清風 2024年10月

守綱寺

2024年10月23日 11:34


私は 草であり 牛であり 大地である

ゴータマ・シッダルタ

 寺報「清風」の2024年6月号では「人間(私)は、与えられているから悩む」を、同7月号では「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」ということわざを紹介し、同8月号では「何か大きな空虚が、日本人の思想の根底に有るのじゃないだろうか。一言でいえば、生きるということの根本感覚を喪失し、生きるための手段で困憊しているのだと思います。」という言葉を挙げさせてもらいました。

 現代人には生活感との関わりが開かれていない…ということから6月号で紹介した「人間(私)は、与えられているから悩む」という言葉について考えてみます。日常生活の中で「悩む」ことは、視点を変えれば「思いも及ばない経験をしている」ことであると言えます。ところがその経験を「当たり前」と評価してしまうことから、日常生活の経験の重みをまったく感じられなくなっている(平凡の繰り返し、というくらいにしか思えない)、私どもの感性の衰弱を自覚できていないのです。

またその経験を「思いも及ばない経験」とは思えずに生活しているため、「目覚め(気づき)」の契機にはなかなかならないという事態に陥っています。便利で快適な生活は実現したのですが、それは成ってみれば、私にとってはすべて「当たり前」でしかないということなのでしょう。
 「当たり前」という評価・判断は、本来は物・道具の世界の基準なのです。


一生とは ないものねだりの 歳月か 得てはすぐ慣れ 無くて欲しがる
(朝日歌壇)
 この短歌は、「当たり前」という評価しかできない人に与えられている生活の実情を表す典型と言えるのではないでしょうか。ここでも私どもは、「人間(私)は、与えられているから悩む」の言葉で問われているということでしょう。
 この言葉は、漫画家の水木しげるさんのエピソードから、私の言葉として表現し直してみたものです。それは水木さんが「あなたにとって、幸せとは何ですか」と問われた際に「呼吸のできることです」と返されたことによります。「呼吸のできること」は、まったく「当たり前」のことでしょう。
 さて、この水木さんの応答について、皆さんはどう思われますか。


南無阿弥陀仏 人と生まれた意味をたずねていこう


 ここで、ゴータマ・シッダールタが下山して、苦行で衰弱した身体を養生した時の経験に学ぶことにしましょう。
 冒頭に掲げた「私は草であり、牛であり、大地である」という言葉は、下山されて養生されている時に気づかれたこととして語られていることです。出家され、6年に及ぶ苦行で衰弱した身体を、消化がよくて栄養がある、病人食とも言われていた「乳粥」の供養を受けられた折に感得された言葉と伝えられています。
 「乳粥」は牛乳を発酵させてできるもので、「私は草であり、牛であり、大地である」とは、乳粥のできる過程を表現した言葉ともいえます。その乳粥が、ゴータマの体内で消化され、その栄養が血液によって運ばれ、身体全体に精気が戻り、再びブッダガヤで瞑想に入られました。
 その七日七夜の明け方に悟りを開かれ、その言葉は次のようだったと伝えられています。

「我は不死を得たり」 「我は生死を超えたり」

 この言葉こそが、やがて「南無阿弥陀仏」という言葉として結晶されていったのです。愚痴の法然房、愚禿親鸞の名告りとともに、伝えられています。


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