2019年05月15日

今日も快晴!? 2019年5月



3月の25日~28日、「福島のみんな!遊びにおいでんプロジェクト」という保養(放射能の影響を避けて、影響の無い地域で過ごす活動)がありました。
子育て中のママが中心となり、岡崎教務所が協力する形で、8年前の震災時から様々な形を経て続いており、守綱寺も日程が合うときは受け入れ寺院として参加していました。
昨年あたりから少し様子が変わってきたように見えました。
まず、福島の方から「参加したい」という声が減ったと言うこと。
受け入れ寺院の数も減ってきたと言うこと。
震災から8年が経ち、関心も薄くなってきたことを感じながら、話し合いの機会を持てないまま今年の開催を迎えることになり、守綱寺では福島県いわき市の方から2家族3名の方を受け入れることになりました。
3月26日はお寺で絵本の読み聞かせ会が開催されたので、その日の午後に「福島の方のお話を聞く集い」を企画しました。
すると、思いがけなく多くの人に参加して頂くことが出来ました。
簡単な自己紹介をして頂いたら、
「震災の時は関東の方で生活していた」
「旦那さんが福島の出身で・・・」等々、それぞれ想いがあってこの場に来られていて、原発や放射能について、きちんと話が出来る場が求められているのだと感じました。
いわき市から来られたOさん&Kさんは、「何でも聞いて下さい。全部お答えします」と、言って下さいました。
「自分たちの周りでは、放射能や原発の話はそれほど聞かなくなっている」とのことでしたが、話が進むうちに「いわきの方では、テレビの天気予報と一緒に線量の数値が出る。風向きも。こちらに来てそういうのを目にしなくなって、(ああ、ここでは100%放射能の事は考えなくても良いんだな)って思えた」「福島産のものは、(線量を)計っているから大丈夫だろうって、普通に食べている。」「もっと線量の多い地域から避難してきて(いわきに)住んでいる人がいるが、その人達には補償金が出ていて、気の毒なんだけど、同じ地域で同じ様に生活しているのに、あちらは貰えて良いなって思ってしまう」等々・・・二時間ほどの間に、ぽつりぽつりと本音がこぼれ落ちるようになりました。
こちらで生活していると聞こえてこない話ばかりで、現地の方から生の声を聞くことの大切さを感じました。
自分の「知らないこと」が「無い事」になってしまうのは危険だと思えます。
福島から来たMちゃんはもう中学生の女の子でしたが、とても面倒見が良く、寺っ子クラブの子どもたちとたくさん遊んでくれました。
26日の夜は、心ある方から差し入れして頂いた食材を使ってみんなでカレーを作って食べ、木曜日は「三河の名物を!」と、寺っ子の仲間で五平餅の味噌を作り、お握りを作ってお外でいっぱい遊んで食べました。
どんどん仲良くなる子どもたちの様子が嬉しく思えました。
おいでんが終わって何日かあと、新聞にいわき市の震災関係の記事が出ていました。
普段はそれほど新聞を読まない娘に「ほら。うちに来ていたMちゃんの住んでいるいわき市のことが書いてあるよ」と言うと、「え?そうなんだ!」と言いながら、目を通していました。
震災から8年が経ち、こうした活動が本当に必要なのだろうか?という声もあります。
でも、実際にその地域で生活している方の声に耳を傾けること、何が起きているのか知ること、自分の頭で物事を考えることが大切で、子どもたちは、「どうしてMちゃんたちは、遠くから来ていたんだろう?」と疑問に思うかもしれません。それは、福島で起きた原発事故や放射能のことを考えるきっかけになるでしょう。
「福島県、いわき市」と聞いたときに、「遠くにある知らない場所」ではなく、「一緒に遊んだMちゃんの暮らす町」と気付いたら、ずっと関心の向き方が違うと思うのです。
それが、おいでんプロジェクトを続ける意味なのではないかと感じました。
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?

2019年05月15日

今日も快晴!? 2019年3月



2月に、大変面白くて刺激的な講演会に参加することが出来ました。
生物学者の福岡伸一さんの「生命とは何か。生命科学から森への招待」というお話です。
『動的平衡』『生物と無生物の間』などの書籍で著名な福岡さんのお話は、分かりやすい言葉と比喩で、時には笑いも交えながら和やかに進んでゆきました。
蝶に夢中になり、昆虫少年だった子ども時代。
顕微鏡をのぞくことに夢中になり、「センス・オブ・ワンダー」~自然への驚嘆や畏敬の念が、生物学者を志すきっかけになったそうです。
顕微鏡の発明により、人間の身体が細胞という細かいパーツで出来ているという発見があり、機械論的なメカニズム、人間の身体を細分化し、より細かいパーツに分けて考えようとする考え方が主流になってゆきます。
しかし福岡さんは、研究上の壁にぶつかり、「生命とはミクロな部分が集まってできたプラモデルである、というような機械論的生命観は、生命の大事な部分を見失う」と感じられたそうです。
1時間半ほど講演の中で、最も刺激的だったのは、自ら発見したGP2という遺伝子の働きを突き止めるための実験で暗礁に乗り上げ、「生命は機械ではない。生命は流れだ」(ルドルフ・シェーンハイマー)という先達の研究者の言葉を知り、「動的平衡」という言葉で生命を解き明かそうとした部分でした。
生命とは、食べ続けなければならない存在であり、当時の機械論的な発想では、生物と食べ物の関係は車とガソリンに例えられていました。
しかし実際は、シェーンハイマーが行ったマウスの実験では、食べ物は身体の中で、しっぽの先から内臓まで、ありとあらゆる器官に変化していったのだそうです。 
福岡さんは「つまりガソリンがタイヤやシートやハンドルになったりするわけで、食べるという行為は、食べ物と自分自身の身体を入れ替えることであり、細胞は絶えず入れ替わり、新しいものになっている。
つまり生物学的には、約束は守らなくて良いんです。
一貫性もなくても良いんです。なぜなら昨日と今日では別の生き物だから」といったジョークも交えながら、さらに講演は進みました。
「髪や爪は分かりやすいのですが、消化管の細胞は2~3日で入れ替わり、筋肉の細胞では数週間で入れ替わります。
生命とは、こうした分解と合成の絶え間ない平衡状態を言うのであり、作ることよりも壊すことを一生懸命にやっている、大きく変わらないために変わり続けている、変わらないために変わり続けている。
動的な平衡状態を表現したもので、生命とは鴨長明の『方丈記』にあるとおり「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」という世界そのもの」。
私たちが「生きている」という事実は、なんという不思議で精密で自分の想像を超えた素晴らしい現象なんだろう。
「自分の命なのだから、自分の好きにしても良い」という発言を聞くことがありますが、これはとんでもない話で、私が「これは私だ」と思ってコントロール出来る部分なんて、いのちの全体から言えばほんのわずかな部分であり、自分の感覚だけではキャッチできないような細胞レベルの絶え間ない分解と合成の仕組みが何一つ間違うことなくきちんと毎日繰り返される奇跡が自分の命の正体なのだと、震えるような感動がありました。
豊田の森作りに関するシンポジウム内での講演でしたが、生命の内部のように森にも「動的平衡」の視点が必要であり、 「問題が起きた時は、広い視野を持ち、関係性の中で考える。長いスパンで考える」という最後の言葉は、あらゆる問題に通じると思えました。


  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?