2019年08月10日
本堂に座って 2019年7月
3年に一度の参議院議員選挙が近づいてきました。
ウチの子どもたちはもちろんのこと、読み聞かせ会に来てくれる子どもたちのことを思いつつ、身近な仲間と憲法のこと、教育のこと、社会のこと…などをいろいろ話し考えながら、毎回良かれと思って投票しているのですが、正直なところ、投票した方の当選率は決して高くありません。
なんでかなぁ…と思っていたところ、『なぜリベラルは負け続けるのか』という、なかなか衝撃的なタイトルの本に出会いました。
議会での合意が有効となる大前提となっているのは、言うまでもなく選挙です。
議会とは「選挙で実際に投票した人たち」によって動かされているわけで、そこには「政治や選挙には興味があったけれども、実際には投票しなかった」という人たちの気持ちが入る余地はありません。
むしろ、その人たちが選挙に行かなかったことによって、「何があっても投票する」という人たちをたくさん集めることに成功した陣営を利することになります。
自分の気持ちに嘘をつかず、「どうしても生理的に受け付けられない、どうしても信条として賛同できない、そういう者を応援はできない」と正直に、純粋に考えた結果、「胸を張って棄権するのが一番気持ちに添う」と決心したことで、よりによって「一番落選させたい候補」の勝利に貢献してしまう。
これは不動の、不変の、しかし相当数の人々に共有認識されていない、とてつもなく重要な政治の原則です。
政治に参加するということは、つまり政治が抱える様々な問題に対して、自分なりの意見を持つだけでなく、その上で「とりあえず」の決断をするプロセスに加わるということに他なりません。
それは「どこの党に投票するか」という問題にも通じることです。政治においては、誰が見ても最善の手、これしかないという究極の一手というのはほとんど存在しません。
誤解してはならないのは、「賢明な判断を下せるのが大人」なのではないことです。採用した判断が本当に正しいのか、人々の幸福な生活や人生に貢献するのか、それは最後まで分からないのです。
分からないにもかかわらず、決断をするのが政治というものだと思います。
民主政治において、色々な事態を招いた責任は政治家だけにあるのではありません。
彼らを選び、決定を委ねた有権者も、様々なやり方で詰め腹を切る必要があります。
それは「誰かに失敗の責任を負わせる」というよりもむしろ、政治の無慈悲さと、それを前提にした我々自身のリアリズムの技法を大人として育ててゆく契機となるのであって、すなわち「政治を育む」ということに結びつくのです。
私は、「自分の気持ちなど二の次でよいと思って政治がしたい」と言いました。
しかし、それはとにかく目の前の現実に対応するために、つまらないこだわりを排せと言ったのではありません。
そうではなくて、自分の心情に正直になれば、その時は楽になるかもしれないけれども、それが回り回って、自分が生きにくい世の中に結びつくかもしれないと警告をしたかったのです。
あなたが自分の気持ちに正直になって、選挙において棄権をしたり、白票を投じたりすれば、それによってあなたが本当は支持したくない政党を喜ばせることになると言いたかったのです。
人間は、原理原則を守るために生きているのではありません。
自分自身が大切にしているものを守るためには、心の中に抱いている原理や理想からすると「セカンドベスト」かもしれない選択をしないといけない場合のほうがずっと多いのです。
しかし、それを選んだからといって、人生が台無しになるわけではありません。なぜならば、セカンドベストを選ぶという苦渋の選択をする中で鍛えられた自分が、そこにはあるからです。
(『なぜリベラルは負け続けるのか』岡田憲治 著 集英社発行 より引用しました。)
この本の“はしがき”には「見たいものだけを見て安心し、もう決めてしまったことを再確認し続けていても、世界は変わらない。
つまり、世界を変えるためには自分を変える必要がある。
そのためには、良くも悪くも変わらぬ自分を棚上げしないことから出発する必要がある」と書かれています。
また、つながりを作るためには「相手の心を閉ざす正論ではなく、心を溶かす提案が必要」「人からの批判に耐えられる人なんか一人もいない」とも指摘してくださっています。
選挙についての本として読み進めましたが、本当に大事な考え方や行動は、選挙だけではなく日常生活の様々な場面にも関わりが深いことを、あらためて教えていただきました。
Posted by 守綱寺 at 20:00│Comments(0)