2018年06月21日

清風 2018年6月


清風 2018年6月


 「生きる」とは、奇跡の自覚に他ならない
                 池田晶子

天上天下 唯我独尊  釈尊「誕生偈」 その4

池田晶子(1960~2007)
哲学を日常の言葉で表現してきた。
主な著書『14歳からの哲学』トランスビュー社刊。
上記の文章は、朝日新聞朝刊(2005年4月9日)コラム「見出し」から。


池田さんは、「今、ここに、こうして生きていることが奇跡と呼べる特別なことなのだと、私が自覚する」、それが生きることだと言われる。
仏伝には、釈尊がお覚りを開かれたときの、次のようなエピソードが伝えられている。

釈尊がお覚りを開かれた時、釈尊は「自受用法楽」の境地におられたとされている。覚りの内容を説いて聞かせたとしても、誤解して受け止められてしまうのではと考えられたのである。
その時帝釈天(インドの神)から「そうおっしゃらずに人々に教えを説いてください。
真面目に内容を汲み取る者もいるのでしょうから」とお願いされても、その要請に直ちに応答しようとはされなかったと伝えられている。

釈尊が心配されたごとく、人間(私)は功利心を離れることができない。
功利心とは、求めることにおいて何らかの直接的な(目に見える形の)利益を得たいと思う心のこと、すなわち、直接的な効果がなければ求めたような気がしないということであろう。
釈尊の配慮にも、また仏教が伝えられてくる中での経験にも教えられるように、釈尊のお覚りの内容を「ただ念仏」と伝えてきた浄土教の歴史においても、蓮如上人(本願寺第8代門主 1415~1499)が次のように諭されている。
「たとい名号をとなうるとも、仏たすけたまへとはおもうべからず。」なぜなら「弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべき。」だと。
如来回向の念仏を、我が功績にしてしまう ― 要するに私の思いを叶えるための手段にしてしまっているが、そうではないのだと蓮如上人は言われるのである。
ここでもう一度、前号でも紹介した『自由からの逃走』(E・フロム著)の次の指摘に学びたい。

「現代人は、どちらかといえば、あまりに多くの欲望をもっているように思われ、かれの唯一の問題は、自分が何を欲しているかは知っているが、それを獲得することが出来ないということであるように思われる。」

しかしここには、困難な問題が一つあると指摘する。

「すなわち現代人は自分の欲するところを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるものを欲しているにすぎない」

という一つの問題があると。これは一体どういうことか。

「これを認めるためには、人が本当に何を欲しているかを知るのは多くの人が考えるほど容易ではないこと、それは人間がだれでも解決しなければならないもっとも困難な問題であることを理解することが必要である。
(略)われわれはみずから意思する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人間となっている。(略)現代人はかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。
そこでは人であれ物であれ、全て道具となってしまっている。」

道具とは、人間に便利で快適な生活を可能にする物であって、いつも効率性・機能性という基準で存在している物であるといえよう。
ここでフロムが指摘する「人が本当に欲していること」とは何を指すのだろうか。
それは、欲求の満足に対し「存在の満足」と言われるものであろう。
釈尊の遺教の「汝は汝で在ればよい、汝は汝に成ればよい。」という言葉がそれであろう。
そういう主体の発見こそが「本当に欲していること」、すなわち「存在の満足」と言われていることであった。
「欲求の満足」は、満足すれば「当たり前」のことでしかなくなる。
要するに「もっと、もっと」と欲求に追い回されていく、仏教が流転と教えてきた生活である。
主婦の短歌がある。

まだほかに なすべきことがあるはずと 片付け終えた 夜半に思う

一日の家事を全て終えたその時、家事を軽んずるのではないが「主婦の私」ではなく「人間(実存)としての私」にとって…という、何かそこに「人として、本当に欲しているもの」という「存在の満足」への欲求が、誰からも教えられたのではないが、突き上げてきたのである。
これこそ、日常的人間生活を超えしめる心の発動とも言うべきことであろう。
それを仏教では、発心・発菩提心という出来事なのだと伝えてきた。
先程の蓮如上人の「弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつ」りたいという「存在の欲求」と言えよう。
本人さえも気づいていなかった「こころざし」とも言えようか。
「存在の満足とハッピーということを、我われしばしば混同しますから、一度よく反省することが課題になるでしょう。」とは、故今村仁司氏の指摘である。
「聴聞」と言われてきたのは、身を運び聴くことにより、生活の中で私は、私の身そして家族を、私の都合を満たす道具としている根性が見えてくる、と教えられてきた。私のハッピーが、私以外の人のハッピーとどうして言えるのか?
新たな問いをいただいたことである。
「誕生偈」は、人間の隠された問い「本当に生きるとはどういうことか」を表にあらわに出したものであったのだ。
いつの時代にあっても、人間は「生物的にただ生きるものではなく、生きる意味を求めて生きている」というのが、生きるその根本的動機と言えるからである。
だから「唯、生きる」、それが奇跡なのである、と。


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Posted by 守綱寺 at 20:00│Comments(0)清風
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