2019年02月26日

清風 2019年1月

清風 2019年1月

「私の出世本懐」について
先月号で、「長生きはめでたい事なのか」というテーマで投書された男性(83歳)の意見を紹介しました。
人類は長生き出来ることを願って生きてきたと言っても過言ではないでしょう。
そして我が国は、その長生きを世界でもいち早く達成したと思われる、その時に上記の投書があったのです。
その投書の内容は、「日本では安楽死が出来ないので、出来るように法の整備をして欲しい」というものでした。
釈尊は、人生に於ける苦として「四苦(生老病死)」を挙げておられます。
そしてこの四苦は、四つの諦(「諦」は真理を表現する言葉です)であると言われます。
苦が真理である ― 生まれることも苦諦であり、真理を表現している事柄なのだと。
では何故、苦が真理を表現している事柄なのでしょうか。
仏教では「人身受け難し」というのが、その教えの基本です。
「生まれた」と過去形で表すように、「生まれる」とは「身体が先に この世へ 出てきてしまったのである その用事は何であったのか いつの日か思い当たるときの ある人は 幸福である」と詩人(杉山平一)が記していますが、誰にとってもまったく受動的な出来事に違いないのでしょう。
その出来事を、「人身受け難し」と、仏教では教えています。
それは仏法が「目覚めの教え」と言われるように ― 佛陀・ブッダはインドの言葉で「目覚めた人」の意ですから、「成仏」は目覚めたものに成るという意味です― 人間は生まれた限り、上に記した詩人の「その用事は何であったのか」という問いを誰もが抱えていたのです。
その問いが83歳にして、やっと意識の上にあがってきた、ということです。

人間が、動物と違って「苦悩する」というのは、実は人間には「その用事は何であったのか」を問わなければならないのに、その男性は気づかずに今まできてしまった…ということであったのでしょう。釈尊は、この世に出た用事は何であったのかを「出世の本懐」と受け止められ、念仏の教えを聞いてきた先輩は仏法を聴聞することであると受け止めてきてくださっていたのです。
さぁ、何を聴聞するのでしょう? 勿論「その用事は何であったのか」を、でしょう。


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