毎月のお参りなどで、東本願寺から発行されている『真宗の生活』という小冊子を読んでいます。
過去に出版された書籍などから2~3ページ分ずつを抜粋して作られていて、お参りの中で読むのにちょうどいい文章になっています。
その中に、今まで何度も紹介している真城義麿先生の『仏教なるほど相談室』の文章が載っていて、あらためて読ませてもらっています。
今回は「いただきます」についてのお話を紹介します。
Q>
ご飯を食べるときに「いただきます」と言って手を合わせるけれど、あれは宗教と関係あるのですか?
A>
そうですね。手を合わせるのでそう思われたのでしょうか。
人間が生きていくためには、食べ物を食べなければなりません。
私たちが食べている食べ物は、そのほとんどが、少し前まで生きていた動植物ですね。
さらに、小さな魚の「おどり食い」のように、生きたまま口に入れて食べてしまうことさえあります。
サラダなどの生野菜も、考えてみると生きているのです。細胞が生きているから瑞々しい食感があるのでしょう。
さて、「いただきます」は、誰が何をいただくのでしょうか。
私のいのちの存続のために、他の「いのち」をいただくのですね。
食事は生命の受け渡しの営みです。
目の前の料理の食材となった「いのち」に向かって「申し訳ありませんが、私が生きていくために、あなたのいのちを頂戴し、今後はあなたのいのちとともに生きていきます」ということでしょう。
摂取した「いのち」は、私のいのちと不可分に一体化します。
私たちはこれまでいただいてきたたくさんの「いのち」とともに生きているのです。
ですから、いただいた「いのち」への責任があります。
そういうことからいえば、「いただきます」の習慣は、特定の宗教・宗派の作法ということではありませんが、いのちに対する尊重や畏敬という意味で宗教的行為といえるでしょう。
本来はわたしのいのちの維持のために生まれてきたわけでもない動植物を、生きることを中断させて、いただいたわけです。
尊いいのちを中断させて「ごめんなさい」という謝罪でもあり、食材となってくださって「ありがとう」という感謝の表明でもあります。
そういうところに立ってみると、いのちである食材を粗末に扱ったり、無駄に捨てたりすることになったら、「いのち」に失礼ですね。
不必要にたくさんの食材を用意して結局は無駄にしたり、食べ散らかしたりすることは、慎まねばなりません。
地球上には、栄養失調や飢餓で亡くなる多くの方がいます。
その無駄に捨てられた「いのち」は、有効に届けば誰かのいのちを支えることになったはずなのです。
食前には、いただく「いのち」に「いただきます」と言い、食後には、その「いのち」をいただいたことへの心からの痛みと感謝を表すとともに、その食事を用意してくださった方々に対して「ご馳走さま」(馬で走り足で走って用意してくださり、ありがとうございます)と御礼を言うのです。
食事をとおして、「いのち」について考えたり話し合ったりしていただきたいものです。
(『仏教なるほど相談室』真城義麿 著 東本願寺出版発行より引用しました)
初めのうちは内容通り“食事としていのちをいただく”と読んでいたのですが、くり返し読んでいくうちに、「いのちをいただくのは動植物からだけではなく、人同士にも言えるんじゃないか」と思いました。
ある人の言葉・行動・一緒に過ごした時間など様々なものをいただいて、それらが私と一体化して、私とともに生き続けていく…。
ある本で「食材の細胞が体内の細胞と置き換わって体内に残ることが実験で分かった」と読みました。
身近な方のいのちも、同様に私の一部になってくださっていると思うと、“ともに生きている”と感じられるのではないでしょうか。