国葬と決めた岸田首相の決め方。
もう一つは死後鮮明となった「統一教会」と安倍首相さらに安倍派議員を中心としての関係、そして自民党と他党との関係です。
さらに政局としては、憲法改正と軍事費増強が中心となるとされています。

私も僧侶の一人として、統一教会が宗教法人として日本で教化活動をしているという、その布教の具体的な実態を知ったのは、新聞報道によってなのですが、その布教内容が「先祖の供養が足りないから、あなたの今のその苦しみは解けない」という内容で始まり、手口にはまっていくということのようでした。
この件については、本紙「清風」2017年11月号・2018年11月号で触れているのですが、我々は生きている限り、いろいろなことに出会っていかねばならないのですね。
そのいろいろなこととは、簡単に整理すれば、自分にとって「都合のいいこと」か「都合の悪いこと」なのか「関係のないこと」なのかに分けられます。
それが都合の悪いことならば再びそういうことが起こらないようにしたい、と思うでしょう。
そうした場合には、それをどう受け止めてゆけばよいでしょうか。 
一言で言ってしまえば、宗教は「救い」を扱うものと言われますが、その「救い」について私どもはどのように理解しているか…ということに尽きます。
これが「仏教の教え」と言えます。
「先祖がたたっているから、先祖の供養をしなさい。そうすれば、もうあなたは苦しまなくてもよくなります。」
これを前提として、統一教会なりに技法が考えてあるようです。仏教ならば、「あなたは生まれてくるときに、条件を出して生まれてきましたか?」とまず確認が入るでしょう。
私たちは無条件でこの世に生を受けてきたのですね。
人間は生まれてから、人生とは自分の思い通りになるのが幸せなことだと、誰から教えられたのでもなくそのように受け止め、それが全く自我のなせる技なのです。
仏の教えとは「そうではないよ」「先祖が迷っているのではない、迷っているのはあなたですよ。」と呼びかけてくださるものです。
あなたへの「目覚めの契機」として、今回の御縁を(たとえ都合の悪いことであっても)あなたに受け止めて欲しいと、先祖が願っておられるのです。
「迷っているのは私だった」と気づかせていただく御縁にしなさいというのが、ご先祖の願いだったと気づかされていく、それが仏事(年回法要)を勤める意味なのです。
「思い通りになることが幸せになること」という了解は、思い通りになったことを次からは「当たり前」としてしまって、「生きていく上で起こってくる出来事を受け止めていくのが私の人生」なのだということを、わからなくしてしまうのです。

その一つの例を挙げてみましょう。

2016年の「春の選抜高校野球大会」の開会式の選手宣誓は、「当たり前にある日常の有り難さを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます。」というものでした。
私にはとても印象深いものでした。
2011年の東日本大震災における高校生球児たちの経験が、このような宣誓をさせたのでしょう。
この宣誓は、小豆島の高校球児が考えたものでした。
東北(特に福島県)の球児たちは放射能の影響があり、運動場での練習は一日一時間しかできない、後の練習は体育館でのバットの素振りか、投手はバッターを立たせての投球練習しかできない、そういうことを聞かされていた小豆島の球児たちは、福島のそうした状況を知って「当たり前にある日常の有り難さを胸に」という言葉を用いて宣誓文を作ったのでした。

苦しいことがある、悩まされることが起こってくる、その前提には「いのちが与えられている」という紛れもない前提があるにもかかわらず、特に現代人は、その前提に気づくことができなくなっているのです。
この「有り難い」ことを「当たり前」のこととして見過ごしてしまうこと、これを仏教では「無明(知らない・「気づけない」ことに気づけない)」と教えられてきました。
(この項続く)
  

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2022年10月11日

清風 2022年9月


人間の本質はGDPによって計りうるものではない。
われわれは「学びの社会」の時代に入ったということをしばしば耳にする。
これは確かに、真実であることを希望しよう。
それでも、われわれ人間仲間とだけでなく、自然とも、いかにして調和して生きるか。
結局、自然を作り人間を作ったより高次元のちからと平和裏に生きることを学ばねばならない。
何故なら、われわれは偶然に生まれたのでもなく、自分で自分を作ったものでもないことは確かだからである。
『人間復興の経済』シュマッハー(1911~1977)著 
1976年 佑学社刊(P14~15)より


成熟社会とは、これまでの経済成長一辺倒に代わる社会です。
それは、経済力・軍事力に代わり、例えば現行「日本国憲法」の第九条が国の目標に置かれること。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意した」(「日本国憲法」前文)と、日本国民が世界と約束した責務とでも言えるでしょうか。

昔の中国の皇帝は、画家や陶芸家の品等を、専門のスタッフと相談して決めたらしい。で、その一等を“一品”といった。
天下一品なんていう、あの一品ですね。
で、以下、二等・三等…ではなく、二品・三品…という呼び方で格付けしたそうです。
が、中国の面白いところは、その審査のモノサシで測れないが、個性的ですぐれていると思われるものは、「絶品」とか「別品」として認めた、というんですね。
その時の久野 収先生(哲学者)によると、
「別品(別嬪)といったら、いまでは美人のことを指しますが、もともとはちょっと違うようですね。
だいたいあれは、関西からでてきた言葉でしょう。
関西では、芸者とか御料人さんとか、正統派の美女に対して、ちょっと別の、声がハスキーだとか、ファニーフェイスだとか、そういう美女を別嬪と呼んだわけですね。
ところが、いまは俗流化して、別嬪というと美女のことになってしまった。
ぼくが言いたいのは、別品とか逸品とか絶品というのは、非主流ではあるけれど、時を経ると、どちらが一位であるかわからないような状況の生じる可能性があるということなんですね。」
『成長から成熟へ-さよなら経済大国』天野祐吉(1933~2013)集英社新書(P211~212)

この文章を読みながら、経済力・軍事力、つまり富国強兵という国家を考える場合の基準として、GNPとか、その国家について軍事力で守るという、どう考えても経済成長のみ、つまり物質的な富の拡大あるいは功利的な損得のみに意識を集中させてきたことが思われます。
その結果、経済成長という数値のみが国の指標として掲げられることとなり、「経済成長」が人のための成長であったものが、今では成長のために人が使われるという倒錯した状況になってしまいました。
(例:コロナ禍で人流の抑制をするか、しないか…など)

ここで、清風2022年3月号の巻頭の言葉「財力、容姿、地位、学歴、健康などは全て、人生をかたちづくる素材にすぎない」を思い起こしてください。
人生にはさまざまな出遇いがあります。
その出遇いは、私の思いを超えています。
つまり向こうから私のところへやって来るものです。
仏教では、その出遇いのことを「縁」と教えられてきました。出遇いによって私は育てられるのですよ、と。
その出遇いに、私はどう育てられてきたのでしょうか。
「素材にすぎない」…GNPとは、その素材であるということです。
「成長から成熟へ」と言われる、その成熟とはどういうことでしょうか。

先に紹介した『成長から成熟へ』という本の結論に、天野祐吉さんは次のように記されています。

いいなあ。
経済力にせよ軍事力にせよ、日本は一位とか二位とかを争う野暮な国じゃなくていい。
別品の国でありたいと思うのです。

そして釈尊は、「あなたは、誰とも比べる必要がない」、つまり「別品」であると仰っています。
  

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2022年08月16日

清風 2022年8月


人智 浅田正作
世の中が
便利になって
一番困っているのが
実は人間なんです
詩集『念仏詩集 骨道を行く』法蔵館発行 1988年12月刊


近代文明とは何であったのか

私たちが求めてきたものは「便利さ」と「豊かさ」だったと言ってよいでしょう。
ここでいう「便利」「豊かさ」は物が支えてくれるものであり、物を手に入れるためのお金が豊かさの象徴となりました。
便利さとは速くできること、手が抜けること、思い通りになることであり、さまざまな電化製品、自動車や新幹線などの交通手段、携帯電話、その他諸々、次々と開発された機器はさらなる便利さをもたらし、それらの製品を生産する産業が活発化することで経済成長、つまりお金の豊かさが手に入りました。
私たちはこのような変化を進歩と呼び、そのような社会を近代化した文明社会、つまり先進国の象徴として評価し、この方向での拡大を求めてきました。
『科学者が人間であること』(岩波新書発行 中村桂子(前生命誌館長)著)

そしてその結果、私ども日本人はどのような人生観・世界観を持つにいたっているのでしょうか。
東北の大震災の時、福島と岩手、宮城の漁業者の人の震災の受け止めが全くと言っていいほど異なっていたことに気付かされました。
というのは、福島では海沿いに「原子力発電所」があり、地震の折りの大きな津波により原子力発電のエネルギー源である核分裂を制御することが出来なくなり、今(2022年現在)も収拾できない事態となっています。
今も近隣のアジア諸国向けを含めて日本-特に福島県産の魚・農産品などの輸出がストップし、核分裂を抑えるために使われた海水などの水を再び海に放出することが近県並びに隣国から危険視され、貯水されている冷却水の放射能値に対し信頼が得られない状況が報じられてもいます。
岩手・宮城の漁民は、とにかく地震が来たら海岸から速やかに高台の方向へ避難する。そして命が助かれば、海水が引くのを待てばまた漁業は再開できるのだから-と言います。
そして大変な状況の中でも「こういうような事態は、今までも度々先祖の人たちは経験してきて、その経験は受け継がれてきております。
というのは、この度のこうした津波によって陸の土などが海岸沿いの海水に流れ込んで、豊かな漁業の場となることが伝えられてきており、堤防も従来のままがよく、福島のように巨大な堤防は望んでいません。」ということでした。

東日本大震災の時には「想定外」の言葉が使われましたが、「思い通りにできるはず」という前提があったからでしょう。
今年も気候変動が激しく、今までなら異常気象と言われることも異常ではなく、「線状降水帯」という名称で位置づけられています。
今回の災害によって世の中が変わると感じた人々は、案外的を射ているのかもしれません。
つまり潮時が来ているということかもしれないからです。
科学の成果により、自然から化石燃料によるエネルギーを得、また医学の進歩によって健康で長生きが可能となり、人類は自然をも「資源」として利用の対象とし、また自己を「万物の霊長」と名告っています。
潮時というのは、人間も「自然の中にいる生きものの一種であり、自然はそういう意味から言えば、人間にとっても母胎である」のですね。
その母胎を対象化して資源としてのみ見る立場においていることに、何の疑問も持てなくなってしまいました。
東日本大震災で言うなら、原発の制御ができない-想定外の事態が、人類にもたらした意味だったのでしょう。
そして安倍さんの襲撃事件、さらにその襲撃者が犯行に及んだ背景が明らかにされつつある現在、それぞれに、何故こんな世になってしまったのだろうと思っておられる方も多いのではないでしょうか。

今回の災害(東日本大震災)によって世の中が変わると感じた人々は、案外、的を射ているのかもしれない。
つまり潮時が来ていたのだ。そう受け取れば、大騒ぎした甲斐もある。
しかし、万事は今後にかかっている。
ほんとうに世の中、変わりますかな。
『未踏の野を過ぎて』(弦書房発行 2011年11月刊 P12     
渡辺京二(1930~ 福岡市)著)
  

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2022年08月16日

清風 2022年7月


我が国も核兵器禁止条約を批准しよう。

6月21日からオーストリアのウィーンで開かれた第1回締約国会議には、未だ条約を批准していない約30のオブザーバー国を含む80を超える国・地域が参加。オブザーバー国には、北大西洋条約機構(NATO)加盟国のドイツ・ベルギー・オランダ・ノルウェー、加盟申請中のフィンランド・スエーデンのほか、オーストラリアも参加した。
唯一の戦争被爆国でありながら条約を批准していない日本政府は、オブザーバーとしての参加も見送った。
議長国オーストリアの核軍縮担当部長は「我々は核兵器に関する議論の岐路に立っている」と指摘し、核禁条約を「国際社会にとって希望の光」と表現した。また米国の「核の傘」の下にいる国々がオブザーバー参加を決めたことについて、「核兵器の人道的影響、リスクに関する深い議論に建設的な形で関与する意思だ」と謝意を示した。
我が国からは、被爆地の広島・長崎の市長、並びに被爆者代表などが参加。
被爆市の広島・長崎の市長は、国はオブザーバーとしてでも「参加すべきではないか」と挨拶の中で述べた。

ここで日本国憲法 前文・第9条・第99条を紹介します。
前文(抄)
日本国民は、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、この憲法を確定する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第99条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

1987(昭和62)年4月より、本山・東本願寺では、それまで「戦没者追弔会」という名で勤めてきた法要の意義を再確認し、仏法の法会とすることを願って「法」の一字を加え、さらに「全」の一字を加え「全戦没者追弔法会」として勤められてきました。
憶えば、太平洋戦争で命を奪われた日本の軍人・民間人は200万人とも250万人とも言われます。中でも私たちが決して忘れてはならないことは、日本軍によって殺されたアジアの民衆が、実に1,000万人以上にも達するという事実であります。
こうした軍・民を問わず亡くなった方々より、私どもは、死をどのように受けとめ、またその痛ましい死に報いるべく今日どのような生き方をしているかを、厳しく問い正されなければならないのであります。

<ご案内> 守綱寺「全戦没者追弔法会」
2022(令和4)年8月14日(日)午前6時~7時30分
守綱寺本堂にて 法話:前住職
次第 … 午前6時~    お勤め(正信偈 同朋奉賛式)
    午前6時30分~ 法話「国豊民安 兵戈無用」
    (兵戈=軍隊と武器)

  

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2022年06月27日

清風 2022年6月


人間は生きものであり
自然の中にある
『科学者が人間であること』岩波新書 2013年刊
2018年3月第6刷 「はじめに」より
中村桂子 著(1936年生まれ。前JT生命誌研究館館)

私たち現代人は、そもそも人間は生きもので在り、自然の中にあることを忘れがちです。
(略)自然は人間が制御できるものではなく、もっともっと大きなものであり、私たちはその中にいるのだということを痛感したのです。
科学技術が自然と向き合っていない。これが東日本大震災(3・11)で明らかになった問題点です。
震災直後に多くの人の怒りを買ったのは、科学技術者の思わずもらした「想定外」という言葉でした。ここには、「人間がすべてを制御する」という科学技術、工学の発想があります。
自然がすべて解明されているわけではないことはよく分かっているのに、特定の数字を決めて計算しているうちに、人間がすべてを設定できるという気分になり、その数字の中で考えるようになってしまうのです。
(『科学者が人間であること』中村桂子 著「はじめに」より冒頭の言葉からの続き)

精神のない専門人、心情のない享楽人。この「無の者(ニヒッ)」は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう。
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』M・ウェーバー 1920年刊)
このM・ウェーバーの文は、先月号の2面、最後から5行目に「経済成長のためにはなりふり構わぬ、無の者」と書いた元となる文献です。
【お詫び】先月号に掲載する予定だったのですが、不掲載のまま印刷してしまいましたので、今月号に掲載する次第です。

今、政府は「新しい資本主義」と称して、今後「情報化社会・半導体社会」と言われるAI(人工知能)技術が担う社会が当来することが予想・予期されることを目指して、これらの分野に資本を一点集中的に投資していくことを考えています。
アメリカの情報産業の中心となる三社が巨万の富を稼ぐ状況が、我が国でも報道されている中で、その富を稼ぐ施設として、例えばIR(統合型リゾートとも言う、カジノ(賭博場)・劇場・ホテル・大規模商業施設・国際会議場が集まった観光集客施設)の建設計画が打ち出されて、4県がその建設に名乗りを上げ、県議会・市議会で上程されたのですが、2県はその提案が議会の反対多数で否決されました。
賭博依存症の家族等からの設置反対の声も相次ぎ、専門医からも心配する意見が出されていたのです。
そうした中でも、議会で設置を否決された県知事は記者会見で「痛恨の極みだ。県経済を良くする最大の起爆剤が失われた」と語っているのです。
人も、経済成長のための“素材”なのであり、IRによって人間の崩壊である「依存症患者」を生み出すことも、それは経済成長のためのリスクであって、その対応として「依存症外来」を設置して治療に万全を期す、とも言われていました。
ダーウィンの『進化論』に依るところなのでしょう。
人間は「万物の霊長」であると自称するようになりました。

ここで先月号の冒頭の言葉を、あらためて紹介します。
万有の進化は人間に至りて一段の極を結び形態的進化は此より転じて精神的の進化に入らんとするか。(略)吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなりや。
(『臘扇記』清沢満之全集 第8巻P358~359)

近代においては、人間などの生きものを生み出した母胎である自然ですら、人間の欲望を満たすための(経済成長のための)資源として…という視点で、“利用価値のあるもの”として対象的に見られてきています。
親ガチャ・子ガチャという言葉があるそうです。
これはまさに、この近・現代における我々人間の自然観から生み出されてきたと言えます。
「親は子を選べない」「子は親を選べない」という意味だそうですが、親は子にとって、子は親にとって、利用価値からの評価の対象としてのみ存在できる・存在が許されるということになっているということなのでしょう。
こうした事態もあって「今後、時代はもっと厳しい混沌とした状態に陥っていくのではないかと。
しかし、その混沌はある意味むだではないかとも思う。
それを潜って、そこから何かを見つけ出すのではないのか」(『3・11と私』藤原書店刊 共著)と、『苦海浄土』の著者、石牟礼道子さんは書いておられます。
上記で紹介した清沢満之先生の「形態的進化は此より転じて精神的の進化に入らんとするか。
吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなりや」という指摘こそは、石牟礼道子さんの言われている「そこから何かを見つけ出すのではないのか」という、その「満足」を考えるヒントが示されていると思うのですが、さてさて。(この項続く)

  

Posted by 守綱寺 at 11:24Comments(0)清風