2024年11月08日
清風 2024年11月
先月号の巻頭では、6年の苦行を経験した釈尊が、その苦行後の肉体を養生する(乳粥をいただかれた)中で自己の存在の事実に気付かれた言葉「私は 草であり 牛であり 大地である」を紹介したことでした。苦行を終え下山した釈尊は、生まれたものは老病死を免れることはできない(生老病死= 四苦)という課題をどう解決していくのか、の問いに真向かいになられたのです。
英語の「END」には「終わり」という意味と「目的」という意味があります。これは、釈尊が世に出て感得された法(ダルマ)が「“終わり”が人生の“目的”と言える質を達成した」ことに他ならない…と重なります。釈尊は人生の課題に「ニルバーナ(涅槃= 完全燃焼)」を得ることで、解を与えてくださいました。
2023年に勤修された親鸞聖人の「御誕生850年 立教開宗800年」慶讃法要において、「南無阿弥陀佛 人と生まれた意味をたずねていこう」というテーマが掲げられました。
「人と生まれた意味をたずねていこう」、これが釈尊が世に出られた意味であり、またこれが釈尊以来の仏教の歩みなのだ、というのが親鸞聖人が世に出られた意味であり、さらに仏教史あるいは宗教という言葉で語られてきた意味でもあります。
そこで、「南無阿弥陀佛」という言葉で語られている願いというか、何がこの六字に込められているかを語ろうとしてくださっている文を紹介します。
もし、あなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に雲が浮かんでいることを、はっきり見るでしょう。雲なしには、水がありません。水なしには樹が育ちません。そして樹々なしには紙ができません。ですから、この紙の中に雲があります。この1ページの存在は、雲の存在に依存しています。
…この小さな紙の存在が、宇宙全体の存在を表しています。
『仏の教え ビーイング・ピース ほほえみが人を生かす』
ティク・ナット・ハン(1926~2022)著
中公文庫(P68L1~L2、P70L11)
この文章は、「この小さな紙の存在が、宇宙全体の存在を表しています」と語られているように、「一枚の紙」に限らず「私のこの身」もまた、「今ここに存在しているのは、宇宙に存在する全てのはたらき」によって“有る”のだということを言い表しているのでしょう。宇宙全体の存在のはたらきを受けているのだけれども、現代に生きる我々は、そんな事実を「当たり前」と通り過ぎてしまっていて、驚きも疑問も持てず、また、ありがたいと感謝することもないという感性の貧弱さ(無明)に気付けという警告でもあるのでしょう。
人間に生まれて、苦しみ・悩みを経験しない人は、まずいないでしょう。逆に、私は苦悩が好きだという人も、あまりいないでしょう。人間にとって苦悩する・しなければならないというのは、巻頭の「人間が 人間だけでやっていく 現代の問題は そこにある」と警告されているのです。
註)無明 … 妄念はもとより凡夫の地体なり『横川法語』(源信作)より
2024年11月08日
お庫裡から 2024年11月
お風呂に入っている時、頭にふっとひらめいたものがありました。
そのひらめきに「あー、そうだったのか」と、私は深くうなずきました。
すると何だか心が晴れ晴れとして、自然に顔からも笑みがこぼれだしたのです。
しばらくその余韻に浸った後で、私はまた考えます。
今、私の頭にひらめいたことを、もし人に話したら、きっと「尚子さん、おかしいんじゃない」とか「とうとう痴呆が始まったの」なんて言われてしまいそうです。
2500年前、お釈迦様がお覚りになった時、そのお覚りの内容は、誰にも理解してもらえぬかもしれぬと思われ、しばらくは一人でそのお覚りを喜んで抱いておられたと伝えられています。
私の頭にひらめいたことをお釈迦様のお覚りの時のご様子になぞらえるなんて、とんでもないことです。
そのひらめきは、ただのたわごとです。でも何なのでしょうか。私の心の晴れやかさは。
私は日本国の愛知県の豊田市の町とは言えない田舎の大樹に囲まれた寺を生活の場としています。
所用でお寺の近辺に出はしますが、ほとんど寺の中の生活で、めったに隣の市へさえ出かけません。
そんな私の頭にひらめいたのは、「地球は私だ。宇宙は私だ。」というものでした。
その後、私の頭の中では「無量寿を思う心に死を越えて 生も思わず ただ朗らかに」という暁烏敏先生の歌が、くり返し鳴っていたのです。『弥陀仏は自然のよう(ハタラキ)を知らせんりょう(手立て)なり』という聖人の言葉を憶っていたので、こんな突拍子もない言葉がひらめいたのかもしれません。
でも何だか、うれしいうれしい私です。
2024年11月08日
今月の掲示板 2024年11月
人間とは傲慢なものです
車にたとえれば
経済はエンジン 車を走らせる
政治はハンドル 車の方向性を与える
宗教はブレーキ ブレーキなき車は間違いなく暴走します
(五木寛之「運命の足音」より)
ひょっとしたら
人間の役割って
ただひたすらに
生きることかもしれない(池永 陽)
道はるか
行き詰まって また あるく
根気よく これをくりかえし
今生は しだいに かたじけない
(浅田正作)
私が正しい それが争いのもと
幸せという字は 辛いという字の上についてる
チョッピリのテンを十という字に変えると
幸せになるのです。
十分辛くて 初めて人は幸せになるのです
挫けないで 頑張ってください
(中島みゆき)
幸せって
富やお金じゃないと思う
お金があれば
楽しいことはできるかもしれないけれど
それは決して幸せじゃない
幸せの定義なんて
人それぞれだし
月並みなことばだけれど
お金は死んだら持っていけない
そんなことより
どう生きていくかが重要
その生きていく途中途中で
何かに出合い
そっと噛みしめるものが幸せ
心の奥で そっとね
噛みしめることのできるほどの
小さなもの
決して大きなものじゃないはず
その小さな幸せのつみ重ねが
生きていく上での
真の幸せのような気がする
2024年11月08日
本堂に座って 2024年11月
今月も先月に引き続き平川宗信先生の講演録を紹介します。今回は、非暴力・不服従抵抗について、まとめのお話です。
<非暴力・不服従抵抗の有効性>
非暴力・不服従抵抗で勝てるかと言えば勝てる保証は必ずしもありません。すぐに効果が出てくるかと言えば必ずしもそうではありません。長い時間がかかることもあり得ます。犠牲者が出ないかと言えば、そうとは限りません。そのことは覚悟しておかなければなりません。とはいえ軍事力で抵抗すれば勝てるのか、戦争はすぐに終わるのか、犠牲者を出さずに済むのかと言えば、そんなことはないわけです。平和学の研究によれば、軍事抵抗よりも非暴力・不服従抵抗の方が成功率は高いとされています。紛争が早く終わる可能性も犠牲が少なくて済む可能性も高いと言われています。軍事力の方が防衛力として優位にあるわけではないということです。
<非暴力・不服従抵抗の相手>
そして「平等」も、仏教の基本だと思います。非暴力・不服従抵抗は、平等というところに立つ防御方法です。万一、日本に外国軍の兵士が侵入してきたとしても、この人たちを「敵」とは見ません。私たちと同じ人間であると、平等に見ます。
非戦・非武装で平和外交をしている国に武力侵攻をするのは、明らかに国際法違反の犯罪、侵略罪に当たります。侵入してくる国の政府は、国際犯罪を行っている不法・不当な政府ということになります。その政府の命令によって送られてきた兵隊は、いわば犯罪的な政府にだまされて、犯罪的な行為に加担させられている人たちということになります。非暴力・不服従抵抗は、その人たちに「あなた方はだまされているのですよ、あなた方は犯罪的なことに加担させられているのですよ」と言って、そのことを理解し、自覚してもらうのです。理解し、自覚してもらうことによって、その人たちを不法・不当な政府から解放し、占領の道具として使われることから離脱してもらうのです。そうなると、占領はもう不可能になります。
<非暴力・不服従抵抗で守るもの>
非暴力・不服従抵抗では領土に外国軍が入ってくることを止めることはできません。その意味では領土を守り国を守ることは、非暴力・不服従抵抗ではできません。軍事的防衛は、国を守るのです。その時国民はどのような立場に置かれるかというと、国を守るためにいのちを捨てさせられるのです。これが軍事力による防衛です。非暴力・不服従抵抗は、国を守るのではありません。自分たちで自分たちのいのちと暮らしを守るのです。私はこれが非暴力・不服従抵抗の意味だと思っています。
念仏者が阿弥陀さまからいただくお仕事は、国を守ることではないと思います。阿弥陀さまは、いのちを捨てて国家を守れとはおっしゃっておられません。阿弥陀さまは、全てのいのちが共に生きる世界をつくりなさい、そのような世界を守りなさい、そのために全ての人々のいのちと暮らしを守っていきなさい、そのことに身を粉にし、骨を砕いていきなさいと、おっしゃっていると思うのです。私たちは、その願いに立って、全ての人々が共に生きていける世界、全ての人々のいのちと暮らしが守られる世界をつくるために、日々の暮らしの中で、それに向けた行いを積み重ねていく。そのことが重要だと思います。
非暴力・不服従抵抗は、自分の国の政府が不法・不当なことをしている場合にも、それを止めるために行われるものです。この国の政府が、この国を地獄・餓鬼・畜生の国にしようとしたり、人々のいのちと暮らしを侵害したりするような場合には、この国の政府に対しても非暴力・不服従で抵抗しなければならないと思っています。
<おわりに>
今、多くの人が危機感をあおられて、軍事力に頼ろうとしているように思えてなりません。しかし、軍事力は鬼神だと思います。頼もしく見えるけれども、ついていくととんでもないことになっていくのが、鬼神である軍事力だと思うのです。
私たちはどこまでも本願を信じ、本願を恃み、鬼神は信じない、軍事力には頼らない。これが念仏者の生き方だと思います。その意味で今、私たちは「本願を恃むのか、それとも鬼神である軍事力を頼むのか」と、厳しく問われていると思います。
(『真宗』2024年6月号 東本願寺出版発行
念仏者の「非戦・非武装」に立つ平和運動 より引用しました)
2024年11月08日
今日も快晴!? 2024年11月
元々体育会系で運動が大好きな私は、境内の掃除にはまっています。守綱寺は、春夏は草取り、秋は落ち葉掃き、冬は竹やぶ整備と1年を通してやることがあります。掃除の効能として、①適度な運動が出来る。②汗をかき、新陳代謝が活発になる等、ダイエット効果抜群なのは言うまでもなく、③太陽の光を浴び土壌の微生物に触れ、免疫力がアップする。④ビフォー&アフターが分かりやすく、達成感がある。⑤顔を合わせた方に「ご苦労様です」と声を掛けて頂ける等々、良いことばかりです。
自然豊かな境内で作業していると、大げさではなく、人間は自然には勝てないなぁ。地球は本来植物のもので、人間は少し間借りさせて貰ってこの地上に住まわせて貰っているのだと感じます。
草取りに燃えていたこの夏、僧侶と臨床心理士の二足わらじの譲西賢さん(真宗大谷派大垣教区慶圓寺住職)の講演を聞く機会がありました。その中で「境内は『世間庭』」というお話がありました。
「私は今所属している組の副組長をしています。(先週末)通常組会と通常組門徒会が、私が預かっているお寺で開催されました。(略)草を除ったり庭を掃いたり戸外の掃除が大嫌いで、せんべいを食べながら寝っ転がって、韓流のテレビを観るのが大好きといううちの坊守さんは、煩悩の林・生死の園にどっぷりつかっておられますから、大変だったみたいです。だって、組内のご住職さんが全員来られるのです。お寺の代表である門徒会員さんも全員来られるのです。そういう話になってくると一生懸命、嫌でも庭を掃くのです。「このお寺は綺麗やな。坊守さんがしっかりしておられるのやなあ」と言われたいようです。もうまもなくうちの境内の門前に境内の庭の名前の札を立てようかと思うのですが、どういう名前かというと『世間庭』(笑い)」。
お話を聞いている最中に、吹き出してしまいました。これはまさに私のことだと思えたのです。以前、本堂の前で草取りをしているときに、お墓参りに来られた女性の方があったので、「こんにちは」と挨拶したら、「ちょっと!うちのお墓に行く通路の草が全然取ってなかったわよ!孫を連れてお墓参りに来たとき、靴がドロドロになって本当に大変だったのよ!」と、すごい勢いで叱られたことがありました。確かにその方のお墓は墓地の一番奥にあり、広場がすぐ脇まで来ているので草もよく生えるのです。本堂を中心に掃除を始めると、なかなかたどり着けない位置にありました。「それは申し訳ありません」と言いながら、(家でゴロゴロテレビでも見ていて叱られるなら分かるけど、私、今草取りしてたよね?毎日汗だくになって何時間も草取りしているのに、こんな風に叱られて、ああ、情けない・・・)と、何だかものすごく嫌な気持ちになったのです。多分私は、「このお寺は綺麗やな。坊守さんがしっかりしておられるのやな」」と言って貰えることを期待していたのだと思います。
「本当に世間体という煩悩があるから、掃除が出来るのです。(略)韓流のテレビを観るより、嫌でも掃除する方が自分には得だと計算できるから、掃除ができるのです。(略)私たちは、こういう世界に生きているのですよね。だから仏法に聞かないといけないのです。自分に生まれた意義と生きる喜びと出遇うには、あまりに当てにならない自分であることを気づき、阿弥陀ナビに導いてもらうために聞法するのです。清く正しく美しく完璧な自分になるために聞くのではなく、そうなれない自分に気づかせてもらうために聞くのです。」(『園林のナビゲーション』より)
本当にその通りだと思えました。清くも正しくも美しくもなく、世間庭を一生懸命整える私を、それで良いよと受け止めて下さる阿弥陀さまがあるからこそ、安心して掃除に励めるのだと思えました。