2024年11月08日

清風 2024年11月


先月号の巻頭では、6年の苦行を経験した釈尊が、その苦行後の肉体を養生する(乳粥をいただかれた)中で自己の存在の事実に気付かれた言葉「私は 草であり 牛であり 大地である」を紹介したことでした。苦行を終え下山した釈尊は、生まれたものは老病死を免れることはできない(生老病死 四苦)という課題をどう解決していくのか、の問いに真向かいになられたのです。

 

 英語の「END」には「終わり」という意味と「目的」という意味があります。これは、釈尊が世に出て感得された法(ダルマ)が「“終わり”が人生の“目的”と言える質を達成した」ことに他ならない…と重なります。釈尊は人生の課題に「ニルバーナ(涅槃 完全燃焼)」を得ることで、解を与えてくださいました。

 

 2023年に勤修された親鸞聖人の「御誕生850年 立教開宗800年」慶讃法要において、「南無阿弥陀佛 人と生まれた意味をたずねていこう」というテーマが掲げられました。

「人と生まれた意味をたずねていこう」、これが釈尊が世に出られた意味であり、またこれが釈尊以来の仏教の歩みなのだ、というのが親鸞聖人が世に出られた意味であり、さらに仏教史あるいは宗教という言葉で語られてきた意味でもあります。

 

 そこで、「南無阿弥陀佛」という言葉で語られている願いというか、何がこの六字に込められているかを語ろうとしてくださっている文を紹介します。

 

 

 もし、あなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に雲が浮かんでいることを、はっきり見るでしょう。雲なしには、水がありません。水なしには樹が育ちません。そして樹々なしには紙ができません。ですから、この紙の中に雲があります。この1ページの存在は、雲の存在に依存しています。

 …この小さな紙の存在が、宇宙全体の存在を表しています。

  『仏の教え ビーイング・ピース ほほえみが人を生かす』

       ティク・ナット・ハン(1926~2022)著

             中公文庫(P68L1~L2、P70L11)

 

 

 この文章は、「この小さな紙の存在が、宇宙全体の存在を表しています」と語られているように、「一枚の紙」に限らず「私のこの身」もまた、「今ここに存在しているのは、宇宙に存在する全てのはたらき」によって“有る”のだということを言い表しているのでしょう。宇宙全体の存在のはたらきを受けているのだけれども、現代に生きる我々は、そんな事実を「当たり前」と通り過ぎてしまっていて、驚きも疑問も持てず、また、ありがたいと感謝することもないという感性の貧弱さ(無明)に気付けという警告でもあるのでしょう。

 

 人間に生まれて、苦しみ・悩みを経験しない人は、まずいないでしょう。逆に、私は苦悩が好きだという人も、あまりいないでしょう。人間にとって苦悩する・しなければならないというのは、巻頭の「人間が 人間だけでやっていく 現代の問題は そこにある」と警告されているのです。

 

 

  註)無明 妄念はもとより凡夫の地体なり『横川法語』(源信作)より


  

Posted by 守綱寺 at 09:42Comments(0)清風

2024年11月08日

お庫裡から 2024年11月


お風呂に入っている時、頭にふっとひらめいたものがありました。

そのひらめきに「あー、そうだったのか」と、私は深くうなずきました。

すると何だか心が晴れ晴れとして、自然に顔からも笑みがこぼれだしたのです。

しばらくその余韻に浸った後で、私はまた考えます。

今、私の頭にひらめいたことを、もし人に話したら、きっと「尚子さん、おかしいんじゃない」とか「とうとう痴呆が始まったの」なんて言われてしまいそうです。

2500年前、お釈迦様がお覚りになった時、そのお覚りの内容は、誰にも理解してもらえぬかもしれぬと思われ、しばらくは一人でそのお覚りを喜んで抱いておられたと伝えられています。

私の頭にひらめいたことをお釈迦様のお覚りの時のご様子になぞらえるなんて、とんでもないことです。

そのひらめきは、ただのたわごとです。でも何なのでしょうか。私の心の晴れやかさは。

私は日本国の愛知県の豊田市の町とは言えない田舎の大樹に囲まれた寺を生活の場としています。

所用でお寺の近辺に出はしますが、ほとんど寺の中の生活で、めったに隣の市へさえ出かけません。

そんな私の頭にひらめいたのは、「地球は私だ。宇宙は私だ。」というものでした。

その後、私の頭の中では「無量寿を思う心に死を越えて 生も思わず ただ朗らかに」という暁烏敏先生の歌が、くり返し鳴っていたのです。『弥陀仏は自然のよう(ハタラキ)を知らせんりょう(手立て)なり』という聖人の言葉を憶っていたので、こんな突拍子もない言葉がひらめいたのかもしれません。

でも何だか、うれしいうれしい私です。


  

Posted by 守綱寺 at 09:41Comments(0)

2024年11月08日

今月の掲示板 2024年11月


人間とは傲慢なものです

車にたとえれば

経済はエンジン 車を走らせる

政治はハンドル 車の方向性を与える

宗教はブレーキ ブレーキなき車は間違いなく暴走します

(五木寛之「運命の足音」より)

 

ひょっとしたら

人間の役割って

ただひたすらに

生きることかもしれない(池永 陽)

 

道はるか

行き詰まって また あるく

根気よく これをくりかえし

今生は しだいに かたじけない

(浅田正作)

 

私が正しい それが争いのもと

幸せという字は 辛いという字の上についてる

チョッピリのテンを十という字に変えると

幸せになるのです。

十分辛くて 初めて人は幸せになるのです

挫けないで 頑張ってください

(中島みゆき)

 

幸せって

富やお金じゃないと思う

 

お金があれば

楽しいことはできるかもしれないけれど

それは決して幸せじゃない

 

幸せの定義なんて

人それぞれだし

月並みなことばだけれど

お金は死んだら持っていけない

 

そんなことより

どう生きていくかが重要

その生きていく途中途中で

何かに出合い

そっと噛みしめるものが幸せ

心の奥で そっとね

 

噛みしめることのできるほどの

小さなもの

決して大きなものじゃないはず

その小さな幸せのつみ重ねが

生きていく上での

真の幸せのような気がする


  

Posted by 守綱寺 at 09:40Comments(0)今月の掲示板

2024年11月08日

本堂に座って 2024年11月


 今月も先月に引き続き平川宗信先生の講演録を紹介します。今回は、非暴力・不服従抵抗について、まとめのお話です。

 

<非暴力・不服従抵抗の有効性>

 非暴力・不服従抵抗で勝てるかと言えば勝てる保証は必ずしもありません。すぐに効果が出てくるかと言えば必ずしもそうではありません。長い時間がかかることもあり得ます。犠牲者が出ないかと言えば、そうとは限りません。そのことは覚悟しておかなければなりません。とはいえ軍事力で抵抗すれば勝てるのか、戦争はすぐに終わるのか、犠牲者を出さずに済むのかと言えば、そんなことはないわけです。平和学の研究によれば、軍事抵抗よりも非暴力・不服従抵抗の方が成功率は高いとされています。紛争が早く終わる可能性も犠牲が少なくて済む可能性も高いと言われています。軍事力の方が防衛力として優位にあるわけではないということです。

 

<非暴力・不服従抵抗の相手>

 そして「平等」も、仏教の基本だと思います。非暴力・不服従抵抗は、平等というところに立つ防御方法です。万一、日本に外国軍の兵士が侵入してきたとしても、この人たちを「敵」とは見ません。私たちと同じ人間であると、平等に見ます。

 非戦・非武装で平和外交をしている国に武力侵攻をするのは、明らかに国際法違反の犯罪、侵略罪に当たります。侵入してくる国の政府は、国際犯罪を行っている不法・不当な政府ということになります。その政府の命令によって送られてきた兵隊は、いわば犯罪的な政府にだまされて、犯罪的な行為に加担させられている人たちということになります。非暴力・不服従抵抗は、その人たちに「あなた方はだまされているのですよ、あなた方は犯罪的なことに加担させられているのですよ」と言って、そのことを理解し、自覚してもらうのです。理解し、自覚してもらうことによって、その人たちを不法・不当な政府から解放し、占領の道具として使われることから離脱してもらうのです。そうなると、占領はもう不可能になります。

 

<非暴力・不服従抵抗で守るもの>

 非暴力・不服従抵抗では領土に外国軍が入ってくることを止めることはできません。その意味では領土を守り国を守ることは、非暴力・不服従抵抗ではできません。軍事的防衛は、国を守るのです。その時国民はどのような立場に置かれるかというと、国を守るためにいのちを捨てさせられるのです。これが軍事力による防衛です。非暴力・不服従抵抗は、国を守るのではありません。自分たちで自分たちのいのちと暮らしを守るのです。私はこれが非暴力・不服従抵抗の意味だと思っています。

 念仏者が阿弥陀さまからいただくお仕事は、国を守ることではないと思います。阿弥陀さまは、いのちを捨てて国家を守れとはおっしゃっておられません。阿弥陀さまは、全てのいのちが共に生きる世界をつくりなさい、そのような世界を守りなさい、そのために全ての人々のいのちと暮らしを守っていきなさい、そのことに身を粉にし、骨を砕いていきなさいと、おっしゃっていると思うのです。私たちは、その願いに立って、全ての人々が共に生きていける世界、全ての人々のいのちと暮らしが守られる世界をつくるために、日々の暮らしの中で、それに向けた行いを積み重ねていく。そのことが重要だと思います。

 非暴力・不服従抵抗は、自分の国の政府が不法・不当なことをしている場合にも、それを止めるために行われるものです。この国の政府が、この国を地獄・餓鬼・畜生の国にしようとしたり、人々のいのちと暮らしを侵害したりするような場合には、この国の政府に対しても非暴力・不服従で抵抗しなければならないと思っています。

 

<おわりに>

 今、多くの人が危機感をあおられて、軍事力に頼ろうとしているように思えてなりません。しかし、軍事力は鬼神だと思います。頼もしく見えるけれども、ついていくととんでもないことになっていくのが、鬼神である軍事力だと思うのです。

 私たちはどこまでも本願を信じ、本願を恃み、鬼神は信じない、軍事力には頼らない。これが念仏者の生き方だと思います。その意味で今、私たちは「本願を恃むのか、それとも鬼神である軍事力を頼むのか」と、厳しく問われていると思います。

(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行

念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)


  

Posted by 守綱寺 at 09:39Comments(0)本堂に座って

2024年11月08日

今日も快晴!? 2024年11月


元々体育会系で運動が大好きな私は、境内の掃除にはまっています。守綱寺は、春夏は草取り、秋は落ち葉掃き、冬は竹やぶ整備と1年を通してやることがあります。掃除の効能として、①適度な運動が出来る。②汗をかき、新陳代謝が活発になる等、ダイエット効果抜群なのは言うまでもなく、③太陽の光を浴び土壌の微生物に触れ、免疫力がアップする。④ビフォー&アフターが分かりやすく、達成感がある。⑤顔を合わせた方に「ご苦労様です」と声を掛けて頂ける等々、良いことばかりです。

 自然豊かな境内で作業していると、大げさではなく、人間は自然には勝てないなぁ。地球は本来植物のもので、人間は少し間借りさせて貰ってこの地上に住まわせて貰っているのだと感じます。

 草取りに燃えていたこの夏、僧侶と臨床心理士の二足わらじの譲西賢さん(真宗大谷派大垣教区慶圓寺住職)の講演を聞く機会がありました。その中で「境内は『世間庭』」というお話がありました。

 

 「私は今所属している組の副組長をしています。(先週末)通常組会と通常組門徒会が、私が預かっているお寺で開催されました。(略)草を除ったり庭を掃いたり戸外の掃除が大嫌いで、せんべいを食べながら寝っ転がって、韓流のテレビを観るのが大好きといううちの坊守さんは、煩悩の林・生死の園にどっぷりつかっておられますから、大変だったみたいです。だって、組内のご住職さんが全員来られるのです。お寺の代表である門徒会員さんも全員来られるのです。そういう話になってくると一生懸命、嫌でも庭を掃くのです。「このお寺は綺麗やな。坊守さんがしっかりしておられるのやなあ」と言われたいようです。もうまもなくうちの境内の門前に境内の庭の名前の札を立てようかと思うのですが、どういう名前かというと『世間庭』(笑い)」。

 

お話を聞いている最中に、吹き出してしまいました。これはまさに私のことだと思えたのです。以前、本堂の前で草取りをしているときに、お墓参りに来られた女性の方があったので、「こんにちは」と挨拶したら、「ちょっと!うちのお墓に行く通路の草が全然取ってなかったわよ!孫を連れてお墓参りに来たとき、靴がドロドロになって本当に大変だったのよ!」と、すごい勢いで叱られたことがありました。確かにその方のお墓は墓地の一番奥にあり、広場がすぐ脇まで来ているので草もよく生えるのです。本堂を中心に掃除を始めると、なかなかたどり着けない位置にありました。「それは申し訳ありません」と言いながら、(家でゴロゴロテレビでも見ていて叱られるなら分かるけど、私、今草取りしてたよね?毎日汗だくになって何時間も草取りしているのに、こんな風に叱られて、ああ、情けない・・・)と、何だかものすごく嫌な気持ちになったのです。多分私は、「このお寺は綺麗やな。坊守さんがしっかりしておられるのやな」」と言って貰えることを期待していたのだと思います。

 

 「本当に世間体という煩悩があるから、掃除が出来るのです。(略)韓流のテレビを観るより、嫌でも掃除する方が自分には得だと計算できるから、掃除ができるのです。(略)私たちは、こういう世界に生きているのですよね。だから仏法に聞かないといけないのです。自分に生まれた意義と生きる喜びと出遇うには、あまりに当てにならない自分であることを気づき、阿弥陀ナビに導いてもらうために聞法するのです。清く正しく美しく完璧な自分になるために聞くのではなく、そうなれない自分に気づかせてもらうために聞くのです。」(『園林のナビゲーション』より)

 

 本当にその通りだと思えました。清くも正しくも美しくもなく、世間庭を一生懸命整える私を、それで良いよと受け止めて下さる阿弥陀さまがあるからこそ、安心して掃除に励めるのだと思えました。


  

Posted by 守綱寺 at 09:38Comments(0)今日も快晴!?

2024年10月23日

清風 2024年10月


私は 草であり 牛であり 大地である

ゴータマ・シッダルタ

 寺報「清風」の2024年6月号では「人間(私)は、与えられているから悩む」を、同7月号では「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」ということわざを紹介し、同8月号では「何か大きな空虚が、日本人の思想の根底に有るのじゃないだろうか。一言でいえば、生きるということの根本感覚を喪失し、生きるための手段で困憊しているのだと思います。」という言葉を挙げさせてもらいました。

 現代人には生活感との関わりが開かれていない…ということから6月号で紹介した「人間(私)は、与えられているから悩む」という言葉について考えてみます。日常生活の中で「悩む」ことは、視点を変えれば「思いも及ばない経験をしている」ことであると言えます。ところがその経験を「当たり前」と評価してしまうことから、日常生活の経験の重みをまったく感じられなくなっている(平凡の繰り返し、というくらいにしか思えない)、私どもの感性の衰弱を自覚できていないのです。

またその経験を「思いも及ばない経験」とは思えずに生活しているため、「目覚め(気づき)」の契機にはなかなかならないという事態に陥っています。便利で快適な生活は実現したのですが、それは成ってみれば、私にとってはすべて「当たり前」でしかないということなのでしょう。
 「当たり前」という評価・判断は、本来は物・道具の世界の基準なのです。


一生とは ないものねだりの 歳月か 得てはすぐ慣れ 無くて欲しがる
(朝日歌壇)
 この短歌は、「当たり前」という評価しかできない人に与えられている生活の実情を表す典型と言えるのではないでしょうか。ここでも私どもは、「人間(私)は、与えられているから悩む」の言葉で問われているということでしょう。
 この言葉は、漫画家の水木しげるさんのエピソードから、私の言葉として表現し直してみたものです。それは水木さんが「あなたにとって、幸せとは何ですか」と問われた際に「呼吸のできることです」と返されたことによります。「呼吸のできること」は、まったく「当たり前」のことでしょう。
 さて、この水木さんの応答について、皆さんはどう思われますか。


南無阿弥陀仏 人と生まれた意味をたずねていこう


 ここで、ゴータマ・シッダールタが下山して、苦行で衰弱した身体を養生した時の経験に学ぶことにしましょう。
 冒頭に掲げた「私は草であり、牛であり、大地である」という言葉は、下山されて養生されている時に気づかれたこととして語られていることです。出家され、6年に及ぶ苦行で衰弱した身体を、消化がよくて栄養がある、病人食とも言われていた「乳粥」の供養を受けられた折に感得された言葉と伝えられています。
 「乳粥」は牛乳を発酵させてできるもので、「私は草であり、牛であり、大地である」とは、乳粥のできる過程を表現した言葉ともいえます。その乳粥が、ゴータマの体内で消化され、その栄養が血液によって運ばれ、身体全体に精気が戻り、再びブッダガヤで瞑想に入られました。
 その七日七夜の明け方に悟りを開かれ、その言葉は次のようだったと伝えられています。

「我は不死を得たり」 「我は生死を超えたり」

 この言葉こそが、やがて「南無阿弥陀仏」という言葉として結晶されていったのです。愚痴の法然房、愚禿親鸞の名告りとともに、伝えられています。

  

Posted by 守綱寺 at 11:34Comments(0)清風

2024年10月23日

お庫裡から 2024年10月


現憲法の前文は、
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
と始まります。
私はまだ決まっていない自民党の総裁選に関心があります。モリカケサクラと問題のあった安倍元首相の不運な事件の後、次々明らかになってきた旧統一教会との関係、国際勝共連合とのつながり、派閥の裏金問題、そのどれもが解明されないまま、9名の候補者は次々と「私が選ばれたら」と政策を披露しています。
民主主義は、自由や平等を確保させる一つの手段ですが、国会は議論をせぬまま多数決で強行採決、政府も大事なことを国会に諮らず政府主導で事を推し進めている。私は今の政府の行為で取り返しのつかぬ事態にならぬか危惧しています。
私はもう後期高齢者で未来が長い訳ではありません。それでも「誰が首相になっても同じ」「世の中変わらない」と、無関心であってはならないと思います。
子や孫が戦死者の数に入らないよう、どうすればよいか。ガザやウクライナにならないために日本はどうすればいいか。またイスラエルやロシアと同じことを日本がしないようにどうすればいいか。
武力では決して人は守れない。(9月22日記)

  

Posted by 守綱寺 at 11:33Comments(0)お庫裡から

2024年10月23日

今月の掲示板 2024年10月


世の中の役に立つかどうか
有用性で人間を判断する社会になれば
社会全体が命の意味を見失うことになる

何があっても
私が生きていることの意味を
見失わない

私が生きてきたことを
軽く見ない

どう生きぬくことが
自分自身を生きぬくことになるのか

何故苦しむのか
それは
真実を求めているから

尊厳ある生き方というのは
いのちの意味を
見出し続けようとすることではないか

何も信じられない
というただ中に
真実を求める心が現にある

人間の苦悩であり
私の苦悩でもあるような
そういう苦悩を引き受けて
それに応えた人に出会うこと

自分の苦しみを
自分に先んじて知っている人がいる
その苦しみを引き受けて
歩んだ人がいる

  

Posted by 守綱寺 at 11:32Comments(0)今月の掲示板

2024年10月23日

本堂に座って 2024年10月


 今月も先月に引き続き平川宗信先生の講演録を紹介します。今回は、軍事力を頼りにするのか、非戦・非武装、非暴力・不服従抵抗についてのお話です。

<鬼神を頼むのか、本願を恃むのか>
 私は軍事力は『教行信証』化身土巻にある「鬼神」だと思います。「鬼神」は非常に強い力を持っていて、頼りにすれば自分たちを守ってくれるように見える。しかし不正直で人をたぶらかし、一つ間違えて怒らせると大変な災いを振り掛けてきて、最後はいのちを奪われるような存在…ではないかと思うのです。親鸞聖人は、「鬼神を信じるな、鬼神を頼むな」ということを『教行信証』化身土巻で繰り返しおっしゃっています。私たちは鬼神である軍事力を頼りにしてはいけないと思うわけです。
 本願は日本人だけではなく、世界中の人々に届いています。本願には世界中の人々のいのちに呼びかけて、平和を愛する人、平和を願う人に変える力があると、私は信じています。私たち念仏者はその本願の力、本願力を信じて生きていく存在だと思うのです。本願力なんて当てにならない、やはり軍事力だと言うのであれば、その人は本願を信じていないのであって念仏者ではないと思います。軍事力ではなく本願を信じて生きていくのが念仏者である。そういうことではないかと思うのです。

<非戦・非武装に立つ平和構築>
 私は、軍事力を頼りにせず、ただ本願のみを恃み、「非戦・非武装」に立ち続けるのが念仏者の平和運動だと思っています。日常のあらゆる場面で、戦争と軍事力のない、全てのいのちが共に生きることができるような世界を願い求めて、日々の行いを積み重ねて生きていくこと。これが念仏者に願われていることだと思うのです。まさにそれが、阿弥陀さまから私たちがいただいているお仕事だと思うのです。
 「非戦・非武装」の日本国憲法の下にある日本政府も、いたずらにアメリカに追随するのではなく、自衛隊を徐々に縮小して災害救助隊に転換するなどし、在日米軍基地も徐々に縮小していって、日本の非軍事化を進めていく。そして、東アジアに国際平和を構築するための国際的なシステムをつくり上げていく。そのような外交努力をしていくべきだと思うのです。そして私たちは主権者として、そのような政府を実現していかなければならないと思います。そもそも日本は、資源もなければ食料もないような国です。こんな国を占領しても、何の得にもなりません。日本への侵攻・領有を「失った領土の回復」として正当化できる国もありません。私は、日本が非戦・非武装で平和外交を積極的に進めていけば、日本が侵攻される危険性はまずないと思うのです。

<非暴力・不服従抵抗による市民的防衛>
 しかし「非戦・非武装」と言いますと、「万一とんでもない指導者がいて、日本を攻撃してきたらいったいどうするのだ。手を上げて降参するのか。あなたたちの頭の中はお気楽なお花畑だ」と言う人もあります。私はその心配はないと思っていますけれども、その疑念、揶揄に対する回答は一応持っていた方が良いと思います。私が持っている回答は「非暴力・不服従抵抗による防衛」です。平和学では「市民的防衛」と言われます。私たちはそれを追求していくべきではないかと考えています。仏教の基本にあるのは「非暴力」です。私たちが攻撃された場合でも非暴力で対応すべきだと思います。暴力は使わない。しかし相手の言うことは一切聞かない。万一外国の軍隊が入ってきてあれこれ指示しても言うことを聞かない。自分たちの考えに従って今まで通りの自分たちの生活を続けていく。それが「不服従」です。
 非暴力というと無抵抗というように捉えられることが多いですが、非暴力は決して無抵抗ではありません。「不服従抵抗」という抵抗の仕方があります。非暴力・不服従抵抗は、国内で政府が不法・不当なことをしてきた時に、それに抵抗するために行われることが多いのですが、外国からの侵攻・占領・支配に対する抵抗として行われた例は少なくありません。最近は非暴力・不服従抵抗のやり方もいろいろと研究をされてきていて、研究によれば、抵抗の仕方として198通りのやり方があるとされています。ボイコット、ストライキ、座り込み、集団移住というようなものがその中に含まれています。
(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行
念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)

  

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2024年10月23日

今日も快晴!? 2024年10月


 9月に豊田大橋の下で行われた「橋の下音楽祭」の関連イベントで、元イスラエル空軍兵のダニー・ネフセタイさんの「どうして戦争しちゃいけないの?」と題する講演会がありました。1957年にイスラエルで生まれたダニーさんは、兵役のある国で、「国のために死ぬのは素晴らしい」、「夢は空軍パイロット」と当然のように思いながら育ちました。高校卒業後、空軍に入り戦闘機に乗るための訓練を受けましたが、残念ながら実技試験の終盤を突破できず、パイロットにはなれませんでした。除隊後、世界各地を放浪し、22歳で日本に来てから様々な気づきがあったと言います。以下、講演の最中、メモを取った部分を紹介します。
「自分は、パイロットになれなくてラッキーだった。なぜなら、戦闘機の目的はたった2つ。人を殺すことと、物を壊すこと。自分はパイロットになれなかったおかげで、人を殺さずに済んだ。」
「軍隊の成り立ちは、①差別・・・良い側と悪い側に分けないと、相手を殺せない。②人間をランク付けし、命令に従う。③解決方法は武力のみ。」
「戦争は、始まると歯止めがきかない。人間は、鉄の力に酔ってしまう。楽しくなっちゃう。1937年の南京事件も、だんだん楽しくなってきて、もっとやろう、もっとやろうとエスカレートした。」
「イスラエルでブルドーザー部隊で従軍した人は、イスラエルに戻り、PTSDを発症している。国は、一人の健康な人間と一人のメンタルが病んだ人間を抱える。これでは国が成り立たない。」
「戦争では、儲かる産業と儲かる国がある。アメリカは救援物資と同時に武器の両方を供給する。」
「憎しみは憎しみを生み、次の犠牲者が生まれる。80年前、大東亜戦争の最中、戦争で戦った自分は英雄であり、天皇を守り、国を守ったと考えていた。しかし、国に帰り、冷静に自分のやったことを考える(と、良心の呵責に耐えられない)」
「政治家の間違った判断、洗脳とプロパガンダ(が戦争を生む)。軍人が殺すのは、敵ではなく人間。」
「敵に攻められないよう、抑止力として武器が必要と言うが、ロシアとウクライナの戦争を見ても、核兵器を持っていても戦争は始まった。何の抑止力にもならない事は明らか。日本がどんなに武器を持ったとしても、中国が日本を襲おうと思えば襲う。中国は日本の4倍の軍事費があり、10倍の軍隊がある。実際に戦争が始まったらどうしようもない。自衛隊には何の意味も無い。だから、戦争にならないように、始まる前になんとかしないといけない。」
「私たちは、歴史を学ぶが、歴史から学ばない」
「戦争に燃費は関係無い。環境に良い戦争や戦闘機はない。戦車の燃費は、1Lで300m。F35戦闘機(ブルーインパルス)は、1時間飛ばすのに5600Lのガソリンが必要。これは、車1800台分。1時間飛ばすのに、600万円掛かる。そして、環境を汚す。そんな戦闘機を、日本は米国から147台購入予定。」
 ダニーさんは、「世界に先駆けて戦争を放棄する平和憲法を持った日本が、戦争の準備を始める始末」と嘆きます。「人権を尊重すること、想像力と心を使うこと。「敵」にも幸せになる権利があると気づくこと。実際に戦争に反対する世界を望むなら、批判の声を上げること。それも、控え目にではなく、大きな声を上げる必要がある。」
 私のこの拙い文章も、もちろん「戦争反対」の声ではありますが、まだまだ小さく控え目だと感じます。講演会で購入したダニーさんの著書『国のために死ぬのはすばらしい?』『イスラエル軍元兵士が語る非戦論』を読み、私なりの大きな声の上げ方を考えたいと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 11:31Comments(0)今日も快晴!?