2021年12月16日

清風 2021年12月


聖徳太子No.8
世間虚仮
唯仏是真
(「天寿国繍帳」銘 聖徳太子妃橘太郎女 作)

仏は、私の心が深い闇に沈んでいることを照らしていてくださる。私の心は愚痴で覆われている、と。
(愚:虚仮である。痴:知が病んでいる。)


1995年のオウム真理教の地下鉄サリン事件以降、日本社会は大きく変質しました。
その表れのひとつが厳罰化です。
刑罰がどんどん重くなり、犯罪者に対して厳しくなりました。
1995年以降の日本のこの変化は、2001年のアメリカ同時多発テロ以降の世界に重なります。
テロというキーワードを消費しながら高揚した不安と恐怖は、「善と悪」「敵と味方」「真実と虚偽」など、本来は複雑な領域の単純化や二分化を求め、法やシステムを変えました。

厳罰化の代表国は、日本・アメリカ・イギリス・ニュージーランドと言われていますが、特にアメリカ同時多発テロ以降、テロによる不安と恐怖が一気に拡散した一方、現在も寛容化を進めている国もあります。
それは、ノルウェー・フィンランド・デンマーク・スエーデンなどの北欧諸国です。

ここで、その寛容化を進めているノルウェーの実情について聞くことにします。

ノルウェーの法務省の高級官僚の方にもインタビューしましたが、彼はこう言いました。
「犯罪を起こす要因は三つの不足だ。一つ目は幼年期の愛情の不足。二つ目は生育期の教育の不足。三つ目は現在の貧困。ほとんどの犯罪はこのどれか、あるいはこれらが複合して起きている。では犯罪を起こした人間に対して社会は何をするべきか?不足を補えばいい。愛情か教育、そして現在の貧困の改善、それが刑罰だ。(略)「彼らは十分に苦しんできている。苦しんできたからこんなことをやったんだ。ならばこれ以上に苦しみを与えても意味はない。生きるためには違うやり方があると教えることが刑罰である。」と。」

実はノルウェーも1970年代前半までは治安がとても悪く、刑罰はもっと重かったそうです。
ところが1980年代に寛容化に舵を切ってから、治安がどんどん良くなっていきました。
数年前に日本で対談した法務大臣は、「自分たちはヒューマニズムのみを理由に寛容化を指示しているわけではない。犯罪者を社会復帰させることが社会全体の治安を良くするから、むしろ実利的にやっています。」と語りました。
(略)日本は治安が圧倒的に良い。
ところが、再犯率はすごく高い。
過ちを犯した人を迎え入れる状況ではない。
この構図は、憲法の論議をめぐるこの国の今の状況と重なります。

いつ隣国がミサイルを撃ってくるか分からない。いつ尖閣に押し寄せてくるか分からない。
だから、国防力を高め、敵基地を攻撃できる体制を整えなければならない。
それには憲法が邪魔だから変えようと。
同時多発テロ以降のアメリカは、まさしくその過程をたどりました。
まずはアフガンを攻撃し、イラクへの攻撃の大義のために核兵器の存在を捏造までしたのです。
註)この引用文は、2017年に5回行われた明治学院大学の公開講座『憲法が変わるかもしれない社会』連続講演会での森達也氏の講演(2017年12月5日)からの引用です。
森達也氏は、NHK(BS)で2009年10月29日に放映された『未来への提言「犯罪学者 ニルス・クリスティー ~囚人にやさしい国からの報告」』を制作した。(「囚人にやさしい国」とはノルウェーを指す。)
尚、氏の講演記録は、「不寛容社会における人権問題」として『憲法が変わるかもしれない社会』(文芸春秋社刊)に収録されている。

その結果、この20年間の米兵の死者は六千人以上、現地の死者は数十万人の民間人、戦費はアフガンとイラク侵攻で六兆ドル(660兆円)費やしました。
この9月、結局アフガンからアメリカ軍は撤退しました。
米国と世界が払った代償はあまりにも大きかったのではないでしょうか。
この戦費をノルウェーのように使うなど、我々には平和を築くための違ったやり方があることに気付くべきなのでしょう。

日本にもアメリカに比べれば緩慢ではあるけれど、やはり同じ過程に嵌っているといっていいでしょう。
気がついたら周辺は敵ばかり、だから武器と強いリーダーが欲しくなる、憲法前文や九条が邪魔になる…
今の改憲への動きは、国民のそんな大きな意識の変化を背景に進められてきています。
第九条は、ノルウェーに習えば、要するに「負の連鎖」をどうしたら断つことができるか、という課題の前に、今こそ人類は、特に我が国は立たされていると言えるようです。

私たち一人ひとりが、「何故あなたは生きているのですか」と問われているのですね。
便利で快適な生活追求の前では考えなくてもよかった問いに、答えなくてはならなくなっているのです。
何故なら、すべてを「当たり前」として見過ごしてきたからです。
苦しみ悩んできた人生、何故私は苦しみ悩まなければならないのか、正面から答えることを避けてきた、そのツケがいよいよ回ってきたのです。(続く)

  

Posted by 守綱寺 at 10:49Comments(0)清風

2021年12月16日

お庫裡から 2021年12月


「今、何時」と時々人に尋ねる。
それが「今日って何日だった?」となり、「今って何月」と月まで人に聞く。
時の流れの早さに頭がついていかないのです。
時の流れは本当に早い。
私の残り少ない時間を時に流されて無駄無駄に生きては、せっかく頂いたいのちに申し訳がない。
正真正銘の後期高齢者となった私の指針です。
「ないものをうらやましがらんで
あるものを喜ばしてもらいましょうよ、のう」
(萩女子短大元学長 河村とし子さんの姑さんのことば)
私の毎月は、いくつかの読書会、みなさんがよく足を運んで下さるので、新たな気づきも生まれ、私が一番教えられている。
月2回のコーラスも楽しみの時間、楽譜を覚えている時は不安げな音も、次第にハーモニーが整い、曲に仕上がってくると、コーラスの醍醐味を味わう。
俳句も、「この会だけは止めたくない」と言って下さる方々のお陰で続いている。
この会のお陰で、風の音、鳥の声、雲の動き等、あらゆるものに耳を傾け、目を注いで物事を見るくせがついた(だからといって俳句がうまく作れるというものでもない)。
野の花もお茶も洋裁も、本当に面白く、楽しい。みんな、皆さんがお寺に足を運んで下さり成り立つ会ばかり。
皆さんのお陰で、私は両手に余る程の張り合いと幸せを頂戴している。
そしてどの会にも仏法が通底している。
それが又嬉しく大きな喜びとなっている。ありがとうございます。

  

Posted by 守綱寺 at 10:44Comments(0)お庫裡から

2021年12月16日

今月の掲示板 2021年12月


悩む事は
人間の基礎知力

人間は
与えられているから悩む

近代人は
自分を縛るものから自由になった途端
自分がどう生きたらよいのか
わからなくなってしまった

当たり前に思えるすべてのことが
信じられないほどすばらしい

していることが
できること
だから
出来ないことはない(金澤翔子)


和とは
言葉が通い合うこと

対話するとは
双方が欠けていることに
気付いていくこと

「どうにもならん」というものが
人間には大事なのです
それだけが「我」を破っていくのです(林 暁宇)


十七条憲法
 一つに曰く、和(やわ)らかなるをもって貴しとし
忤(さか)うること無きを宗とせよ


 人皆党有り。
 また達(さと)る者(ひと)少し。
 是をもって、あるいは君父に順わず。
 また隣里に違う。
 しかれども、上和らぎ下睦びて
 事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは
 事理(こと)自ずからに通う。
 何事か成らざらん。 (聖徳太子)

  

Posted by 守綱寺 at 10:43Comments(0)今月の掲示板

2021年12月16日

本堂に座って 2021年12月


先月号で、比べることについてわかりやすく書いてくださっている文章を紹介しました。
今月は、“比較”とならんで悩み・苦しみの原因になってしまう“分別(ふんべつ)”についてのお話を紹介します。

分別する

 「選択する」という行為の前に、人は「区別する」という行為をしている。
「右に行こうか、左に行こうか」
このとき、右と左の区別をしないと選択はできない。この区別をすることを、仏教では「分別」というのかな。
分別ゴミはブンベツと読むけれど、仏教用語ではフンベツと言うんですね。
「そろそろいい悪いの分別がついてもいい頃だろ」というときに使う「分別」ですね。実はこの分別が悩みの基本になっているみたいだ。
人は分別をして、比べて、それから選択の判断をする。
では判断の基準はどこにあるのか。僕たちは未来に対して、「ココチイイ」が待っているか「キブンワルイ」が待っているかを予測するみたいだ。
予測して「キブンワルイ」より「ココチイイ」方向、つまり幸福に向かおうとするんじゃないかな。
快と不快。これが、判断の基準だと思う。
不快になると判断に失敗したと感じる。
失敗して後悔すると、「あのとき、別の道を選んでいれば……」ということになる。
この後悔するという気持ちが起きるのは、出た結果とは別の結果を想像できるからなんだ。
僕たちが「快」を知っているときは、それと対立する「不快」も当然理解している。
「幸福」を知っているときは、それと対立する「不幸」も知っている。
どうやらこの対立する概念というのは、一緒に頭に入ってくるようだ。
上という概念を知るときは、下という概念もセットで覚える。右と左もワンセット。
楽しいと苦しい、好きと嫌い、明と暗、表と裏、内と外などみんなワンセット。
希望を抱けば、失望する可能性があることを心の底では知っている。
失望する可能性については、目をつぶっちゃう人が多いですが。
「よし、希望する大学に受かってやるぞ!」

入試の例はわかりやすい。
こう意気込んでも、不合格になって失望する可能性を知っている。
どうしても失望したくなければ、希望を持たなきゃいい。
希望と失望は常にワンセットなんだから。希望を持つなら、失望することも心の片隅に覚悟しておけば、失望したときそれほどじたばたしないですむ。

僕たちはつい幸福と不幸を別々のものだと思ってしまう。
でも山の上と谷、あるいはひとつの波の上と下。勝手に分別しているだけ。
今体験していることが幸福か不幸かはわからない。
幸福だと思ってした結婚が、不幸のはじまりになるかもしれない。
僕たちが理解できるのは、ただ刻々の体験だけ。それなのに、現在と過去を比べたり、自分と他人を比べて、今の自分が幸福か不幸かを判断している。
不幸を感じている人は、他人や過去の自分と比較することで、自分を苦しめているんだね。

比較して見てしまうというのが、人間のものの見方の癖。
この癖が自分を苦しめる原因になっている。でも、分別をするなとか比較するなというのも難しい。

僕たちにまずできることは、「比較して見てしまうという、ものの見方の癖」があるということを知ることだ。
それを知るだけで、不思議なことに、凝り固まったものの見方が柔らかく溶けていくものだ。
(『ブとタのあいだ』小泉宏 著 メディアファクトリー発行より引用しました)

 私たちは、ふだんの生活の中で様々なことを分けてしまっています。分けたときには「快」「幸福」の方を見てしまいますが、一方で「不快」「不幸」があることも、ちゃんと知っています。
物事には両面があるものですが、意識せずに「分けてしまう・選んでしまう」ことで、自分を苦しめてしまっています。
自分の“ものの見方の癖”を知ることで、自分を苦しめる“自分”が見えてくるのだと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 10:41Comments(0)本堂に座って

2021年12月16日

今日も快晴!? 2021年12月


 今年も無事に報恩講を勤めることが出来ました。
毎年報恩講には、元真宗大谷派教学研究所所員の高柳正裕先生に御法話を頂いています。
今年は「まこちゃん」こと小室眞子さんの話から始まりました。
「なぜバッシングするのか?」「バッシングする人は、『自分が正しいことをしているのに、なぜ誹謗中傷と言われるのか!?』と逆ギレする。」「自分が正義の立場に立つと、物事がゆがんで見える」。
高柳先生は、ご自身の中学・高校と不登校を重ねられた経験と、お子さん4人が不登校を経験されたということから、毎年心をぐいぐいえぐられるようなお話をされます。
お寺の法要では、お台所の準備があるので、本堂に座って落ち着いてお話を聞くことが出来ないのが残念ですが、マイクの放送で聞こえる範囲で耳を傾けています。
今年は、印刷した物を資料として当日配って頂いたので、報恩講が終わった後でゆっくり読ませて頂くことが出来ました。
ああ、いつかきちんと先生のお話を本堂に座って聞かせて頂きたいなぁ。
このお話を、絵本の会や育児サークルでお寺に集う若いお友達と一緒に聞けたら良いなぁと思いながら読みました。

 『子どもを支配し、子どもの心が聞こえない親のことが最近「毒親」と呼ばれたりします。なぜ子どもの声が聞こえないのか。それは親が、自分が子どものことは一番分かっている。子どもの将来のことも、誰よりも一番適切に考えていると思っているからです。
…(略)…親鸞聖人は、「智者遠離すべき」とか「善悪の字しりがおはおおそらごと」ということを仰っています。
それは、「知っている」と思い上がっている人は、まことの人ではない駄目な人だから、そんな人とは付き合わない方がいいと、他人の事を言っておられるのではない。
そうではなく、「あなた自身が、自分は分かったもの、他を評価でき、判断できる者と思っている限り、本当のことが聞こえず、本当のことが見えず、独り相撲をしているのであって、それでは虚しいでしょう」と、「知者」になっている「私」のことを、痛み、悲しんでいて下さる言葉なのです。』
『北陸では、阿弥陀さんのことを「親さま」と呼んできたという伝統があるとお聞きしたことがあります。
何故「親さま」と呼ぶことが出来るかのかというと、世間が、どんなに私のことを「あいつはひどい奴だ」と責め立て、捨てても、阿弥陀さんは決して捨てず、信じて下さっていると、確かに感じられるということが身に起こったからです。
では何故阿弥陀さんは絶対に捨てることがないのか。
それは阿弥陀さんは「量る」ということがないからです。
「量らない」とは、評価したり断定したりしないと言うことです。』
(略)『絶対に私を量らない、評価しない、決めつけず、私を真に信じて敬ってくださる心。
その心に触れるとき、「自分は分かっている」「自分は間違っていない」「悪いのは周りの奴らだ」と、懸命に自己の正当性を主張し、自分を守ってきた「私」は、「本当は私は何も見えていないのです」と、自分自身の愚かさ、無知無能、そして底なしの無明を抱えた存在であるということを懺悔において初めて見出し受け入れることが出来る。(後略)』 「南御堂」2021年12月号より

 もし自分の子どもたちが、障がいの有無、能力、特性などが希望通りで無かったら、果たして受け入れることが出来るのだろうか?
正直自信がありません。
自分は「量らない」とは決して言えない。「こういう条件の子なら愛しましょう」という親の愛情なんて、不確かなものだと思えます。

  

Posted by 守綱寺 at 10:38Comments(0)今日も快晴!?

2021年12月10日

清風 2021年11月



聖徳太子No.7
仏所遊履(ぶっしょゆうり) (中略)
 国豊民安(こくほうみんあん)
      兵戈無用(ひょうがむよう)
(『仏説無量寿経』真宗聖典P78)

仏の教えを聞き取った人が誕生していく所は、
豊かにして民安し、武器は用いる必要はなくなる


先月号まで、十七条憲法第一条・第二条、そして第十条に依りながら、親鸞聖人が聖徳太子を「和国の教主聖徳皇」と讃えておられることを振り返ってきました。
また第一条の「和を以て貴しとする」という一句の持つ意味を、簡単にではありましたが説明させていただいたことでした。
親鸞聖人の聖徳太子への視座は、太子和讃に「救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して 多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそいたもう」
(多々…ちちをいうなり。阿摩…ははをいうなり)と記されているように、聖徳太子を「ちちのごとく、ははのごとく」と慕っておられます。
仏法にご縁をいただかれた聖人にとって、聖徳太子が「ちちとも、ははとも呼ぶ」ほどに、聖人自身の人生の節目に「筋を曲げずに歩みを進めて行けるよう導いてくださった方」という感慨を語られたことを示してくださっているものなのでしょう。
聖徳太子の姿勢というか、政治家としての座にあって、人間を非常に具体的に根本の立場から見ておられたことに気付かされます。
それは『十七条憲法』第五条の内容にも現れているように思います。第五条は「訴訟」について書かれている条文です。
訴訟を司る担当者は賄賂を得ることを常としている。
だから財を持つ者の訴えは、その訴訟において勝利することは石を水に投げるように容易であり、貧しき者の訴えは、水を石に投げるように、訴訟に勝利することは容易ではない、と。
ここに書かれてあることは、第十条に「人皆心有り。心おのおの執るところ有り」と記し、その具体的なあり方を「彼是なれば、則ち我は非なり。我是なれば、則ち彼は非なり。」、「我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫なるのみ。」と示してくださっています。
これは、人は間違うものであるという認識でしょう。この「共にこれ凡夫なるのみ」という「自己認識」こそ、人間の間に「和」を開く力ともなり、また、人と人の間を開きたいということ一つを求めて人は生きているのでしょう。何故なら、人は間(関係)を生きねばならない生きものだからです。
釈尊まで帰れば、「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の道の人は同一の事を語らないのである。」(『スッタニパーター』884句)という言葉が遺されています。
「真理を知った人は争う必要がない」、それは、そこでは「対話」が開かれるからなのでしょう。

最後に十七条憲法の第十六条を紹介します。

民を使うに時をもってせよ。故に冬に余裕が有るとき民を使うべきである。
春より秋に至る時は、農業と蚕のための桑の収穫時であるから、民を使うのはよろしくない。

民の日常生活の内容にふれながら、民に寄り添う聖徳太子の心根がうかがわれる内容だと思います。
太子が『十七条憲法』を起草されたのは、推古天皇そして摂政に任命された太子自身を含む当時の権力者がどのような政治をしていくかを考える、実に国の将来にも重大な影響を持つ出来事となる時期にあったからと言えます。
蘇我氏と物部氏との権力争い、それは太子にとっても14歳から19歳の血で血を洗う守屋誅殺など殺害経験の場でした。
こういう事態の経験が、十七条憲法で「人は○○である」という表現となって規定されているのだと思います。
この「人」の中には、もちろん太子自身の有り様も含まれてのことだったのです。
抽象的に「人は○○である」と書かれているのではないのです。
巻頭に紹介した『無量寿経』の言葉は、経典の中で「地獄・餓鬼・畜生あらば」という阿弥陀仏の本願文にある言葉に返せば、「国豊かに」とは「餓鬼(欠乏)」からの解放であり、「民安し」とは「畜生(恐怖)」からの解放であり、「兵戈無用」は「地獄」からの解放を示すものと言えるのでしょう。(続く)

  

Posted by 守綱寺 at 18:44Comments(0)清風

2021年12月10日

お庫裡から 2020年11月



10月下旬、一通の封筒が届きました。
封筒に「後期高齢者医療保険証在中」とあったので、てっきり夫に来たと思っていたら、私宛だと言う。
開くと、「75才を迎えられる方へ」とあるので間違いはない。
私は自分の事を知っています(よ)。けれど、こうして後期高齢者と書かれていると、ちょっとショック。
自分は老人と知っている(知識)ことと、感情(思い)は全然違うのですね。
老人と知っているその下で、私はまだまだ“若い、やれる”と思っているので、お化粧もするし、車も運転する。おしゃれも大好き。
3つ年上の姉とデパートで服を胸に当てて「これどう?」「うん、かわいい、かわいい」「かわいいから、いいよね」なんて言い合って、服を決めている。
後で「かわいい」「かわいい」って、私達は一体自分を何才と思っているんだろうね、と笑い合っている。
私は、長く歩く時は杖を使う。(身体は老人そのものなのに)思いが常に勝る。
年寄りの冷水とは、本当によく言ったものです。
保険証は大事なものなので、大事にしまいました。
500匁(1875g)の紫色の塊で生まれ、6つの湯たんぽで命をつないだと聞かされている私が、こうして今月75才を迎えるなんて、なんてすごい、よくぞよくぞここまで命を頂いてきた事よ。
私を包む全ての人々、物事、世界に、頭を下げずにはおられない。
せっかく頂いた命、全うしていく道を考えて後期高齢を歩んで行こうと思います。

【余談】S21年生まれの学年は、お父さんが誰も戦死していない第1号の世代。
これからも誰も戦死しない日本であって欲しいです。平和憲法を護りましょう。

  

Posted by 守綱寺 at 18:43Comments(0)お庫裡から

2021年12月10日

今月の掲示板 2021年11月



本尊(本当に尊いこと)が
明らかになる道が
宗教である

仏壇(本尊を安置する場所)がなくなったら
私達の生活に
頭を下げる場所が
ゼロになる

仏壇(本尊を安置する場所)がなくなれば
家族みんなが
自我を主張し合うだけの
家庭になってしまう

人間ちゅうもんは
自分しか
かわゆうないもんじゃげなのう
ほんとに そうじゃのう

ないものを欲しがらんで
あるものを
よろこばしてもらいましょうよのう

顔ちゅうもんは
自分のもんでも
人さまの方へ向けるもんじゃから
気いつけんにゃのう

あのゴキブリさんでも
安心して生きていられる所じゃから
人間の私たちも
安心して生きておられる

私たちはお念仏の中で
先立った人たちと
会うたり
話したりできるから
幸せじゃのう

悩んでいる時にも、実は与えられているという、そのいのちにまでなっている<はたらき>を南無阿弥陀仏と名づけ、その深いいのちの<はたらき>を本当に尊いことと見出し、本尊としているのです。
ですから「南無阿弥陀仏」と申すことは、「阿弥陀さんにお任せします。私は私の<思い>を立場とはしません」という告白でもあり、確かめでもあるのです。(教化冊子より)



  

Posted by 守綱寺 at 18:43Comments(0)今月の掲示板

2021年12月10日

本堂に座って 2021年11月



先月、真城義麿先生の「比べる・評価」についての文章を紹介しましたが、“比べる”ことについて、よりわかりやすく書いてくださっている文章がありましたので、紹介します。

比較する癖

不幸だと思う気持ちってどこから来るんだろう。基本的には自分自身が生み出しているようだ。
不幸の苦しみを生み出すのが自分なら、不幸の苦しみを和らげたり楽にしたりするのも自分なんだ。
苦しみを見つめて、苦しみをつくっている基本が自分だと体全体で知ることができたら、きっと泣いちゃうかもしれないけれど、なぜか一瞬で楽になるんだ。
「苦しみの元は自分だってことぐらい、わかってるよ」
そう言うのは簡単。でも心のどこかで苦しみは、誰かや、自分じゃない何かがもたらしていると思っている場合が多い。
本当に心と体全部で理解したら、すとんと、おなかのあたりに「理解」が収まってくる。
「今日の彼、なんだか冷たかった。彼、心変わりしたみたい……彼のせいで、わたしも何も手につかない……」
「このところ仕事がうまくいかない。やっぱりこの仕事向いてないのかな……」
彼がわたしに苦しみをもたらしている?仕事がわたしに苦しみをもたらしている?
今日の彼が冷たく感じたということは、昨日までの彼と比べて冷たく感じる……。
このところ仕事がうまくいかないということは、以前と比べてうまくいかない……。
比較するという誰もが持っている心の癖が、苦しいという感覚を生み出しているようだ。
あいつより僕は背が低い。あいつより僕はスポーツが得意じゃない。あの人よりチャンスに恵まれていない。
あのコよりわたしは美人じゃない。あのコみたいに上司とうまくやっていけない。
誰かと比べて自分が幸福か不幸かを判断しようとしても、誰かより幸福か不幸かなんて判断できない。
だって自分以外の人の心は分からないから。幸福や不幸と感じる基準は人によって違うから。
また今が幸せか不幸かを、過去の自分と今の自分を比べて判断してしまう。
つい、よかったときの自分と比べてしまう。
よかったときがあるから今が辛く感じる。
よかったという感覚も過去の感覚だ。そんなあてにならないものに振り回されるのは疲れるだけだ。
以前あの人は自分に優しかった、今も優しい。だから今後もずっと優しいだろうと期待する。
実はそう思うことが苦しみを生み出していることに気がつかない。今の幸せがずっと続くだろうと期待する。そう思うことが苦しみを生み出している。
期待するのがいいとか悪いとか言っているわけではない。
そういう心の仕組みになっているというだけだ。
僕は若い頃バスケットリングを握ることが出来るくらいジャンプ力があったけど、今は出来ない。
かといって不幸だとは思わない。そんなことを不幸だって思ってたら、老人はみんな不幸になっちゃう。
うまくいっていたことが、うまくいかなくなることもあるのが人生。逆にうまくいっていなかったことが、うまくいくようになることがあるのも人生だよね。
(『ブとタのあいだ』小泉??宏 著 メディアファクトリー発行より引用しました)

 テストの点数や学校での評価に限らず、上の文章にあるように、ふだんの生活の中の様々な場面で“比較”していることが分かります。
他人と自分だけでなく、過去の自分と今の自分でさえも比べて苦しんでしまうのです。
比べたり期待したりと、「苦しみを生み出すのは自分」だと“本当に”分かったときに、「苦しみを和らげたり楽にすることができるのも自分」と、苦しみを乗り越えていけるのだと思います。

  

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2021年12月10日

今日も快晴!? 2021年11月



10月末は衆議院選挙です。
コロナの影響もあり、昨年の自殺者は2万人を上回り(リーマン・ショック以来11年ぶりの増加)、生活が苦しいと感じている人も多くいらっしゃるようです。
現在の政権下では、収入が少ない、雇用が不安定といった状況は「自己責任」「あなたの努力が足りないからだ」と突き放されてしまいます。
しかし政見放送を見ていたら、「何があってもあなたを見捨てない」と、真逆な訴えを行っている政党がありました。
れいわ新選組です。
前回の参議院選挙では、重度障害者や性的少数者、派遣労働者など、社会的弱者を中心に候補者を擁立し、重度身体障害者2名の方が当選しました。
徹底的に社会的弱者の側に立つ姿勢は、「どうせ変わらない」「政治に興味が無い」という方達にも一度見て頂きたいなぁと感じます。
「れいわ新選組 代表、山本太郎です。今この政見放送を、たまたま見ている人に、伝えたいことがあります。
「生きててください」「死なないでください」。そこまで追い詰められてない、という方にも。この社会に「絶望しないでください」。
そもそも選挙にはいかない、投票などしない、それでも結構です。どうか、あと5分、私の話を聞いていただけませんか。
新型コロナは災害です。災害の対応は個人や民間の努力ではどうにもならない。国が大胆にお金を出すことが、この危機を乗り切る方法です。
「困ってる人は大変で可哀想だけど、自分は困ってないから大丈夫」という方、それは大きな勘違いです。
あなたの大丈夫は、いつまで大丈夫ですか?・・(略)・…
あなたの生活が不安定なのは、働いても余裕のある暮らしができないのは、あなた自身に問題があるのではなく、まず、政治に大きな問題があるのです。
政治家という駒を動かすことができるのは、この国の最高権力者オーナーです。それはあなたです。
総理大臣は雇われ店長にすぎません。
しかしながらこの国のオーナーである50%の方々は選挙に行きません。
結果、組織票を固めている陣営が勝利し、大企業や資本家にとって2つの大きなコスト。
これを削減するルール変更が、数十年続いています。そのコストとは、働くあなたと税金。
雇用の流動化の掛け声のもとに非正規労働者は働く人の4割まで広がり、低賃金、不安定が今やスタンダードに。・・・(略)・・・消費税が始まった89年から2016年までのグラフです。
 一人暮らしの貯蓄ゼロ。この方々はこの状況のまま高齢化します。
一方で、大企業は、2019年、過去最高益、バブルを超える好景気となりました。コロナが来る前から、日本は25年にわたる不景気。
これは政治が重ねてきた誤った政策、ひと握りへの忖度が原因です。
選挙なんてどうでもいいという50%の人々が力を合わせれば、どんな大企業、資本家よりも大きな力をもつことになる。最大勢力はあなたです。
いま、この国に必要なことは、大胆な財政出動と徹底的な公助で、全国津々浦々にお金を回し、みんなの生活を底上げし、25年のデフレを吹き飛ばすこと。
失われた需要を、内需を大きく動かすこと。その先頭に私たち、れいわ新選組を立たせてください。
れいわ新選組は、教育は大学院まで無料。家賃が安く、誰でも入れる公的な住宅を作る。
他にも、家賃補助制度も。あなたの収入が少ない時、生活が不安定な時、給付金を出す。
日本の屋台骨、中小企業を苦しめ、あなたの使えるお金を減らす、消費税は廃止に。
中小企業に支援を、農業など生産者に所得の補償を、希望する労働者に正規の雇用を。
この国に生きる誰もが、困った時ではなく、困る前に手を差し伸べる、当たり前の国を作っていこう。
何があっても心配するな。あなたには国がついている。あなたが困る前にあなたを支える公助がある。
世界があなたを見捨てても、私たちは最後まであなたを見捨てない。れいわ新選組はそんな国をあなたと作りたい。」
政見放送 れいわ新選組 【衆院選2021】投稿日: 2021年10月22日

  

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