清風 2023年1月

守綱寺

2023年02月20日 16:48


自己というのは問うたことがない
当たり前のことではないか、と
自明のことを
疑うということが 問いなのです
安田理深

本年もどうぞよろしくお願いします
        2023年 元日



吾人は絶対無限を追求せずして、満足し得るものなりや。
『臘扇記』(明治31年10月12日の記)清沢満之著

 「絶対無限を追求せずして」と言われていることを、日常の生活で感得されているエピソードを、紹介します。
 紹介するのは、東井義雄(1912~1991)先生が紹介されているものです。
 
 私の県の県立盲学校の6年生の全盲の子どもの言葉を聞かせていただき、ほんとうにびっくりしました。
 「先生、そりゃ、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔がみたいわ。でも見えたら、あれも見たい、これも見たいいうことになって、気が散ってあかんようになるかもわからん。見えんかて別にどういうこともあらへん。先生、不自由と不幸とは違うんやね」といったというのです。
  この子は全く見えない世界、光の無い世界を生きているのです。でも、何という明るさでしょうか。闇の世界にありながら、闇が闇のはたらきを失ってしまっています。
  光の世界を生きさせて貰っている私なんかよりも、もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています。    (以上 東井先生著『よびごえ』という冊子より)

 「見えんかて別にどういうこともあらへん。先生、不自由と不幸とは違うんやね」という発言から、この子が生きている立脚地を教えられる事です。目が見えない、これは事実のことです。その事実を「不自由」だと判断した時、同時に、それは「不幸」だという評価をします。そしてその評価こそが正しい判断であるとして、わたしどもは、疑わないのです。

 小6年の男子児童の返答を詠まれていかがだったでしょうか。
 聞法とはどんなことを聞くのでしょう。
 私どもは、「当たり前」という判断の前に、身の事実である、呼吸して生きているということの不思議さに全く注意がいかない、つまり「感性の劣化」に陥っていて、現代では、子どもから大人そして老人にいたるまでとにかく評価される者であれという強迫症に罹っている状態といっても過言では無いような状態です。

  成熟という言葉があります。生きものは成長し、て成熟するということでしょう。
 「稔るほど 頭を垂れる 稲穂かな」という俳句もあるように。
 
 「絶対無限を追求せずして、満足し得るものなりや」この清沢満之先生の指摘は、人生とは「先生、不自由と不幸はちがうんやね」と言える智慧を頂くことにつきるのでしょう。「先生、見えたらいっぺんお母ちゃんの顔が見たいわ。でも見えたら、あれも見たい、これも見たいいうことになて、気が散ってあかにようになるかもわからん」。「あれも見たいこれも見たい」、そして気が散ってしまっている。現代人の忙しさは、ここからきているのですね。


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