本堂に座って 2024年2月

守綱寺

2024年02月15日 13:40


少し前から「利他」ということばをよく耳にするようになりました。
まず相手の利益・幸せを考えること…という意味では大切なことですが、そこに“自分”が入ると「利己」になってしまう危険もあります。
「利他」とはどういうものかを考えるきっかけを、中島岳志さんの文章から教えていただきました。

利他は自己を超えた力の働きによって動き出す。
利他はオートマティカルなもの。利他はやってくるもの。
利他は受け手によって起動する。そして、利他の根底には偶然性の問題がある――。
私たちが利他的であろうとするとき、そこには利己的な欲望が含まれていることも見てきました。
利他には、意識的に行おうとすると遠ざかり、自己の能力の限界を見つめたときにやって来るという逆説があります。
そうすると、私たちは何をすればいいのかわからなくなってしまいます。
利他的であろうとすると利他が逃げていくのだったら、私はどうすればいいのか。
利他が偶然性に依拠しているとすれば、偶然の出来事が起こることをただ待っていればいいのか。
そんなふうに思うかもしれません。
しかし、偶然は偶然には起こりません。
九鬼周造は『偶然性の問題』の中で次のように言っています。
「東洋の陶器の鑑賞に偶然性が重要な位置を占めていることを考えてみるのもいい。いわゆる窯変は芸術美自然美としての偶然性にほかならない。」窯変とは、陶磁器を焼く際、炎の性質や釉の中に含まれている物質などの関係で、色彩光沢が予期しない色となることです。
では、窯変は本当に偶然だけに依拠しているのでしょうか?
私は陶器を制作したことが全くありません。ろくろを回したこともなく、窯を使ったこともありません。
そんな人間が、唐突に窯変の美しい陶器を作ることができるかというと、不可能でしょう。
そもそも私は釉薬のかけ方も知らず、焼き方も知りません。
そんな人間が、いきなり秀でた芸術作品を作ることはできません。
つまり、裸の偶然は存在しないのです。職人は、長い年月をかけた修行と日々の鍛錬の積み重ねの上で、偶然を呼び込みます。
窯変は、蓄積された経験と努力のもとにやって来ます。確かに、陶器がどのように焼きあがるかは、窯から出してみなければわかりません。
人間の力では制御できない火の力によって化学反応が起き、思いがけない美が誕生します。そこには「他力」としか言いようのない「力」が働いています。
しかし、その美が生まれるためには、窯に入れるまでに様々な技巧が施されなければなりません。
「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではありません。
大切なのは、自力の限りを尽くすこと。
自力で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。
そうして、自己の絶対的な無力に出会います。重要なのはその瞬間です。
有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。
そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。
そして、その瞬間、私たちは大切なものと邂逅し、「あっ!」と驚きます。これが偶然の瞬間です。
重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。
しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、その器にやって来るものが「利他」です。
器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。
その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。
このような世界観の中に生きることが、私は「利他」なのだと思います。
だから、利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。
私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。
能力の過信を諫め、自己を超えた力に謙虚になる。
その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。
 いま私は、利他をそういうものとして認識しています。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)

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