2020年02月06日
本堂に座って 2020年2月
東本願寺から毎月発行されている『同朋新聞』では、様々な分野の方に「人間といういのちの相」というテーマでお話を聞いています。
2020年1月号では、助産師の内田美智子さんが「生まれたことの尊さ」について話してくださっています。
多くの学校で子どもたちに「いのちの大切さ」を伝える授業が重要視されるようになり、私もその授業でお話をする機会が多くなりました。
そうした場で私がいつもお話をしていることは、「あなたが大切」ということです。
私たちは、よく「いのちは唯一無二だから」とか「お母さんがいのちがけで産んだのだから」などと言うのですが、それだけでは伝わらないと思うのです。
「いのちが大切」ということよりもむしろ、「あなたが大切」ということ。
そのことが伝わっていないので、子どもたちからしてみれば、「いのちが大切」ということが実感できていないのだと思うのです。
自分自身が大切にされているという実感がなければ、「いのちの大切さ」ということもわからないのではないでしょうか。
子どもたちの間で起こる「いじめ」が問題になっていますが、「いじめてはいけない」という話をしたところで、いじめた本人に自分自身が大切にされているという実感がなければ、他の人を大切にしなければいけないということも伝わらないと思うのです。
そもそも子どもたちは、両親や家族といった自分を庇護してくれる人との関係性の中でさまざまなことを学んでいきます。
小さい時は特に一人では生きていけませんから、お世話をしてくれる人が必要ですよね。
その人たちから受けた「大切にされている」という実感が、将来「いのちを大切にする」という心を育んでいくのだと思います。
子どものうちは自分を庇護してくれる人から伝えられることが大事だと思うのですが、現代は、昔に比べ生活環境が大きく変化し、家族や親子の関係も希薄になってしまっている場合があります。
その中で、子どもたちが「大切にされている」と実感することが難しくなってきているのではないかと思うのです。
相模原市の障がい者施設で何人もの入所者が殺害されるという大変痛ましい事件がありました。
その事件を起こした犯人から、「障がい者は生きている意味がない」というような言葉が発せられたことが報道され波紋を呼びました。
その時の「生きている意味」というのは入所者自身の受けとめではなく犯人による評価だったわけです。「いのちの尊さ」ということも自らの内に自覚されるものではなく、他者の価値基準による評価で考えられているところがさまざまな場面であると思うのです。
すると「いのちの尊さ」も人の評価基準によって変わってしまいます。
本来、どのような障がいがあっても、いのちはみな無条件に尊いと言えるはずなのですが、それを他者が自分の勝手なものさしで評価してしまっているのです。
障がいがある人は不自由なことがいっぱいあると思うのですが、その不自由を支えてくれる人が周りにたくさんいますよね。
その支えられているという実感が、障がいをかかえる人たちにとっては「尊さに目覚める」ことにつながっているのだと思います。
そして、障がいのある子をもつ親の方も、必死に生きているわが子を支えているわけですから、互いに「いのちの尊さ」を受けとめていくのでしょう。
ですから、「いのちの尊さ」とは、他者が評価するものではなくて、自らの内に自覚され、そして、自分らしく「あるがまま」に生きていることだと私は思うのです。
生まれた以上いつかは死を迎えますが、そもそも生まれてくること自体が人間の思いを超えた多くの偶然のうえにある奇跡なのですから、本当に尊いことだと思うのです。
私たちは親を選べませんし、生まれる場所も選ぶことはできません。
生きていくうえでどんな人生が待っているのかもわかりません。
辛いこともたくさんあるでしょう。
しかし、その人生のすべてのことに意味があり、「生まれたこと自体が尊い」ということに気づいていくことが大事なのだと思うのです。
(『同朋新聞』2020年1月号 東本願寺出版発行より引用しました。)
(『同朋新聞』2020年1月号 東本願寺出版発行より引用しました。)
Posted by 守綱寺 at 20:00│Comments(0)
│本堂に座って