2018年02月11日

清風 2018年2月



① ある寺院の掲示板に
  「人生、苦しみを越えて」
  と書いてありました。
  苦しみを越えて、また苦しみにぶつかる。
  さもあろうが、
  苦しみをいただく、
  そんな世界もありなんと思いました。

② わたしの都合のよいようにして下さる。
  都合のよいようになってくる。
  そんなものを幸せと思っているんだ。
  とんでもない。
  今、こんなことになっていることをいただくことによって、
  幸せがあるんだ。

      『詞集 ありのままが ありがたい』(① P70、② P78)
               2009年3月 難波別院発行
               横山貞男 著(1915~1993)写真屋経営・写真家

「あなたにとって、幸せとは何ですか?」「呼吸の出来ることです。」
水木しげる … 漫画家。代表作『ゲゲゲの鬼太郎』

うれしい時は勿論、悲しいときですらも与えられている事実があってのこと。それには気づかない私がここにいる。

「当たり前にある、日常のありがたさを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます。」    2016年 春の選抜高校野球大会 開会式選手宣誓   
香川県小豆島高校野球部主将

「当たり前」とは、有ることが難いこと。つまり、奇跡が起こっていることだったのだ、という発見。これこそが、汗かいて、苦悩して生きて得られる事実だったのだ。功徳と言われてきたこと。迂闊にも、気づけていない私がいる。



(2面)
戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。
だが、戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない。
故 田中角栄元総理(『通販生活』2018年春号より)

市民を戦争に巻き込むことは容易だ。自国が他国から攻撃されると言えばいい、というようなことを言ったのは、ヒットラー政権下のヘルマンゲーリングだった。
(同上誌より)

戦争のニュースに触れるたび、人間は悲惨な過去から何も学んでいないのではないかと悲観的な気持ちになる。
日本の安全保障を考える時、常について回るのは、アメリカの核抑止、いわゆる「核の傘」の問題だ。
他国の脅威に対して、日本は「核の傘」で守ってもらう。それができないなら自国で核武装するしかない、などと。

昨年、「核兵器禁止条約」の活動でノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」のベアトリス・フィン事務局長が1月に3日間来日した際に、安倍首相に会いたいという希望に対し安倍首相は日程の都合が付かないという理由で会おうとしなかったのも、「核の傘」という呪縛から逃れられないからであろう。
「核に依存する国には様々な議論があると思うが、参加への障害にはならない」と述べ、さらにフィン氏は「日本がとっている政策が“核兵器禁止条約”の文言に違反しているのか洗い出してほしい。
抵触しないのなら、何故参加しないのかという議論につながる。
事実に基づく議論をすべきだ」と語った。

将来の我が国の安全保障を、軍事力によらず憲法の精神を活かしていくためには、日本・韓国それに北朝鮮を含んだ北東アジアで非核兵器地帯(註)をつくる。
つまり、核の傘ではない、非核の傘による安全保障を考える具体的なチャンスが国際的に動き出したのである。唯一の核兵器による被爆者を出している日本としては、この努力に対してこの条約の精神を世界の未来を切り開く契機にしていくべきチャンスととらえるべきであろう。

(註)非核兵器地帯とは、地域内の国家間で結ばれた条約によって核兵器の開発や製造、取得などが禁止された地域のこと。キューバ危機を契機に、まず1960年代にラテンアメリカ及びカリブ海地域で条約が結ばれ、その後、東南アジア、アフリカなどの各地に作られてきた。



  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)清風

2018年02月10日

お庫裡から 2018年2月




冬休みが終わり、孫たちが学校へ通い出した途端、中1の誓くんが、インフルエンザをもらってしまいました。
仲良しの兄弟なので、当然のように3日遅れで中3の開くんもインフルに。
2人とも熱が高く、何日も部屋に引きこもったままで顔を合わさない日が続きました。
インフルは治りかけがうつる確率が高いというので、子どもたち2人は家族に気遣い、自分たちの行動を配慮して行ってくれています。
食堂に物を取りに行ったら、やっと熱が下がったという開くんが食卓にいて、久しぶりに顔を合わせました。
私の姿を見ると「あっ、おばあちゃん。おばあちゃんにうつすといけない」と、すーっと立ち上がった姿がスラリと見えたので、「あれ、開くん。少しやせたからかな、何だか背が高くなったように見える」と言うと、「この間はかったら、僕、今169センチあるよ」という返事。
前に背のことを聞いたときは165センチと言っていたので、ここ近々で4センチも伸びていたのです。
毎日見ていると気づかないことでも、少し間が空くと、気づくことがあるのですね。
ああ、そうだった。
開くんばかりではない。この私も、私の周りも、日々変わりづめに変わっているのだった。
こんな些細で、かつ重要なことに、新鮮な驚きをもって、2018年の初月が終わろうとしています。
麦の芽の伸びゆく様や孫の背丈
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)お庫裡から

2018年02月09日

今月の掲示板 2018年2月



   全財産
  愚痴 いっぱい
  欲望 いっぱい
  腹立ち いっぱい
  煩悩 いっぱい
  恥ずかしいけれど
  これが私の全財産

   修正会
  何ひとつ 決めて
  守れぬ身と 知れど
  年新なり 修正会
  弥陀(みおや)の誓いに
  生きんと 願う

   無常
  淡雪 チラチラ
  手に受けたら 消えた
  確かめる いとまもなし
  私が追い求めた
  幸せのように・・・

   他力の掌中
  仏法に摑まえられて
  はじめて わかった
  それは
  人間は 三界に
  逃げ場なしということ
  そのことを
  われらの先達は
  「われらは 絶対他力の掌中にあり」と
  喝破せられた

   呟き
  自分というものに
  光を あて
  お知らせ いただく
  その他に
  宗教というものが
  あろうか

   課題
  身がまえない
  このまま
  ありのまま
  それが
  人間成就ということか
  生涯の課題である

   手応え
  そのうちに と
  いうような時は
  うたかたの
  幻想に すぎない
  時は 待ったなしの
  ただ 今
  生きている
  この確かな手応え

   ど真中
  おまかせ
  おまかせ
  それより ないのだ
  そのおまかせの
  ど真中で
  人事を尽くすのだ

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今月の掲示板

2018年02月08日

本堂に座って 2018年2月


毎年お正月に集まる親戚の方から、子どもたちに1冊ずつ本をいただいているのですが、今年長男がいただいたのは『ミライの授業』という本でした。
この本は少し前にネットで見かけて僕自身気になっていたもので、長男が読み終わった後さっそく借りて開いてみました。
内容は、これからの「ミライ」をつくる14歳の子どもたちに、歴史上の人物とその偉業の背景にどういう考え方・行動があったのかを紹介するものです。
今回はその中から、日本国憲法の草案作成に関わった1人の女性について書かれた部分を(長いので2ヶ月に分けて)紹介します。

わずか22歳にして日本の歴史を大きく変えた女性。
彼女は1923年、オーストリアのウィーンで生まれました。
日本人ではありません。
国籍もなかなか複雑で、ロシア(現ウクライナ)系のユダヤ人としてオーストリアに生まれ、5歳から15歳までのあいだ日本で暮らしました。
彼女の名前はベアテ・シロタ・ゴードン。彼女は日本に「男女平等」という概念をもち込み、定着させた女性です。
男尊女卑で女性が虐げられていた日本社会を、たった一行のルールでひっくり返した女性です。
ベアテの父親レオ・シロタは、世界的なピアニストでした。
彼が中国のハルビンでコンサートを開催したとき、偶然観客席にいたのが山田耕筰でした。
レオの演奏に感激した山田耕筰は、ぜひ日本にも来てほしいとお願いします。
そして1929年、レオは妻と一人娘のベアテを伴って来日します。
最終的にレオ夫妻はそのまま17年間、日本に滞在しました。
この時ベアテは5歳。
すぐに友だちをつくり3ヶ月も経たないうちに日本語をしゃべりはじめます。
両親はドイツ語、ロシア語、フランス語、そして英語を使いこなしましたが、なかなか日本語を覚えられません。
こうしてベアテは両親の「通訳」として、日本での日々を過ごすことになります。
ここでみなさんは不思議に思うかもしれません。
いったいなぜ、それほど有名な世界的ピアニスト一家が、日本で暮らすようになったのか。
その理由として、まず第一に、レオ自身が日本のことが好きだったということが挙げられます。
さらには、彼がユダヤ人であったことも大きく関係しているでしょう。
当時のヨーロッパは、世界恐慌の影響で経済が落ち込み、政治や社会全体が不穏な空気に包まれていました。
特にドイツでは、反ユダヤ主義を掲げるナチスが台頭するなど、ユダヤ人にとって暮らしにくい場所になりつつありました。
一方、日本ではユダヤ人だからといって差別されるようなことはありません。
しかし、日本に戦争の影が忍び寄り、ベアテが高校を卒業するころには、とても日本の大学への進学は考えられなくなります。
ベアテは1939年にアメリカの大学への進学を決意します。
日本とアメリカが戦争に突入する2年前のことです。
サンフランシスコの大学に留学したベアテは、成績も優秀で奨学金をもらいながら大学に通っていました。
しかし日本とアメリカの関係が悪化して、両親からの仕送りがとだえると、みずから働いて生活費を稼ぎながら大学生活を続けていきます。
ここで役立ったのが、幼いころから家庭のなかで続けてきた「通訳」の技術でした。
もともと日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語ができたことに加えて、大学ではスペイン語まで身につけたベアテ。
語学力をいかした仕事ならたくさんあります。
こうしてベアテは、学生時代から翻訳者として働き、大学卒業後には陸軍の情報部で翻訳と日本語ラジオ放送の仕事に就きます。
さらに2年後、彼女はニューヨークに移り住み、雑誌『タイム』の外国部で働きはじめました。『タイム』といえば、アメリカを代表するニュース雑誌です。
しかし、ここで彼女は厳しい現実と突きつけられます。
当時の『タイム』では、記者になれるのは男性だけで、女性はリサーチ・アシスタントという「資料探し」の仕事にしか就けなかったのです。
6カ国語をあやつり、大学での成績も優秀で、メディアで働いた経験をもっている自分が、ただ女性というだけの理由で、記者になれない。
彼女は大きな疑問を感じながらも、リサーチの仕事に全力で取り組みました。
そして1945年8月、太平洋戦争が終結すると、ベアテは両親の住む日本に帰ることを決意します。
とはいえ、終戦間もない日本では、民間外国人の入国が厳しく制限されていました。
そこでベアテは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の職員に応募し、兵士たちと一緒に「第二の故郷」である日本に入るのです。
こうして日本に入国し、無事に両親とも再会できたベアテに、思いがけない話が舞い込みます。
彼女が所属していたGHQの民政局が、あたらしい日本国憲法の草案をつくることになったというのです。
(来月号に続きます)
(『ミライの授業』瀧本哲史著 講談社発行 より引用しました。)

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)本堂に座って

2018年02月07日

今日も快晴!? 2018年2月



昨年の紅白歌合戦で印象的だったのが、平井堅さんの「ノンフィクション」です。
本番のステージでは、平井堅さんのバックで義足のダンサーの方が踊っていました。
(ああ、この人は義足なのにこんなに踊れてすごいなぁ)と思いながら見ていましたが、後日NHKスペシャルで、この時に踊っていらした義足のプロダンサー、大前光市さんの密着番組が放送されました。
たまたまその番組を目にしたのですが、紅白のステージを見ているだけでは分からなかったものすごいドラマがありました。
大前さんは、プロのダンサーとして活動されていた22歳の時、当時日本で最高峰だったダンスカンパニーのオーディションに挑戦し、最終選考まで残りました。
次は最終オーディションという2日前、交通事故に遭い、左足の膝下を切断されたのだそうです。
そして、そのオーディションに見事合格し、その後世界でも活躍するダンサーとなった辻本知彦さんが、紅白の大前さんのダンスの振り付けを担当されていたのだそうです。
大前さんは、足の切断後、トップダンサーとしてステージに立つ辻本さんを見て、(この場所に自分も立つはずだった!)と、葛藤し、涙が涸れた後は怒り、苦しみました。
「描いた夢は叶わないことの方が多い 優れた人を羨んでは自分が嫌になる 筋書き通りに いかぬ毎日は誰のせい? 人生は苦痛ですか? 成功が全てですか? 人生を恨みますか?」
と歌う「ノンフィクション」は、大前さんにとって、(この歌は自分の歌だ!)と思えたそうです。
夢を諦めずトレーニングを続けた大前さんは、「義足ダンサー」として再び注目されるようになりました。
そして紅白歌合戦のオファーを受け、辻本さんの振り付けたダンスを踊ることになります。
振り付けを完璧に覚え、片足がないとは思えないほど正確なターンをし、ぴたりと静止してみせる大前さんのダンスに、辻本さんはなかなか「OK」を出しません。
「極端なことを言えば、振り付けなんてどうでもいい」と言う辻本さんの真意は、なかなか大前さんに伝わりません。
しかし大前さんは、辻本さんとのレッスンを通して、「義足だと分からないように、健常者と同じように上手く踊れることが良いのだと思っていた。そうではなかった。」と気付き、健常者と同じようにまっすぐ立てるよう、水平に作ってもらっていた義足の先をあえて削り、バランスが悪くて上手く立てず、ふらつく自分をあえてさらす形で本番に臨みました。
「紅組でもなく、白組でも無く、負け組で良い。負けた向こうに自分がある」と言う大前さんの言葉は、ダンサーとしての夢を絶たれ、もがき続け、やっと健常者と同じように踊れることで保っていた自分をもう一度壊すという、過酷な試練に向き合った魂の言葉のように思えました。
プロのダンサーとして最高レベルを求める辻本さんと、それに応える大前さん、双方が素晴らしく、感動的な番組でした。
普段は「9時に寝なさい!」と子どもの夜更かしを嫌う私ですが、この番組は思わず子どもたちと見入ってしまいました。
人生は何度でもやり直すことが出来る。
今自分がいる場所から転落したら、奈落の底まで落ちるのでは無く、落ちた下には大地があり、受け止めてもらえるのだから、また新しくはじめれば良いのだと、子どもたちにも大切なメッセージが伝わるような番組でした。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?

2018年02月07日

清風 2018年1月



誇るべき 日本の戦後。
戦争せず、一人も殺さないで来たことに。YES。

ただし、沖縄の普天間基地移転や相次ぐ米軍の不祥事にも、沖縄の基地負担について、軽減交渉が何等進まない日米地位協定の見直しが出来ない現状を除けば。

過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。
ヴァイツゼッカー元西独大統領

「いのちは尊い」とは、一体どういうことを指すのだろう。

戦争は、当然、殺し殺される、殺し合いである。
他ならぬ、この日本の国が、戦争の出来る国にする準備がされている。

10月の解散総選挙では、政府と、与党である自民党と公明党は、「解散総選挙の理由付けとして、国難突破解散」と名付けていた。
外交の努力が出来ない、するつもりも無い、武力でもって言うことを聞かせるだけなら、外務省という役所は全く機能していないということである。
どうして我が国は、そんな知恵も方針も持てない国になってしまったのだろう。

みんなで考えよう。
いのちは 何故 尊いのか。

そして、現行憲法を、特にその前文と第9条及び第99条を読んでみたいものだ。

  

Posted by 守綱寺 at 15:54Comments(0)清風

2018年02月07日

お庫裡から 2018年1月



年が新たまると、それに合わせて手帳を新しくします。
毎月行っている読書会の大凡は、グループによって行う曜日が決まっています。
それにコーラス、お茶、お花、洋裁、俳句。
この会は第1火曜ね、この会は第二金曜、この会はこの会はと、1月から予定を入れていくと、まだ始まってもいない新しい年の12月まで、びっしり予定が入ってしまいます。
八重てもいけないから、最初から予定がわかっているのならと、手帳に予定を入れていたら、何やらモリモリと手帳から聞こえてきました。
「予定は未定だぞ。予定通り何事もこなせるなど、ゆめゆめ思い上がって思うでないぞ。」
親鸞聖人が得度を志された時、「夜も更けたから、明日に」と言われた慈鎮和尚に向かって、
「明日有りと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
と仰り、その夜得度を受けられたと聞いております。(東本願寺では、その故事に倣い得度は9歳から受けることができ、得度式は御影堂の戸を立てて行う)
ああ、そうだった。本当に明日有りとはわからぬ身だった。
明日 死ぬかのように 生きよ
永遠に 生きるかのように 学べ  ガンジー
先人は、尊い言葉を残してくださっています。
 勿体ないいのちをいただいて、6まわり目の戌年をスタートさせます。
皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


  

Posted by 守綱寺 at 15:53Comments(0)お庫裡から

2018年02月07日

今月の掲示板 2018年1月



 

  私のために
  数えきれないほどの
  お米の一粒一粒
  いま この茶碗のなかに

  ほんものと にせものは
  見えないところの
  あり方で わかる

  ほんとうの話し合いは
  聞きあうこと

  この花は
  今しか咲くことができない
  この花は
  力いっぱい咲いている

  喜びの見える目
  尊いものを見ぬく目
  仏さまの目

  拝まない時も拝まれている
  子どもが
  親の願いの中に生きているように

  雨の日には
  雨の日の
  大切な人生がある

  人生を耕させてもらう道
  それが お念仏

  人間は、一人で生きられると
  錯覚するところに、自力聖道門がある。
  人間は、環境と一体で
  これを離れては生きられぬと見極めたところに
  他力浄土門がある。

  殺してはならない
  殺されてはならない
  殺させてはならない(仏典より)

  天を拝することを得ざれ
  鬼神を祠ることを得ざれ
  吉良日を視ることを得ざれ(親鸞『教行信証』より)

  念仏はいのちなり
  念仏はまことなり
  血吹き 涙あふるゝ暗き世に
  わが無碍光は
  されど その力にては
  消えざりき (九州、田島かくれ念仏堂碑文)

  

Posted by 守綱寺 at 15:51Comments(0)今月の掲示板

2018年02月07日

本堂に座って 2018年1月





今月も西野亮廣さんの『革命のファンファーレ』から引用させていただきます。
今回は「お金」について書かれた部分ですが、お金に対する考え方・受け止め方が斬新で、面白いだけでなく、考えさせられる内容になっています。

「お金とは何か?」
ウダウダ語るのも面倒なので、結論を言う。
「お金」とは信用を数値化したものだ。
たとえば、魚を100匹売りさばいた時に「この人は魚を100匹売りさばいた信用のおける人ですよ!」という「信用証明書」が貰える。
その後、自転車が欲しければ、自分が持っている信用証明書と自転車を交換してもらう。言うまでもないが、この信用証明書の名前が「お金」だ。
信用証明書(お金)の形は、貝殻から始まり、貨幣になり、紙幣になり、クレジットカードという“数値”になり……時代に合わせて変化してきた。
最初は稀少な素材で信用証明書が作られて、信用証明書の価値は素材そのもの(貝とか金とか)の価値とイコールであったが、「稀少な素材がなかなか見つからねーよ」となって、稀少でも何でもない素材が硬貨に混ぜられるようになり、「つーか、硬貨って重くね?持ち歩くのに便利な紙にしね?」とか誰かが言い出して、信用証明書の“素材そのもの”の価値は綺麗サッパリ無くなった。
このように形や素材の価値はコロコロ変われど、信用証明書(お金)を介して交換されているものは今も昔も変わらない。
「信用」だ。お金とは「信用を数値化したもの」なのである。

「「お金の奴隷」という自覚」
町の本屋さんが“あまり売れない本”を入れ替えなければならない理由は、本棚に“場所代”が発生しているからだ。売れる本は、その売り上げから“場所代”を支払い続けることができるが、“あまり売れない本”は場所代を払うことができないので、本屋さんから追い出されてしまう。
本と本屋さんの関係は、人間と賃貸マンションの関係と同じだ。
そもそも、何故、場所代が発生するのか?僕らは何故、土地にお金を払わなければならないのか?それは、土地に“限り”があるからだ。
地球の土地にも“限り”があり、交通の便が良い都心部の土地にも“限り”がある。
土地には“限り”があり、限りある土地に対して人が溢れてしまっているので、結果、僕らは土地を奪い合うことになる。その瞬間に「お金」が発生する。
「お金を払える者はこの地に残り、払えない者は去れ」というゲームだ。このゲームは、競争率に比例して、提示される金額も吊り上がる。
いずれにせよ、先祖代々、津々浦々、このゲームを繰り返しているうちに、いつしか僕らの中で「土地はお金を払わないと使えないもの」という常識が出来上がってしまったが、先ほども言ったように、そこにお金が発生している理由は、土地を奪い合うからだ。奪い合うからお金が発生するのだ。

「お金の奴隷解放宣言」
映画『えんとつ町のプペル』(注:西野さんの同名絵本の映画化作品で、現在制作中です)は、とある革命家による「お金の奴隷解放宣言」から物語がスタートする。
それは、こんな言葉だ。
「…我々の祖先は『お金』を発明した。この発明により、海の幸と山の恵み…その他ありとあらゆる恵みが交換できるようになり、我々人類は自由を手に入れた。しかし、いつからだろうか。交換の手段にすぎなかった『お金』に、我々人類は主導権を握られ、『お金』がないと暮らしていけなくなり、ついには奪い合うようになった。我々人類は、いつから『お金』の奴隷になってしまったのだ?今日も『お金』に生活が支配され、心が支配され、人の道を外れてしまう者が後を絶たない。何故、『お金』が力を持ってしまったのか?原因は…肉や魚、靴や鞄に至るまで、ありとあらゆるものが時間の経過と共に腐り、その価値を下げていくのにもかかわらず、『お金』だけが、時間が経過しようと、その価値を下げないからだ」“お金が腐らないから、お金が力を持ってしまった”という主張だ。このあと男は、時間が経てば経つほど価値が下がっていく『腐るお金』を生み出し、腐るものを貯め込んでいても無駄になるだけなので、町の人達は積極的にお金を使い、お金が回るようになり、この町は急激な経済発展を遂げる。
ここで、皆さんに問いたいことがある。ナスやピーマンに比べて、お金が力を持っているから、お金を持っている人が力を持つことになったわけだが、はたして現代もそうなのだろうか?その問いに対する僕の答えは「NO」だ。理由は、お金を信用に両替することはできないが、信用をお金に両替することはできるから。
(『革命のファンファーレ』西野亮廣著 幻冬舎発行 より引用しました。)

  

Posted by 守綱寺 at 15:50Comments(0)本堂に座って

2018年02月07日

今日も快晴!? 2018年1月



中学生になった次男が所属しているのは、市内大会&西三河大会で優勝し、県大会の常連である強豪ハンドボール部です。
のんびりマイペースの次男が厳しい練習についていけるのか、最初は心配していました。
中学の運動部に関しては、「チームスポーツだからと、練習を休ませてもらえない」、「怪我をしているのに、治る暇が無いくらい練習をやらされる」、「宿題をやる暇が無く、成績はどんどん下がる」等々の「ブラック部活」の話を聞いていたこともあり、そんな部活に巻き込まれるのは嫌だなぁと、ドキドキしていました。
そうした不安もあり、練習の後、次男に「今日の練習はどうだった?」と度々尋ねましたが、いつも「楽しかった」という答えが返ってくるのです。
試合に行った後は、「部活の先輩たち、いつも冗談を言い合ってバカなことやって笑っている。練習は楽しいよ。
でも、〇〇中の先生は、試合中いつもすごい怒鳴っているんだよ。だけど、弱いんだよね~」と。
なるほどなと思いました。
次男のハンドボールに関しては、苦い経験がありました。
長男がもの作りが好きな大人しい子だったので、次男には運動をやって欲しい。
左利きなのでそれ活かせるスポーツを・・・と思い、小学校の1年間、ハンドボールのクラブチームに通わせたのです。
私自分も部活で取り組んでいたスポーツでしたので、思い入れもありました。
次男は最初は楽しそうに通っていましたが、次第に「行きたくない」「嫌だ」と言い出して、最後は毎回のように渋る子どもを無理矢理車に乗せて練習に連れて行く・・・という状態が続きました。
今考えると、遊びたい盛りの子どもに、コーチの厳しい指導に耐えて試合に勝ちたい、シュートを決めたい、という気持ちはさらさら無かったようでした。
コーチに怒鳴られたり、チームメイトからキツい言葉を掛けられるのも嫌だったようです。
そのうち気が変わるのではないか、「行く」と言い出すのではないかとしばらく待ちましたが、本人は全くその気は無く、「もうハンドに行かない」と言ってきっぱりと止めてしまいました。
その時は本当にガッカリして落ち込みました。
でも、この経験が私にとっては非常に大きなものとなりました。
(親が子どものためによかれと思っても、それが本当に子どもにとって良いかはわからない。
最終的には子どもが決めることだし、親が子どもを自分の思うようにコントロールできると思う方が間違っている)と思えるようになったのです。
次男が中学に入学したとき、「やりたい部活をやれば良い」と口出しはしませんでしたが、なんと中学で一番強いというハンドボール部を選んできたのです。
確かに練習の回数は多いし、試合が近くなると使用できる体育館を探しては練習が追加されるので、送迎や練習に合わせてご飯の支度、弁当の準備など親も大変なことは多いのですが、「楽しい」という子どもの言葉が何よりの原動力です。
ハンドボール部は、12月に1年生大会がありましたが、結果は見事優勝でした。
経験者や運動神経の良い子たちに交じって、なんとか足を引っ張らずについていっているようです。
もう親が口を出すことは何もなく、環境を整えるのみです。
この先は、親は子どもをいかに「手放す」かを考えなければいけないなぁと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 15:44Comments(0)