2018年08月05日

清風 2018年7月



天上天下 唯我独尊
天にも地にも われは独尊(一人であって尊いの)である
                              その5

現代が解決を強いられている最も重大な問題は、人間存在の問題である。
我々は社会や文化の問題を後回しにしても、まず「人間とは何か」という問題と取り組まなければならない。   
(『現代における人間の運命』)

ベルジャーエフ(1874~1948)ロシアの哲学者
常に自分の問題を深く掘り下げてゆく姿勢が、生涯一貫していた思想家と言われている。


「いのちは尊い」という言葉について、どんな立場に立つ人も一致しているのではなかろうか。しかし、次のように指摘されてみるとどうだろうか。

「我々の所有する一切が ― 物質的なもの、精神的なもの、個人的なもの、社
会的なもの等、何もかもひっくるめて、我々の誇りとする一切の富が ― 我々
の手から辷り落ちてゆくとき、我々のうち一体誰がそれでもなお人として在る
ことを祝うであろうか。その人生を喜んで生きかつ死ぬことができるであろうか。
「人間存在」というのはいったい何なのであろうか。人であること、そして
人として在ることそのことが、私にとって本当に大切なことならば、そこには
何か、私の持ちものの如何によって左右されない、確かなものがなくてはなら
ないはずであろう。」   (『万人の事としての哲学』1967年刊 滝沢克己)

前記ベルジャーエフは、記している。

「戦時の倫理は、そのまま戦後の倫理となって幅を利かしている。この倫理は
人間はどんなことをしても良い、とにかく、非人間的な、あるいは反人間的な
彼らの目的を成就しさえすれば他人をどんなに利用しても構わない、というの
である。今や、我々は非人間化の時代、つまり人間でないものが人間の世界に
世の中に入りかけている。例えて言えば、現代人は一つの膨大な集団をなして
原始人の群れへと復帰していると言えよう。しかもこの「原始人」たちは、文
明の衣服をまとい、精巧な機械を動かしているのである。この「世界革命」は、
まさに人間の発明した機械と技術の力なのである。機械から見れば、人間は一
つの機能でしかないのだから。」(註「戦時」は第一次世界大戦を指す)

ベルジャーエフは、「この倫理は、反・非人間的な、彼らの目標を成就しさえすれば、他人をどんなに利用しても構わない」時代が来たと1934年に書き記している。
もう一人、マックス・ウェーバーは「精神の無い専門人、心情の無い享楽人。
この無(ニヒッツ)のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで登りつめた、と自惚れるだろう」と、その著『プロテスタンティズムと資本主義の精神』(1904年発表)で述べている。

滝沢克己が、「私の持ちものの如何によって左右されない、確かなものがなくてはならないはずであろう」と指摘している世界というか、立場が問題ともされないというか、かって神学者・ティーリッヒによって「人間の究極的関心事」と言われてもいる宗教が、ほとんど課題とされなくなっている日本の状況は、考えてみれば、上に紹介した「非人間化」が、まだ進められている途中であるからであろうか。
そういう中にあって、安田理深は次のように述べている。

「人間の宗教心とは自己が自己にかえる関心(ulutimate concern)である。人間
は究極的な根底についての関心がある。いろいろなものへの関心ではない。
つまり菩提心、願生心である。
資本主義はこの関心を失わせるところにある。
資本主義の時間は、永遠といった時間を考えることを与えない。
存在の場はマーケットとなり、我々は経済的な意義をもった時間とか空間の中にいる。ヒューマニズムの喪失でなく、むしろ自己喪失こそ問題である。」
(1961年3月10日講義『教行信証真仏土巻聴記』Ⅱ P299
                     1997年 京都 文栄堂書店刊)

人間が機械を使うのではなく、利潤をあげる「一つの機会」として、機械に人間が使われていく時代とは、まさしく巻頭に掲げた「天上天下 唯我独尊」と言える根拠を失っていく事態が進行している(末法の時代)ということであろうか。

原点に帰って、未来を開く
仏教の時間論には「去・来・現」という時間を生きる、それが救済(仏教の教えに遇うた者)のあり方であると言われる。
末法の時代とはまた、釈尊の悟られた法が、それから2500年後の私が生きる原点として今に蘇り、私の生きる未来の導きとなると言う意味と聞かされている。
             (「去・来・現」とは、過去・未来・現在を指す。)

その事実に気づいた方(念仏者)がおられる。
なにもかも あたり前にしている程の不幸が またとあろうか
如来はつねに 足もとの幸せに気づけよと 仰せくださる
(「足もと」 浅田正作)

今日もまた、「宗教」を求めるのは困難なことである。
なぜなら、悩むことに意義を認めないからである。
だから、悩みを無くそうとする。
なぜ悩むのだろうか。浅田正作さんの詩を、今一度読んでみよう。


3月号から掲載してきた「天上天下唯我独尊」は今月号で一先ず終わりとします

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)清風