2020年02月09日

清風 2020年2月


憎むべき罪人であっても極悪ではない。
極善という人が居りますか。
おそらく人間としていないだろうと思います。
『遺愛集』島 秋人 著(昭和56年第4刷)東京美術刊


たまわりし 処刑日までの いのちなり こころ素直に 生きねばならぬ
白き花 つけねばならぬ 被害者の 児に詫び足りず 悔いを深めし
『遺愛集』より

この歌集の作者・島秋人さんは、昭和34年25歳の時、空腹に耐えかねて民家に押し入り、そこの主婦(1人の子持ちであった)に見つかり、殺してしまったことで死刑判決を受け、昭和42年11月に処刑された。
島さんは昭和9年6月28日生まれ。幼少時を満州で育つ。戦後父母と共に新潟県柏崎市に引き上げたが、母は疲労から結核になり間もなく亡くなった。
本人も病弱で結核やカリエスになり、7年間もギブスをはめて育ったが、小・中では成績は一番下だった。
周りから疎んじられるとともに性格がすさみ、転落の人生が始まった。
少年院にも入れられた。そして上に記した犯罪によって、死刑の判決を受けた。
そんな状況の中で、島さんは中学生の時に一度だけ自分の描いた絵について先生から褒められたことを思い出し、その先生に今の自分は刑務所にいること・先生に絵を褒められたことを書き送った。
すると先生の奥さんから手紙が寄せられ、その中に奥さんの短歌が添えられていた。
それから短歌に関心を持ち、奥さんの手ほどきを受けて毎日新聞の短歌欄(選者:窪田空穂 水甕社主宰)にも取り上げられ、処刑後『遺愛集』として、その中から選んで歌集が出版された。

さて、その歌集の中に島さんの手紙が紹介されており、そのほんの一部、知人の前坂和子さんへのもの(①)、毎日新聞短歌欄の窪田空穂選者への手紙(②)を紹介します。

①人間である以上、僕は生きたいという事は第一です。
「極悪非道」って善人が作った言葉だと思います。
実際にこれに当てはまる人はいないのではないかと僕は思うのです。
どんな罪を犯した者でも真心(まごころ)のいたわりには哭くものです。
それがどんな小さなものであっても、うれしいものです。
そして自分の罪を深く悔い、つぐないの心を作って、あたえられた刑に服せる様に心を作ってゆくのです。
善人と思っている人は悪人と見る人があるけど、悪人と思っている者に悪人とみる心はないと僕は思います。
あわれなやつと思う位でしょう。
それぞれに理由があるからです。
にくむべき罪人であっても極悪ではない。
極善という人が居りますか?おそらく人間としてはないだろうと思います。(略)
僕は自分に云い聞かせています。
「気の弱い人間」でしかない者だった、と。
人生って不思議なものです。
わからないなあ!と思う。
でも、とても生きることが尊いって事だけはわかります。
僕は犯した罪に対しては「死刑だから仕方ない受ける」と言うのではなく「死刑を賜った」と思って刑に服したいと思っています。
罪は罪。
生きたい思いとは又別な事だと思わなければならない。
やせがまんではない。
僕の本心であるようだ。

②知能指数のひくい、精神病院に入院もし、のうまく炎もやって、学校を出てより死刑囚となるまでは僕の内側の「もの」を知らなかったのを、短歌と多くの人の心とによって知り、人生はどんな生き方であっても幸せがあるのだと思い、被害者のみたまにも心よりお詫びをし、つぐないを受けるこころを得、現在では人間としての、こころのしあわせを深く知り得たことをよろこぶのです。
(略)まさか、とてもえらい先生にお手紙を差し上げる事になるとは思っても居なかった事であり、申しわけないみたいです。
ありがたいと思っています。
人生の本当のよろこびを得た人間としてお礼であります。
不一。
窪田空穂先生 島秋人

今日の今 在るを喜び 冬日ざし 明るく浴みて 窓に佇ちたり
笑む今の 素直になりし このいのち 在るとは識らず 生かされて知る
『遺愛集』より

ここからは私の感想です。
この『遺愛集』を読んで、仏教のよく知られた言葉である「一切衆生悉有仏性」の道元禅師の訓み「一切衆生の悉くの有(存在)は仏性である」を思うたことでした。
そして『歎異抄』の文です。
「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。(略)さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」
(歎異抄 第13条)

「私たちは何処からきたか。私たちとは何か。私たちは何処へいくか。」
ゴーギャン

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)

2020年02月08日

お庫裡から 2020年2月

 

この冬は暖冬で、名古屋は雪の降らぬ(初雪のない)記録の更新中とか。
我家は外の水道の凍結もなくありがたいことですが、そう喜んでばかりもいられません。
暖冬で大根が育ち過ぎ、規格外の大きさで出荷できず廃棄されるとニュースに流れていました。
ああ、勿体ない。
せっかく育ててこられた農家さんもお気の毒だけれど、大根もかわいそう。
なんとか大根がいのち成就する方策が見つかるといいのに。
でも考えてみれば、規格って誰が決めたのだろう。
いのちあるものは、規格通りになるはずがない。
規格通りになるはずのないものを、規格通りにする。
(そこにすごい無理を生じさせていることでしょう。)規格とは、人間の作り出したモノサシなのでしょう。
その人間の作ったモノサシで、人間が苦しめられ、大根は一顧もされず捨てられていく。何と悲しく、愚かしいことでしょう。
人間はいのちあるものを頂いて生きております。
食べ物に「頂きます」と手を合わす感性が、都合のモノサシによってどんどん奪われていきます。
もしかしたら私たち自身も自覚していないだけで、その規格を自分や自分の周りの人に当てはめて、そこからはみ出ぬように、はみ出さぬように生きているのではないでしょうか。
マイナンバーも監視カメラも、利点はあるものの、国をあげて暗黙の規格が私達に強いられているのではないかと、恐怖をおぼえます。
仏教は人間奪還の運動です(高光大船)。
私は人間でありたい。

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)お庫裡から

2020年02月07日

今月の掲示板 2020年2月



地上の真とは
ただ一つあるのみ。
真実の自己を知るということにつきる。
西田幾多郎

我々は
本当の願いを持ちながら
本当の願いに気づかずに
外なるものに
目を奪われておる

迷うのは
己の外にあるものを
頼りとするからだ

迷う己自身も
頼りにはならない
己にあって しかも
己を超えているものをこそ
見出さねばならない

人間に生まれてきたからには
人間に生まれてきた
出世本懐があるはず

何のために人間に生まれてきたのか
それをあきらかにしなければならない

人間に生まれた限り
どうしても遇わねばならぬ人がいる
それは私自身

人間だけが
人間に生まれてよかった
私が私に生まれてよかったと
こう言える存在

人間喪失というのは
自我を
自分だと思っている人間のことです

人間において
一番大切なものは 何か
人間の尊さは 何か

すべてを当たり前とするところに
人間の傲慢がある

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今月の掲示板

2020年02月06日

本堂に座って 2020年2月



東本願寺から毎月発行されている『同朋新聞』では、様々な分野の方に「人間といういのちの相」というテーマでお話を聞いています。
2020年1月号では、助産師の内田美智子さんが「生まれたことの尊さ」について話してくださっています。

多くの学校で子どもたちに「いのちの大切さ」を伝える授業が重要視されるようになり、私もその授業でお話をする機会が多くなりました。
そうした場で私がいつもお話をしていることは、「あなたが大切」ということです。
私たちは、よく「いのちは唯一無二だから」とか「お母さんがいのちがけで産んだのだから」などと言うのですが、それだけでは伝わらないと思うのです。
「いのちが大切」ということよりもむしろ、「あなたが大切」ということ。
そのことが伝わっていないので、子どもたちからしてみれば、「いのちが大切」ということが実感できていないのだと思うのです。
自分自身が大切にされているという実感がなければ、「いのちの大切さ」ということもわからないのではないでしょうか。
子どもたちの間で起こる「いじめ」が問題になっていますが、「いじめてはいけない」という話をしたところで、いじめた本人に自分自身が大切にされているという実感がなければ、他の人を大切にしなければいけないということも伝わらないと思うのです。
そもそも子どもたちは、両親や家族といった自分を庇護してくれる人との関係性の中でさまざまなことを学んでいきます。
小さい時は特に一人では生きていけませんから、お世話をしてくれる人が必要ですよね。
その人たちから受けた「大切にされている」という実感が、将来「いのちを大切にする」という心を育んでいくのだと思います。
子どものうちは自分を庇護してくれる人から伝えられることが大事だと思うのですが、現代は、昔に比べ生活環境が大きく変化し、家族や親子の関係も希薄になってしまっている場合があります。
その中で、子どもたちが「大切にされている」と実感することが難しくなってきているのではないかと思うのです。
相模原市の障がい者施設で何人もの入所者が殺害されるという大変痛ましい事件がありました。
その事件を起こした犯人から、「障がい者は生きている意味がない」というような言葉が発せられたことが報道され波紋を呼びました。
その時の「生きている意味」というのは入所者自身の受けとめではなく犯人による評価だったわけです。「いのちの尊さ」ということも自らの内に自覚されるものではなく、他者の価値基準による評価で考えられているところがさまざまな場面であると思うのです。
すると「いのちの尊さ」も人の評価基準によって変わってしまいます。
本来、どのような障がいがあっても、いのちはみな無条件に尊いと言えるはずなのですが、それを他者が自分の勝手なものさしで評価してしまっているのです。
障がいがある人は不自由なことがいっぱいあると思うのですが、その不自由を支えてくれる人が周りにたくさんいますよね。
その支えられているという実感が、障がいをかかえる人たちにとっては「尊さに目覚める」ことにつながっているのだと思います。
そして、障がいのある子をもつ親の方も、必死に生きているわが子を支えているわけですから、互いに「いのちの尊さ」を受けとめていくのでしょう。
ですから、「いのちの尊さ」とは、他者が評価するものではなくて、自らの内に自覚され、そして、自分らしく「あるがまま」に生きていることだと私は思うのです。
生まれた以上いつかは死を迎えますが、そもそも生まれてくること自体が人間の思いを超えた多くの偶然のうえにある奇跡なのですから、本当に尊いことだと思うのです。
私たちは親を選べませんし、生まれる場所も選ぶことはできません。
生きていくうえでどんな人生が待っているのかもわかりません。
辛いこともたくさんあるでしょう。
しかし、その人生のすべてのことに意味があり、「生まれたこと自体が尊い」ということに気づいていくことが大事なのだと思うのです。
(『同朋新聞』2020年1月号 東本願寺出版発行より引用しました。)
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)本堂に座って

2020年02月05日

今日も快晴!? 2020年2月




プラスティックゴミの海洋汚染の問題が気になっています。
死んだ鯨の胃袋から何十キロのプラゴミが発見されたり、身体にプラゴミの破片が絡んで命を落とす野生動物の写真や、海にぷかぷか浮かぶ膨大な量のプラゴミの写真を見て本当にぞっとしました。
少しでもプラゴミを減らしたいと、ゴミの分別を丁寧に行ったり、食料品だけでく、衣類や文具を購入した際もレジ袋を断ったり、紙製のカタログ、消費財の入ったビニール袋、紙製の卵パックや調味料の入った瓶など、全て回収して再利用してくれる生活クラブを利用したり、水筒を持ち歩いたりと微々たる努力をしていたつもりでした。
友人から「プラゴミが問題だからと言って、全て禁止してしまうのもまた環境に良くない。
例えば、ガラス瓶の場合、プラスチックよりもずっと重量があるため、輸送の環境負荷が高い。
紙製の袋は、プラスチック製の袋よりも炭素排出量が多くなりがちで、再利用も難しい。
プラだめ紙やガラスがエコってのは一部正解でしかないと思う。」と聞き、なるほどとも思いましたが、だからといって「このままで良い」とは思えません。
個人の努力や工夫ではそれほどの効果は見込めないので、国として使い捨てのプラ製品は禁止するとか、社会全体としても「エコな生活を送った方がお洒落で節約になる仕組み」を作ってくれたら良いのに。
日本の技術力なら環境に優しい新素材も開発出来るはずと思っていました。
しかし、別の友人からの話で驚きました。
「マイクロプラスチックの講演を聞きに行ったら、食器洗いや掃除に使われているメラミンスポンジ、ポリウレタンスポンジ、セルローススポンジ、アクリル毛糸たわし等々のスポンジが、磨耗して下水に流されて厄介だという内容だった。魚のお腹の中に知らないうちに入っていて、それを人間が食べるということも予測される。
良いのは天然素材のタワシかヘチマスポンジみたい」とのこと。
なんということでしょう。
アクリル毛糸たわしは使っているし、メラミンスポンジはシンクに常備していて、毎日の食器洗いの後、必ずそれでシンクを磨くのが習慣だったからです。
そういえば使っていくとどんどんすり減っていきますが、そのすり減った分がどこに行ったのか、全く関心を払っていませんでした。
「自分は環境に負荷を掛けないように気をつけている」と思いながら、毎日せっせと下水にスポンジの破片を流していたのかと思うと、自分はなんと浅はかであったのかと恥ずかしくなりました。
しかし、「この製品は環境に悪い」と知った後も、メラミンスポンジを手放せません。
白い人工大理石のシンクは使ってると黒ずんで来るので、気になったときにささっと磨けてあっと言う間にピカピカになるこのスポンジは非常に魅力的なのです。
「いつもきちんと片付いたピカピカのキッチン&お洒落なライフスタイル」に対する憧れは(憧れているだけで、実現は出来ていませんが)、環境に負荷を掛け、他の生き物に迷惑を掛けても「良し」と言わせてしまうのです。
自分には「これは使わなくても我慢できる」というプラ製品と、「これは手放せない」というプラ製品があります。それは恐らく一人一人違うので、「売れる」と思えば企業は作り続けます。
自分が「購入する」以上、「作る」企業があるという現実と、どう折り合いを付けてゆけば良いのか、なかなか答えが出ません。
自分の中に、「環境に負荷を掛けず、なるべく他の生き物に迷惑を掛けないように」と思う気持ちと、「環境に悪いと分かっても止められない」現実があり、本当になんてわがままな自分だろうと思います。


  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?