本堂に座って 2024年7月

守綱寺

2024年07月08日 13:43


このところ、(仏教書ではなく)一般の書籍で親鸞聖人のお言葉が取り上げられることが増えている感があります
(たまたまそういう本を手に取っているだけかもしれませんが…)。
そんな中、作家の高橋源一郎さんが『歎異抄』を“いまのことばに少しだけ変えて”届けてくださっています。
その中からよく聞かれる「悪人正機」について書かれた第3章を紹介します。

<その三 悪人だからこそゴクラクに行けるんだ>
 あるとき、「あの方」はぼくにこういった。
「善人でさえ、死んでからゴクラクジョウドに行くことができるのだから、悪人なら当然行けるはずだ。おれはそう思うんだ。わかるかい、ユイエン。ふつう、そうは思わないだろう。『あんなひどいことをした悪人でさえ、救われてジョウドに行けるのなら、善人はもう無条件でゴクラクジョウド行き確定だよな』って思う。それがふつうの考え方だ。
 確かに、ぼんやり聞いていると『ふつうの考え』の、その論理は正しそうに思える。ユイエン、でもそうじゃないんだ。それは、おれたちが信じている『本願他力(ホンガンタリキ)』、つまり『すべてをアミダにおまかせする』という考えから遠く離れた考えなんだ。
 善人というものは、もっと正確にいうなら、自分を善人だと思いこんでいる人間は、なにかにすがらなきゃ生きていけないというような、ぎりぎりに追い詰められた気持ちを持ってないんだ。なにか善いことをしてその見返りでゴクラクオウジョウできるんじゃないかって思ってるんだ。こころの底ではね。それじゃダメなんだ。そういう計算ずくの人間たちを救うことは、アミダにだってできないのさ。
 でも、そんな善人だって、ちっぽけな自分にできることなんか実はなにもないと気づいたなら、なんの力もないのだからアミダにおすがりするしかないと思えるようになったのなら、そのときには、ほんとうのジョウドというところに行くことができるんだと思う。
 いいかい、ユイエン。おれたち人間はどうあがいても、欲望からも苦しみからも逃れることはできない。絶対に、だ。どんなにすごい修行をしても、生きることの苦しみ、死なねばならないことへの恐れを忘れ去ることはできない。おれたちは、人間である限り死ぬまで苦しみつづけるしかないんだよ。アミダはそんなおれたちを憐れんでくださった。救ってくださろうと、誓いをたてられたんだ。
 ユイエン、悪人ってなんだ? おまえにはわかるか? 生きてゆくためには、どうしても悪を選んでしまう人間のことだ。どうして人は、どんな悪とも無縁で生きてゆけるだろう。そもそもほかの生きものの命を奪わなければ、生きてはいけないというのに。
 だから、ユイエン。おれたち人間はみんな生まれついての悪人なんだ。そんな、悪人として生きるしかないおれたちを、アミダは救ってくださろうというんだよ。
 だとするなら、自分には、救われるための資格なんかなにもないと最初からすべてをあきらめ、アミダにおすがりするしかないと考えている悪人こそ、いちばんジョウドに近い人間ではないだろうか。
 自分の中にある悪に気づかない善人でさえ、ゴクラクジョウドにオウジョウできるとしたら、自分の悪を見つめて生きるしかない悪人なら、当然オウジョウできる、というのは、そういう意味なんだよ。」
(『一億三千万人のための『歎異抄』』高橋源一郎 著 朝日新書 より引用しました)

高橋さんは「これからぼくは、みなさんと「シンランのことば」について考えてゆくつもりだ。
そのためには、「シンランのことば」を直接、みなさんに届けたいと思う。
けれども、700年前の読者と、いまの読者とでは条件がちがう。
ほんとうはわかりあえるはずなのに、時間が読者と作者を引き裂いてしまった。
だからぼくがちょっとだけお手伝いをします。
「シンラン」がいま生きていたとしたら、きっとこういうだろうな、そんなことばに少しだけ変えて、みなさんに届けるつもりです。」と冒頭に書かれています。
本来は原文を読み深めたいところですが、『歎異抄』に触れていただくきっかけの一冊に、とてもわかりやすくて良い本です。


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