2025年03月11日

本堂に座って 2025年3月


今月も谷口たかひささんの本から、「自分軸」について書かれた文章を紹介します。

<不幸になりたくなかったら、やめるべき2つのこと>
 「世界の幸福度ランキング(2023)」を見ると、トップ10のうち、8か国は実にヨーロッパの国です。
日本は47位。それなりに長い時間をヨーロッパで過ごす中で、幸せについて考えることが度々ありました。
たどり着いた僕なりの答えは「幸せになる理由があるのではなく、不幸になる理由がある」ということ。人間というものは、そもそも幸せになる力が自然に備わっている生きものだと思ったのです。
そして、「不幸になる理由」を突きつめて考えていくと、シンプルに次の2つのことが諸悪の根源だという結論に至りました。
① 人と自分をくらべること 
② 人の目を(過度に)気にすること
(もちろん最低限の生活水準を満たせているか、といった要素も大切だと思いますが、その上で精神的な話として)
 この2つのことによって、自分から不幸をつくり出してしまっている人が、特に日本にはとても多いと思ったのです。
欧米に行かれたことのある方はご存じかと思いますが、みんなビックリするぐらい人の目を気にしていないように見えます。
「私は私」を地で行っています。
実際に、北欧を訪れて現地の人に「幸せの秘訣」を聞くと、真っ先に返ってきた答えは――「人と比べないこと」対照的に、ブータンは昔は「世界一幸せな国」と言われていましたが、SNSを国民が使うようになって比較が始まってから、国民の幸福度がダダ下がりしていると現地で調査中に聞きました。
(もともとブータンは、「今日も美味しいご飯が食べられました。」「今日も家族が健康で幸せに生きられています。」と、自分が今持っているものに目を向けて、それに感謝の気持ちを伝える人たちが多い国)
 もちろん、日本にも素晴しいところがたくさんあります。
しかし、「幸せ」という点においては、海外諸国から見習ったほうが良いと思うところがたくさんあります。
① 人と自分を比べること  ② 人の目を気にすること
これを断捨離しましょう。「それができれば苦労はしない」と言われそうなので、具体的なことを2つお伝えしたいと思います。
 ①  比べることをやめるために、「私は私」を口ぐせにしてみましょう。人は
  自分が思っている以上に、自分の言葉から影響を受けます。
 ② 人の目を気にすることをやめるためには、そもそも人は自分以外の人の
  ことをそれほど気にしていないと理解しましょう。

<「過去」と「他人」は変えられない>
 大谷翔平選手があるインタビューでこう語っていました。
“あんまり人に興味がないというか、基本的に「自分がちゃんとやっているか」だと思っているので。別に人が不真面目にやっていても、真面目にやっていても、どっちでも僕には関係ないので。
”僕はこれにとても共感します。大谷選手が話した後、「自己中心的なんじゃないですかね?」という言葉が浴びせられましたが、僕はそうやって人に干渉したり価値観を押し付けたりしてくる人の方が自己中心的な場合が多いと思っています。
僕も「人に興味がないですよね」とよく言われます。
もちろん自覚していますし、もっと言えば、自分がやりたいことに夢中で、他の人のことを気にしている余裕がない
。誰の邪魔もしたくないし、誰にも邪魔されたくない。「自分の課題」と「他人の課題」をキッパリ分けて考える。他の人のことをとやかく言ってばかりの人を見ると、「自分の人生を生きればいいのに」と思います。
もっと自分に集中しないと、自分が損をすると思います。
 「過去」と「他人」は変えられない。変えられるのは、「今」と「自分」だけなのだから
。そして、そんな過去や他人に執着して過ごした時間を振り返ると、その間のストレスとシワが増えただけで、1ミリも成長していなかったことに気づきます。
 あなたのやっていることを否定したいその人は、「自分にできないことをやっているあなたへの嫉妬」かもしれないから。そして絶対に間違いがないことは、その人があなたの人生に責任をとってくれることはないから。
大丈夫、あなたはあなたの信じる道を突き進んで。
言いたい人には言わせておけばいい。そんな人に、あなたの貴重な時間やエネルギーを使う価値はない。
(『自分に嫌われない生き方』KADOKAWA 刊
第1章 自己肯定感~あなたには「自由」と「権利」がある~より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 11:42Comments(0)本堂に座って

2025年02月04日

本堂に座って 2025年2月


 気候危機をはじめ“自己肯定感”などについて、世界中で講演活動を行っている谷口たかひささんが、自分と向き合うことをテーマとした本を書かれました。その中からいくつかの文章を紹介します。

Q1 世界で最も過酷な仕事は?
 「世界で最も過酷な仕事」と題したアメリカの動画があります。架空の求人を行い、実際に面接している様子を映しています。その求人は簡単ではないけど、とても重要な仕事。役職は「現場監督」。基本的に立ち仕事で、時には屈みっぱなし。勤務時間は基本的に週7日、24時間勤務。休憩時間はなし。休暇もなし。この職務には非常に高い交渉力と、コミュニケーションスキルが必要。さらに必要なのは、医学・財務管理・調理の高い能力。そしてこの役職には給与がない。
 「違法じゃないの?」「悪い冗談だ」「ヒドすぎる」「非人道的だ」
 面接官が説明するその仕事のあまりにも過酷な条件に、求職者たちは、次々にそういった言葉を口にします。しかし面接官によると、この仕事に従事している人が今もいるとのこと。それも何十億人も。
さて、この仕事は何でしょうか?  答えは「お母さん」。
 この答えに、面接を受けていた人たちは驚嘆しながらも納得し、次々にお母さんへの感謝の言葉を口にしながら泣き崩れました。何度見ても、自分のお母さんの背中が頭に浮かんでは、涙があふれてきます。
 この動画は、世界中で瞬く間に反響を呼びました。家事を分担することがあたりまえになっていると言われている欧米でもそれだけの反響を呼んだということは、日本のお母さんたちの仕事量は、さらに想像を絶するものかもしれない。
 「職業に貴賎はない」ということは大前提の上で、それでも僕は、子どもを産んで育てることより尊い仕事はないと思っています。お母さんたちの自由と権利を守りたい。本気でそう思います。

<ノミはなぜ跳べなくなったのか>
 「ノミの話」というものがあります。ノミは地球上で最も高く跳べる生き物(体長比)。だけど、コップに閉じ込めてフタを閉めると、フタで頭をぶつけてしまう。問題は、その後、フタを取ってコップから出ても、そのコップに入る前とは違い、フタを閉められていた高さまでしか跳ばなくなる。
 ①あーしなさい!こーしなさい!(コップ) ②あれはダメ!これはダメ!(フタ)
この2つで縛り続けられた結果、起きる「義務脳」がまさに跳べなくなってしまった状態。自分の感情にも可能性にも見えないフタをして生きるようになります。
 あなたが「できるわけがない」「やってはいけない」と決めつけてしまう理由は、そういった呪いの言葉や嘲笑によって、フタをされてきたからかもしれない。「義務」だけを教わり続け、「自由」と「権利」について教わってこなかったからかもしれない。よいニュースとしては、この「ノミの話」には続きがあります。
 フタを閉められた高さまでしか跳ばなくなったノミでも、のびのびと跳んでいるノミと一緒にいるようになれば、「あれでいいんだ」と、また自分自身も再び美跳ぶようになる。
 もしもあなたが、自分は跳べないと感じていて、それでも跳びたいと思っているなら、のびのびと跳んでいる人を見つけて、その人と時間を過ごすようにしましょう。そこで大切なのは、嫉妬ではなく、尊敬の気持ちを持って。嫉妬は相手を自分の低さに下げ、尊敬は自分を相手の高さに上げようとすることですから。反対に呪いの言葉をかけてきたり、あなたの夢を笑ったり、その人都合の義務を押し付けてくる人からは、距離を置くようにしましょう。
 自分を信じて挑戦し続けている人と時間を過ごすようにしましょう。そして、あなただけでもあなたのことを信じてあげましょう。あなたができない唯一の理由は、あなたができないと決めつけていることなのだから。
 アメリカのメジャーリーグでプレイする日本人、大谷翔平選手。投手としても打者としても大活躍するという、マンガでしかありえなかったようなことを体現している人。その大谷翔平選手の高校時代からの「座右の銘」は-
 “先入観は可能を不可能にする”
(『自分に嫌われない生き方』KADOKAWA 刊
第1章自己肯定感~あなたには「自由」と「権利」がある~より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 10:35Comments(0)本堂に座って

2025年01月06日

本堂に座って 2025年1月


 今月は先月に引き続き、子どもの養育環境の改善に取り組まれている武田信子さんのインタビューを紹介します。

 ――幼児期につくられる土台が大切だということですね。
 赤ちゃんは一人では生きていけない状態で生まれてきますよね。そして、いろいろな欲求が生まれた時に、その欲求に応えてくれる大人が必要です。自分の欲求に的確に応えてくれる存在が近くにいること。これが相手を信頼することにつながります。自分を助けてくれる技術や手立て、知識を持っている人にそばにいてほしいわけです。その自分の要求や生きていく為に必要なものをきちんと与えてくれる人に対して、基本的信頼感が生まれます。
 何かびっくりすることが起こった時に、自分をぎゅっとしてくれるような、この人といれば安全と思えるような関係性ができていれば、次に何かあった時にその人に頼ろうとしますよね。だいたい生後7、8ヶ月ぐらいになってくると頼る人が決まってきます。そうすると、その人だけにくっついて人見知りするようになります。
 ただ、最近は親が子どもの育て方、赤ちゃんの扱い方をあまりに知らないので、愛情はあっても、赤ちゃんをうまく扱えないのです。例えば大学生に、家の前に生まれたばかりの赤ちゃんが捨てられていたらどうするかと聞くと、コンビニで牛乳を買ってきて飲ますと言うんです。そんなことをしたら赤ちゃんは具合が悪くなってしまいます。赤ちゃんに対して愛情がないわけではなく、人間の赤ちゃんに牛の乳をそのまま飲ませてはいけないということを知らないだけなのです。このように、子どもが生まれた時に、何も知らずに子どもを育てようとすると赤ちゃんの立場からは虐待になり得ます。子育てを知らない人が多いのは、少子化で妹や弟、近所の子どもの世話をしたことがない人が増えてしまっているからではないでしょうか。教育虐待も親はよかれと思ってやっているわけで、子育て全体が同じような状態にあるわけです。昔は、小さい頃から身近な人が子育てをしているのを見ていたり、あるいは野菜や植物を育てたりしていましたよね。その中で、「育つ」というのがどういうことか自然に学んでいたのだと思います。
 ――家庭における学びや教育の観点から文化や伝統の継承をどのように考えておられますか。
 赤ちゃんは生まれてすぐの頃から、自分が生きていくために、社会はどのように動いてくれるかを模索しています。どんな声で呼べば親が来てくれるかとか、手足をバタバタさせて重力を感じるとか、さまざまな試行錯誤をし、それが遊びや学びと言われるものにつながっていきます。赤ちゃんの頃は、生きることと、遊ぶことと、学ぶことと、生活することがほぼイコールなのです。そういった区別のつかないものの中から次第に言葉を学習したり、社会のルールを学習したりしていきます。そして、この基礎の積み上げが、学校という学びの場にもつながっていくのです。
 例えば、「あめ」って書いてあった時に、食べる飴だとわかる子は飴を食べたことのある子です。しかも「あめ」には雨と飴という2つの意味があるということも、普段の生活の中で聞いていたからわかることです。それは学びでもあり、遊びでもあり、そういうものなんです。
 だから、文化などの継承も、日々の生活の中でまわりの大人の役割や言葉遣いといったものが、いつの間にか、子どもに取り入れられているものだと思うのです。
 ――日本の教育について、社会を形成している私たち一人ひとりは、どのように考えていけばいいのでしょうか。
 生涯学習という言葉がありますが、生まれてから死ぬまで脳の発達が止まることはないわけですから、大人だって学びます。私は子どもたちに何か特別に教える必要はそんなにないと思っています。大人たちが楽しく学んで生きている姿を見せていれば、自然と子どもたちもそれをやりたくなるのではないでしょうか。
 何か教えるというよりも、日々の生活の中で自ずと感じることこそが大切だと思っています。教育って、人の姿から学ぶことだと思うので、大人たちが楽しく学んでいる姿を見せ、失敗してもそれをお互いに許し合い、支え合うような環境であることが大事なのではないかと思います。
(『同朋新聞』2024年11月号 東本願寺出版発行
人間といういのちの相(すがた)「社会の中で「子ども」は育つ」より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 13:14Comments(0)本堂に座って

2024年12月26日

本堂に座って 2024年12月


 本山・東本願寺から発行されている『同朋新聞』2024年11月号に、子どもの養育環境の改善に取り組まれている武田信子さんのインタビューが掲載されました。武田さんは、ご自身の経験から「子どもが育ちの中でしんどい思いをするのは、親だけが悪いのではなく、その背景に社会の問題がある、その社会のあり方そのものを問うていかなければならない。」との思いをお持ちです。武田さんが話された親子の関係について(今月と来月の2回に分けて)紹介します。

 ――武田さんは「エデュケーショナル・マルトリートメント」という問題に取り組まれていますが、これはどういうことでしょうか。
 エデュケーショナル・マルトリートメントとは、親を含む大人が子どもに対して教育やしつけのつもりで行う、子どもの心身や脳を傷つける行為のことで、教育虐待なども含まれます。教育虐待とは、教育に対して子どもに過度に期待し、子どもの人権を無視して勉強や習い事などを無理強いすることです。家庭内で起こるものですが、教育虐待を親だけのせいにして、親を責めたところで、根本的な解決にはつながりません。「虐待」と呼ばれるまでに子どもに大きな期待をしてしまう背景にあるものは何か。教育虐待が私たちの社会構造の中で起こっているのであれば、その社会に生きている私たち一人ひとりが責任を持って、社会を変えていかなければいけないと考えています。
 最近は子どもに悪影響を及ぼす親のことを「毒親」とも言われますが、そういった悪影響を及ぼす行為や価値観は、この社会の中で生まれているのです。親はそれぞれの価値観の中で精いっぱい子育てをしているつもりなのですが、考え方もやり方も間違えていて、子どもに加害してしまう。なぜ親も子もこんなに苦しまなければいけない社会なのか。だから私は、エデュケーショナル・マルトリートメントといった言葉を使いながら、「こんなひどい親がいますよ」ではなくて、こんな親が隣の家にいるのに何もできていない自分はいったいどうしたらよいだろうか」を問える社会にしませんか、ということをお伝えしています。

 ――「子どもたちが、昔に比べておとなしくなった」といった話を聞きますが、それは教育の効果によるものなのでしょうか。それとも、また別の原因があるのでしょうか。
 赤ちゃんとその親が何人か集まっているひろばなどでは、赤ちゃんが興味を持ってハイハイで、他の子に近づこうとすると、ほとんどの親がぶつかることを避けて、後ろから止めます。あるいは、おもちゃが1個しかない場合、別のおもちゃを与えて、取り合いにならないようにします。本当は、そこで取り合いをすることによって、子どもたちは人との距離の取り方などを覚えていくのです。おもちゃをそれぞれに与え、人とトラブルにならないようにすると、けんかは起きませんが、人間関係を学ぶことができません。実は、物を取り合うことも大切な経験で、必要なことです。子どもたちは、赤ちゃんの時点から、やりたいこと、興味を持ったことを止められています。動物には、みんな主体性がありますよね。だから本来、主体性のない赤ちゃんなんていないはずですし、もし主体性のない子どもたいるとしたら、それは、生まれてからこれまでに何か主体性を持つことを止められた経験があるということです。
 今は赤ちゃんの話をしていますが、赤ちゃんが大人になるわけですから、土台の部分は変わりません。学校でも、生徒が聞いたことにうまく先生が答えてくれなければ、だんだん子どもも先生に聞きに行かなくなります。他にも、授業中などは間違えて当然なのに、間違えると、みんなに笑われる。それを繰り返していたら、みんな発言しなくなりますよね。子どもたちに反発を許さず、大人が決めたとおりに従うように育てることを、教育の成果と言うかどうか。子どもに覇気がないなどと言われますが、結局、それは欲求や怒りなどの感情をすべて抑えられて、子どもが諦めているだけではないでしょうか。
(『同朋新聞』2024年11月号 東本願寺出版発行
人間といういのちの相(すがた)「社会の中で「子ども」は育つ」より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 17:17Comments(0)本堂に座って

2024年11月08日

本堂に座って 2024年11月


 今月も先月に引き続き平川宗信先生の講演録を紹介します。今回は、非暴力・不服従抵抗について、まとめのお話です。

 

<非暴力・不服従抵抗の有効性>

 非暴力・不服従抵抗で勝てるかと言えば勝てる保証は必ずしもありません。すぐに効果が出てくるかと言えば必ずしもそうではありません。長い時間がかかることもあり得ます。犠牲者が出ないかと言えば、そうとは限りません。そのことは覚悟しておかなければなりません。とはいえ軍事力で抵抗すれば勝てるのか、戦争はすぐに終わるのか、犠牲者を出さずに済むのかと言えば、そんなことはないわけです。平和学の研究によれば、軍事抵抗よりも非暴力・不服従抵抗の方が成功率は高いとされています。紛争が早く終わる可能性も犠牲が少なくて済む可能性も高いと言われています。軍事力の方が防衛力として優位にあるわけではないということです。

 

<非暴力・不服従抵抗の相手>

 そして「平等」も、仏教の基本だと思います。非暴力・不服従抵抗は、平等というところに立つ防御方法です。万一、日本に外国軍の兵士が侵入してきたとしても、この人たちを「敵」とは見ません。私たちと同じ人間であると、平等に見ます。

 非戦・非武装で平和外交をしている国に武力侵攻をするのは、明らかに国際法違反の犯罪、侵略罪に当たります。侵入してくる国の政府は、国際犯罪を行っている不法・不当な政府ということになります。その政府の命令によって送られてきた兵隊は、いわば犯罪的な政府にだまされて、犯罪的な行為に加担させられている人たちということになります。非暴力・不服従抵抗は、その人たちに「あなた方はだまされているのですよ、あなた方は犯罪的なことに加担させられているのですよ」と言って、そのことを理解し、自覚してもらうのです。理解し、自覚してもらうことによって、その人たちを不法・不当な政府から解放し、占領の道具として使われることから離脱してもらうのです。そうなると、占領はもう不可能になります。

 

<非暴力・不服従抵抗で守るもの>

 非暴力・不服従抵抗では領土に外国軍が入ってくることを止めることはできません。その意味では領土を守り国を守ることは、非暴力・不服従抵抗ではできません。軍事的防衛は、国を守るのです。その時国民はどのような立場に置かれるかというと、国を守るためにいのちを捨てさせられるのです。これが軍事力による防衛です。非暴力・不服従抵抗は、国を守るのではありません。自分たちで自分たちのいのちと暮らしを守るのです。私はこれが非暴力・不服従抵抗の意味だと思っています。

 念仏者が阿弥陀さまからいただくお仕事は、国を守ることではないと思います。阿弥陀さまは、いのちを捨てて国家を守れとはおっしゃっておられません。阿弥陀さまは、全てのいのちが共に生きる世界をつくりなさい、そのような世界を守りなさい、そのために全ての人々のいのちと暮らしを守っていきなさい、そのことに身を粉にし、骨を砕いていきなさいと、おっしゃっていると思うのです。私たちは、その願いに立って、全ての人々が共に生きていける世界、全ての人々のいのちと暮らしが守られる世界をつくるために、日々の暮らしの中で、それに向けた行いを積み重ねていく。そのことが重要だと思います。

 非暴力・不服従抵抗は、自分の国の政府が不法・不当なことをしている場合にも、それを止めるために行われるものです。この国の政府が、この国を地獄・餓鬼・畜生の国にしようとしたり、人々のいのちと暮らしを侵害したりするような場合には、この国の政府に対しても非暴力・不服従で抵抗しなければならないと思っています。

 

<おわりに>

 今、多くの人が危機感をあおられて、軍事力に頼ろうとしているように思えてなりません。しかし、軍事力は鬼神だと思います。頼もしく見えるけれども、ついていくととんでもないことになっていくのが、鬼神である軍事力だと思うのです。

 私たちはどこまでも本願を信じ、本願を恃み、鬼神は信じない、軍事力には頼らない。これが念仏者の生き方だと思います。その意味で今、私たちは「本願を恃むのか、それとも鬼神である軍事力を頼むのか」と、厳しく問われていると思います。

(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行

念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)


  

Posted by 守綱寺 at 09:39Comments(0)本堂に座って

2024年10月23日

本堂に座って 2024年10月


 今月も先月に引き続き平川宗信先生の講演録を紹介します。今回は、軍事力を頼りにするのか、非戦・非武装、非暴力・不服従抵抗についてのお話です。

<鬼神を頼むのか、本願を恃むのか>
 私は軍事力は『教行信証』化身土巻にある「鬼神」だと思います。「鬼神」は非常に強い力を持っていて、頼りにすれば自分たちを守ってくれるように見える。しかし不正直で人をたぶらかし、一つ間違えて怒らせると大変な災いを振り掛けてきて、最後はいのちを奪われるような存在…ではないかと思うのです。親鸞聖人は、「鬼神を信じるな、鬼神を頼むな」ということを『教行信証』化身土巻で繰り返しおっしゃっています。私たちは鬼神である軍事力を頼りにしてはいけないと思うわけです。
 本願は日本人だけではなく、世界中の人々に届いています。本願には世界中の人々のいのちに呼びかけて、平和を愛する人、平和を願う人に変える力があると、私は信じています。私たち念仏者はその本願の力、本願力を信じて生きていく存在だと思うのです。本願力なんて当てにならない、やはり軍事力だと言うのであれば、その人は本願を信じていないのであって念仏者ではないと思います。軍事力ではなく本願を信じて生きていくのが念仏者である。そういうことではないかと思うのです。

<非戦・非武装に立つ平和構築>
 私は、軍事力を頼りにせず、ただ本願のみを恃み、「非戦・非武装」に立ち続けるのが念仏者の平和運動だと思っています。日常のあらゆる場面で、戦争と軍事力のない、全てのいのちが共に生きることができるような世界を願い求めて、日々の行いを積み重ねて生きていくこと。これが念仏者に願われていることだと思うのです。まさにそれが、阿弥陀さまから私たちがいただいているお仕事だと思うのです。
 「非戦・非武装」の日本国憲法の下にある日本政府も、いたずらにアメリカに追随するのではなく、自衛隊を徐々に縮小して災害救助隊に転換するなどし、在日米軍基地も徐々に縮小していって、日本の非軍事化を進めていく。そして、東アジアに国際平和を構築するための国際的なシステムをつくり上げていく。そのような外交努力をしていくべきだと思うのです。そして私たちは主権者として、そのような政府を実現していかなければならないと思います。そもそも日本は、資源もなければ食料もないような国です。こんな国を占領しても、何の得にもなりません。日本への侵攻・領有を「失った領土の回復」として正当化できる国もありません。私は、日本が非戦・非武装で平和外交を積極的に進めていけば、日本が侵攻される危険性はまずないと思うのです。

<非暴力・不服従抵抗による市民的防衛>
 しかし「非戦・非武装」と言いますと、「万一とんでもない指導者がいて、日本を攻撃してきたらいったいどうするのだ。手を上げて降参するのか。あなたたちの頭の中はお気楽なお花畑だ」と言う人もあります。私はその心配はないと思っていますけれども、その疑念、揶揄に対する回答は一応持っていた方が良いと思います。私が持っている回答は「非暴力・不服従抵抗による防衛」です。平和学では「市民的防衛」と言われます。私たちはそれを追求していくべきではないかと考えています。仏教の基本にあるのは「非暴力」です。私たちが攻撃された場合でも非暴力で対応すべきだと思います。暴力は使わない。しかし相手の言うことは一切聞かない。万一外国の軍隊が入ってきてあれこれ指示しても言うことを聞かない。自分たちの考えに従って今まで通りの自分たちの生活を続けていく。それが「不服従」です。
 非暴力というと無抵抗というように捉えられることが多いですが、非暴力は決して無抵抗ではありません。「不服従抵抗」という抵抗の仕方があります。非暴力・不服従抵抗は、国内で政府が不法・不当なことをしてきた時に、それに抵抗するために行われることが多いのですが、外国からの侵攻・占領・支配に対する抵抗として行われた例は少なくありません。最近は非暴力・不服従抵抗のやり方もいろいろと研究をされてきていて、研究によれば、抵抗の仕方として198通りのやり方があるとされています。ボイコット、ストライキ、座り込み、集団移住というようなものがその中に含まれています。
(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行
念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 11:32Comments(0)本堂に座って

2024年10月23日

本堂に座って 2024年9月


 今月も先月に引き続き平川宗信先生の講演録を紹介します。今回は、日本の現状から軍拡、有事の際の対応についてのお話です。

<今の日本は「新しい戦前」>
 このような本願の願い、憲法の理念・条規から見ていきますと、今の日本の現状は、非常に危うい、危機的な状況にあるように思えます。私は、現状に極めて強い危機感を持っています。最近、「新しい戦前」という言葉があちこちで聞かれるようになってきています。今の日本は、戦争準備が進んで、足早に戦争に向かっている。私は、そんな思いがしてなりません。
 本願も憲法九条も非戦・非武装を願っていますが、それとは真逆の動きが、現在、急速に進められていると言っていいと思います。その意味で、日本はアメリカと一体になって軍事大国、戦争をする国へと向かっていると思えてならないのです。
 しかし世論調査を見ますと、かなりの国民がこれを容認しているように見えます。それはなぜかと考えますと、おそらく一つには「台湾有事は日本有事」と言われて、そこに危機感を感じているということがあると思います。そして、もう一つには、ウクライナ戦争を見て、強力な軍事力を持たないと外国に侵攻される、軍備は強化しなければならないという意識が、国民の間にかなり広まってきていることがあるのではないかと思います。

<安全保障のジレンマ>
 平和学では、「安全保障のジレンマ」ということが言われます。どういうことかと言いますと、ある国が他国 ―「仮想敵国」ですね ― を念頭に軍備を増強したとします。そうすると、相手の国もそれを見て、「向こうは軍備を増強した。このままでは自分たちが負けてしまう」と、軍備を増強します。そうすると、こちらの国も、「向こうはまた軍備を増強している、こちらも」と、さらに軍備を増強し、軍拡競争になっていきます。それでは軍拡競争が無限にできるかと言えば、そんなことはないわけです。兵士にできる人員にも財政にも限界がありますから、無限に軍備を増強していけば、国は破綻してしまいます。そして、両方の国が軍備を拡大していけば、双方の軍隊が交錯して接触する機会が増えて、偶発的な軍事衝突が起きて戦争になる可能性が大きくなります。軍事力で平和を維持しようとすると、軍拡競争になって国が破綻するか、さもなければ軍事衝突によって戦争に発展するか。いわば、二つの落とし穴に落ちていくことになります。これが「安全保障のジレンマ」です。
 軍事力によって国を守ろう、平和を維持しようとしても、うまくはいきません。これが最近の平和学の知見です。その意味で、日本が軍備増強、軍拡によって平和を維持しようと考えるのは、危険だと思います。特に、中国と軍拡競争をやるのは無謀だと思っています。私は、日本という国は、もともと戦争ができるような国ではないと思っています。兵器も資源も燃料も食料も、すべて輸入に頼っている国です。自給できないわけです。もし戦争になって海上輸送が途絶えてしまえば、日本は干上がってしまいます。まず真っ先に食料がなくなってしまいます。「腹が減っては戦はできない」のでありまして、日本は戦争ができない国なのです。
 それに、そもそも戦時に軍隊は国民・住民を守りません。これは沖縄戦で沖縄の人たちが嫌というほど思い知らされたことです。軍隊がいれば攻撃対象になるだけであって、軍隊は住民を守ってはくれないというのが、沖縄戦の教訓です。法律上も、自衛隊は「住民を守る、国民を守る」とはされていません。自衛隊の任務を定めた自衛隊法第三条には、「我が国を防衛すること」が「主たる任務」として書かれていて、国民・住民を守ることは任務として書かれていません。国を守ることが、自衛隊の任務なのです。
 では有事の際、住民、国民を守るのはいったい誰なのか。これは有事法制によって、自治体の責務とされています。有事の際に住民を守る責任を負っているのは、自治体です。しかし有事の際、ミサイルが飛んできたり砲弾が飛んできたりしている中で、自治体が住民を守れるか、保護できるかといえば、できるはずがないと思います。有事になったら、住民の逃げ場はない。私はそのように思っています。
(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行
念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 11:27Comments(0)本堂に座って

2024年10月23日

本堂に座って 2024年8月


 本山・東本願寺から毎月発行されている『真宗』誌2024年6月号に、4月2日に勤められた全戦没者追弔法会において平川宗信先生が話された講演録が掲載されました。平川先生は以前から「憲法と真宗」についてお話をされていましたが、特に「日本国憲法と阿弥陀仏の本願」の関わりについて話してくださっています。お話の概要を、今月から数回にわたって紹介します。

 

<無三悪趣の願>

 平和運動との関係で、本願は何を願っているのか。四十八願の第一願「無三悪趣の願」は、「地獄・餓鬼・畜生のない世界をつくる」という願です。これが阿弥陀さまの第一願、最初に置かれている願です。現代社会において「地獄・餓鬼・畜生」とはいったい何だろうかと考えますと、例えば、暴力・戦争などは「地獄」である。飢餓・欠乏・貧困、また貪欲などは「餓鬼」である。そして抑圧・隷従・差別などは「畜生」である。このように読み解くことができると思います。そして、この願いが成就した世界が『仏説無量寿経』に説かれた「国豊民安 兵戈無用」の世界です。国が豊かで民が安穏であり、兵隊も武器もない世界。そのように説かれています。その意味で本願は、暴力や戦争や軍事力がなく、飢餓や貧困や搾取もなく、そして抑圧や隷従や差別もない世界。そういう世界を願っていると言っていいだろうと思います。

 最近「平和学」という学問が形成されつつありますが、そこでは、戦争や暴力のない状態を「消極的平和」と言います。そして、貧困や抑圧や差別がない状態を「積極的平和」と言います。さらに、戦争や暴力や抑圧や差別を正当化したり、助長したりする宗教・思想・芸術などがない状態を「文化的平和」と言います。単に暴力や戦争がないというのは、消極的な平和にすぎないのだと。それに加えて、貧困や抑圧や差別がない積極的平和、そして戦争や暴力や抑圧や差別を正当化・助長するような文化がない文化的平和があって、初めて本当の意味での平和が実現するのだと。最近の平和学では、そのように言われています。真宗が願っている平和、日本国憲法が願っている平和も、まさにそういうものではないかと思います。それを追求するのが、いわば真宗の平和主義であり、日本国憲法の広い意味での平和主義だと言うことができるのではないかと思うのです。ですから、念仏者の平和運動は、その願いを持って、そのような世界、国を実現していこうという運動ではないかと思います。いわば、日々の生活、日々の行動の中で、そのような願いを実現することにつながる行いを積み重ねていく。たとえ小さなことでもいい、ささやかなことであってもいいけれども、その願いに適うような行いを日々積み重ねていく。私は、それが大事なことではないかと思います。

 

<日本国憲法は「本願国家宣言」>

 このような所に立って見ますと、現在の日本国憲法は、高く評価できる憲法ではないかと思います。日本国憲法は前文で、国際協調によって平和を維持していくと宣言し、地上から専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖・欠乏をなくすと誓約しています。その上で、第九条で戦争を放棄し、戦力の不保持と交戦権の否認を定めています。これは、戦争や軍事力のない世界、地獄・餓鬼・畜生のない世界を願っている本願と、まさに重なっています。それで私は「日本国憲法は本願国家宣言である」と言ってきているのです。

 問題は、私たちが本願の願いである「地獄・餓鬼・畜生のない、豊かで安穏な非戦・非武装の世界」、憲法が求める「専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖・欠乏のない非戦・非武装の世界」を実現するために努力してきたのかということだと思います。私たちは念仏者として、真摯に平和活動・平和運動をしてきたのか。そのことが、今まさに私たちに問われているのではないかと思います。私たちの中にも「地獄・餓鬼・畜生」があります。暴力的なもの、貪欲なもの、差別的なものをいっぱい抱え込んでいます。けれども、それに流されるのではなく、それを脇に置いて本願に聞いて、本願に生きる生き方をしていく。そのための小さな行いを日々重ねていく。それが念仏者であろうと思います。それが、今私たちに願われていることではないかと思うのです。

(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行

念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)


  

Posted by 守綱寺 at 11:23Comments(0)本堂に座って

2024年10月23日

今日も快晴!? 2024年8月


 お寺で絵本の読み聞かせ会や育児サークルを開催しているので、子育て真っ最中のお母さん達とお喋りする機会があります。
同じ子育て中の母親とはいえ、当然ながら年齢はかなり違いますが、お寺によく足を運んでくれるお母さん達は、「乳幼児期のこの時期に、子どもとしっかり向き合うのが大切」と考えている方が多いので、大抵の方とは同じ感覚で子育ての話が出来るのがありがたいです。
 色々お喋りする中で、よく話題になるのは「子ども園選び」についてです。
今は選択肢も増え、近くの園にこだわらず、魅力的な活動をしている園やお稽古事をさせてくれる園、お庭が魅力的な園やバス送迎のある園など、色々情報を吟味し、「これは」と思える園を選ぶ人が増えています。
選択肢が多いのは良いことかも知れませんが、選択肢が多すぎて逆に悩んでしまう様子も見受けられます。皆さんとても真面目で、「子どもにとって一番良い園はどこだろうか?」と、真剣に悩まれます。
 私は、「お子さん達をどこの園に入れたのか。またそれは何故か」と質問されると、返事に窮してしまいます。
なぜなら、実は園について「あまり深く考えていなかった。さほど重要だとは思っていなかった」というのが本音だからです。
送迎等で自分の時間を取られたくなかったので、基準は「子どもと手を繋いで歩いて行けるところ」の一点のみ。迷うことも悩むこともありませんでした。
「園よりも、うちでやっている読み聞かせ会や育児サークルの方がずっと楽しいから、子どもを園に行かせるのが惜しい。なんなら、園なんて行かなくても良いや。義務教育じゃ無いんだし。」というくらいに考えていたのです。
 当時、児童精神科医の佐々木正美先生の著書『子どもへのまなざし』を愛読していましたが、佐々木先生は「人格を建築物に例える」として、「良い建築物になるか、不安定な建築物になるかは土台で決まる」、「人格形成は生きている限り続きますが、その土台になるのは3歳くらい、幼稚園に通うよりもっと以前の段階になりますね。つまり、土台を作る上で大切なのは、家庭ということになります。幼稚園や保育園、小学校が教えてくれることは、家庭ほどの「個別性」はありません」、「保育園や幼稚園は、家庭で作った土台の上に、ゆっくり柱を立て、床を張ってくれるところと考えて下さい」と書かれていました。それなので「子どものためにどこが一番良い園なのか」と、悩みすぎることは無いと思っています。お母さんが「自分がいつも家庭で笑顔で子どもと接するためと、自分がこうしたいと思う家庭生活を無理なく続ける上で、一番良い園はどこか?」と、お母さんファーストで決めて良いのではと思います。
 佐々木先生は「床や壁など、あとから手を加えた物はいくらでもやり直しがききます。いくらでもやり直しがきく部分は大学で、高校、中学、小学校とさかのぼっていくと、やり直しはしにくくなります」、「自分の子どもだけがうまく育つ、などということはありません。周囲の仲間と共に育ち合うものだからです」と言われます。
やり直しのしにくい乳幼児期の子育てを、「大切だから頑張らないと」と、お母さんが一人で抱え込んでしまわなくても良いように、お寺の絵本の会に足を運んで貰えたらと思います。子育てが一段落したお節介おばちゃんが、現役ママたちと共に支え合い、育ち合いたいとお待ちしています。

  

Posted by 守綱寺 at 11:22Comments(0)本堂に座って

2024年07月08日

本堂に座って 2024年7月


このところ、(仏教書ではなく)一般の書籍で親鸞聖人のお言葉が取り上げられることが増えている感があります
(たまたまそういう本を手に取っているだけかもしれませんが…)。
そんな中、作家の高橋源一郎さんが『歎異抄』を“いまのことばに少しだけ変えて”届けてくださっています。
その中からよく聞かれる「悪人正機」について書かれた第3章を紹介します。

<その三 悪人だからこそゴクラクに行けるんだ>
 あるとき、「あの方」はぼくにこういった。
「善人でさえ、死んでからゴクラクジョウドに行くことができるのだから、悪人なら当然行けるはずだ。おれはそう思うんだ。わかるかい、ユイエン。ふつう、そうは思わないだろう。『あんなひどいことをした悪人でさえ、救われてジョウドに行けるのなら、善人はもう無条件でゴクラクジョウド行き確定だよな』って思う。それがふつうの考え方だ。
 確かに、ぼんやり聞いていると『ふつうの考え』の、その論理は正しそうに思える。ユイエン、でもそうじゃないんだ。それは、おれたちが信じている『本願他力(ホンガンタリキ)』、つまり『すべてをアミダにおまかせする』という考えから遠く離れた考えなんだ。
 善人というものは、もっと正確にいうなら、自分を善人だと思いこんでいる人間は、なにかにすがらなきゃ生きていけないというような、ぎりぎりに追い詰められた気持ちを持ってないんだ。なにか善いことをしてその見返りでゴクラクオウジョウできるんじゃないかって思ってるんだ。こころの底ではね。それじゃダメなんだ。そういう計算ずくの人間たちを救うことは、アミダにだってできないのさ。
 でも、そんな善人だって、ちっぽけな自分にできることなんか実はなにもないと気づいたなら、なんの力もないのだからアミダにおすがりするしかないと思えるようになったのなら、そのときには、ほんとうのジョウドというところに行くことができるんだと思う。
 いいかい、ユイエン。おれたち人間はどうあがいても、欲望からも苦しみからも逃れることはできない。絶対に、だ。どんなにすごい修行をしても、生きることの苦しみ、死なねばならないことへの恐れを忘れ去ることはできない。おれたちは、人間である限り死ぬまで苦しみつづけるしかないんだよ。アミダはそんなおれたちを憐れんでくださった。救ってくださろうと、誓いをたてられたんだ。
 ユイエン、悪人ってなんだ? おまえにはわかるか? 生きてゆくためには、どうしても悪を選んでしまう人間のことだ。どうして人は、どんな悪とも無縁で生きてゆけるだろう。そもそもほかの生きものの命を奪わなければ、生きてはいけないというのに。
 だから、ユイエン。おれたち人間はみんな生まれついての悪人なんだ。そんな、悪人として生きるしかないおれたちを、アミダは救ってくださろうというんだよ。
 だとするなら、自分には、救われるための資格なんかなにもないと最初からすべてをあきらめ、アミダにおすがりするしかないと考えている悪人こそ、いちばんジョウドに近い人間ではないだろうか。
 自分の中にある悪に気づかない善人でさえ、ゴクラクジョウドにオウジョウできるとしたら、自分の悪を見つめて生きるしかない悪人なら、当然オウジョウできる、というのは、そういう意味なんだよ。」
(『一億三千万人のための『歎異抄』』高橋源一郎 著 朝日新書 より引用しました)

高橋さんは「これからぼくは、みなさんと「シンランのことば」について考えてゆくつもりだ。
そのためには、「シンランのことば」を直接、みなさんに届けたいと思う。
けれども、700年前の読者と、いまの読者とでは条件がちがう。
ほんとうはわかりあえるはずなのに、時間が読者と作者を引き裂いてしまった。
だからぼくがちょっとだけお手伝いをします。
「シンラン」がいま生きていたとしたら、きっとこういうだろうな、そんなことばに少しだけ変えて、みなさんに届けるつもりです。」と冒頭に書かれています。
本来は原文を読み深めたいところですが、『歎異抄』に触れていただくきっかけの一冊に、とてもわかりやすくて良い本です。

  

Posted by 守綱寺 at 13:43Comments(0)本堂に座って