2021年12月16日
本堂に座って 2021年12月
先月号で、比べることについてわかりやすく書いてくださっている文章を紹介しました。
今月は、“比較”とならんで悩み・苦しみの原因になってしまう“分別(ふんべつ)”についてのお話を紹介します。
分別する
「選択する」という行為の前に、人は「区別する」という行為をしている。
「右に行こうか、左に行こうか」
このとき、右と左の区別をしないと選択はできない。この区別をすることを、仏教では「分別」というのかな。
分別ゴミはブンベツと読むけれど、仏教用語ではフンベツと言うんですね。
「そろそろいい悪いの分別がついてもいい頃だろ」というときに使う「分別」ですね。実はこの分別が悩みの基本になっているみたいだ。
人は分別をして、比べて、それから選択の判断をする。
では判断の基準はどこにあるのか。僕たちは未来に対して、「ココチイイ」が待っているか「キブンワルイ」が待っているかを予測するみたいだ。
予測して「キブンワルイ」より「ココチイイ」方向、つまり幸福に向かおうとするんじゃないかな。
快と不快。これが、判断の基準だと思う。
不快になると判断に失敗したと感じる。
失敗して後悔すると、「あのとき、別の道を選んでいれば……」ということになる。
この後悔するという気持ちが起きるのは、出た結果とは別の結果を想像できるからなんだ。
僕たちが「快」を知っているときは、それと対立する「不快」も当然理解している。
「幸福」を知っているときは、それと対立する「不幸」も知っている。
どうやらこの対立する概念というのは、一緒に頭に入ってくるようだ。
上という概念を知るときは、下という概念もセットで覚える。右と左もワンセット。
楽しいと苦しい、好きと嫌い、明と暗、表と裏、内と外などみんなワンセット。
希望を抱けば、失望する可能性があることを心の底では知っている。
失望する可能性については、目をつぶっちゃう人が多いですが。
「よし、希望する大学に受かってやるぞ!」
入試の例はわかりやすい。
こう意気込んでも、不合格になって失望する可能性を知っている。
どうしても失望したくなければ、希望を持たなきゃいい。
希望と失望は常にワンセットなんだから。希望を持つなら、失望することも心の片隅に覚悟しておけば、失望したときそれほどじたばたしないですむ。
僕たちはつい幸福と不幸を別々のものだと思ってしまう。
でも山の上と谷、あるいはひとつの波の上と下。勝手に分別しているだけ。
今体験していることが幸福か不幸かはわからない。
幸福だと思ってした結婚が、不幸のはじまりになるかもしれない。
僕たちが理解できるのは、ただ刻々の体験だけ。それなのに、現在と過去を比べたり、自分と他人を比べて、今の自分が幸福か不幸かを判断している。
不幸を感じている人は、他人や過去の自分と比較することで、自分を苦しめているんだね。
比較して見てしまうというのが、人間のものの見方の癖。
この癖が自分を苦しめる原因になっている。でも、分別をするなとか比較するなというのも難しい。
僕たちにまずできることは、「比較して見てしまうという、ものの見方の癖」があるということを知ることだ。
それを知るだけで、不思議なことに、凝り固まったものの見方が柔らかく溶けていくものだ。
(『ブとタのあいだ』小泉宏 著 メディアファクトリー発行より引用しました)
私たちは、ふだんの生活の中で様々なことを分けてしまっています。分けたときには「快」「幸福」の方を見てしまいますが、一方で「不快」「不幸」があることも、ちゃんと知っています。
物事には両面があるものですが、意識せずに「分けてしまう・選んでしまう」ことで、自分を苦しめてしまっています。
自分の“ものの見方の癖”を知ることで、自分を苦しめる“自分”が見えてくるのだと思います。
Posted by 守綱寺 at 10:41│Comments(0)
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