2022年03月14日

清風 2022年3月



財力 容姿、地位、学歴、健康等は、すべて人生をかたちづくる素材にすぎない。

 『雑草の輝き -歎異抄に学ぶ』高松信英著 東本願寺出版部刊


人とは何か。人とは何をなすべきか。人とは如何にあるべきか。

先月・2月号では、1歳で脊髄性小児マヒに罹患し小2から松葉杖を使用している牧口さんの講演録『何が不自由で、どちらが自由か』から、「今日のように丁寧に考えてもらえる機会って、みんな持てているんかなぁとやっぱり思ってしまうから」という言葉を紹介しました。
つまり私たちは、障害者の“障害”ということについて「分かった」ことにして見過ごしてしまい、単に気の毒な人と思うだけなのです。
その“障害者”について牧口さんは「やっぱり正確にいうとね、生きようとしている、
その道を邪魔されてる人が全部障害者やと思います。」と言われます。

そこでもう少し、「丁寧に考えてもらえる機会」ということで語られていることを紹介させてもらいます。
 “障害者”と聞いて私たちが当たり前のように思うこととして、「自分ひとりだけで生きていくという前提がなかったかなぁ」というものがあります。
どういうことかというと、「目が見えないという障害がある人はなんか手探りで生きていかねばならないという発想がなかったでしょうか。
しかし、目の見えない人のほとんどは口は利けるんですよね。
人を呼ぼうと思ったらいくらでも呼べるわけです。
つまりねぇ、人間関係がつくりやすい障害か、つくりにくい障害かということが、人間が世の中で生きていく時に生きやすいか、生きにくいかの、ひとつの大きなポイントになると、ぼくはやっぱり思うんですね。
つまり、おしゃべりができたら他者との関係つくれる。
だから、そういう見方からいうとね、口が利けない人というのは、これは相当きついと思う。
あるいは耳が聞こえない人もきついと思う。
つまり、人間がコミュニケーションの手段を奪われるということは、これは人間が生きていく上で相当きつい障害のはず。
そう思いませんか。
私たち人間が、この社会の中で生きてるということは、どうしたって関係性のなかで生きているんですよ。
だから人とのコミュニケーションを切られるということが、どれだけ人間がこの社会の中で生きようとしたときに生きにくくなるか、そんなことが、結局全盲の人が一番早く社会参加できたということから見えてくるんです。」

昨年の『清風』4月号の1面で紹介させてもらった
「一生とは 無いものねだりの 歳月か 得ればすぐ慣れ 無くて欲しがる」(朝日新聞短歌欄)の短歌で詠われている内容こそが、健常者の大人も、生きているとはいいながら、その内実は煩悩(貪欲・エゴ)にこき使われていく、現代に生きる全ての人の陥っている暗闇を見事に詠われていると言えるのでしょう。

幸福を求めてきたが、その幸福は、実は隣人との比較でしかなかった。
また手に入れたとたんに慣れて「当たり前」になり、また欲しくなるという状況の繰り返しでしかない。そうしたやるせなさが、紹介した短歌での「歳月」に添えられた「か」の字に込められた、作者の深い悲しみと、「何のために生きているのかという深いいのちの叫び」を感じるのは、私一人のことではないと思うのですが、いかがでしょうか。

現代人は、自己を「万物の霊長」と呼んで、いのちの歴史の中で、その歴史の進化の頂点に立ったものと自称したのですが、それはやはり内実を欠いた空虚でしかなかったということだったのでしょう。

人間にまで進化したいのちは、しかし、どこに向かって進化していくのか…その出口がわからなくなっていたというのが事実だったのですね。

釈尊の死を仏弟子が涅槃(ニルバーナ・完全燃焼)と受けとめたことの深い意味が、今、この時、思われることです。

英語のENDには「終わり」という意味と「目的」という意味があります。
いのちあるものは全て、終わりを迎えなければならないのです。
しかし、死を「終わり」として迎えることができなくなった今、死が「目的」ではなく、殺されていくか、壊されていくとしか受けとめられなくなったのが、現代であったのです。
さて、さて…。

去年今年 貫く棒の 如きもの                     (高浜虚子)

いにしえは こころのままに したがいぬ
こころよいまは われにしたがえ (一遍上人)

生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。
我等は生死を併有するものなり。 (清沢満之)

「万有の進化は人間に至りて一段の極を結び、形態的進化は此より転じて精神的の進化に入らんとするか
(略)吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなるや。」      
(『臘扇記』清沢満之 岩波書店版『全集』第8巻P358~359)

  

Posted by 守綱寺 at 09:56Comments(0)清風

2022年03月14日

お庫裡から 2022年3月



お夕事で読む『三帰依文』の冒頭、「人身受け難し 今 すでに受く」の文を読む度、この年令になって改めて胸が熱くなる。
のどかな山家が私の世界だった子供時代。
高校生になって初めて、外の世界に触れた。途端に比較の世界に振り回され、「私は何故私に生まれたのか」という深い問いの淵に落ちた。
孫達が勉強している姿を見ると、こんな姿、高校生の私には無かったなーと思う。
『三帰依文』は続けて「仏法聞き難し、今すでに聞く」と続く。
私の深い淵から救い上げられたのは、「あなたはあなたに成ればいい。
あなたはあなたで在ればいい」という本願の言葉に深くうなずけた時。新しいいのちによってお母さんにしてもらえた時だった。
我が子に託す願いが、私にも同じようにかけられていた。大きな喜びに包まれた。
そして『三帰依文』は続く。
「この身、今生において度せずんば、いずれの生においてか、この身を度せん」と。
この尚子と名付けられた身は、有限ないのちなのに、無限のいのちに支えられている。無限のいのちは、有限のいのちを賜った者しか体感できない。
無限のいのちの名は「南無阿弥陀仏」、私の本名。
私は、煩悩具足のままで、無限のいのちに支えられ、有限の尚子を頂いて、安んじて、今生を渡していける。

  

Posted by 守綱寺 at 09:51Comments(0)お庫裡から

2022年03月14日

今月の掲示板 2022年3月



自分で自分の馬鹿を
承知して居る程
尊く見える事はない
(『わが輩は猫である』夏目漱石著より)

偉い人は自分の考えこそ
正しいという事を
信じて疑わない

財力、容姿、地位、学歴、健康などは、
すべて人生をかたちづくる素材にすぎない

老いも、若きも、みな
人生の素材集めに汲々とし
生活に疲れ果てている

どんな境遇に身を置いても
そこは、私のかけがえのない
人生の場

大地から浮き上がった人間さま
偉くなりすぎた為
大事な人間の心を
失いつつある

手に入れるまでは
美しく輝いていたはずなのに
手に入れると
いつの間にか色あせてしまう

「いただく食事」は
いつの間にか
犬や猫のように
「喰う食事」に
なってはいないか

  

Posted by 守綱寺 at 09:50Comments(0)今月の掲示板

2022年03月14日

本堂に座って 2022年3月




 先月、中川皓三郎先生の文章を紹介しました。あらためて中川先生の著書を読み返していて、「自分と他者が一つになる」ことについて書かれている文章に目が留まりました。

 私たちが、自分の思いを中心にして、一つになろうとするかぎり、俺の言うことを聞けということにならざるを得ない。いろいろなかたちで正しさというものをどれだけ装ってもだめです。
 それはどういうことかと言いますと、私たちの思いというものを、親鸞聖人は自力の心だと言っておられますように、いつでも、自分を中心にして、善い悪いというふうに、ものが二つに分かれていく心です。だから、私たちの生活には、二分法しかないのです。善い悪い、好き嫌い、損得、などというようにあらゆるものが自分を中心に二つに分けられる。すると、私たちが自分の思いを中心にして一つになろうとすれば、一つになろうとする心それ自身が、自分の都合によって善い悪いというように二つに分かれる心ですから、どんなかたちで一つになろうとしても、絶対に一つになれないということです。二つに分かれる心をもって、一つになることはできないということです。

私の父が亡くなったとき、家の中ではいろいろな問題が起こりました。
そのことをとおして思ったこととして、この世で顔を突き合せて一つになろうと思っても、なかなか一つになれないということがあります。
ところが、実は、喧嘩をするということも、なかよくしよう、一つになろうということがあって、起こってくるのです。
やはり、いちばんもとにあるのは、一つに出会いたいということです。
そして、一つに出会いたいということは、人についても、自分についてもです。
私たちは、生まれてみたらこういう自分なのです。
私たちは、何か自分の思いでうまく生きているようだけれども、自分の思いで生まれてきたのでは、決してないのです。

私たちが、自分、自分と言っている、その自分は、具体的な日々の生活における、他のさまざまな存在との関係の中で、経験される自分ということなのですから、私たちが、自分が自分になるということも、他のさまざまな存在というものを離れて成り立つことでは決してないのです。

だから、自分と他人を二つに分けて、そこで自分の思いを実現しようとすれば、必ず、力が必要とされるのです。
力があるということは、自分の思いに他人を従わせることができるということでしょう。
力がなければ、他の人に従わなければならない。
だから、力だというわけです。ところが、どれほど私たちが、強大な力を持っても、自分の外に他人があるということを前提としているかぎり、敵はなくならない。
私たちが、自分と他人を二つに分けて、そこで自分と言っているかぎり、自分の外には、必ず他の人がいるのですから、そういう自分というものがなくならないかぎり、敵はなくならないのです。敵をつくっているのは、この私なのですから。

だから、私たちはあらゆるものを、自分中心に二つに分ける、自力の心がひるがえされ、すてられるということがないかぎり、劣等感と孤独から解放されるということはないわけです。
(『ただ念仏せよ 絶望を超える道』中川皓三郎 著 東本願寺出版発行より引用しました)

中川先生はこの書籍の中で、「自分と自分、自分と他人が一つになること」こそが“生きている私たちを貫いてある私たちの欲求”であり、「二つにものが分かれているところに苦を感じる」と言われます。
劣等感は自分と自分が、孤独は自分と他人が分かれているのです。
仏さまのお話を通して、自分には見えない「自分の思い・自力の心」を見つめ直すことで、「一つになる」ことが見えてくるのだと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 09:49Comments(0)本堂に座って

2022年03月14日

今日も快晴!? 2022年3月



オオタ ヴィン監督の「夢見る小学校」という映画を観に行きました。
少し前に同じ監督の「いただきます」という映画を観てとても良かったのと、映画のキャッチコピー「テストがない、宿題がない、『先生』がいない小学校」という言葉が面白いと思ったからです。
映画のHPにあった「監督メッセージ」も、とても素敵でした。
先生がいない・きのくに子どもの村学園。通知表がない・伊那小学校。校則がない・桜丘中学校。
こんな(変な、というか真当な)学校もアリなんだよ。
こんな(変な、というか素敵な)先生や校長がいるんだよ。
「自分のままでいいんだよ」 「人と違っていてもいいんだよ」 「がんばらなくていいんだよ」
もっと、子どもを自由にしてみませんか。子どもがやりたいことを応援しませんか。
映画では3つの学校が紹介されていますが、どの学校も、「まず子どもを幸せにしよう」というスローガンのもと、先生(おとな)達が日々子どもたちと向き合ってくれていました。

30年前から「体験学習」を実践している私立のきのくに子どもの村学園では、本の勉強よりも、実際に作ったり調べたりする活動が重視されます。
国語や算数と言った教科の区分はなく、「プロジェクト」と呼ばれる体験学習が時間割の半分を占めていて、子どもは好きなプロジェクトを選んで1年間所属します。
校庭に巨大な遊具を建てる子どもたち、畑に種を蒔き、収穫した蕎麦を自分で調理して食べる子どもたち、紙をすく子どもたち等々…。
ここの卒業生は、「自分の頭で考える力が際立っていましたね」とは、文化人類学者の辻信一さんの言葉です。
 
私立だから自由度が高いかというと、60年以上成績通知表がない「総合学習」を続ける伊那市立伊那小学校や、校則、定期テストをやめた世田谷区立桜丘中学校など、公立の学校も紹介されています。
桜丘中学校の元校長の西郷孝彦さんは「意味の無い校則は子どもの考える力を奪うので無くしました。公立学校も、実は、かなり自由なんだよね」と仰っています。

増え続ける「発達障害児(※原文のまま)」についても、前述の西郷さんは「我々人間は程度の差があっても全員が発達障害なんです。
例えばあなたが軍隊に入って非人間的に扱われたとしますよね。
こんなところは嫌だってなるでしょ。そうすると軍の上層部から言われるわけです。『おまえは発達障害だ!』とね。」オオタ監督は「僕は、『発達障害』」といわれる未発達の部分にこそ、なにか素晴らしい能力が眠っているのだ、と感じます。
不得意なことをやらせて均質化するのではなくて、楽しくて得意なことをどんどん伸ばせば良いんじゃないの。
子どもたちの宝物のような潜在能力が圧迫されている現実を、かなしく思うのです。」
 
きのくに学園にも、発達障害と診断された子どもが転校してくることがあったそうですが、「多くの子は、僕からしたら全く普通の子ども」とホリ校長先生。
映画のナレーションの「画一的な学校教育が発達障害を生んでいるのかもしれません」という言葉にもはっとしました。
全ての学校がこうでなくても良いけれど、こんな学校がどの地域にもあって、子どもたちが自分で選べたら良いなと思いました。

  

Posted by 守綱寺 at 09:47Comments(0)今日も快晴!?