お庫裡から 2023年10月

守綱寺

2023年12月26日 09:58




部活に熱を上げ、元気一杯楽しそうに家を飛び出して行く高校生の在ちゃんを見ていると、ついつい自分の高校生時代を思い出す。
入学して初めて出来た友だちは、入学試験の直前、突然の病で38歳の父を亡くしていました。
そして「双児の片割れは40歳まで生きられないんだってね」と言ったのです。
その言葉を聞いた双児の片割れの私は、「そうか、私は40歳までしか生きられないのか」と思いました。
卒業式の近い日、母が40歳になりました。
「エー!40歳ってこんなに若いの。イヤだイヤだ、40で死ぬなんて。」
同じく高一の夏に聞いた内観のことば「そういう自分はどうや」を私は本当の自分でない付けている衣の猛烈な比較を始めました。
そこで見えたのは、無い無い尽くしの私、こんな私は何故生まれてきたのか、新たな苦悩が始まりました。
青春時代に始まった二つの苦は、その後の60年を実に意義深く実り多い歩みを私に与えてくれました。
一番大きいのは、私の転換、私と思っていたものは仮であったということです。

本体(真)の私(無限)私を成り立たせている総てのハタラキ
全宇宙の全協力
身    の私(有限)全宇宙の全協力の上に生まれる縁が熟し
この世に誕生、本体のある事の証明者。
本性(仮)      身をこの世に頂き生きていて、はじめて
私という私がある。上の2つがなければ
私そのものがない。

本性の私とは、日頃私と思っているそれです。
その私は心の底に思い通りにしたい、勝ちたい、誉められたいという拳を握っています。
だからどうなっても苦しむのです。
40歳で死ぬのはイヤだと苦しんだ私は、来月喜寿を迎えます。
相変わらす本性は本性ですから、無くなることなくあちらこちらに頭をぶつけます。
その時、そういうお前はどうやとお念仏が届いてくださり、一瞬、本体(正気)に戻れるのです。
(無量寿を思ふ心に死を超えて生も思わずただ朗らかに ―暁烏 敏―)

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