2019年08月11日

清風 2019年8月

清風 2019年8月 

如来は、従如来生といわれているのであるが、この生は、衆生ということである。

安田理深「菩薩的人間 ―願と信の考察の一節―『親鸞教学』第1号82頁より

安田理深(1900~1982)
生涯を一仏者として、相応学舎という私塾で学生とともに、サンガの願いに
立って仏教に学ぶという姿勢を教えてくださった。
著書:『安田理深選集』全15巻・別巻4巻(全21冊)他多数。


私が京都にある大谷大学へ入学したのは1963年4月。
曽我量深先生が1961年秋に87歳の高齢で学長として就任。
その時金子大榮先生は80歳で曽我先生のその心意気に応えて授業を受け持たれ、鈴木大拙師は集中講義で年1回図書館講堂で講義、哲学は西谷啓治氏が大谷大学教授として講義をされました。
これらの先生の講義には、京都の大学は勿論、全国から住職や学生が講義に出席し、大谷大学の第二次黄金期だという空気がありました。
そうした中で、安田理深先生も再度講義を受け持たれ、私も授業に出ていました。
「出ていた」と書きましたが、これらの先生の講義はほとんど理解できず、出てはいるのですが座席に座っていただけでした。
その時、安藤眞吾さんという先輩から「仏法は頭で聞いてもわからん。ちゃんと身体が聞いているから心配せんでいい。そこへ座っとれ」と言われて、これら各師の講義を聞いていたことでした。
安田先生の講義もさっぱり分からず聞いておりました。巻頭の言葉の載った『親鸞教学』第1号も、買ってはみたのですが、ほとんど読んだという記憶は無く、最近また手に取って、こんなことが書いてあったのか、という次第です。
今回、安田先生の原稿を読ませてもらって、大乗仏教、「一切衆生を救う」という教えの根幹、釈尊から始まる仏教ではなく、釈尊を生み出した仏教 ―本願の宗教― 、清沢満之先生の「人心の至奥より出ずる至盛の要求のために宗教あるなり。宗教を求むべし。宗教は求むる所なし」(御進講覚書)という言葉の言わんとするところに、共感を覚えたようなことでした。

さて、長々と前置きを連ねたことですが、課題は如来についてです。如来は「にょらい」と読みます。
インドの言葉「タターガタ」を漢字に訳して「従如来生」、(真)如より衆生へ来たるハタラキ、と言われてきました。

真如とは、真実・真理の意味ですが、科学でいう真理とはニュアンスが異なります。
仏教は「四法印」と言われる、人間が生きる上での実践的真理(倫理・道徳の根底にある真理とでも言えばいいでしょうか)、「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」との教えです。(ここでの「法」は、法律の法ではなく、インドの古語で真理・真如を表す「ダルマ」の訳語です。)

衆生は、親鸞聖人も「凡夫はすなわちわれらなり」と言われているように、日常的には凡夫性として存在しています。
しかし安田先生は、「凡夫は、本来的には(真)如に於てありつつ、しかも現実的には如を失っているものである」と、そして「衆生が自己自身の本来性を喪失しつつ、しかもそれに関係するというように、そこには人間の存在構造の根源的な矛盾が示されている」と言われています。
この「人間の存在構造の根源的矛盾」こそ、前号で児玉先生が紹介して下さっている「自己とは何ぞや。これ人世の根本的問題なり」「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾にこの現前の境遇に楽在せるものすなわち是なり」という清沢満之先生の『絶対他力の大道』に書かれている文章に述べられていることです。
私どもが「すでに助かって、救いのド真ん中にいるにも関わらず、それが分からないで救いを求めている」のは、「人間の存在構造の根源的矛盾」であると、あらためて安田先生によって、ここ(『親鸞教学』第1号)で指摘されています。
その「存在構造の矛盾」と言われる人間の「矛盾の構造」(在り方)こそが、人間のみにある感情・「不安」をもたらしているのです。ヨーロッパでは超越的無意識とも言われている、宗教心と言われる意識を自覚することが、仏教における菩薩という凡夫のあり方と言えるでしょう。
凡夫的あり方とは、矛盾にありつつ、その矛盾の意識が無いことを指しているのです。
菩薩とは、その矛盾的な構造を自覚し、凡夫の本来のあり方…つまり、真如のハタラキである回向によって気づかされた凡夫、「よきひとの仰せ」に出会って凡夫という目覚めをいただいた者と言えばよいのでしょう。
(この項、続く)


Posted by 守綱寺 at 20:00│Comments(0)
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