2020年06月26日
清風 2020年5月
足もと 浅田正作
なにもかも
当たり前にしている程の不幸が
またとあろうか
如来はつねに
足もとの幸せにきづけよと
仰せくださる
『続 骨道を行く』浅田正作 著(1919年石川県生まれ。日常生活における、浅田さんと念仏との対話を詩集としてまとめられた。)
コロナウイルスのパンデミック的現象で、人類が自己の存在を「万物の霊長」と呼んで、それを「当たり前」のこととして前提していることが、地球という一つの生命体から見れば、いかに「不遜な自称」であるかという事実が、「成長の限界」とか「地球温暖化現象」という言葉で指摘されています。
この人間の「不遜な自称」について、タゴール(1861~1941 インドの詩人、アジア初のノーベル文学賞受賞)はすでに、1917年に日本で行った講演でこうした事態を「人間の魂の収縮による緩慢な自殺」と預言しています。
つまり地球という一つの生命体から見れば、コロナは免疫機能で有毒ウイルスはむしろ人間の方だという一警告でもあると言われています。
(註 このタゴールの指摘については、『経済成長が全てか?』(岩波書店刊P2、2018年9月25日発行 第3刷より)
人間は自己を「万物の霊長」と自称しているのですが、生命体であるからには、いのちあるものの掟、つまり「生まれたものは死ぬ」ということ、そして生き物は全て共存共栄しているという事実(重々無尽、法界縁起)からは逃れられないということでしょうか。
さてそこで今回は詩と詞を紹介して、「コロナを縁」として、そこから何を学ぶのか、少しでも考えてみましょう。
不思議 金子みすゞ
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
だれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。
露 金子みすゞ
誰にもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで
花がほろりと泣いたこと。
もしも噂がひろがって
蜂のお耳へはいったら
悪いことでもしたように
蜜を返しに行くでしょう。
そして、高校生の言葉から。
当たり前にある日常のありがたさを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます。
(2016年 春の甲子園・選抜高等学校野球大会 選手宣誓)
この度のコロナウイルスによる感染の現象は、ここに紹介した詩人・若人の持っている想像力に比べて、現代に生きる我々大人が如何に貧弱になっているかを知らされるのではないでしょうか。いのちあるものは、必ず死ぬのですね。
知を持った人間は、「生死を超える」あるいは「生死を離れる」という課題を、自分の生き様の中心としたのですね。
現代はどうでしょうか。
生きることの全面で問題とされているのは「如何に生きるか」であり、「何故生きるのか」は真面目に問えなくなってしまっています。
最後に、釈尊の言葉と山田ルイ53世(漫才コンビ「髭男爵」)の言葉と山村暮鳥の詩を紹介します。
どうかならなければ幸せに成れないものは、どうなってでもその幸せが長くは続かない。
(釈尊)
あなたはあなたで在ればよい。あなたはあなたに成ればよい。 (釈尊)
なりたい自分にならなくても、なった自分で生きたらいい。(山田ルイ53世)
病床の詩 山村暮鳥
よくよくみると
その瞳の中には
黄金の小さな阿弥陀様が
ちらちらうつっているようだ
玲子よ
千草よ
とうちゃんと呼んでくれるか
自分は恥じる
Posted by 守綱寺 at 10:59│Comments(0)
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