2022年03月14日
お庫裡から 2022年3月
お夕事で読む『三帰依文』の冒頭、「人身受け難し 今 すでに受く」の文を読む度、この年令になって改めて胸が熱くなる。
のどかな山家が私の世界だった子供時代。
高校生になって初めて、外の世界に触れた。途端に比較の世界に振り回され、「私は何故私に生まれたのか」という深い問いの淵に落ちた。
孫達が勉強している姿を見ると、こんな姿、高校生の私には無かったなーと思う。
『三帰依文』は続けて「仏法聞き難し、今すでに聞く」と続く。
私の深い淵から救い上げられたのは、「あなたはあなたに成ればいい。
あなたはあなたで在ればいい」という本願の言葉に深くうなずけた時。新しいいのちによってお母さんにしてもらえた時だった。
あなたはあなたで在ればいい」という本願の言葉に深くうなずけた時。新しいいのちによってお母さんにしてもらえた時だった。
我が子に託す願いが、私にも同じようにかけられていた。大きな喜びに包まれた。
そして『三帰依文』は続く。
「この身、今生において度せずんば、いずれの生においてか、この身を度せん」と。
この尚子と名付けられた身は、有限ないのちなのに、無限のいのちに支えられている。無限のいのちは、有限のいのちを賜った者しか体感できない。
無限のいのちの名は「南無阿弥陀仏」、私の本名。
「この身、今生において度せずんば、いずれの生においてか、この身を度せん」と。
この尚子と名付けられた身は、有限ないのちなのに、無限のいのちに支えられている。無限のいのちは、有限のいのちを賜った者しか体感できない。
無限のいのちの名は「南無阿弥陀仏」、私の本名。
私は、煩悩具足のままで、無限のいのちに支えられ、有限の尚子を頂いて、安んじて、今生を渡していける。
Posted by 守綱寺 at 09:51│Comments(0)
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