本堂に座って 2018年5月

守綱寺

2018年06月21日 20:00




毎年、春の永代経法要には中川皓三郎先生にお話をいただいています。
ここ数年は少し体調を崩されているということですが、そんな中でもやっぱり熱のこもった深いお話を聞かせていただきました。
今月は、中川先生のお話をまとめた書籍から文章を紹介します。

国王として生きようとするかぎり、つまり、自分の思いを中心にして生きるかぎり、生きることが、ただ今の自分を生きることにならない。
結局、生きることは、条件闘争ということになります。
自分が自分として生きることのできる条件を一所懸命整えることに精一杯で、今生きることが始まらない。
なぜなら、自分が自分として生きるということは、自分自身が満足する条件が整ったとき、初めて成り立つと考えているからです。
もしも、こういうことが実現したらということにかかりきりになってしまって、自分が自分として生きることが、十年後、二十年後のことになってしまう。
だから、現実のただ今の生は、すべて手段化されて、ただ今を生きているにもかかわらず、ただ今を生きることにならないわけです。
私自身、今まで条件闘争ばかりしていたなぁということを思います。
「俺の条件は悪い」と言ってばかりいたように思います。
他の人との比較の中で、俺の条件は悪いと言う。
そして、条件を整え環境を整備して、自分が自分として生きることを始めようとする。
しかし、どこまでも、自分の都合です。
だから、人との関係においても、都合と都合ですから、最後はお互い自分の都合をいちばんにするということです。
最後は、みな自分を守りますから、どこまでいっても一つにならないのです。
これは、広瀬杲先生の『根源的能動-本願-』(文栄堂書店)という本の中に出ているのですが、「念仏で戦車を止めることができるか」という問いに答えて、「「念仏で戦車を止めることができる!」と言えるはずなのです」と言っておられます。
私たちが、わが身をよしと思って、わが身をたのみ、そこから自分と他人というものを二つに分ける。
そういう自分と他人との分離を前提にして生きるかぎり、どれだけ親しい人も、自分の外にあるわけですから、最後は、自分のなそうとすることを妨げるものとしてしか、見えてこないのです。
だから、自分の思いを中心にして生きるかぎりは、私の思いとあなたの思いは、一つにはならないのです。
みんなにそれぞれの思いがあるのだから、それぞれが自分の思いを実現しようとすれば、最後は、すべて敵だということにならざるを得ない。
利用するか、敵になるかどちらかです。
だから、自分と他人を二つに分けて、そこで自分の思いを実現しようとすれば、必ず、力が必要とされるのです。
力があるということは、自分の思いに他人を従わせることができるということでしょう。
力がなければ、他の人に従わなければならない。
だから、力だというわけです。その力を象徴しているのが戦車ということなのです。
ところが、ここのところが本当に大切なのですが、どれほど私たちが、強大な力を持っても、自分の外に他人があるということを前提にしているかぎり、敵はなくならない。
私たちが、自分と他人を二つに分けて、そこで自分と言っているかぎり、自分の外には、必ず他の人がいるのですから、そういう自分というものがなくならない限り、敵はなくならないのです。
敵をつくっているのは、この私なのですから。
だから、私たちはあらゆるものを、自分中心に二つに分ける、自力の心がひるがえされ、すてられるということがないかぎり、劣等感と孤独から解放されるということはないわけです。
どうしても、人の目におびえ、死の不安の中で、暗くちっぽけな生を生きざるを得ないということになります。「日ごろのこころにては、往生かなうべからず」です。
(『ただ念仏せよ 絶望を超える道』中川皓三郎著 東本願寺出版 より引用しました。)

最近のニュースを見ていると、国内では「自分は悪くない」という主張、海外では「思い通りにならない相手(=敵)であれば攻撃しても構わない」という動きが目につきます。
どちらも同じ「自分の思いを中心にして生きている」…から生じていることを、とてもわかりやすく指摘してくださっている文章だと思います。




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