2024年03月11日

清風 2024年3月


天命に安んじて 人事を尽くす
清沢満之
註)人事 … 文字通り、私のしていること(私の努力)を指す。
(「人員の配置」のみを指すのではない。)

清沢満之師は「祈祷は迷信の特徴なり」(『仏教』158号 明治33年1月発行)の文章中に、「余は天命に安んじて人事を尽くすというのが可なるを思う」と記している。
(『清沢満之集』岩波文庫P234~に掲載)
何故なら、普通に言われる「人事を尽くして天命を待つ」とは、どこか不安が残るからである。
私の限られた経験で得た経験は、やはり完全ではないからである。
十分ということが言えないで天命を待つのは、結果に悔いが残る。
うまくいかなければ責任を他に転嫁したくなるし、うまくいけば有頂天になって人から嫌われるだけである。

天命に安んじて人事を尽くす ― 母親の胸に懐かれて、安心して乳を飲む赤子、とでも言おうか。
一生懸命努力するのであるが、しかし「評価は他人にまかす」とでも言おうか。

人は何故、疲れるのか ― 自分で自分の行為の結果を評価していることに気づけないからである、と聞いたことがある。
行為によってただちに疲れるのではないらしい。評価をしようとする私の心が、疲れさせるのだそうだ。

人事を尽くして天命を待てない、そこにはもがく以外ない私がいる。
「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』第2章)という言葉がある。
人間(私)のしている行為のすべては、すべて危なっかしい。楽を求めて苦しむ自分であることを知らされる。
ウクライナへ攻め込んでいったロシアのプーチン、イスラエルでのイスラム組織ハマスとイスラエル軍の戦闘。
人間の努力は危なっかしい。善のすべてが地獄に化けてしまうのだから、と。戦争は両方共に、善と善の立場に立って始められる。

さて現代日本の中枢も、「利の追求」という当座の目的を「新○○」とか言うけれども中身は何もないのだということが、「政治資金」の流れも「政治資金収支報告書」の不記載の経緯もそのお金の使い道も調べようとはしていないと、新聞には書かれている。
要するに「経済、経済、経済」と言いながら、裏金作りに忙しいだけで、特に「経済」と連呼した中身は、勝手に使って報告の必要がない「裏金」が欲しいということだけのことだったのか?

もうそろそろ、日本人も目を覚ますべき時に来ているのではなかろうか。
何に?我が国では「政治家たちが、社会的に問題のある団体と結託してでも遮二無二多数を取って、国を私物化して、自分たちが甘い汁をすすって、40年間私腹を肥やしてきた ― そういう人を代表者として国会に送り出していた」ことに目を覚まして、次の選挙を、これからの国を再起させる最後のチャンスにするべきだということに。

我々の先輩は、現行憲法の前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」と内外に表明したではなかったか。
この憲法が施行された2ヶ月前、1947年3月31日に「教育基本法」が制定・公布されている。その前文に、

「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を
 期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす
 教育を普及徹底しなければならない。
 ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の
 教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」

 と記されている。

 しかし、この憲法の精神を立法化した「教育基本法」は、第1次安倍政権成立直後の2006年12月に廃止された。その直後、第1次安倍政権は参議院議員選挙で惨敗し退陣している。
憲法を改悪する準備として、学校教育の現場を政府の立場(改憲)の邪魔にならないようにしておく必要があったからであろうか。

  

Posted by 守綱寺 at 14:51Comments(0)清風

2024年03月11日

お庫裡から 2024年3月


私は毎月、境内の8ヶ所に古いカレンダーの裏を使ってことば(お寺が伝えたいこと)を書いて、掲示しています。
年があらたまると、何人かの方から「掲示板に使ってください」と大きめのカレンダーをいただきます。
「ああ、掲示板に関心を持っていてくださる」と、それが嬉しくて、入寺以来、止めずに掲示板を書き続けてきました。
一ヶ月は、掲示板に書くことばを探す一月でもあります。
その為に新聞を読み、本を読みます。小説は交流館で借りてきます。
私の人生は一度きりですが、小説はどんな時代にも、世界中のあらゆる場所へ、年令も様々な主人公と一体になって、私を連れて行ってくれます。
たくさんの人生を追体験させてくれる小説が、私は大好きなのです。本は手当たり次第、作者も名前を知らない人が多いです。
一生懸命読み終えても、なんだという本もありますが、時々、感動する本に出会うことがあります。
そんな本は、主人公に「仏法に通ずる世界」を語らせ、「念仏者のせりふ」を言わせているのです。
仏教書ではない小説でそんなことを感じるのは、仏教とは何も特別なものではない、ということでしょう。
人間であれば必ず出遇わなければならぬ真(まこと)、人生を深く見つめれば自ずと見出されてくる智慧、それが仏法だと思います。
親鸞聖人は晩年「弥陀仏は自然(じねん)のようをしらせんりょうなり」(ナムアミダブツは本来そうであるハタラキを知らせる手段です)と書いておられます。
それを私は平生忘れています。
掲示板の仕事は、私が眠り込まぬように「仏=目覚めよ」とのお与えであります。

  

Posted by 守綱寺 at 14:51Comments(0)お庫裡から

2024年03月11日

今月の掲示板 2024年3月


私たちは
いのちに逆らっていると自覚できたとき
私というものがはっきりしてくる(祖父江文宏)

動物も人間もさ
地球に間借りしてるんだって思ったらどうだい!
(坂口 尚)

私の目は常に外を向き
ありのままの世界を見ているかというと
そうではない
どんな時も自分の都合の色めがねをかけている

私たちの人生の争いは
いつも善と悪の争いだ

“ごめんなさい”と言えない人間が多い
大の大人があやまれないのは
勝負など関係ない場面でも
勝負に固執しているから

偉そうな人ってのはさ
攻撃されないように威張っていないと
立っていられないのかも

何が“生き恥を晒すぐらい”なんだろうね
生きていることなんて
恥だらけだっていうのにね

私たちの最も捨て難いのは
自惚れ(うぬぼれ)心である

  

Posted by 守綱寺 at 14:50Comments(0)今月の掲示板

2024年03月11日

本堂に座って 2024年3月


今回も中島岳志さんの「利他」についての文章を紹介します。他の誰かのため…という「利他」は、どのように成り立つのか?を“時間”を視点に教えてくださっています。

私が先生の「一言」を、しっかりと受け取ることができたのは、十年以上経ってからのことでした。先生が言葉を発した時点では、私は言葉を受け取り損ねています。
しかし、先生の一言は、無意識のまま自分の心の中に沈殿していきました。
そして、私の未来を切りひらいてくれました。先生は私の恩人です。
先生の一言は、私にとって「利他的なもの」に他なりません。しかし、そのことに気づいたのは、言葉が発せられたときではなく、それから長い年月を経たあとでした。
つまり、受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがあります。
ここに「利他」をめぐる重要なポイントがあります。
「利他」は、受け取られたときに発動する。この原理は、次のように言い換えることができます。
――私たちは他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる。私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。発信と受信の間には、時間的な隔たりが存在します。
ここでようやく利他の時制が見えてきます。繰り返しになりますが、自分の行為が利他的であるかどうかは、不確かな未来によって規定されています。自分の行為の結果を所有することはできず、利他は事後的なものとして起動します。つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものです。行為をなした時点では、それが利他なのか否かは、まだわかりません。大切なことは、その行為がポジティブに受け取られることであり、発信者を利他の主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということです。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができません。一方、受け手側にとっては、時制は反転します。「あのときの一言」のように、利他は過去からやって来ます。当然ですよね。現在は過去の未来だからです。発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、過去からやって来るもの。これが利他の時制です。すると、私たちはあることに気づかされます。それは「利他の発信者」が、場合によってはすでに亡くなっており、この世にはいないということです。よく考えてみると、私たちの日常は、多くの無名の死者たちによって支えられています。
――利他は死者たちからやって来る。私たちは、そのことに気づき、その受け手となることで、利他を起動させることができます。つまり、死者を「弔う」ことこそが、世界を利他で包むことになるのです。私たちは、死者と出会い直さなければなりません。そして、その存在や行為、言葉の上に私たちが暮らしていることを自覚しなければなりません。死者と対話し、自己の被贈与性に思いを巡らせるとき、そこに「弔い」が生じ、「利他」が起動します。私たちは死者たちの発信を受け取り、まだ見ぬ未来の他者に向けて、発信しなければなりません。歴史の静かな継承者になることこそが、利他に関与することなのではないかと私は考えています。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)

「利他」というと、相手も時間も身近な範囲ばかりを考えてしまいますが、「利己的」でない本来の意味での「利他」は、時間を超え、場合によっては相手も選ばず、受け取られたところではたらくものだということを教えていただきました。

  

Posted by 守綱寺 at 14:50Comments(0)本堂に座って

2024年03月11日

今日も快晴!? 2024年3月


守綱寺の住職が父から主人へと代替わりをしてから、母に代わって坊守会(お寺の奥さま達の会)に顔を出す機会が増えました。
子育てをしていたこともあり、20年ほど専業主婦として家にいたので、定期的に色々な会に顔を出すのはドキドキしますが、大義名分をもらい、大手を振って外に出られる貴重な機会なので、しっかり吸収できることは吸収してきたいなと思います。
2月に、第二回坊守一日研修会がありました。
テーマは「共に・・・」、講題は「ふかきみ法(のり)にあいまつる」。講師は真城義麿先生です。
愛媛県の善照寺のご住職で、京都にある大谷中学・高等学校の校長を勤められた真城先生のお話は、分かりやすく面白くて、本当にその通りだなぁと頷くことばかりでした。
先生のお話から、頭に残っている言葉を忘れないように書き留めておきたいと思います。
○人間の知恵は、常に損得勘定。比べ、分け、はかろうとする。評価する。他者と比べ、自分が優位でありたい。人間の知恵は、「悪見」→自分中心にしか働かない。「疑」→素直に受け入れない。慢→比べて優位でありたい。
○欲は、あってもよい。それ自体は悪くない。欲→貪欲(とんよく=濁る)になると良くない。
○念仏の世界は、無碍(むげ)。碍(げ=障り。自分にとって都合が悪い)という考え方から解放される。出会ったこと全てに意味があると思える世界。
○無対=世界の全てのことは地続き。あらゆることは他人事ではない。
○子どもたちにとってストレスは、条件付き承認→「これが出来たら認めてあげる」。
○教育が進んでいるフィンランドでは、義務教育の間は、数字で子どもの能力をはからない。子供たちを数字では評価しない。
○アップル、アマゾン、グーグル、マイクロソフト、FB。これらの企業トップは、こぞって仏教を学んでいる。マーケティングリサーチをする人は、国籍、性別、年代を問わず、人間が欲しがるもの、喜ぶ物は何か。何を嫌がるかを探るとき、人間について徹底的に学ぶ。そのためには、仏教が最も適している。人間のことを知りたかったら仏教を学べというのが日本以外の外国での常識。
○日本では、高度経済成長を生きてきた世代の仏教離れ&宗教離れが進む。経済が、お金が儲かることが最上の価値。しかし、Z世代から見て、彼らはあまり幸せそうに見えない。
○世界的に見て、日本の宗教は羨ましい。各お宅に仏壇(礼拝施設)があり、各家庭ごとの悩みに対応した宗教活動が出来る。等々・・・。
人間について学ぶなら、仏教を学ばなければ・・・と、外国では常識となっているのに、肝心の日本ではどんどん宗教離れが進んでいるのは、本当に残念なことだと思えます。
それでいて、支えが必要な時に怪しげな新興宗教などに頼ってしまうのは、私たち寺に身を置く者の怠慢だなと思えます。
先日、「守綱寺さんに父の葬儀を頼みたい」と、お檀家付き合いのないおうちから連絡を頂きました。
連絡をくれた娘さんは、以前からの友人ではありましたが、お葬儀をきっかけとして、一緒にお念仏の教えを喜んでいける関係が結べたら本当に嬉しいと思えます。

  

Posted by 守綱寺 at 14:49Comments(0)今日も快晴!?

2024年02月15日

清風 2024年2月


禍(わざわ)い 転じて 福となす


1月1日、文字通り正月の午後4時頃、大きな地震がありました。
能登半島に大きな被害を与え、復興についての計画も、インフラ(道路・水道・電気など)の復興、そして住まいの課題と、今も余震の続く中で、困難な事態(大地の隆起・沈没等)も起こり、日常の生活を取り戻すのも大変なようです。
災害地から離れて生きている私達にも、実は問われていることがあるのです。
池田晶子さんは、こんな風に言っておられました。

「奇跡とは何か変わった特別の出来事を言うのではなくて、いつも「当たり前」
に思っていたことが、実はすごいことだったと気がつくことなのです。」

この度の能登地震の状況をテレビで見、新聞で読むにつけ、平和というか、「普通の生活を生きることの貴重さ」ということを、自分自身に全く感じられない日常の感性というものの貧弱さを、改めて思われた方もおありになるかと思います。
それにつけても、昨年頃から「清風」紙上でも紹介しているように、憲法第9条(戦争の放棄・軍備及び交戦権の否認)が、現在の与党の解釈で全く骨抜きにされ、もう人間の身体の状況に比して表現すれば、9条はほとんど死に体の状況と言えるような症状に追い込まれています。
自民党は予算に、「専守防衛」を空洞化させる“敵基地攻撃能力”のための長距離ミサイルや、現にある戦艦を改造して航空母艦にする、また陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・システム搭載艦」の費用も計上しました。
敵国のミサイル基地を自衛隊の戦闘機や艦船から巡航ミサイルで叩きつぶそうと、防衛力強化を目指しています。
攻撃は軍事施設だけでなく、民間も犠牲になるでしょう。侵略と亡国の歴史を忘れ、専守防衛の国是を逸脱した暴論でしかありません。
憲法の前文を読み、憲法に込めた先輩の願いを確かめなければならないと思うことしきりです。
日本国憲法前文には、こう書かれています。
日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする
ことを決意し、この憲法を確定する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

以下に、『憲法と戦争』(C・ダグラス・ラミス著)より、著者と対談したチャールズ・M・オーバビー氏の発言を紹介します。

日本を講演旅行していると、アメリカ人が日本国憲法第9条に興味をもったりするのかとよく聞かれます。
よその国の国民に、日本の憲法9条に興味をもってもらえるのか、ということです。
米国内でアメリカ人一般に9条に興味をもってもらえない理由はいくつかあります。
米国政府に、日本国憲法第9条を規範として奨励する気持ちが一つもないことが大きな理由の一つです。     (P142より)

私自身はそれでもまだ諦めようとは思いません。
この73ワードの英文(第9条は英訳されると73ワードになる)は日本人のみならず全人類への未来からの贈りもののようなものです。
地上に生きるすべての人びとのものです。(P143より)

日本がいわゆる「普通の国」になるのではなく、主権者としての日本国民がその指導者に、創造的な「普通ではない国」となるよう働きかけるように私はお願いしたい。
「日本国憲法に書かれているこの言葉は全人類への贈りものなのだ、埃をかぶった意味のない憲法の条項ではなく、全世界で生かされるべきものなのだ」と言えるほどの自信を、何とかして身につけてほしい。日本国憲法を救うことができるのは主権者としての日本人だけなのです。
(P161~162より)

『憲法と戦争』C・ダグラス・ラミス著 2000年8月30日初版刊
C・ダグラス・ラミス
1936年サンフランシスコ生まれ。カリフォルニア大学で政治思想史を学ぶ。
1960年に来日。以来、京都・奈良・東京などに暮らす。津田塾大学教授等を歴任。
チャールズ・M・オーバビー
1926年生まれ。朝鮮戦争に従軍後、ウィスコンシン大学で博士号取得。
湾岸戦争後の1991年「第9条の会」を米国で設立し、日本国憲法第9条・
戦争の放棄を世界に伝える運動を展開。

1947年に施行された憲法が持つ大いなる使命は、戦争終結(1945年)までに世界で第一次・第二次世界大戦などがあり9千万人が戦死したとされる、この尊い犠牲を思う時、日本の戦争責任の告白は、この憲法第9条こそが、世界に向けた、ことにアジア各国への戦争責任を果たすことだったと思います。
今、能登地震の惨状を聞くにつけ、この震災をきっかけとして、この地震の犠牲を無にすることのないことを願い、「日本人は勇気を出して、9条の原理と一致する方向に進路を変えよう」と働きかけていく責務を果たしていきたいものです。


  

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2024年02月15日

お庫裡から 2024年2月



『正信偈』は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」で始まります。
この二句は、お釈迦様のお覚り、ナムアミダブツ(インドの言葉)の内容を中国の曇鸞大師が「帰命尽十方無碍光如来」と、インドの天親菩薩が「南無不可思議光如来」といただかれたのです。
親鸞聖人が『正信偈』を作られる時、「尽十方無碍光如来」を、その言葉の書かれている『無量寿経』の「無量寿」を使われ、「南無不可思議光如来」からは「如来」の字を取って七言の偈にされたと聞いております。
ちなみに聖人は、このお二人から親鸞と名告られたのです。
さて、「帰命無量寿如来」を意訳すると(仏法を聞く時はいつも私が対象です)、尚子よ、命に帰ってみよ、お前が誕生するまでに、どれ程の命の伝達があったか、気が遠くなる程だ。その集大成がお前なのだ。
途中のどこかで一つ欠けてもお前はいない。
今、生まれて生きているのは、無量寿の願い(真=如)が私となっている(来)。
だから身(命)を頂いた事は尊い。しかし身は借り物なので、必ず返さねばならない。
かつて検事総長までされた方が「人間死ねばゴミになる」という本を出されました。
その頃乳癌を患っておられた北海道の鈴木章子さんは「あなたは後に残された妻や子にゴミを拝めとおっしゃるのですか」と痛烈な批判をされました。
彼女は死が近づいた時、夫や4人の子、親しい人、一人一人の名をあげ、「私は○○さんのナムアミダブツになります」「私は○○ちゃんのナムアミダブツになります」と語られ、「人間死ねば仏になる」ことを示し、47才でお浄土に還られました。
お仏壇の灯明の上に下がっているお飾りは瓔珞(ようらく)と言い、私に先立ってお浄土に還られた方が、蓮の芭になって、私に念仏を促している姿だと教えられています。
念仏申すのは私ですが、ナムアミダブツのことばは、常に「お前はどこに立っているのだ」と問い続け(不可思議光)、私の本性(思い通りにしたい、勝ちたい、誉められたい)があばかれて、頭が下がった時(ナム)、よく気づけたねと喜んでくださる世界(浄土)を感ずるのです。
生も死もなむだみだぶつ。
「死んだらどうなるのですか」と問うてくださった方へのご返事。

  

Posted by 守綱寺 at 13:41Comments(0)お庫裡から

2024年02月15日

今月の掲示板 2024年2月


人身受け難し 今すでに受く
この身今生において度せずんば
いずれの生においてか
この身を度せん(度す=渡ると同意味)

今、いのちがあなたを生きている

南無阿弥陀仏
人と生まれた意味を たずねていこう

『私』と言えるのは、自分のことを
『あなた』と言ってくれる人が
そばにいて はじめて成り立つ

天命に安んじて 人事を尽くす(清沢満之)

人間の本質はGNP(国民総生産)によって
計られるものでは ない

人間の必要とするものは無限である
しかし、物質の領域では
決して達成できない

自己とは何ぞや(清沢満之)

自己とは他なし
絶対無限の妙用に乗託して
任運に法爾に
この現前の境遇に落在せるもの
即ち是なり(清沢満之)
  

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2024年02月15日

本堂に座って 2024年2月


少し前から「利他」ということばをよく耳にするようになりました。
まず相手の利益・幸せを考えること…という意味では大切なことですが、そこに“自分”が入ると「利己」になってしまう危険もあります。
「利他」とはどういうものかを考えるきっかけを、中島岳志さんの文章から教えていただきました。

利他は自己を超えた力の働きによって動き出す。
利他はオートマティカルなもの。利他はやってくるもの。
利他は受け手によって起動する。そして、利他の根底には偶然性の問題がある――。
私たちが利他的であろうとするとき、そこには利己的な欲望が含まれていることも見てきました。
利他には、意識的に行おうとすると遠ざかり、自己の能力の限界を見つめたときにやって来るという逆説があります。
そうすると、私たちは何をすればいいのかわからなくなってしまいます。
利他的であろうとすると利他が逃げていくのだったら、私はどうすればいいのか。
利他が偶然性に依拠しているとすれば、偶然の出来事が起こることをただ待っていればいいのか。
そんなふうに思うかもしれません。
しかし、偶然は偶然には起こりません。
九鬼周造は『偶然性の問題』の中で次のように言っています。
「東洋の陶器の鑑賞に偶然性が重要な位置を占めていることを考えてみるのもいい。いわゆる窯変は芸術美自然美としての偶然性にほかならない。」窯変とは、陶磁器を焼く際、炎の性質や釉の中に含まれている物質などの関係で、色彩光沢が予期しない色となることです。
では、窯変は本当に偶然だけに依拠しているのでしょうか?
私は陶器を制作したことが全くありません。ろくろを回したこともなく、窯を使ったこともありません。
そんな人間が、唐突に窯変の美しい陶器を作ることができるかというと、不可能でしょう。
そもそも私は釉薬のかけ方も知らず、焼き方も知りません。
そんな人間が、いきなり秀でた芸術作品を作ることはできません。
つまり、裸の偶然は存在しないのです。職人は、長い年月をかけた修行と日々の鍛錬の積み重ねの上で、偶然を呼び込みます。
窯変は、蓄積された経験と努力のもとにやって来ます。確かに、陶器がどのように焼きあがるかは、窯から出してみなければわかりません。
人間の力では制御できない火の力によって化学反応が起き、思いがけない美が誕生します。そこには「他力」としか言いようのない「力」が働いています。
しかし、その美が生まれるためには、窯に入れるまでに様々な技巧が施されなければなりません。
「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではありません。
大切なのは、自力の限りを尽くすこと。
自力で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。
そうして、自己の絶対的な無力に出会います。重要なのはその瞬間です。
有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。
そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。
そして、その瞬間、私たちは大切なものと邂逅し、「あっ!」と驚きます。これが偶然の瞬間です。
重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。
しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、その器にやって来るものが「利他」です。
器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。
その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。
このような世界観の中に生きることが、私は「利他」なのだと思います。
だから、利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。
私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。
能力の過信を諫め、自己を超えた力に謙虚になる。
その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。
 いま私は、利他をそういうものとして認識しています。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)
  

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2024年02月15日

今日も快晴!? 2024年2月


1月に、『武器としての国際人権』の著者、藤田早苗さんの講演会「同じかな?人権と思いやり」に参加しました。
とても面白い内容でしたので、せっかく聞いたことを忘れないように、印象に残っている部分を書きとどめたいと思います。

○沖縄戦のときに、一般人が逃げ込んだガマ(洞窟)で、日本軍から集団自決を迫られ、家族同士で殺し合い、悲惨な状態になったガマと、一人も亡くならなかったガマがある。
後者は、移民を経験した人が中にいて、『国際法で、兵士は民間人を殺してはいけないと決まっているから、米兵が我々民間人を殺すことは無い』と、中にいる人を説得して自決を思いとどまらせ、結果全員捕虜となり、命を失うことが無かった。
「知らない」というのは、恐ろしいこと。
○今の日本でも、国際的な人権保護の基準を満たしていないがための出来事が多々あり、国連機 関から勧告を受けているにも関わらず、「一方的な見解」、「法的拘束力は無いから従う必要は無い」by安倍政権(2013年)と、政府は無視。
本当に恥ずかしい。でも、その政府を選んでいるのは我々有権者。
「そういう問題をメディアできちんと報じない」と憤ったところで、そうしたメディアを支持しているのは私たち視聴者。
○クリティカル・フレンド(批判もする友人。
相手のために耳の痛いことでも忠告してくれる友人の意)である国連人権勧告を無視して、国際社会で信頼と評価を得るのは難しい。
○ドイツの若者は、自らの国の過ちを学び、アウシュビッツも多数のドイツ人が訪れているが、日本では従軍慰安婦問題や、関東大震災時の朝鮮人虐殺や福田村事件など、教科書からも消ている。
教科書に載っているか載っていないかの差は大きい。
○日本では、人権は「思いやり、優しさ」と習うが(それはそれで大切ではあるが)、「思いやり」は、自分の仲間にしか機能しない。
「外国人だから、煮て食おうと焼いて食おうと自由」by法務省高官、という風になる。
ウィシュマさんの事件など。
○本来は、人権を守る義務を負っているのは、政府であり、国が責任を持ってやるべきこと。「自己責任」と切り捨てられたり、子どもの貧困を子ども食堂などの美談にしてしまっていてはダメ(それ自体は素晴らしいことだけれど)。
本来は、国がきちんと解決すべき問題。
○人権を主張するのは「わがまま」ではない。
自分らしく生きる権利、幸せになる権利、学ぶ権利、差別されない権利等々…人間が本来持つ、守られるべき当然の権利が阻害されている状況には声を上げるべき。
「人権のレンズ」を通してみること。「人権のレンズ」を持てる教育を。

講演の三日前には、朝日新聞の「オピニオン」に藤田さんが紹介されていました。
「人権とは、一人一人をかけがえのない個人としてリスペクト(尊重)するということでしょう。日本ではそういう価値が十分根付いていないという問題があるようです」と語られています。
藤田さんの言葉は、「あなたはあなたになればよい。あなたはあなたであればよい。」という釈尊の言葉と重なって聞こえました。
  

Posted by 守綱寺 at 13:40Comments(0)今日も快晴!?