2020年06月26日
清風 2020年6月

「ありがたい」とは、じつは「在り難い」と言う意味です。(略)
在り難いことが在ったということは、つまり奇跡ということです。
池田晶子(1960~2007)『死とは何か。』P92 毎日新聞社刊
『14歳からの哲学』トランスビュー社刊 など著書多数。
今回のコロナウイルスの騒動から、蓮如上人の手紙を集めた「お文」の4帖目9通「疫癘のお文」が思い出されました。
今回はそのお手紙によりつつ、教えられたことを記すことにいたします。
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。
これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。
さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。
これまことに道理ぞかし。(以下略)
「お文」1492年(延徳4)6月
この文章を読んで、どう思われたでしょうか。
我が国では新聞にテレビに、コロナに感染した人の数・亡くなった人の数が、国別で、さらに国内では地域別に報道されているのを見ていると、蓮如さんのこの「お文」の「さのみふかくおどろくまじきことなり」という筆運びは、一見淡々として事実を描写されているようで、それはこの文章の前に置かれている「これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり」と書かれてあるように、当時のこのお手紙の読み手(門徒衆・百姓衆)にとっては、いのちあるもの・生まれたものは必ず死ぬ(人生をしまっていく)のだということは、読む人々にとっては極めて当たり前のことであって、「さのみふかくおどろくまじきこと」として通じる出来事であったのでしょう。
21世紀(2020年)の現代の我が国の現状ではどうでしょうか。
ところで英語のendには、辞書を引くと二つの意味が掲載されています。
1つはご存じのごとく「終わり」という意味です。もう1つは「目的」という意味です。
「死」には「1.生の終わりである死」「2.生の完成である死」の2種類の意味があるということをendから確かめられるのでは、と思うことです。
そこで、釈尊の生涯を語る言葉に目を向けてみます。
1つは誕生にまつわる「天上天下唯我独尊」(誕生偈。この世にあって、私は一人であって尊い。
自由人である。俺が一番偉いという意味ではない。)。
2つには、お覚りを開かれた時の「我は不死を得たり」(無死ではない。)という宣言。
3つには、亡くなった時を語る言葉として、釈尊入滅後、仏弟子によって言い伝えられてきた「涅槃」(インドの言葉ではニルヴァーナ。完全燃焼の意と言われている。)です。
この釈尊の生涯を語る言葉と英語のendという単語から教えられながら、あらためて蓮如上人の「疫癘のお文」を確かめてゆきたいと思います。
釈尊の死が仏弟子によって涅槃(完全燃焼)と称えられてきたということからすれば、それぞれの人は、誕生偈にある如く、誰もが天上天下唯我独尊、独立した個であって、みんな誰もが尊いのであるということなのでしょう。
以上のことから、覚りを開かれた時の宣言「我は不死を得たり」というのは、いわゆる不浄なものとして忌み嫌うタブーである「死」を克服したという宣言であったのです。
「覚り」は「偉大な気づき」とも言えるのでしょう。
「誕生偈」の「唯我独尊(一人であって尊い)」というのは、人生を生きるに当たっては「他人と比べる必要がない」という「自由にして、しかも自在なる」境涯を私は獲得した宣言とも言われています。
さて、今回のコロナ騒動から、どんな課題を私どもは汲み取っていけば良いのでしょうか。
ああいうこともあった、こういうこともあった、しかし何にもなかった、これが私ども人間の記憶というだけでは、何とも惜しいのでは…と思うのですが。
釈尊の言葉を再度紹介させていただきます。
どうかならなければ幸せになれないものは、どうなってでも、その幸せが長くは続かない。
あなたは、あなたで在ればよい。
あなたは、あなたに成ればよい。
奇跡とは、いつも「当たり前」に思っていたことが実はすごいことだったと気がつく、そういうことなのでした。
ですから有ることが難い、それは「有り難う」という感謝の言葉になったのでしょう。
2020年06月26日
お庫裡から 2020年6月

我家の食卓は、西向きの部屋でガラス戸になっています。
私の席は、夫と並んで西に向き、窓の外がよく見えます。
コロナのニュースが流れ始めた頃は、私の席から一番左、山門の屋根の外に太陽が沈んでいました。
それから門の中に、鐘楼をまたぎ、今は本堂の大屋根の奥に太陽は沈みます。
日々の変化にはあまり気が付きませんが、これ程の違いになるとやっと気が付きます。
時は留まっていない、移ろっているのだ、と。
門のまわりの枯れ木のようだった大欅も、今は、空を覆うように葉を茂らせています。
食卓の私達の前には、開くんと誓くんが座ります。
2人はとても仲良しで、よくお喋りをしています。
学校の話をしていると、私達もついつい仲間になったように錯覚をして、「おじいちゃんの頃はなー」とか「私の高校では」と口をはさんでしまいます。
2人が話を止めて、はっと気が付くのです。
高校生の孫達とは、一昔どころでは無く、半世紀以上も時代が違っていると。
孫達と一緒の時間は、私達の過ぎ来し日々を思い出させます。
そのどれが欠けていても、今は無かったのです。
本当に今まで有り難い人生を歩ませて頂いてきました。
その中味に、怒りも、腹立ちも、涙も、みんな含まれていて、そこが本当に有り難いのです。
2020年06月26日
今月の掲示板 2020年6月

僕の舌うごけ、というたとき
もううごいたあとや
僕よりさきに
僕の舌動かしたのはだれや(太田健一 5才)
今いる処に
しっかりいるのが一番いいのだ(草野天平)
スムーズに呼吸できることは
どんなにありがたいことか
ものを食べることができるとは
どんなにありがたいことか
2本の足で立つことができるとは
どんなにありがたいことか(高瀬善夫)
私は
私であることを忘れながら
私である(金子大榮)
ああ もったいなし もったいなし
この手をどちらにあわせたものか
うしろには 月が出ている(山村暮鳥)
人間の不安は科学の発展から来る
進んで止まる事を知らない科学は
かって我々に止まる事を許してくれた事がない
徒歩から馬車 馬車から汽車 汽車から自動車
それから航空船 それから飛行機と
どこまでいっても 休ませてくれない
どこまでつれて行かれるか分からない
実に恐ろしい(夏目漱石「行人」より)
人間はつまずくものであります
歩まんとすれば 必ずつまずく
求道の歩みも また
つまずきの道でもあります(高原覚正)
何やら大きなうねりに
浮きつ沈みつ流れたが
ここは 私をはぐくむ
功徳の宝海(榎本栄一)
2020年06月26日
本堂に座って 2020年6月

コロナウイルスの感染拡大防止のため、「3密を避ける」「外出を自粛する」ことが強く求められています。
読み聞かせ会に来てくれている未就園児の子たち(とそのお母さん)はいろいろ大変だろうなぁ思います。
そこで今更な感じもありますが、以前もこの欄で紹介した内海聡医師が「子どもがグズるときの対処法と心構え」を書いておられたので、紹介します。
子どもがグズるときの対処法と心構え
父親であれ母親であれ子どもがグズると困るようです。
ここでは医学的な知識も参考としてうつみん的対処法を書いてみましょう♪
1.まずなによりも抱っこすることです。理由は何でもよくそこでグズっているのを怒ったところで問題は解決しません。
グズるのは単純にいちばん信用している親に聞いてほしいことがあるからであり、聞く前に安心感を与えることが重要であって、怒ってもグズっているときに聞いても問題は解決しません♪
2.親として自分の何が「それ」を引き起こしたか考えます。
そのタイミングこそ抱っこするときでもあるということです。
往々にしてそれはどうでもいいことであったり、食べさせているモノであったり日々の習慣であったりします。
それを省みない限り対処にはなっていませんよね♪
3.大人でもそうですが人間は一度反動という行動を起こします。
相手が間違っておらず自分が間違っていると思ってもそういう行動をするのです。
子どもがグズる時はそういうモードに入っているときでもあり、それを理解したうえで落ち着くまで待ってみることです♪
4.待つために重要なのは時間を取っておくということです。
つまり子どもと一緒に出かける時に大人の都合で時間割を決めるなど論外です私は子どもと出かけるときは二倍かかることを前提に予定を組みます。
これは子どもだけでなく大人側の余裕も生み出すのです♪
5.さて、ではなぜグズっているのかを聞いてみましょう。
聞けないならなぜグズっているのかを考えてみましょう。
きっと言葉であれ体であれ訴えがあるはずです。
子どものやることは大人の常識から考えると理不尽なことがありますが、彼らにとっては理不尽でも何でもなく必然でやっているのです♪
6.内容が躾けたほうがよいようなものだった場合、ダメという言葉を使うのは非常に良くありません。
そうではなく「なぜダメなのか」「なぜそうなのか」を話し、それを理解してもらうことが重要です。
これは子どもが外で、お菓子を友達と食べてきてしまう場合も同じことが言えるのです♪
7.内容がややわがままであっても親に対する求めの場合、ここが最も重要です。
それは単純にして最も難しい行動、つまり「ごめんね」と謝ってあげることです。
子どもは未熟なのでとにかく感情を満たすことを望んではいますが、同時にいつもそのことに罪悪感を感じているのです♪
8.そうするとどうなるか、時間をおいてから逆に子どもが謝ることが最もよくみられるパターンです。
これは児童心理でもそうですが、子どもは自分のわがままを聞いてもらえるかどうかを試しているのです。
だからそれを前提に親が聴いていることはとても大切です♪
9.もし時間に余裕があるなら、親ではなくほかの人(この場合まさにジジババなど)に聴いてもらうことも重要です。
場合によっては友人の大人でもいいのですが、親には話せないが他人には話せるということがあります。
これは浅い裏心理ではありますが子どもでも隠していることがたくさんあるのです♪
(内海聡医師のフェイスブックより一部を引用しました。)
2020年06月26日
今日も快晴!? 2020年6月

6月からいよいよ通常通り学校が始まることになりそうです。
3月のはじめから思いがけない、今まで経験したこともない「休校」という事態で最初はどうなることかと思いましたが、我が家の子どもたちは案外動じておらず、「昼ご飯が7人分になった」という他は特にこれと言って変化無く過ぎました。
受験生になる長男は、学校のお友達と勉強目的のLINEグループを作り、「Tくんはすごい。休校中も一日10時間勉強してる。ぼくも彼らのレベルまで自分を引き上げたい!」と、良い刺激を貰って頑張っているようです。
高校生になったばかりの次男も、学校から山盛り出される宿題に、(やらないとまずい・・・)と思うようで、黙々と机に向っています。
中学生になったばかりの娘は、毎日近所のお友達やお寺にやってくるサークルのお友達と、思う存分遊んで過ごしていました。
圧巻は、裏の広場に作った「秘密基地」です。
丁度伐採した木や、竹藪の整備を行って切られた竹などが山のように積んであったので、材料には事欠かなかったようです。
竹を組んで基地の骨組みを作り、刈られた笹を天井に使い、床にも敷き詰めて中で座ることも出来、中には伐採した木の切り株を置いてお食事テーブルになっていました。
丸二日がかりで近所のお友達と作り上げた巨大秘密基地はなかなかの出来映えでした。
他にも、入れ替わり立ち替わり筍堀りに来るお友達と、竹藪の中に第2の秘密基地を作ったり、よくしなる竹をトランポリンのようにして遊んだり、裏の田んぼの用水路でドジョウやメダカを捕まえたり、近くで畑をやっているお友達の畑で遊ばせて貰ったり、暑い日は水鉄砲で打ち合い、雨の日は家の中でも秘密基地を作ったり、本を読んだりピアノを弾いたり、思う存分自由な時間を満喫したようです。
中学校に入ると、部活や宿題に追われて、自由になる時間が少なくなると思っていたところ、思いがけない「暇な時間」という贈り物をもらえたようです。
そうして遊び尽くすと、「勉強をやらなきゃ!」という気持ちになるようで、「午後から遊ぶ約束をしたから、午前中にここまで宿題を済ませる」と、自分で計画を立てて動くようにもなりました。
私も(親の監視がない方が良いだろう)と、毎日草取りに出るようにし、日中の子どもたちの姿を見ないようにして過ごしました。
そんな時に、ネットの記事で以下のようなものを読み、(ああ、そうだなあ)と思えました。
・・・校則ほか学校における不必要な干渉を排した学校として知られる東京・世田谷区立桜丘中学校前校長の西郷孝彦さんは、「いまこそ一歩引いて子どもを見守ってほしい」と話す。
「外にも出られず、家にいる時間が長い分、勉強など親が重要視することに費やす時間より、ダラダラと過ごす時間の方がどうしても長くなる。そんな子どもを見て、ついイライラしてしまうでしょう。
でも、考えてみてください。
人生でこんなに何もしなくていい時間を過ごせることなど、そうあるでしょうか。
65年間の私の人生を振り返っても、学生時代は勉強や部活、教員になってからは常に時間に追われ、これほどぼんやりできる時間はありませんでした。」西郷さんはこの時間を、突然プレゼントされた“自由な時間”と考えてほしいと語る。
「お子さんが、勉強以外に打ち込める好きなことを発見したら、大成功です。ゲームをやりすぎているんじゃないか、という心配もわかりますが、やりつくせばいずれ飽きます。子どもたちは、自分の不安をゲームで埋めているともいえる。
そのことに気づいて、大人はただ見守ってあげていれば大丈夫。
彼らには、親から何も言われずとも成長する力があります。
アメリカの児童文学作家のE・L・カニグズバーグは、『ベーグル・チームの作戦』の中で、《(成長の大部分は)ひとりでいる時に起こる》と書いています」。西郷さんが、実践してきた教育は、「子どもに不必要な干渉をせず、子どもを信じて、子ども自身に任せる」というものだったそうです。
『家で子どもと一緒にいる時間が長いからこそ干渉がすぎれば、子どもの、自分で考えて行動するという思考に悪影響を及ぼしかねない。
「学校に行かない時間」とは、言い換えれば「子どもが自分の頭でものを考える時間」でもある。
・・・校則廃止中学の前校長「何もしない時間は子どもの成長に必要」NEWSポストセブン / 2020年5月9日より
2020年06月26日
清風 2020年5月

足もと 浅田正作
なにもかも
当たり前にしている程の不幸が
またとあろうか
如来はつねに
足もとの幸せにきづけよと
仰せくださる
『続 骨道を行く』浅田正作 著(1919年石川県生まれ。日常生活における、浅田さんと念仏との対話を詩集としてまとめられた。)
コロナウイルスのパンデミック的現象で、人類が自己の存在を「万物の霊長」と呼んで、それを「当たり前」のこととして前提していることが、地球という一つの生命体から見れば、いかに「不遜な自称」であるかという事実が、「成長の限界」とか「地球温暖化現象」という言葉で指摘されています。
この人間の「不遜な自称」について、タゴール(1861~1941 インドの詩人、アジア初のノーベル文学賞受賞)はすでに、1917年に日本で行った講演でこうした事態を「人間の魂の収縮による緩慢な自殺」と預言しています。
つまり地球という一つの生命体から見れば、コロナは免疫機能で有毒ウイルスはむしろ人間の方だという一警告でもあると言われています。
(註 このタゴールの指摘については、『経済成長が全てか?』(岩波書店刊P2、2018年9月25日発行 第3刷より)
人間は自己を「万物の霊長」と自称しているのですが、生命体であるからには、いのちあるものの掟、つまり「生まれたものは死ぬ」ということ、そして生き物は全て共存共栄しているという事実(重々無尽、法界縁起)からは逃れられないということでしょうか。
さてそこで今回は詩と詞を紹介して、「コロナを縁」として、そこから何を学ぶのか、少しでも考えてみましょう。
不思議 金子みすゞ
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
だれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。
露 金子みすゞ
誰にもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで
花がほろりと泣いたこと。
もしも噂がひろがって
蜂のお耳へはいったら
悪いことでもしたように
蜜を返しに行くでしょう。
そして、高校生の言葉から。
当たり前にある日常のありがたさを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます。
(2016年 春の甲子園・選抜高等学校野球大会 選手宣誓)
この度のコロナウイルスによる感染の現象は、ここに紹介した詩人・若人の持っている想像力に比べて、現代に生きる我々大人が如何に貧弱になっているかを知らされるのではないでしょうか。いのちあるものは、必ず死ぬのですね。
知を持った人間は、「生死を超える」あるいは「生死を離れる」という課題を、自分の生き様の中心としたのですね。
現代はどうでしょうか。
生きることの全面で問題とされているのは「如何に生きるか」であり、「何故生きるのか」は真面目に問えなくなってしまっています。
最後に、釈尊の言葉と山田ルイ53世(漫才コンビ「髭男爵」)の言葉と山村暮鳥の詩を紹介します。
どうかならなければ幸せに成れないものは、どうなってでもその幸せが長くは続かない。
(釈尊)
あなたはあなたで在ればよい。あなたはあなたに成ればよい。 (釈尊)
なりたい自分にならなくても、なった自分で生きたらいい。(山田ルイ53世)
病床の詩 山村暮鳥
よくよくみると
その瞳の中には
黄金の小さな阿弥陀様が
ちらちらうつっているようだ
玲子よ
千草よ
とうちゃんと呼んでくれるか
自分は恥じる
2020年06月26日
お庫裡から 2020年5月

新型コロナウイルスは、2020年の世界の景色をガラリと変えてしまいました。
2週間の辛抱、ここが瀬戸際、瀬戸際の瀬戸際と自粛要請が長引き、社会は閉塞感が深まるばかりです。
東京の、小さな子どもを2人抱えている娘が、マンションの中でどう日々を過ごしているのか。
(大きな声を出さないの、おうちの中でトントンしないの、等)せめてゴールデンウィークには、田舎の空気を吸って草っ原を思いっきり走り回らせてやりたいと願っていたのに。
「私達、コロナの症状は今、出ていなくても、東京にいるから、もしかしたら保菌者になっているかもしれないでしょ。
老人が罹ると重症化しやすいし、命を落とす確率が高いんだって。
お母さん達には、もう少し生きていてもらいたいから、今回は帰りません。」
娘達のステイホームを心配している私が、逆に命を落とさないようにと心配されていたのです。
今の現状をどう受けとめ、どう向きあうか、どんな問題でも私の姿勢が問われているのだと思います。
用心は大切だけれど、そればかりに心を奪われず、身のまわりを見渡せば、何でもない事柄の中に新しい発見があります。
それ等が、生きる喜び、人間に生まれた尊さではないかと思います。
咲いた花を見て「きれいだね」と言えるのは、人間だけなのですから。
季節は仲春から晩春、そして初夏へと移っていきます。
目で見て、肌で感じて、それを口に出してみる。それだけでもギスギスしがちな私の心が和んできます。それが人の間を生きる人間が、人間性を取り戻せる第一歩だと信じます。
2020年06月26日
今月の掲示板 2020年5月

(今月のことばは、毎田周一先生の「片々」から頂きました。)
人は随分おかしなことをするものだ
どんなことをするかって
静かに胸に手をおいて
考えて見給へ
どんなに計画的に生活する人でも
自分の死期を
確定した上でのことではない
人は
不幸を思い過ごす
癖がある
誤解を弁解すると
弁解が誤解される
人が自分を誤解しているというが
正解されると
何か立派なものが出てくるんですか
人よ
よく泳ぐといっても鰹と何れぞ
よく跳ぶといってもカンガルーと何れぞ
人間でなければ出来ぬことをしようじゃないか
解ったような顔をしてものを言っているのは
解っていない証拠だ
恐がって逃げる蛇を
人が恐がる
私は何ものでもないと思う時
自由だ
2020年06月26日
本堂に座って 2020年5月

コロナウイルスの影響で多くのイベントが中止になったり、様々な施設が閉じていたりと、“自粛”が求められる昨今ですが、暖かさと適度な雨のおかげ(?)で境内の草は順調に伸びています。そんな中、ラジオを聞きながら草取りをしていると、CMなどでよく耳にする歌が流れてきました。
特に歌詞の内容を取りあげて、「この暗い時期に希望の光となって欲しい」「日常にある煩わしさ…でも」というコメントと共に紹介されていたので、あらためて歌詞を読み返してみました。
毎日がスペシャル 作詞:竹内まりや
毎日がスペシャル 毎日がスペシャル
Everyday is a special day
雨で始まるウィークデイは ユーウツの種さ
寝グセの髪に 低めのテンション
やりそびれた宿題と 彼のひとこと
思い出して またメゲる
でも気づいてるの 目覚めた朝 息をしてるだけで 幸せなこと
だから良い天気じゃなくっても お休みじゃなくっても
占い“ラッキー”じゃなくってもね
Woh 毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Special day for everyone
毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Everyday is a special day
シナモンロール頬ばったまま 駅へ急げば
5秒違いで 電車を逃した
雨に汚れたローファーが やけに重たい
泣きたくなる こんな時
でも知っているの 人生とは 心の持ち方で どうにでもなると
たとえ優等生じゃなくっても 人気者じゃなくっても
ナイスなbodyじゃなくってもね
Woh 毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Special day for everyone
毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Everyday is a special day
誰もがみんなちょっとずつ 年をとってゆくから
何でもない一日が 実はすごく大切さ
今日が誕生日じゃなくっても 記念日じゃなくっても
給料日じゃなくってもね
So 毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Special day for everyone
毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Everyday is a special day
Woh 毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Special day for everyone
毎日がスペシャル 毎日がスペシャル Everyday is a special day
Very very special day!
ふだんでも日々様々なことが起こりますが、特に今は毎日コロナウイルスに関する話題ばかりで気が重くなりがちです。
でも少し視点を変えると「目覚めた朝 息をしてるだけで 幸せ」「何でもない一日が 実はすごく大切」だと、確かに感じられます。
“今日が特別な一日”…こんな今だからこそ、一日を大切に過ごしたいものです。
2020年06月26日
今日も快晴!? 2020年5月

コロナウィルスの影響で、思いも寄らない状況になってきました。
子どもたちは3人全員休校で自宅待機となりました。
お寺で活動している様々な子ども向けの催しやお稽古事、筍コンサートや春休みお楽しみ会なども全て中止することにしました。
初めのうちは、何をどこまでやれば良いのか、また止めれば良いのか。
楽しみにして下さっている方もあるのに、中止の決断で大丈夫だろうかと散々悩みました。
しかし、ここにきて休校も5月末まで延長。
子どもたちも、学校のない生活の中で、家で宿題をこなす日々にもリズムが出来てきました。
焦りのような感覚に心乱されるときもありましたが、ここは思い切って止めるという決断もありかもしれないな…と腹をくくりました。
となると、時間は有り余るほどあります。
これまでほぼ毎日何か決まった予定があったのに、スケジュール帳は真っ白です。
せっかく時間が出来たのだから、今まで忙しさを言い訳になかなか手が出なかった色々な場所の掃除をやることにしました。
桜の時期は、桜の見える裏の広場に近い通路や土手の草取りです。
ハラハラと桜吹雪の散る中で、春の日差しを受けて黙々と作業をしていると、本当に気持ちが良くて時間を忘れるほどでした。
桜が終わると、筍掘りの時期です。
毎日入れ替わり立ち替わり、お檀家さんや近所の方や友人たちが筍を掘りに来てくれるのを迎えながら、一緒に竹やぶに入って、これまでほぼやったことのなかった竹やぶの整備を始めました。
伸び放題になっていた笹を刈り、生えかけている木を切り、中途半端に切られた竹の切り株を低い位置で切り整えてゆくと、見違えるほど藪の中が明るくなりました。
そうか、今まで(自分の仕事じゃない)と思っていたことも、自分がやれば良かったんだ!と気づいたら、一気に目の前が開けたような気分になりました。
気になっている場所があれば、自分で鎌を持ち、軍手をはめて、自分が動けばいい。
そう思って動き出してみると、やればやるほど面白くなって、もう昼ご飯を食べに帰る時間も惜しくなり、自分はおにぎりを作り、家にいる旦那さんや子どもたちに「昼ご飯は冷蔵庫のこれとこれで適当に食べて」と頼み、夕方力尽きるまで体を動かしていると、マスクもいらないし、コロナ騒ぎなど何も気にならなくなってきました。
毎日外でくたくたになるまで体を動かし、草を抜いて笹を刈って竹を切る。外出するのは週に1~2回の食材の買い出しだけ。本当に生活がシンプルになり、無駄がそぎ落とされていくような感覚です。
今まで忙しすぎたんじゃないか。
これが本来やるべきことだったんじゃないか。
ふとそんなことも感じます。仕事も学校も、これまで「当たり前」だったことがどんどん変化しています。
仕事の形態が在宅勤務やテレワークに切り替われば、通勤ラッシュも残業とも無縁になります。
学校も「行けない」というところからスタートすると、そもそも「不登校」という概念が成立しなくなるので、これまでの画一的な学校教育になじめなかった子どもたちにとっては、むしろ新しい可能性が開けたり、思いがけないプラスの方向に向っているのかもしれないとも思います。
本当なら毎日学校に通って昼間は見かけないはずの子どもたちと、こんなに毎日顔を合わせて過ごす時間ももう最後かもしれないと思うと、本当に貴重な時間をもらえたなと思えます。
コロナ騒ぎで経営不振に陥った飲食店や、イベントの中止で影響の出た観光業や農家さんなど、困ってみえる方も多いと思います。
医療関係の方など最前線でお仕事をされる方、休校中の先生も本当に大変だと思います。
しかし、感染の拡大で人の移動や仕事に大きな影響が出ると、大気中の汚染物質や温室効果ガスが急減していているとのニュースもあります。
空気中の一酸化炭素は主に自動車の排ガスが原因となりますが、地球の温暖化につながる二酸化炭素の排出量も急減しているそうです。
地球規模で考えてみると「本当はこれくらいで良いんだよ」と言うことかもしれません。