2018年02月07日

清風 2017年12月





私はいつも、翔子とともに苦しんできたと思っていましたが、翔子は苦しくなかった。
比べなければ翔子は障がい児ではない。私と翔子との間には障害はないんです。(略)
効率的であることがいいと思っている社会、あるいは争いとか競争というのは、私たち(健常者)の社会が、作ってしまった幻想だということを翔子に教わりました。(略)
翔子にとっては、していることができたことですから、できないことはないわけです。
私たちのように出来ない不安もないんです。いつも、目の前にあるもので十分で、“もっと”ということがない。
過去を振り返って悔やんだり、未来を不安に思うこともない。
(『サンガ』No.125(2013.9月号)より 東本願寺真宗会館(東京)発行)

金沢泰子 … 短歌「まひるの」同人。書道教室を自宅で開く。1943年生まれ
金沢翔子 … 生まれてすぐダウン症と診断される。5歳の時書道を始める。1985年生まれ。

「健常者」とは、「知恵」に支配されている者とでも言うのでしょうか。
いつも他人と比べている者とでも言いましょうか。
お母さんの泰子さんが言われるように、「比べなければ、鉦子は障がい児ではない」のですから。
「比べる」知恵のゆえに、私たちはいつも優越感か劣等感に苛まれて、自分を、自己を、全体として受けとめて生きられません。
それを「苦しみ」あるいは「悩み」と言うのでしょう。
高史明氏は「人間は その知恵ゆえに まことに深い闇を生きている」と指摘しておられます。

翔子さんと違い、その「知恵ある」私どもは「幻想」に振り回されて、悔やみ、不安を生きることになっているようです。
仏教で罪と言われることは、その「知恵」の持つ闇とやらに気づいていない事実を言うのでしょう。
だから親鸞その人は、次のように和讃されたのだと思います。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし

さて、この和讃の中に「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」と「恩徳」という言葉が使われています。
仏教は何か特別なことを教えているのではなく、金沢泰子さんが(ダウン症の娘さんの翔子さんから)気づかされていかれた、「翔子は苦しんではいなかった。比べなければ翔子は障がい児ではなかった」という、他と比べずにはおれない、その「智慧の世界」の闇に気づいたということなのではないでしょうか。
このことについて、先程の和讃の「身を粉にしても報ずべし・骨を砕きても謝すべし」という言葉遣いに注意してみたいと思います。
「身を粉にする・骨を砕く」というのは、日頃の生活の中での感覚として「身をすり減らす」とか「骨をくだく」と表現されることがあるように、翔子さんの母・泰子さんが「私は翔子と共に苦しんできたと思っていました」と語っておられるような苦しみなのでしょう。
考えてみれば、日頃の暮らしで誰もが「なぜ私だけがこんな苦しみをしなければならないのか」という経験をしているのではないでしょうか。
それが「身を粉にしても報ずべし」「骨を砕きても謝すべし」と言われている意味だったのでしょう。

ここで「恩」ということが語っている内容について、『常用字解』(白川 静著 平凡社刊)から引用させていただくこととします。
恩の字は「因」と「心」の組み合わせでできている。「因」の字は“むしろ・敷物の上に人が寝ている”形で、その敷物は常に使用し親しむもので
あるから、因に心を添えた恩は「いつくしむ(大切にする、かわいがる)」という意味となり、愛情を受けることをいう。
用例として「めぐみ・恩寵、受けた恩に感謝すること」という意味があると説明してあります。
身をすり減らし骨を砕くような苦しみが、お母さんの泰子さんの「翔子は苦しくなかった。比べなければ翔子は障がい児ではない。私と翔子との間には障害はないんです」という世界を生んできたのでしょう。

さて、私どもは日頃「いのちは尊い」と言います。
なぜわざわざそう言わねばならないのでしょうか。
それは、いのちはそれ自身が「逸品」であって、本来比べる必要がないからなのでしょう。
いのちある生き物を比べることは、いのちの世界ではなくて道具の世界のことだ、と。
「効率的であることがいいと思っている社会、あるいは争いとか競争というのは、私たちの社会が作ってしまった幻想だということを翔子に教わりました」と。

私たち健常者は、もう一度自分の立っている立脚地を検証しなければならない時にきているのだということを、確認しなければならない今(時代・社会)を生きているのかもしれません。
私は一仏教徒として、仏教の祖師方が現代を「末法の時代」と言われている意味を考えさせられています。
進歩と言ってきたのは、実は「退歩」していることをカモフラージュ(覆い隠すこと)してきたのであって、泰子さんの体験されていることは、どんな未来を開かねばならないのかを示唆していると思うからです。
それは「謙虚さ」、つまり「一切衆生」(全てのいのちあるもの)の中の人間という視点を開くとでもいった姿勢を言うのでしょう。

  

Posted by 守綱寺 at 15:43Comments(0)清風

2018年02月07日

お庫裡から 2017年12月






真宗門徒はお正月とは別に、一年を報恩講に始まり報恩講に終わる門徒暦というものを持っていると言われています。
報恩講は1262年11月28日に亡くなられた親鸞聖人のご法事です。
そのご法事を、聖人のみ教えに遇え、私が他ならぬ私に出遇えた、その大きな喜びのご恩を報じ、後に生きる人々に聖人のみ教えを伝える集いとして、報恩講が東本願寺では、11月21日~11月28日に毎年勤まっています。
私は、たまたま11月29日にこの世に生んでいただきました。
誕生の日をあれこれ言うことはありませんが、聖人のみ教えに遇い、門徒としての歩みを深めていく中で、門徒暦通りの何と有難い日に生を受けたのだろうと思わずにはおられません。
子どもの時から「尚子の字は、いつも踊っている」と言われていた私ですので、生来、心が踊っているというか、気が散漫、散乱のきらいがあるのでしょう。
親鸞聖人の正像末浄土和讃に下のような和讃があります。
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
「捨てられず」という言葉に深く頭を下げて、11月28日に70歳を終えました。
11月29日から71歳という未知の世界へ歩を進めます。
老につかまり病につかまって人生を終えるという未来は必ずやってくるでしょう。
それでも尚、生きる喜びを、私が人として生きる尊厳を、南無阿弥陀仏に帰依し、尚子観察隊として、私の心の動きに光を当ててもらいながら老い(熟成し)ていきたいと思います

  

Posted by 守綱寺 at 15:42Comments(0)お庫裡から

2018年02月07日

今月の掲示板 2017年12月





自分の心の奴隷になっていませんか。
  自分の思いにだまされていませんか。

  私たちはいろいろの思いで
  本当の自分を見失っている

  人間というものは
  いろいろのものに悩まされるものです。
  しかし、それはものが悩ますのではなく
  ものについての思いに悩まされているのです。

  理性(思い、はからい)を
  無条件に信頼しないこと
  絶対の権能を与えぬこと

  自分の心に
  自分が悩まされている

  自分の考えがゆきづまっているのに
  人生がゆきづまったとまちがえる。
  それは、理性を頼りとしているからです。

  思いが破れて
  本当の自分にかえる。

  本当の満足は
  上や下やあちらこちら
  見比べる必要のない満足であります。

  本当の満足は
  自分を見つけたとき以外に
  起こってくるはずがありません

  安心立命
  本当の安心は、自分に帰ること(安心)
  そこから本当の人生が成り立ち
  力強く生きてゆくことができるのです(立命)



  

Posted by 守綱寺 at 15:40Comments(0)今月の掲示板

2018年02月07日

本堂に座って 2017年12月






先々月まで数回にわたって西野亮廣さんの本を紹介しましたが、その間に新しい本が出版されました。
ビジネス書に分類される本ですが、読んでいくとやっぱりその視点の面白さに目が留まります。今回は老いることについて、です。

医療制度を充実させ、国民皆保険制度を整備し、ありとあらゆる方法で、僕らは見事に寿命を延ばしたわけだが、巷では「アンチエイジング」という言葉が踊り、歳を重ねることをネガティブに捉えるきらいがある。
歳を重ねることをネガティブに捉えてしまうと、寿命を延ばすことは、つまり「ツライ時間を延ばす」ということではないか。
何故、努力を重ねてツライ時間を延ばす必要があるのだろう。
何故、「アンチエイジング」という言葉が横行するのか?何故、人は若さを求めるのか?
理由は1つ。老人のアドバンテージ(優位性)を提示できていないからだ。
体力は落ちるし、腰は曲がる。肌のハリはなくなるし、頭髪もなくなる。
どこを切り取っても失うものばかりだ。
だから、そこに抗おうとする。
ただ、泣いても笑っても、僕らの寿命は延びたわけだ。
抗っても仕方がない。
こうなりゃ老人のアドバンテージを見つけ出し、「早く老人になりてーなー」というところまで意識を持っていくしかない。
100歳時代の僕達が幸せに生きていく為にやらなければならないことは、「アンチエイジング」を推奨することではない。
歳を重ねることを、「衰え」ではなく「成長」にすることだ。
その答えを探すことだ。
これは極めて重要な課題だ。会社勤めなら60歳で定年退職して、それから僕らは30~40年も生きることになる。
仕事を始めてから定年退職するまでと同じくらいの時間が、定年退職後に残っている。
間違いなく僕らは、60歳から新たな仕事を探さなければならない。
ムチャクチャ雑に説明すると、「20歳から60歳までの仕事」と「60歳から100歳までの仕事」。
僕らはこの人生において、前半と後半で2つの仕事をやらなければならない。
その時に若い人間にはない「老人のアドバンテージ」をキチンと提示できていないと、人生の後半において仕事にありつけない。
若い人間にはない、ロボットにもない、老人しか持ち合わせていない能力(老人力)を見つけ、それを仕事化していかなくてはならない。
さて。老人しか持ち合わせていない能力(老人力)とは、一体何なのだろう?体力が落ちていく中、記憶力が落ちていく中、歳を重ねることで、衰えるのではなく、成長している部分は一体どこなのだろう?そんなことを考えている時に、面白い店に出会った。
それは沖縄の居酒屋さん。
80歳近いお爺ちゃんが1人で店を切り盛りしている。
カウンターで呑む僕の接客をしながら、一緒に呑み、笑ったり、泣いたりしてくれる…と、ここまでなら、どこにでもあるような店だが、この店のスゴイところは、ここからだ。
なんと店主が誰よりも先に酔い潰れるのである。
目の前で80歳のお爺ちゃんがグースカ眠っている。
仕方がないので、座敷に運び、座布団を二つ折りにして枕を作り、寝かせてあげることにした。
それから1人で呑んでいたら、客Aがやってきた。「店主が寝ちゃったから」と言って客Aを帰してしまうと、この店が潰れてしまう。
仕方がないので客Aを座らせ、その辺にあった「突き出し」を出す。
ドリンクの注文をとりビールを頼まれたが、ビールサーバーが空だ。仕方がないので、近所のコンビニまで走り、缶ビールを買ってきて「これでいいっすか?」とお出しした。
客として来たのにどうやら働くことになってしまっている僕を指して「あらあら大変ねえ」と言っていた客Aであったが、客Aが客でいられたのも束の間。
まもなく新しい客Bがやってきて、今度は客Aが客Bの接客をすることとなる。
「このポンコツ店主め」と言いながら、客Aが客Bの接客をし、客Bが客Cの接客をする。
店主である「お爺ちゃん」が頼りないばっかりに、ペイ・フォワード(恩送り)が自然発生したのだ。
これが20代や30代の店主なら、そうはいかない。
「しっかりしろよ」と叩き起こされて終わりだ。
完璧を求められるロボットなら尚のこと、「故障したのか?」とバンバン叩かれ、苛立たれて終わる。
ここに人間が歳を重ねることで得ることができる能力を見つけた。
『愛される欠陥』である。
『許され力』と呼んでもいいかもしれない。
これは人間しか持ち合わせることができない能力で、年齢に比例しどんどん成長していく。
20代よりも80代の方が『愛される欠陥(許され力)』の能力値が高いのだ。
この『愛される欠陥(許され力)』を仕事化することができれば、歳を重ねることをポジティブに捉えることができるし、その仕事はロボットに代替されることはない。「年寄りはイイよなぁ」となる。沖縄で見つけた「眠る居酒屋」は、店主の『愛される欠陥(許され力)』によって店が回っていた。
そういった仕事を僕らは作っていかなければならない。
(『革命のファンファーレ』西野亮廣著 幻冬舎発行 より引用しました。)

  

Posted by 守綱寺 at 15:39Comments(0)本堂に座って

2018年02月07日

今日も快晴!? 2017年12月



豊田市は、秋に音楽大会という催しがあります。
その日は、各小学校の代表が市民文化会館に集まり、二日間午前午後に分かれてそれぞれ一曲ずつステージで歌を発表します。
娘の通う小学校では、娘の学年(4年生)が代表でこの催しに参加していています。
夏休みに入る前に歌う曲が決まり、伴奏を希望する子どもたちが楽譜を受けとり、オーディションをします。
ピアノを習っている娘も早速楽譜をもらい、練習を始めました。
ところが、課題曲が思ったよりも難しく、思うように弾けないようでした。
「自分で出来る範囲で頑張ってチャレンジしてみたら?」と応援していましたが、娘は「弾けない!難しい!」と腹を立て、1,2週間くらい練習したかと思うと、最後は「指がまだオクターブ届かないから弾けない!」と、オーディションを受けることすらせずに楽譜を放り出してしまいました。
親としては、オーディションに挑戦して、力が足りなくて落ちるならまだしも、挑戦すらしない・・・ということに少々ガッカリしました。
それでも、本人にやる気が無ければ仕方が無いと諦めるしかありません。
本番が近づくと、外部講師の先生が歌い方を指導してくださったり、授業時間も使ってかなり歌の練習に力を入れ、本番のステージでは、4年生のみんなはそれは見事な歌声を披露してくれました。
そして合唱大会が終わった頃から、娘が合唱大会で歌った曲のピアノを盛んに練習するようになりました。
少し身体も成長し、夏には弾けなかったところも、自分なりに練習して徐々に弾けるようになっていたのです。
そうか、ピアノを弾くことの楽しさって、本来こういうものかもしれないな。
伴奏をするとか、オーディションを受けるとか、そんなことは二の次で、子どもは純粋に今、自分が弾きたい曲を楽しんで弾く・・・それで十分なんじゃないか。
娘が楽しそうにピアノを弾く様子を見て、娘の伴奏に期待し、「オーディションに挑戦くらいすればいいのに・・・」と思っていた私が間違っていたんだなぁと思いました。
丁度その頃、児童精神科医の佐々木正美先生の本『「お母さんがすき、自分がすき」と言える子に』を読みました。
この方は『子どもへのまなざし』というベストセラーの育児書を書かれた方で、この本は私も大好きです。
最近亡くなられたと聞き、久しぶりに佐々木先生の本を手に取りました。
「ところが、私たち親は子どもを愛していると思いながら、実は親自身が自己愛になっていることがあります。
ということは、自分の望むような子どもにしようと一生懸命になり、それを愛していると思い込んでいるんですね。
自分の考えは間違っていないんだ、こうするといい子になるんだというふうに思っていることが、実は自分の望んでいる子どもになってほしいという気持ちからきていることがあります。
・・・親が望む子でなければ愛せませんよ、というメッセージになっているのです。
・・・子どもを親が自分のためのブランドや勲章にしているきらいがあります。
子どもが・・・自己愛の対象、つまりペットになっているのです。
ペットは育つ必要などありません。
ペットの自立を求めている飼い主などいませんね。
自分の言うことを聞いて可愛ければ良いのです。」
親の期待を無視して練習を放り出した娘ですが、親の望むまま可愛いだけのペットになり、自分を殺して練習する子でなくて良かったと思いました。

  

Posted by 守綱寺 at 15:38Comments(0)今日も快晴!?