2018年06月21日

清風 2018年6月





 「生きる」とは、奇跡の自覚に他ならない
                 池田晶子

天上天下 唯我独尊  釈尊「誕生偈」 その4

池田晶子(1960~2007)
哲学を日常の言葉で表現してきた。
主な著書『14歳からの哲学』トランスビュー社刊。
上記の文章は、朝日新聞朝刊(2005年4月9日)コラム「見出し」から。


池田さんは、「今、ここに、こうして生きていることが奇跡と呼べる特別なことなのだと、私が自覚する」、それが生きることだと言われる。
仏伝には、釈尊がお覚りを開かれたときの、次のようなエピソードが伝えられている。

釈尊がお覚りを開かれた時、釈尊は「自受用法楽」の境地におられたとされている。覚りの内容を説いて聞かせたとしても、誤解して受け止められてしまうのではと考えられたのである。
その時帝釈天(インドの神)から「そうおっしゃらずに人々に教えを説いてください。
真面目に内容を汲み取る者もいるのでしょうから」とお願いされても、その要請に直ちに応答しようとはされなかったと伝えられている。

釈尊が心配されたごとく、人間(私)は功利心を離れることができない。
功利心とは、求めることにおいて何らかの直接的な(目に見える形の)利益を得たいと思う心のこと、すなわち、直接的な効果がなければ求めたような気がしないということであろう。
釈尊の配慮にも、また仏教が伝えられてくる中での経験にも教えられるように、釈尊のお覚りの内容を「ただ念仏」と伝えてきた浄土教の歴史においても、蓮如上人(本願寺第8代門主 1415~1499)が次のように諭されている。
「たとい名号をとなうるとも、仏たすけたまへとはおもうべからず。」なぜなら「弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべき。」だと。
如来回向の念仏を、我が功績にしてしまう ― 要するに私の思いを叶えるための手段にしてしまっているが、そうではないのだと蓮如上人は言われるのである。
ここでもう一度、前号でも紹介した『自由からの逃走』(E・フロム著)の次の指摘に学びたい。

「現代人は、どちらかといえば、あまりに多くの欲望をもっているように思われ、かれの唯一の問題は、自分が何を欲しているかは知っているが、それを獲得することが出来ないということであるように思われる。」

しかしここには、困難な問題が一つあると指摘する。

「すなわち現代人は自分の欲するところを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎない」

という一つの問題があると。これは一体どういうことか。

「これを認めるためには、人が本当に何を欲しているかを知るのは多くの人が考えるほど容易ではないこと、それは人間がだれでも解決しなければならないもっとも困難な問題であることを理解することが必要である。
(略)われわれはみずから意思する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人間となっている。(略)現代人はかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。
そこでは人であれ物であれ、全て道具となってしまっている。」

道具とは、人間に便利で快適な生活を可能にする物であって、いつも効率性・機能性という基準で存在している物であるといえよう。
ここでフロムが指摘する「人が本当に欲していること」とは何を指すのだろうか。
それは、欲求の満足に対し「存在の満足」と言われるものであろう。
釈尊の遺教の「汝は汝で在ればよい、汝は汝に成ればよい。」という言葉がそれであろう。
そういう主体の発見こそが「本当に欲していること」、すなわち「存在の満足」と言われていることであった。
「欲求の満足」は、満足すれば「当たり前」のことでしかなくなる。
要するに「もっと、もっと」と欲求に追い回されていく、仏教が流転と教えてきた生活である。
主婦の短歌がある。

まだほかに なすべきことがあるはずと 片付け終えた 夜半に思う

一日の家事を全て終えたその時、家事を軽んずるのではないが「主婦の私」ではなく「人間(実存)としての私」にとって…という、何かそこに「人として、本当に欲しているもの」という「存在の満足」への欲求が、誰からも教えられたのではないが、突き上げてきたのである。
これこそ、日常的人間生活を超えしめる心の発動とも言うべきことであろう。
それを仏教では、発心・発菩提心という出来事なのだと伝えてきた。
先程の蓮如上人の「弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつ」りたいという「存在の欲求」と言えよう。
本人さえも気づいていなかった「こころざし」とも言えようか。
「存在の満足とハッピーということを、我われしばしば混同しますから、一度よく反省することが課題になるでしょう。」とは、故今村仁司氏の指摘である。
「聴聞」と言われてきたのは、身を運び聴くことにより、生活の中で私は、私の身そして家族を、私の都合を満たす道具としている根性が見えてくる、と教えられてきた。私のハッピーが、私以外の人のハッピーとどうして言えるのか?
新たな問いをいただいたことである。
「誕生偈」は、人間の隠された問い「本当に生きるとはどういうことか」を表にあらわに出したものであったのだ。
いつの時代にあっても、人間は「生物的にただ生きるものではなく、生きる意味を求めて生きている」というのが、生きるその根本的動機と言えるからである。
だから「唯、生きる」、それが奇跡なのである、と。

  

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2018年06月21日

お庫裡から 2018年6月




5月13日、児玉暁洋先生が亡くなられ、14日、京都の岡崎別院でのお通夜に、夫とお参りさせていただきました。
急逝だったので、病みやつれも無く、大きいまんまの先生で、どうしてこんな所におられるのか、と不思議な気持ちで、棺の中の先生と、最後のお別れをさせていただきました。
1970年、大谷大学博士課程に在籍中の夫との結婚式で、先生に初めてお目に掛かりました。
その頃先生は、専修学院(お坊さんを育てる全寮制の学校)の先生で、鞍馬口の古いお屋敷で、寮長を兼ね、女中部屋のような狭い一室をご一家の私室にして、学生さんたちとの共同生活をされていました。
新婚の私は、生田晃純という人と一緒になったという事は、こういう事なのかと、先生ご一家の生活ぶりを、深く心に刻みつけました。
夫がお寺作りをしたいと言った時も、無住のこの守綱寺へ入寺した時も、逃げ出さなかったのは、先生の生活を最初に見せていただいたおかげだったと、今にして思います。
先生のご本を読み、先生のお話を聞くと、いつも元気が湧いてくるのです。
そうして歩ませていただいてきました。
一昨年の6月6日、碧南の西方寺の臘扇記(清沢満之先生の命日)でお目に掛かったのが最後となりました。
念仏に生きられた偉大な先生とご縁を頂いた事は、私の大きな財産です。
六時のみ名を称えつつ、私は私の分を果たし尽くして、歩ませていただきます。
児玉暁洋先生、ありがとうございました。



  

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2018年06月21日

今月の掲示板 2018年6月




  諸行無常
  これは仏教の旗印
  あらゆるものは みな変わる
  どんなものでも 変わっていく
  しかし
  諸行無常の真理(道理)は変わりません
  道理というのは 永遠なのです

  時代が変われば 変わるというようなものは
  真理ではない
  どう時代が変わっても変わらないものを
  真理という

  仏さんは、私の言いなりになる
  甘いものではありません
  仏さんは厳しいのです
  私を叱って下さるのが仏さま
  私を助けようと思ったら
  私を厳しく叱らなければならん
  それが仏の慈悲です

  人間というものは
  自分の心を信用し過ぎる
  それで心に振りまわされる

  人間 迷うというけれど
  むちゃくちゃに迷っているわけではない
  迷うには 迷うようになって迷っている
  材料がなければ
  迷ってみようがない

  事実に迷っている
  わが心に迷っている
  自分の心に迷っている
  だから悟るというのも
  やはり 事実を事実として悟る
  心が心であったのだと悟る
  事実を離れて
  悟りというのはありません

  何かをまちがいなしに押さえたのが悟りです
  何かを取り違えたのが迷いです
  だから 迷いと悟りは
  一つになっているのです
  どこで一つになっているかというと
  心のところで一つになっている
  迷うということがなかったら
  悟るということもありません



  

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2018年06月21日

本堂に座って 2018年6月





以前からインターネット上で内海聡医師が書かれる情報をよく読んでいるのですが、今回は内海先生ががんの治療について書かれた本から文章を紹介します。
ネット上では賛否それぞれ意見の分かれる内海先生の文章ですが、とても大事なことを書いてくださっていると思います。
(具体的な療法についてはぜひ書籍をお読みください。)

病気を治すには病名を捨て原因に対してアプローチすること、自分だけが治せるのだということを知り様々なことを学ぶこと、そして医療業界や食業界や社会の裏に至るまで、いろんなことを知ること、そしてあらゆる局面において自分の今までの価値観を否定してみる、そして自分を直視して発想を転換することです。
それによって初めて真の意味での自立心と自己肯定という状況が生まれます。
このような発想の転換がもたらされてはじめて道具(食事療法、健康食品、水、デトックス、断食委その他)は効果を発揮するのです。
この本を読んでいるあなたの家族や親しい友人ががんにかかったとき、何とか治す手助けがしたい一心で「これをやったほうが良い」「これはやらないほうが良い」「西洋医学の治療はあぶない」「この代替療法はすばらしい」など自分が知っている情報を教えたくなるかもしれません。
しかし私が見る限り、良かれと思ってした行為が「価値観の押し付け」になってしまい、マイナス効果になっているケースが往々にしてあります。
なぜなら、周囲に流されて行った治療には患者本人の意思がないからです。
重要なのは患者本人が自ら調べた上で、納得する=腑に落すということなのです。
もしあなたの身近な人ががんにかかった場合は決して「価値観の押し付けにならない」ように、患者自らが考える手助けをしてあげてください。
もし、その人があなたにとって大切な人であり、どうにかしてあげたいと心から願うのであれば、あなたが良いと思う治療法について、何時間でも時間をかけてその人とコミュニケーションを取り、あなた自身の知識も高めて必要なら土下座してでも本人を説得ではなく納得させてください。
ちょっとでもめんどくさいと思うなら、あなたが相談に乗ることをやめてください。
無意識に他者をコントロールしようとする思い、わかったふりをやめて、本音で語り合い、腹を見せ、本気でぶつかりあってこそ、患者本人の心からの納得が生まれるのではと考えています。
これこそが唯一無二、親、家族、子ども、友人などに私がやってほしいことです。
これは医者にできる仕事ではないし、むしろやってはいけないことなのです。
病気というのは人生においてひとつの転機であり、それががんとなると命さえも左右する問題なのです。
そこで重要なのは具体的方法論以前に、本人の納得、選択、人間関係なのだということを改めて念頭に置いていただけたらと思います。
あなたがもし真の意味で、病気を治したいということを「自覚」すれば病気は治ります。
(中略)しかしここでいう「自覚」というのが厄介です。
「自覚」というのはわかりやすくいうと「依存心を捨て去ること」です。しかし自分の依存心とは非常に意識しづらいものです。
大半の方は「いや自分は依存などしていない」と考えているのではないでしょうか?しかし、少なくとも「医者に治してもらいたい」という気持ちはなかなか捨てられないのではないかと思います。(中略)また例えば本当に病気が治る人は、今の仕事などやめてしまうくらいに行動します。仕事しながらがんを治すといって、がんで死んでしまったら元も子もないのに、まだ周りの目を気にする人は助からないケースが多いのです。この人の目を気にして思うように行動できないのも、依存の専門家である私から見るとやはり依存の一種なのです。
ここに気づくことによって医者から見放されたがんであっても、治る可能性が生まれるでしょう。自覚が芽生えるタイミングは人それぞれであり、もちろん私は手術をほとんど勧めておらず、緊急回避時のみと考えていますが、たまに手術によってさえ自覚が芽生える人がいるのです。「自覚」とはいい方を変えればこのがんを作った原因は今までの自分自身にあるという自覚であり、自分がなるべくしてこの病気になったと理解した状態なのです。
(『医者に頼らなくてもがんは消える』内海聡著 株式会社ユサブル発行 より引用しました。)

きちんと原因を見つめ直して正しく対処する…もの作りや科学研究などでは当たり前に行われることですが、身体や心の問題に対して行うのはなぜか難しい様です。



  

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2018年06月21日

今日も快晴!? 2018年6月




私の子育ては、基本ケチで貧乏性です。
「なぜ親が子どもに高い携帯(スマホ)を買い与えて、月々の使用料まで払ってやらなければならないのか?」と、どうにも納得がいかず、子どもたちはまだ携帯やスマホを持たせて貰っていません。
「お母さんだってスマホやってるじゃん!」と言われるのが嫌なので、私自身も頑なにスマホを拒否し、ガラケーユーザーのまま今に至っています。
しかし、LINEが全盛の今、一人だけ「ごめん。私ガラケーでLINEやってないんだわ」と言うのも面倒になってきました。
長男も高校生になったので、スマホを持つのも時間の問題だろう。
もし長男が「お母さん。ぼくもこうした理由でスマホが欲しい」と、きちんと必要な理由を説明し、相談してきたならまぁ仕方が無い。
その時が来たら自分も一緒にスマホに替えようと思い、そのチャンスを待っていました。
ところが、一向に長男が「スマホが欲しい」と言い出す気配がありません。
中学時代の友人たちとの連絡はLINEのようだし、高校のクラスLINEや部活LINEもあるらしいので、「ぼくもLINEがやりたい」と言い出した時に(お?チャンス到来)と思ったのですが、旦那さんが昔使っていたノートパソコンをリビングに置き、「LINEのチェックはここでやる」ということにしたら、案外それですんなり納得してしまいました。
また、通っている高校が少し遠いので、雨の日はどうしようか少し迷いました。
子どもに不親切な母親なので、「高校生なんだからカッパ着て自転車で行くのが当然でしょう」と思っていましたが、実際に通い出すと、家を出るのが6時半過ぎで、肩紐が千切れそうなほど重たいリュックを背負って駅まで15分ほど自転車に乗り、7時の電車に乗り、途中乗り換えて45分ほど満員電車に揺られて、向こうの駅からさらに10分ほど坂を登ってようやく学校に着きます。
毎日慣れない通学に疲れた様子を見ていると、雨の日に、カッパを着て同じコースを行くのがどうも気の毒に思えて来ました。
そこで、雨が降った日は駅まで車で送り、「帰りは公衆電話から電話を掛けるか、バスで帰っておいで」と言っておきました。
しかし、待てど暮らせど連絡はありません。(おかしいなぁ・・・。そろそろ着く頃だけど・・・)とヤキモキしながら連絡を待っていると、「ただいま~」と声がするので、「あ、お帰り。バスに乗ってきたの?」と聞くと、「歩いて帰ってきた」と言うのです。
「え?この土砂降りの中、歩いたの?30分も??」「うん。」「電話すれば良かったのに・・・。」「だって、公衆電話がどこにあるか分からないし。」「じゃぁバスは?」「丁度良い時間のがなかったし、バス代が勿体ない。」「え?片道180円じゃん。」「うん。お金ないし。」どうやら高校生にとって、180円はたいそうな金額なようでした。
そういえば、私も学生時代、駅までのバス代が勿体ないと、駅まで歩いて行ったことがあったっけ・・・。
ああ、親子だ。
ケチで貧乏性が遺伝している・・・。
連絡手段として、子どもに携帯を持たせたがる親の気持ちが何となく分かるようになりました。 
かくして、うちの長男はいまだスマホを欲しがらず、結果、私もスマホに替えるタイミングを逸したまま今に至っています。
春先には、新しく入学する高校生を狙った「学生割引」や「家族割引」のプランの案内がじゃんじゃん来ていたのに、もうその特別な割引期間も終わろうとしています。
ああ!スマホを持たせるなら、スマホに替えるなら、チャンスは今だったのに・・・!!



  

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2018年06月21日

清風 2018年5月




人間は時代(状況)に翻弄されて、いつの時代でも自己の作り出した状況に振り回されてきたのだと言えばそれまでだが、どうだろうか。

ここで、フロムの言う「…への自由」に私は注目したいと思う。
歴史上(3月号でも少しふれた様に)、紀元前6世紀~5世紀にかけて、ソクラテス(ギリシア)・孔子(中国)・釈迦(インド)らが、地域を異にしながらも共通して「自己とは・生きるとは」といった、実存(現実存在)・「ここに、今、生きる」とはどういうことなのかという問いを投げかけた、その事実の意味を考えたいからである。
また、これがフロムの出した問い「…への自由」ということであり、いつの時代も人間は「生きる」ことへの問いを内に持っており、これこそが人類史を一貫する問いかけだと思うからである。
俳句にも「去年今年 貫く棒の ごときもの」(虚子)とあるように。

「考える」ことは、反省(内省)とも内観とも言われる。ことに現代においては、人(私)は対象的に知ることは(外観・観察は訓練せず(習わず)ともおおよそ)できるのであるが、「考える」ことはなかなかできにくくなった(というか、不得意になったとでも言ったらいいのか)。
上に述べたスマホやテレビのように、機器の発達も輪をかけて、情報化社会と言われる現代は特にその傾向が強いと思われる。

「…からの自由」というのは、「生きる」ための「環境が整う」「条件が整っていく」ということであろう。
それに対し「…への自由」というのは、何かを始めることができる、もっと言えば始めることが見つかる、とでも言えばいいだろうか。
「何故、生きるのか」と問われ「生まれたから、やむを得ず、ついでに生きているのであって他意はない」と答えた人がある。
あなたはどうだろうか?
悩み・悲しみ・苦しみ・喜びがこの人生にあるのは、何故なのか。
「生きるとはどういうことなのか考える」、そのきっかけこそが、先に挙げたソクラテス・孔子・釈尊であった。
この世界にあって、本当の意味で我が人生全体を私の人生として担いたいからではないか、それをこの三人の先人が示しておられるのであろう。

「…からの自由」とは、実は、身の周りばかりに気をとられていること、成れば(実現すれば)「当たり前」になるだけのこと。
つまり道具の世界のことなのである。
道具とは、生活を便利で快適にするモノのことである。
人類は、「…からの自由」をずっと「進歩」と言い換えて(カモフラージュして)21世紀まで歩み、その限界を知らねばならない事態に遭遇したことで、考えさせられ始めたのではないか。
「…からの自由」とは、本当に「生きる」ことを全うさせる道ではないのではないか、と。

その「…からの自由」という生き方からの転換をせまる生き方として、「…への自由」という表現で、E・フロムは指し示してくれていたのだろう。
自由は、私に馴染んでいる言葉としては、仏教の教えとして表現されてきた「自在」ということにおいて実現されていたのです。



  

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2018年06月21日

お庫裡から 2018年5月





老眼鏡を使うようになって、もう何年経つのでしょう。
4/8のコンサート準備の最中から眼鏡がケースごと行方不明になりました。
ケースと言っても、バッグの中で嵩張らないように、着物地で作った頂きものの袋です。
外出もしていないし、必需品だから、そうめったな所へは置いていないはず、そのうち出てくるだろうと軽く構えてコンサートに走りまわっておりました。
コンサートも無事に終わって、さて、眼鏡の無い生活は不便で仕方がありません。第一に、新聞が読めない、本が読めない。
どこで最後に使ったのか、一生懸命思い出そうとするのに、頭は「記憶にございません」状態。
「おかしいなー」「おかしいなー」と毎日探しまわるのに、どこからも返事がありません。
眼鏡の無い生活に、ついにたまりかね、「あの眼鏡も度が合わなくなっていたからねー」と自分に言い訳をして、新しく眼鏡を作り直すことにしました。
案の定、度は進んでおり、替え時だったのかもしれません。
思わぬ出費は、少々痛手。
毎日、あれが無い、これが無いと時間を取られて、探しまわる私に、行方不明の眼鏡は、お灸をすえてくれたのでしょう。
このお灸、何時まで効くのでしょうか。



  

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2018年06月21日

今月の掲示板 2018年5月




  自力というのは、結局、心なのです。
  人間は、自分の心に自分で振り回されている。
  自分の心に自分が迷っている。

  心配もはずれる、当てもはずれる。
  両方いい事はない。
  はからいは、間に合わない。

  事実を事実として取り扱わないで
  いつでもはからいによって作り変える。
  そのはからいに、我々は苦しんでいる。

  はからいははからいに過ぎないのだ、
  という事がわかれば、
  事実だけが一つ出てくる。

  凡夫というのは、だめなやつという事ではありません。
  悪いやつという意味でもない。
  善業にもよおされれば善もする。
  悪業にもよおされれば悪もする。
  業にもよおされているのを凡夫という。

  人間は、自分に夢を見る。
  その夢を業が破って
  凡夫にかえしてもらう。

  本願の念仏は、凡夫の道。

  自慢する人間に限って
  なにかにあうと、卑下しなければならない。
  自慢さえしなければ、
  卑下する必要もない。
  自慢と卑下というのは、同じものです。

  「私が私で、これでよかった」
  こう言えるか、言えないか。
  人生の明暗の境目。

  私は私の業で私らしく生きていく。
  それしかない。
  そこに業が受け取れるか
  受け取れないか・・・。



  

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2018年06月21日

本堂に座って 2018年5月




毎年、春の永代経法要には中川皓三郎先生にお話をいただいています。
ここ数年は少し体調を崩されているということですが、そんな中でもやっぱり熱のこもった深いお話を聞かせていただきました。
今月は、中川先生のお話をまとめた書籍から文章を紹介します。

国王として生きようとするかぎり、つまり、自分の思いを中心にして生きるかぎり、生きることが、ただ今の自分を生きることにならない。
結局、生きることは、条件闘争ということになります。
自分が自分として生きることのできる条件を一所懸命整えることに精一杯で、今生きることが始まらない。
なぜなら、自分が自分として生きるということは、自分自身が満足する条件が整ったとき、初めて成り立つと考えているからです。
もしも、こういうことが実現したらということにかかりきりになってしまって、自分が自分として生きることが、十年後、二十年後のことになってしまう。
だから、現実のただ今の生は、すべて手段化されて、ただ今を生きているにもかかわらず、ただ今を生きることにならないわけです。
私自身、今まで条件闘争ばかりしていたなぁということを思います。
「俺の条件は悪い」と言ってばかりいたように思います。
他の人との比較の中で、俺の条件は悪いと言う。
そして、条件を整え環境を整備して、自分が自分として生きることを始めようとする。
しかし、どこまでも、自分の都合です。
だから、人との関係においても、都合と都合ですから、最後はお互い自分の都合をいちばんにするということです。
最後は、みな自分を守りますから、どこまでいっても一つにならないのです。
これは、広瀬杲先生の『根源的能動-本願-』(文栄堂書店)という本の中に出ているのですが、「念仏で戦車を止めることができるか」という問いに答えて、「「念仏で戦車を止めることができる!」と言えるはずなのです」と言っておられます。
私たちが、わが身をよしと思って、わが身をたのみ、そこから自分と他人というものを二つに分ける。
そういう自分と他人との分離を前提にして生きるかぎり、どれだけ親しい人も、自分の外にあるわけですから、最後は、自分のなそうとすることを妨げるものとしてしか、見えてこないのです。
だから、自分の思いを中心にして生きるかぎりは、私の思いとあなたの思いは、一つにはならないのです。
みんなにそれぞれの思いがあるのだから、それぞれが自分の思いを実現しようとすれば、最後は、すべて敵だということにならざるを得ない。
利用するか、敵になるかどちらかです。
だから、自分と他人を二つに分けて、そこで自分の思いを実現しようとすれば、必ず、力が必要とされるのです。
力があるということは、自分の思いに他人を従わせることができるということでしょう。
力がなければ、他の人に従わなければならない。
だから、力だというわけです。その力を象徴しているのが戦車ということなのです。
ところが、ここのところが本当に大切なのですが、どれほど私たちが、強大な力を持っても、自分の外に他人があるということを前提にしているかぎり、敵はなくならない。
私たちが、自分と他人を二つに分けて、そこで自分と言っているかぎり、自分の外には、必ず他の人がいるのですから、そういう自分というものがなくならない限り、敵はなくならないのです。
敵をつくっているのは、この私なのですから。
だから、私たちはあらゆるものを、自分中心に二つに分ける、自力の心がひるがえされ、すてられるということがないかぎり、劣等感と孤独から解放されるということはないわけです。
どうしても、人の目におびえ、死の不安の中で、暗くちっぽけな生を生きざるを得ないということになります。「日ごろのこころにては、往生かなうべからず」です。
(『ただ念仏せよ 絶望を超える道』中川皓三郎著 東本願寺出版 より引用しました。)

最近のニュースを見ていると、国内では「自分は悪くない」という主張、海外では「思い通りにならない相手(=敵)であれば攻撃しても構わない」という動きが目につきます。
どちらも同じ「自分の思いを中心にして生きている」…から生じていることを、とてもわかりやすく指摘してくださっている文章だと思います。



  

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2018年06月21日

今日も快晴!? 2018年5月




中学生になった次男から、久しぶりに「お母さん、この本読んで」とリクエストされました。
中学生になり、なんとなく終了になっていた寝かしつけの絵本タイムですが、子どもから「読んで」と言われたのが嬉しくて、久しぶりに次男に本を読んでいます。
このタイミングで一体何を読まされるのかと思えば、なんと夜回り先生こと水谷修さんの「子育てのツボ」という本だったのです。
子どもが幼少期、小学生、中学生と各段階に応じて、「こういうことに気をつけよう」という内容なのですが、さすがに我が子にそれを読むとなると、まるで自分の子どもにこれまでの子育てをチェックされているようで、ちょっと焦りました。
章のタイトルで、ざっと内容を紹介します。

子どもの幼少期・・・「できるだけ多くのスキンシップを」・・・子ども時代に直接の肌の触れあいを通じて親の愛や温かさを知った子どもは、心の安定した優しい子に育ちます。

「たくさんのこどもたちと出会うチャンスを」・・・子ども同士で遊べば、必ず喧嘩やぶつかり合いが起こります。
でも、慰め合いやいたわり合いも生まれます。
その中で子どもたちは同世代の他者との触れあい方を自然に学んでいきます。

「自然の中で遊ばせる」・・・休みの日に山や川などで遊ぶアウトドア派の親と、ゲームコーナーやショッピングセンターで遊ぶインドア派の親をずっと見てきて気づきました。
不登校や引きこもり、心の病、いじめの対象になったり、非行や罪を犯す子どもは、アウトドア派の親の子どもには少ないのです。
アウトドア派の子どもたちは、身体や頭を使って自然の中で生きる強さを身につけています。
さらに、幼い頃から弱い細菌などに触れていますから、免疫力があります。これは人との出会いにも言えることです。
小さな悪と出会い、それと闘い、それに負けない心の抵抗力が培われています。

「絵本や童話の読み聞かせを」・・・お母さんは家事や仕事が忙しいとき、子どもがお気に入りのビデオやテレビ番組を一人で見せていませんか?
でも、こんな危険なことはありません。
テレビやビデオは完璧な道具です。
全てが完成していますから、そこには子どもが考える必要はありません。
じつは、これが子どもたちから想像力を奪ってゆきます。
絵本や童話は中途半端な道具です。
紙面上にあるのは文字と挿絵だけですから、子どもが自ら想像力を働かせて命を吹き込まなくてはなりません。

「子どものテンポに合わせる」、「子どもの前で夫婦ゲンカをしない」etc・・・。
子どもが小学生になったら・・・「子どもの友達を招待する」、「隣近所の人たちと親しくする」、「親自らが人のために何かをする」、「働いている姿を我が子に見せる」etc・・・。
中学生になったら・・・「夜はパソコンや携帯、ゲームを使わせない」、「一日30回は褒めるか、優しい言葉を」、「家族一緒の食事タイムを大切に」、「友人たちを子どもに紹介する」etc・・・。

今さら子どもに説明するまでもない、「こんな願いを持ってあなたを育ててきたの」という親の思いを、水谷先生から伝えて貰ったようでした。
次男に、「で、自分の育ってきた環境はどうでしたか?」と尋ねると、「・・・悪く無いんじゃない?」とのこと。思春期の息子から、最大級の花丸をもらった気持ちです。


  

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