2024年10月23日
清風 2024年9月
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お庫裡から 2024年9月
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今月の掲示板 2024年9月
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本堂に座って 2024年9月
2024年10月23日
今日も快晴!? 2024年9月
2024年10月23日
清風 2024年8月
2024年10月23日
お庫裡から 2024年8月
2024年10月23日
今月の掲示板 2024年8月
2024年10月23日
本堂に座って 2024年8月
本山・東本願寺から毎月発行されている『真宗』誌2024年6月号に、4月2日に勤められた全戦没者追弔法会において平川宗信先生が話された講演録が掲載されました。平川先生は以前から「憲法と真宗」についてお話をされていましたが、特に「日本国憲法と阿弥陀仏の本願」の関わりについて話してくださっています。お話の概要を、今月から数回にわたって紹介します。
<無三悪趣の願>
平和運動との関係で、本願は何を願っているのか。四十八願の第一願「無三悪趣の願」は、「地獄・餓鬼・畜生のない世界をつくる」という願です。これが阿弥陀さまの第一願、最初に置かれている願です。現代社会において「地獄・餓鬼・畜生」とはいったい何だろうかと考えますと、例えば、暴力・戦争などは「地獄」である。飢餓・欠乏・貧困、また貪欲などは「餓鬼」である。そして抑圧・隷従・差別などは「畜生」である。このように読み解くことができると思います。そして、この願いが成就した世界が『仏説無量寿経』に説かれた「国豊民安 兵戈無用」の世界です。国が豊かで民が安穏であり、兵隊も武器もない世界。そのように説かれています。その意味で本願は、暴力や戦争や軍事力がなく、飢餓や貧困や搾取もなく、そして抑圧や隷従や差別もない世界。そういう世界を願っていると言っていいだろうと思います。
最近「平和学」という学問が形成されつつありますが、そこでは、戦争や暴力のない状態を「消極的平和」と言います。そして、貧困や抑圧や差別がない状態を「積極的平和」と言います。さらに、戦争や暴力や抑圧や差別を正当化したり、助長したりする宗教・思想・芸術などがない状態を「文化的平和」と言います。単に暴力や戦争がないというのは、消極的な平和にすぎないのだと。それに加えて、貧困や抑圧や差別がない積極的平和、そして戦争や暴力や抑圧や差別を正当化・助長するような文化がない文化的平和があって、初めて本当の意味での平和が実現するのだと。最近の平和学では、そのように言われています。真宗が願っている平和、日本国憲法が願っている平和も、まさにそういうものではないかと思います。それを追求するのが、いわば真宗の平和主義であり、日本国憲法の広い意味での平和主義だと言うことができるのではないかと思うのです。ですから、念仏者の平和運動は、その願いを持って、そのような世界、国を実現していこうという運動ではないかと思います。いわば、日々の生活、日々の行動の中で、そのような願いを実現することにつながる行いを積み重ねていく。たとえ小さなことでもいい、ささやかなことであってもいいけれども、その願いに適うような行いを日々積み重ねていく。私は、それが大事なことではないかと思います。
<日本国憲法は「本願国家宣言」>
このような所に立って見ますと、現在の日本国憲法は、高く評価できる憲法ではないかと思います。日本国憲法は前文で、国際協調によって平和を維持していくと宣言し、地上から専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖・欠乏をなくすと誓約しています。その上で、第九条で戦争を放棄し、戦力の不保持と交戦権の否認を定めています。これは、戦争や軍事力のない世界、地獄・餓鬼・畜生のない世界を願っている本願と、まさに重なっています。それで私は「日本国憲法は本願国家宣言である」と言ってきているのです。
問題は、私たちが本願の願いである「地獄・餓鬼・畜生のない、豊かで安穏な非戦・非武装の世界」、憲法が求める「専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖・欠乏のない非戦・非武装の世界」を実現するために努力してきたのかということだと思います。私たちは念仏者として、真摯に平和活動・平和運動をしてきたのか。そのことが、今まさに私たちに問われているのではないかと思います。私たちの中にも「地獄・餓鬼・畜生」があります。暴力的なもの、貪欲なもの、差別的なものをいっぱい抱え込んでいます。けれども、それに流されるのではなく、それを脇に置いて本願に聞いて、本願に生きる生き方をしていく。そのための小さな行いを日々重ねていく。それが念仏者であろうと思います。それが、今私たちに願われていることではないかと思うのです。
(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行
念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)