2021年12月16日
今日も快晴!? 2021年12月
今年も無事に報恩講を勤めることが出来ました。
毎年報恩講には、元真宗大谷派教学研究所所員の高柳正裕先生に御法話を頂いています。
今年は「まこちゃん」こと小室眞子さんの話から始まりました。
「なぜバッシングするのか?」「バッシングする人は、『自分が正しいことをしているのに、なぜ誹謗中傷と言われるのか!?』と逆ギレする。」「自分が正義の立場に立つと、物事がゆがんで見える」。
高柳先生は、ご自身の中学・高校と不登校を重ねられた経験と、お子さん4人が不登校を経験されたということから、毎年心をぐいぐいえぐられるようなお話をされます。
お寺の法要では、お台所の準備があるので、本堂に座って落ち着いてお話を聞くことが出来ないのが残念ですが、マイクの放送で聞こえる範囲で耳を傾けています。
今年は、印刷した物を資料として当日配って頂いたので、報恩講が終わった後でゆっくり読ませて頂くことが出来ました。
ああ、いつかきちんと先生のお話を本堂に座って聞かせて頂きたいなぁ。
このお話を、絵本の会や育児サークルでお寺に集う若いお友達と一緒に聞けたら良いなぁと思いながら読みました。
『子どもを支配し、子どもの心が聞こえない親のことが最近「毒親」と呼ばれたりします。なぜ子どもの声が聞こえないのか。それは親が、自分が子どものことは一番分かっている。子どもの将来のことも、誰よりも一番適切に考えていると思っているからです。
…(略)…親鸞聖人は、「智者遠離すべき」とか「善悪の字しりがおはおおそらごと」ということを仰っています。
それは、「知っている」と思い上がっている人は、まことの人ではない駄目な人だから、そんな人とは付き合わない方がいいと、他人の事を言っておられるのではない。
そうではなく、「あなた自身が、自分は分かったもの、他を評価でき、判断できる者と思っている限り、本当のことが聞こえず、本当のことが見えず、独り相撲をしているのであって、それでは虚しいでしょう」と、「知者」になっている「私」のことを、痛み、悲しんでいて下さる言葉なのです。』
『北陸では、阿弥陀さんのことを「親さま」と呼んできたという伝統があるとお聞きしたことがあります。
何故「親さま」と呼ぶことが出来るかのかというと、世間が、どんなに私のことを「あいつはひどい奴だ」と責め立て、捨てても、阿弥陀さんは決して捨てず、信じて下さっていると、確かに感じられるということが身に起こったからです。
では何故阿弥陀さんは絶対に捨てることがないのか。
それは阿弥陀さんは「量る」ということがないからです。
「量らない」とは、評価したり断定したりしないと言うことです。』
(略)『絶対に私を量らない、評価しない、決めつけず、私を真に信じて敬ってくださる心。
その心に触れるとき、「自分は分かっている」「自分は間違っていない」「悪いのは周りの奴らだ」と、懸命に自己の正当性を主張し、自分を守ってきた「私」は、「本当は私は何も見えていないのです」と、自分自身の愚かさ、無知無能、そして底なしの無明を抱えた存在であるということを懺悔において初めて見出し受け入れることが出来る。(後略)』 「南御堂」2021年12月号より
もし自分の子どもたちが、障がいの有無、能力、特性などが希望通りで無かったら、果たして受け入れることが出来るのだろうか?
正直自信がありません。
自分は「量らない」とは決して言えない。「こういう条件の子なら愛しましょう」という親の愛情なんて、不確かなものだと思えます。
Posted by 守綱寺 at 10:38│Comments(0)
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