清風 2022年12月

守綱寺

2022年12月20日 14:01


汝 無量寿に帰れ
無量寿に帰って
無量寿に生きよ
(『信國淳選集』第8巻P378)大谷専修学院長(1904~1980)



何故、南無阿弥陀佛と称えるのか。それに応えて、信国先生が示して下さった了解の言葉です。
「何故、念仏申すのか」、この問いの背景には次のような現実があるから、と申しても良いのでしょう。
近代・現代の人は、自然の一部としてではなく、自然を支配し征服すべく、彼(私)は運命づけられた外からの力として、自らを体験しています。
彼は自然との闘いについて語りさえするのです。
その闘いに勝てば、そのまま敗れる側に立たされることも忘れて、ごく最近まで、無限の力を持つような幻想を与えるに十分なほど、闘いはうまくゆくように見えました。
しかし完全な勝利を実現するまで、うまくゆきはしませんでした。
このことがわかってくると、多くの人々は、なお少数派としてではあっても、人類の継続的な生存にとってそれが何を意味するのかを認識し始めています。
どうも、「生産の問題」は解決されたというのは誤謬に満ちた見解なのではないか、と。
現在の資本がはるかに大きいのは、人間によってではなく、自然によって提供されている資本、つまり、地下資源です。
しかし、我々はそれをそのようなものとして認識さえしていません。
ここまでの内容は、地下資源(要するに化石燃料といわれる石炭・石油・天然ガスなど)を指しています。
地下資源は、1945年以降、驚くべき危険な速度で使い果たされてきました。
これこそ、生産の問題は解決されたと信じ、それに基づいて行動してきたことがいかにも不合理で、自殺的な誤謬と言われる所以です。
(異常気象問題・線状降水帯など。)


今日の高度な消費生活は、快適、解放、知的変化、個人的自由のマクシム(極点)という点で、人類のかって経験しなかったものであり、その「たのしみ」と「よろこび」の讃美は数多の文筆業者たちの尽せぬ商売のネタとなっているほどだ。
すべての抑圧を解除し、個人の遊動的自由に最大の価値を置く今日の文明は、なるほど利便と長所をそなえた「開かれた社会」であるだろう。
だがそれは、存在の一切の意味を無化する虚無の遊動に対して開かれた文明でもある。
自由な市場経済が保障する高度消費文明の行手に待っているのは、たんなる環境破壊でも資源枯渇でもなく、心の荒野なのである。
人は何のためにコスモス(宇宙)に生を享けて来たのかという古い問いの前に、自由社会(西側)の勝利は色褪せるであろう。
私たちの課題は資本主義か社会主義かなどというとんまな課題ではない。
「経済」を超克する途こそ私たちの唯一絶対の課題であって、東欧圏の崩壊を巡って空騒ぎをやっている連中には、このことすら自覚されていないようである。
渡辺京二著『荒野に立つ虹』P150葦書房発行より

 
「経済を超克することこそが、われわれに課せられた唯一絶対の課題である」と渡辺京二氏は述べています。
仏教では、あらゆる迷いの根を無明という言葉であらわしています。
明とは智慧ことで、いろいろな「わかる力」を光にたとえて明といいます。
無とはそれがないこと、智慧の無い状態です。仏とはこの智慧を得て「真」に帰った人です。
この人類の史上に、初めて前人未踏の内観の途を完成し、自ら佛になってこの道の確かなことを証明したのが釈尊です。

ここで改めて、清沢満之の指摘「吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなりや」(「清風」5月号巻頭の言葉で紹介)や、安田理深先生が「宗教を救済としてのみ見るのは人間の自己肯定である。
根源的意味でのエゴイズムである。」(同10月号巻頭の言葉で紹介)と語られていることに、着目させられます。
人間というものは自分を失って迷うものである、と同時に、迷いを破って目ざめることもできるものでもあります。
こういう人間存在の深い意味を、あらためて近・現代に明らかにして下さった先人といえるでしょう。
ブッダと成られた釈尊の道を、南無阿弥陀佛という言葉として伝えてくださった法然・親鸞という方々のご苦労を、信国先生もまた、明らかにしてくださった方でした。


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