2025年03月11日

清風 2025年3月


宗教を救済として見るのは、人間の自己肯定である。
根元的エゴイズムである。
それを破って、人間としての深い根元に呼びさます自覚こそが
宗教の本質といわれるものである。

安田理深(1900~1982)
聞法道場・相応学舎の主幹として、生涯、仏教に学ぶ“一学生”と
自称されていた。



自己が問われ、社会が問われる沖縄、日本、世界
門徒総代 照屋 隆司

たくさんのご同朋に支えられて、三十を過ぎたばかりの頃から教えを聞かせていただいております。
その歳月を通してひとつの疑問を持っています。
すべての衆生を救わずにはおれないという平等(水平)の御心に照らされる浄土真宗は、宗派としては国内最大であるのに、なぜ日本はこんな国になっているのだろう?
法蔵菩薩が私たちのために立ち上がられたのは、人間社会をこのまま放ってはおけないという御心からであったと思います。
初めて四十八願を知った時の率直な所感は「社会建設の課題が弥陀によって示されている」ということでした。
 「浄土の教えを社会の批判原理にしてはいけない。独善的な危うさをはらんでしまうから」という考え方があるそうですが、私は浄土の教えこそ、私たちに社会の在り方を照らす批判原理であると感じられてなりません。
それが危うくなるとしたら、自己と社会を分離して、自己を棚上げにしている時ではないでしょうか?
自己が社会を形成し、社会の中で自己が生かされている。
自己を問うならば、自ずと社会をも問わざるを得ず(社会に責任を持たざるを得ず)、社会を問うことで自ずと自己が問い返される。
親鸞聖人の教えをいただくということは、そのような大地に生まれさせていただくということではないかと思います。
昨年、能登を大地震が襲いました。
聞いたところによると、かつて珠洲市がターゲットにされた原発建設を粘り強い運動により阻止したのは、その地の大谷派の念仏者の方々で、住民が座り込む現場には念仏の声が響いていたそうです。
これこそ、法蔵菩薩の信念の顕現ではなかったでしょうか。
賛否が分かれる問題には触れないとしたなら、何のために今日まで仏教が伝えられてきたのでしょうか?
東本願寺・真宗大谷派は、人間解放という願いのもと、被差別部落、靖国、ハンセン病の問題に取り組んでこられました。
その理由は、かつて当派はこれらの加害の側にいた、その慚愧あるがゆえにと聞きました。
その慚愧は、人間社会の批判原理である本願に照らされずにしては起こり得ないことではなかったでしょうか?
誰かを犠牲にした平和や繁栄など偽物でしかない。
真宗教団が沖縄の状況を放っておけるはずはないと信じます。
生活者の一人として基地の異常集中に抗議しながら、私も過ちや挫折を繰り返しています。
それも浄土の縁。絶望はしません。
南無阿弥陀仏
「ハイサイ沖縄」(沖縄開教本部通信)vol.116
真宗大谷派沖縄開教本部発行

日本国憲法では、次のように宣言している。
<前文>
日本国民は、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

<第九条〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕>
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

<第九十九条〔憲法尊重擁護の義務〕>
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」「戦争放棄、並びに陸海空軍その他の軍備を持たないこと」を憲法で宣言し、政府・公務員はこの憲法を尊重し擁護することが決められている。
私たち国民は、憲法で、国民に求められていることを確認して、主権を行使する選挙の時には、その都度確かめたいものである。
「憲法前文」そして「憲法第9条」は、先の敗戦に至るまでにアジアの国々へ侵略し、それらの国々に荒廃をもたらした、我が国民の責任の告白であり、また、二度と敗戦・終戦・戦後・戦前という轍を踏むまいという「廃戦」の宣言ではなかったのか。

  

Posted by 守綱寺 at 11:50Comments(0)清風

2025年03月11日

お庫裡から 2025年3月


本を読んでいると、時々昔のあることを思い出します。
学校を出て働き始め、従兄のすすめで聴聞の場へ足を運び始めた頃のこと。20才の私には場違いに見えるその会に、1人のおばあさん(当時63才と言っておられました)が毎回来ておられ、ある時「私は幸い、親が字を読むことを躾けてくれたので、晴耕雨読、雨の日は曽我先生の本を読ませていただいております」と言われたのです。
曽我量深という方は、100年に1人と言われた真宗学の大家です。
当時の私は不平のかたまりでした。不平の1つが進路です。
私の入った高校は、入学式の前に自分の進路を決め、カリキュラムを選んで提出したのです。
親が決めた学校、そこに必要なカリキュラム、何の知識も無かった私は、それでいいとうなずいたのです。
実際入学して、いろいろ知識を得ると自分の進路に心落ちし、途端に勉強に熱が入らなくなりました。
他校は受けることかなわず、最初に決められた短大に入りました。
自分が見下した学校のその生活が楽しいはずがありません。
勉強して活路を見出す努力はせず、不満ばかりを積もらせていたのです。
私の年令で短大にやってもらえたというだけでも喜ぶべきことなのに、そんなことも気づかぬ私だったのです。
そんな5年のあったおかげで仏法に遇え、守綱寺をあずかるご縁をいただきました。
お寺に入って満46年が経ちます。
多くの皆様に支えられ、励まされ、張り合いのある日々を重ねることができました。
今年のように寒波の厳しい冬は、読書の日が続きます。
仏書も読みますが、小説の方が多く、いまだに曽我先生の本に手が伸びない私は、あの時のおばあさんの足下にも及ばないと思うばかりです。

  

Posted by 守綱寺 at 11:46Comments(0)

2025年03月11日

今月の掲示板 2025年3月


わが機ながめりゃあいそがつきる
わが身ながらもいやになる
ああはずかしや
なむあみだぶつ (森ひな)

わが身のこしらえたもんな
間に合わんもんや (森ひな)

娑婆というもんな
好きな人とも別れんならんし
嫌いな人とも一緒に行かんならん
なんもかんもおもいの外ぞ (森ひな)

背のびして
まだ足らぬと背のびして
われの色をば
ぬりかえし われ (松田たみ)

大悲とは
目に見えないおはたらき
座っているのも
我がおもいでなし (松田たみ)

人間は
聞いてからならおうとする
本当の聞き方は、そうじゃなく
なっとることを聞け、と。
思いを超えて
なっとる世界やもん。(北村金次郎)

人間にゃ
我執・我慢という鬼がちゃんといる
それをどうしても人間は破れんがです
如来の光明に照らされて
はじめてわかる (北村金次郎)

鬼が頭下がるまで聞かんならん
やはりナムのない世界は
アミダいうても
ただ言うとるだけや (北村金次郎)

ナンマンダブツは花です
ナンマンダブツの花が咲く
胸の開く世界です (北村金次郎)

自我・我執はとれん世界やけど
それを徹底的にほりさげていく世界
それが信心の世界 (北村金次郎)

仏法を聴くとは
自分を聞くがや
自分はどうなっとんねん
自分ぬきにして
何になるかね (山越初枝)

  

Posted by 守綱寺 at 11:44Comments(0)今月の掲示板

2025年03月11日

本堂に座って 2025年3月


今月も谷口たかひささんの本から、「自分軸」について書かれた文章を紹介します。

<不幸になりたくなかったら、やめるべき2つのこと>
 「世界の幸福度ランキング(2023)」を見ると、トップ10のうち、8か国は実にヨーロッパの国です。
日本は47位。それなりに長い時間をヨーロッパで過ごす中で、幸せについて考えることが度々ありました。
たどり着いた僕なりの答えは「幸せになる理由があるのではなく、不幸になる理由がある」ということ。人間というものは、そもそも幸せになる力が自然に備わっている生きものだと思ったのです。
そして、「不幸になる理由」を突きつめて考えていくと、シンプルに次の2つのことが諸悪の根源だという結論に至りました。
① 人と自分をくらべること 
② 人の目を(過度に)気にすること
(もちろん最低限の生活水準を満たせているか、といった要素も大切だと思いますが、その上で精神的な話として)
 この2つのことによって、自分から不幸をつくり出してしまっている人が、特に日本にはとても多いと思ったのです。
欧米に行かれたことのある方はご存じかと思いますが、みんなビックリするぐらい人の目を気にしていないように見えます。
「私は私」を地で行っています。
実際に、北欧を訪れて現地の人に「幸せの秘訣」を聞くと、真っ先に返ってきた答えは――「人と比べないこと」対照的に、ブータンは昔は「世界一幸せな国」と言われていましたが、SNSを国民が使うようになって比較が始まってから、国民の幸福度がダダ下がりしていると現地で調査中に聞きました。
(もともとブータンは、「今日も美味しいご飯が食べられました。」「今日も家族が健康で幸せに生きられています。」と、自分が今持っているものに目を向けて、それに感謝の気持ちを伝える人たちが多い国)
 もちろん、日本にも素晴しいところがたくさんあります。
しかし、「幸せ」という点においては、海外諸国から見習ったほうが良いと思うところがたくさんあります。
① 人と自分を比べること  ② 人の目を気にすること
これを断捨離しましょう。「それができれば苦労はしない」と言われそうなので、具体的なことを2つお伝えしたいと思います。
 ①  比べることをやめるために、「私は私」を口ぐせにしてみましょう。人は
  自分が思っている以上に、自分の言葉から影響を受けます。
 ② 人の目を気にすることをやめるためには、そもそも人は自分以外の人の
  ことをそれほど気にしていないと理解しましょう。

<「過去」と「他人」は変えられない>
 大谷翔平選手があるインタビューでこう語っていました。
“あんまり人に興味がないというか、基本的に「自分がちゃんとやっているか」だと思っているので。別に人が不真面目にやっていても、真面目にやっていても、どっちでも僕には関係ないので。
”僕はこれにとても共感します。大谷選手が話した後、「自己中心的なんじゃないですかね?」という言葉が浴びせられましたが、僕はそうやって人に干渉したり価値観を押し付けたりしてくる人の方が自己中心的な場合が多いと思っています。
僕も「人に興味がないですよね」とよく言われます。
もちろん自覚していますし、もっと言えば、自分がやりたいことに夢中で、他の人のことを気にしている余裕がない
。誰の邪魔もしたくないし、誰にも邪魔されたくない。「自分の課題」と「他人の課題」をキッパリ分けて考える。他の人のことをとやかく言ってばかりの人を見ると、「自分の人生を生きればいいのに」と思います。
もっと自分に集中しないと、自分が損をすると思います。
 「過去」と「他人」は変えられない。変えられるのは、「今」と「自分」だけなのだから
。そして、そんな過去や他人に執着して過ごした時間を振り返ると、その間のストレスとシワが増えただけで、1ミリも成長していなかったことに気づきます。
 あなたのやっていることを否定したいその人は、「自分にできないことをやっているあなたへの嫉妬」かもしれないから。そして絶対に間違いがないことは、その人があなたの人生に責任をとってくれることはないから。
大丈夫、あなたはあなたの信じる道を突き進んで。
言いたい人には言わせておけばいい。そんな人に、あなたの貴重な時間やエネルギーを使う価値はない。
(『自分に嫌われない生き方』KADOKAWA 刊
第1章 自己肯定感~あなたには「自由」と「権利」がある~より引用しました)

  

Posted by 守綱寺 at 11:42Comments(0)本堂に座って

2025年03月11日

今日も快晴!? 2025年3月


2月に、日赤名古屋なごみにて「加害者を生まない社会にするために私たちに何が出来るか~加害者臨床の視点から学ぶ~」と言う講演会に行きました。
講師は、榎本クリニックの精神保健福祉部長で、精神保健福祉士、社会福祉士の斉藤章佳さんです。
アルコールを中心に、ギャンブル、薬物、窃盗、DV、性犯罪など様々な依存症問題に携わった方で、講演では主に性暴力についてのお話がありました。性暴力なんて、自分とはあまり関わりの無いように思えましたが、いざ聞いてみると興味深い内容でした。
『「性暴力」というと、性的欲求や衝動によるものではなく、支配や優越、強さの主張といった欲求から行われるものである。
日本社会は、被害者や加害者について知りたくない。見たくないと考えている。
性加害者の6割が大卒のサラリーマンで家庭持ちであり、自分と加害者は何が違うのだろうと考えたときに、何も違わない。
むしろ地続きである。
でも、性暴力は自分と別世界の問題にしてしまいたい。自分から遠ざけたいという意識が働き、見ないようにしてしまう。』
『また、日本社会は「男性は性欲がコントロール出来ない生き物だよね」といった性欲原因論を取りたがるが、果たしてそうか?それは男性への侮辱になるのではないか?そういった言動は、男性側(権力者)にとって都合が良い。男性側の責任性が隠蔽される。』
『性加害を行う人は、認知の歪みがある(例:女性は痴漢をされて喜んでいる。女性専用車両に乗っていない女性は、痴漢をされたがっている、等々)。加害者はAVから学んでおり、きちんとした性教育を受けていない。包括的性教育も、治療にとって大切』
『性犯罪者の再犯防止の為に、「どんなハイリスクな性犯罪者も、必ず変わることが出来る」と言う視点は大切。痴漢として生まれてくる男性はいません。痴漢になりたくて生まれてきた男性もいません。彼らは、社会の中で、自ら痴漢になるのです。』
 会場で購入した斉藤さんの著書、『男尊女卑依存症社会』も、非常に面白かったです。 
『日本という社会の根底に、男尊女卑の価値観が十分すぎるほど染み込んでいることを強調しておきます(例:2022年の岸田内閣発足時、女性の閣僚は19人中2人。国会議員における女性の割合は、衆議院9.7%。女性管理職の割合は9.4%。学校の場では、リーダー的役割は男性に任されることが多かったり、入学試験で女性受験生の点数を一律で引いていた有名私立医科大学があることも記憶に新しい。ジェンダーギャップ指数は、日本は先進国の中で最低ランク等々・・・)。その構造の中で生きている私たちは、かなり意識しない限り男尊女卑に加担することになります。男性個人にこのことが見えにくいのは、それによって不利益を被っていないと感じているからです。』
 しかし、男尊女卑というと、優位に置かれている男性はラクが出来る社会かといえば、決してそうではなく、『日本で依存症が増え続けている生きづらさの根っこには、男尊女卑の価値観に基づいた「男らしさ」「女らしさ」というジェンダー役割に多くの人が過剰に適応しようとしているからなのだと、私は考えています。根本的にはみんな「自分らしさ」があるので、それぞれのジェンダーの「らしさ」に適応し続けるのはしんどい。だから「自分らしさ」と「男(οr女)らしくあらねばならない」という社会から期待されるジェンダー役割の間でダブルバインド(二つの矛盾した情報や要求を受け取ることで、どちらを選んでも不安や罪悪感など心理ストレスが掛かる状態)にとられてしまう。そういう生きづらさから生じる苦痛を緩和するために何かにはまって依存症になっていく。そしてその背景には、日本社会全体が男尊女卑の価値観に深く侵されているからだという考えにいきつきました。」「男尊女卑」は、ずっと気になっているテーマの一つなので、引き続き考えてゆきたいです。

  

Posted by 守綱寺 at 11:36Comments(0)今日も快晴!?

2025年02月04日

清風 2025年2月


前事不忘
後事為師(諺)

   意味 先(前)に起こったことを忘れず、後に起こることの師と為す。


 この諺から、皆さんはどのようなことを思い起こされますか?
 私はまず、次の文章を紹介しようと思います。

 私はここまで話を進めてきて、聖書にある「人を侍するに己を侍するがごとくす」および「汝の敵を愛せよ」という二つの言葉を想起し、実に無限の感慨を覚えるのである。
 わが中国の同胞は、「旧悪を思わず」および「人のために善をなす」ことがわが民族伝統のもっとも高貴な徳性であることを知らねばならない。われわれは一貫して、正義にそむいて戦いをはじめた日本の軍閥を敵とし、日本の人民を敵としないと声明してきた。いまや敵軍はわれわれの盟邦によって打倒された。われわれは厳しく彼らに責任をもたせ、あらゆる降伏条件を忠実に実行させなければならないが、しかしわれわれはけっして報復を企図してはならない。ことに敵国の無事の人民に侮辱を加えてはならない。
 もしも暴行をもって敵の従来の暴行に答え、侮辱をもって彼らの従来の誤った優越感に答えるならば、恨みに報いるに恨みをもってすることとなり、永久に終止することはなく、それはけっしてわれわれ仁義の軍の目的ではないということを知らねばならない。
  抗戦勝利に際しての蒋介石主席の演説の一部引用
                   (1945年8月15日ラジオで放送)
  『史料 日本近現代史Ⅱ 大日本帝国の軌跡 -大正デモクラシー~敗戦』
      (335頁~337頁 三省堂 1985年4月20日 第1刷 刊)

 註)蒋介石主席の率いる国民政府は台湾に移動し、中国(本土)には1949年
  4月、毛沢東主席の中華人民共和国が成立した。


 この声明には、聖書の言葉と仏教の発句経『ダンマパダ』の「恨みに報いるに恨みをもってする」の一句が引用されていて、読む者に深い感銘を与えました。
 上記の声明の後、蒋介石主席は日本に対する賠償金の請求はしないと決定したのです。

 その後1972(昭和47)年9月、田中角栄首相は日中国交正常化の調印式のため中国を訪問しました。その時田中首相は、一つ大きな心配があったといわれています。それは、調印の際に、先の蒋介石主席の賠償請求権の放棄について、毛沢東主席が受け継いでくれるのか、についてでした。
 日本はかつて日清戦争の折、清国に勝利し、当時の日本の予算の3倍の額にあたる賠償金を清国から手に入れたのでした。この事実を国民が知ると、「戦争は儲かる」ものとの思いに囚われてしまったと言われています。当時の日本には、そういう40年ほど前の記憶から、“アジアの盟主”という意識も生まれて、朝鮮・中国などを蔑視する感情が表れてきました。
 そういう中で日本は戦争に負けて、中国の当時の蒋介石主席が賠償請求権を放棄すると表明したのですが、毛沢東主席の中国がどういう対応をしてくるか、田中首相としては日中国交正常化交渉に当たって、心配だったようです。そして会談が始まって、毛主席は冒頭、田中首相に「もう喧嘩は済ませましょう」と、賠償請求権を放棄することを伝え、「日中共同声明」が無事に調印され、日中国交が公認されたのでした。

 日本では、このことはほとんど忘れ去られているのではないでしょうか。過ぐる戦争で、日本は自国におよそ300万人を超える、また侵略をしたアジアの交戦国・東南アジアの国々を含め2000万人もの死者を出す未曾有の厄災を与えたのです。しかし日本の戦後処理の仕方は、アジアでは朝鮮戦争・ベトナム戦争と戦争が続き、その諸国の苦難の中で、あろうことか我が国の行ってきた侵略戦争をきちんと総括することさえ怠ってきてしまったのです。
 日本の戦争責任の追及は、政府首脳の「いつまで子や孫の世代に戦争責任を負わせるのか」という無責任、つまり曖昧なままに現在まできてしまっているのです。ドイツは戦後、ポーランド・フランスと共同で歴史の教科書を作成したのです。
 戦後を戦後としないという姿勢から、平和憲法と言われる憲法前文・第9条を持ちながら、その9条がまったく死に体になってしまっているのは何故なのでしょう。 今こそ「前事不忘 後事為師」という諺を、改めて思うことです。

  

Posted by 守綱寺 at 10:42Comments(0)清風

2025年02月04日

お庫裡から 2025年2月


12月28日、仏華に使おうと脚立に乗って庭の梅の枝を切りました。その枝が落ちてくる時、トゲがゴムの手袋を突きぬけ、右手の指先にささりましたが、その事を余り気にせず作業を続けました。
終わって手袋を脱ぐと、中指が血だらけです。「おや、まぁ」と手を洗ってよく見ても、傷口がどこかよくわからず、痛むのは右手中指の爪の下5mmあたり。一応、傷薬をつけ、絆創膏をまいて、「これでよし」としたのですが、次の日から傷はズキズキ痛み始め、中指は第二関節まで腫れてきたのです。
この指が使えないと、まずお箸がうまく使えません。字を書く時もペンや筆を支えることができません。そして生活する時、(今まで気づきもしませんでしたが)この指達があちらこちらに触り、当たり、ぶつかりをくり返しています。
今は腫れて痛むから、触られ当たられたくないと思っているのに、手を使わず生活はできず、手を使えば痛めた指が必ず何かに触り当たるので、1日に何度も何度も「痛ーっ」と顔をしかめなければなりません。1月も10日が過ぎた頃、やっと腫れは第一関節まで縮小しましたが、相変わらず指先は赤黒く歪に腫れて痛みます。
やっと重い腰を上げ、医院の門をくぐり、腫れが引き痛みが治まるまで1ヶ月はたっぷりとかかりました。
なんでもないと思ったこんな指先の小さな傷から、私が私と言うことのできる本体の身を、私は今までどんなに乱暴に扱ってきたか思い知らされ、私が「生きている」ということは、この身全体を使っているのだと気づかされました。

  

Posted by 守綱寺 at 10:41Comments(0)お庫裡から

2025年02月04日

今月の掲示板 2025年2月


人間の一番の悲劇は
自分で
自分を引き受けられないこと

人間は
生きものである

地球上に暮らす生きものは
すべて40億年ほど前に生まれた
祖先細胞から進化した仲間であり
人間もその一つです

地球上のすべての生きものは
共通の祖先を持つ
仲間である

アリやチョウなどの小さな昆虫も
40億年の進化の中で
今を生きている仲間
40億年という長い歴史を
背負って生きている点では
どの生きものも同じなのです

「起こるはずがない」とか
「思いもよらない」というのは
現代人が
日々の暮らしは思い通りに動いて当たり前と
思っているために出てくる言葉です

今、大事なのは
私という存在を
まず「私たち」の中に捉えること

「私たち生きもの」の中の私
「私たち人類」の中の私
「私たち日本列島に暮らす人」の中の私
「家族」の中の私

「私たち生きもの」が暮らすところは
地球であり
地球は宇宙の中にあります

  

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2025年02月04日

本堂に座って 2025年2月


 気候危機をはじめ“自己肯定感”などについて、世界中で講演活動を行っている谷口たかひささんが、自分と向き合うことをテーマとした本を書かれました。その中からいくつかの文章を紹介します。

Q1 世界で最も過酷な仕事は?
 「世界で最も過酷な仕事」と題したアメリカの動画があります。架空の求人を行い、実際に面接している様子を映しています。その求人は簡単ではないけど、とても重要な仕事。役職は「現場監督」。基本的に立ち仕事で、時には屈みっぱなし。勤務時間は基本的に週7日、24時間勤務。休憩時間はなし。休暇もなし。この職務には非常に高い交渉力と、コミュニケーションスキルが必要。さらに必要なのは、医学・財務管理・調理の高い能力。そしてこの役職には給与がない。
 「違法じゃないの?」「悪い冗談だ」「ヒドすぎる」「非人道的だ」
 面接官が説明するその仕事のあまりにも過酷な条件に、求職者たちは、次々にそういった言葉を口にします。しかし面接官によると、この仕事に従事している人が今もいるとのこと。それも何十億人も。
さて、この仕事は何でしょうか?  答えは「お母さん」。
 この答えに、面接を受けていた人たちは驚嘆しながらも納得し、次々にお母さんへの感謝の言葉を口にしながら泣き崩れました。何度見ても、自分のお母さんの背中が頭に浮かんでは、涙があふれてきます。
 この動画は、世界中で瞬く間に反響を呼びました。家事を分担することがあたりまえになっていると言われている欧米でもそれだけの反響を呼んだということは、日本のお母さんたちの仕事量は、さらに想像を絶するものかもしれない。
 「職業に貴賎はない」ということは大前提の上で、それでも僕は、子どもを産んで育てることより尊い仕事はないと思っています。お母さんたちの自由と権利を守りたい。本気でそう思います。

<ノミはなぜ跳べなくなったのか>
 「ノミの話」というものがあります。ノミは地球上で最も高く跳べる生き物(体長比)。だけど、コップに閉じ込めてフタを閉めると、フタで頭をぶつけてしまう。問題は、その後、フタを取ってコップから出ても、そのコップに入る前とは違い、フタを閉められていた高さまでしか跳ばなくなる。
 ①あーしなさい!こーしなさい!(コップ) ②あれはダメ!これはダメ!(フタ)
この2つで縛り続けられた結果、起きる「義務脳」がまさに跳べなくなってしまった状態。自分の感情にも可能性にも見えないフタをして生きるようになります。
 あなたが「できるわけがない」「やってはいけない」と決めつけてしまう理由は、そういった呪いの言葉や嘲笑によって、フタをされてきたからかもしれない。「義務」だけを教わり続け、「自由」と「権利」について教わってこなかったからかもしれない。よいニュースとしては、この「ノミの話」には続きがあります。
 フタを閉められた高さまでしか跳ばなくなったノミでも、のびのびと跳んでいるノミと一緒にいるようになれば、「あれでいいんだ」と、また自分自身も再び美跳ぶようになる。
 もしもあなたが、自分は跳べないと感じていて、それでも跳びたいと思っているなら、のびのびと跳んでいる人を見つけて、その人と時間を過ごすようにしましょう。そこで大切なのは、嫉妬ではなく、尊敬の気持ちを持って。嫉妬は相手を自分の低さに下げ、尊敬は自分を相手の高さに上げようとすることですから。反対に呪いの言葉をかけてきたり、あなたの夢を笑ったり、その人都合の義務を押し付けてくる人からは、距離を置くようにしましょう。
 自分を信じて挑戦し続けている人と時間を過ごすようにしましょう。そして、あなただけでもあなたのことを信じてあげましょう。あなたができない唯一の理由は、あなたができないと決めつけていることなのだから。
 アメリカのメジャーリーグでプレイする日本人、大谷翔平選手。投手としても打者としても大活躍するという、マンガでしかありえなかったようなことを体現している人。その大谷翔平選手の高校時代からの「座右の銘」は-
 “先入観は可能を不可能にする”
(『自分に嫌われない生き方』KADOKAWA 刊
第1章自己肯定感~あなたには「自由」と「権利」がある~より引用しました)

  

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2025年02月04日

今日も快晴!? 2025年2月


 1月21日(火)の朝日新聞の「文化」欄に、ノンフィクション作家のインベカヲリ★さんの「社会が育む 都合のいい若者たち」という文章がありました。闇バイトに加担する若者が多いことについて書かれた文章ですが、途中こんな例が挙げられていました。『発達障害の診断を受けて、とある薬を処方されたという話を、2人の女性から聞いたことがある。その薬を飲むと「性格が変わる」と、彼女たちは言う。1人は、恐ろしいほど真面目に仕事をするようになり、空気を読んでニコニコするようになったため、職場での評価が上がったそうだ。もう1人は、長らく散らかり放題だった部屋を一気に片付けてしまい、同棲中の恋人から褒められたという。だが、彼女たちは首をかしげる。「一体、私は誰なの?」「愛されているのは私じゃなくて薬の方でしょ?」と。確かに、その薬によって恩恵を受けているのは、当人ではなく周りの方だ。他者が理想とする人間になるべく、薬で特性を変えることが推奨される時代であるということだ。』 
 (そうか。精神科で処方される薬にはそんなに強い作用があるのか。怖いなぁ・・・)と感じると共に、(でも、真面目に仕事をして貰えないのも困るし、いつも無愛想で機嫌が悪い人と一緒に仕事するのも嫌かも。部屋が汚いよりも、掃除した方が良いと思うし・・・)とも思ってしまいました。自分と一緒に過ごす人は、自分にとって都合が良い人であって欲しいと願う心は、誰もが持っているのだと思います。
 また、金銭的に厳しいからと飲み会をキャンセルした若い友人が、隙間バイトであっという間に金策をし、「昨日お断りした飲み会ですけど、急遽皿洗いのバイトが見つかり、金策が出来ました。明日はまだ空いていますか?」と連絡をしてきたというエピソードに触れながら、『そんな昨今の流れを思い浮かべながら、闇バイトについて考える。実行役として逮捕された若者は、多くがお金に困っていた。・・・彼らにとって最優先事項は直近の支払いを切り抜けることだ。時間を掛けずに高収入バイトを探し、よく分からない仕事でもまずは行ってみる。・・・ある被告人は裁判で「組織のコマとなった」と後悔の念を語っていた。しかし、それが特別なことだろうか。大抵の労働者は、会社の指示であれば劣悪な商品でも売るだろう。学校教育だって、従属的な人間を育ててきたはずだ。闇バイトに引っ掛かる若者を、愚かで倫理観が低いと非難するのはたやすい。しかし、彼らはむしろ、今の社会状況に極めて適応した存在と言えるのではないだろうか。社会が都合の良い労働者を育て、闇バイトにその人材を奪われていく。そんな側面もあるのではないか。』と語られています。
 読み語りボランティアで特性を持った子どものクラスに入った時に、先生が子どもたちに「ちゃんと座って!前を向いて!」と度々声を掛け、「きちんと座らせる」ために必死に努力される様子を見ました。「楽しんで聞いて貰えたら良いので、動いたり声を出しても大丈夫ですよ」と伝えるのですが、申し訳ないと思われるのか、子どもをじっとさせるのが教師の力量だと思われているのか、子どもの動きを始終気にされます。(その子のままで良いのにな)と思いながら帰りました。
「その子のままで良い」と思う気持ちと「私にとって都合が良い人であって欲しい」と願う気持ち。相反する二つの気持ちは自分の中にもあり、後者が誰かを追い詰める可能性があるなら、自分も闇バイトに手を染める若者を育てる社会を構成する一員だということになります。実行役の若者ばかり責めるわけにはいかないな、と感じます。

  

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