2024年05月16日
本堂に座って 2024年5月
ここ数回、中島岳志さんの「利他」についての文章を紹介していますが、中島さんは親鸞聖人についても学んでおられ、『歎異抄』の「慈悲」から「利他」について記してくださっています。
さて親鸞は、ここから「利他」の問題を考えます。すなわち「慈悲」という問題です。『歎異抄』には、「慈悲」が明記されています。それは「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」です。
原文 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。しかれども、思うが
ごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思う
がごとく衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、こ
の慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べ
き、と云々。
現代語訳 慈悲といっても、聖道門と浄土門では違いがある。
聖道門の慈悲とは、他人や一切のものを憐れみ、いとおしみ、大切に守り
育てることをいう。しかしながら、どんなに努めても、思うように満足に
助け切ることはほとんどありえないのである。
それに対して、浄土門で教える慈悲とは、念仏によって速やかに浄土に生
まれ、仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分、生を受けた人々に
恵みを与えることをいうのである。
この世で、かわいそう、なんとかしてやりたいと、どんなに哀れんでも、
心底から満足できるように助けることはできないから、聖道門の慈悲は、
一時的で徹底せず、いつも不満足のままで終わってしまう。
こうしたわけだから、弥陀の本願に救われ、念仏する身になることのみが、
徹底した大慈悲心なのである、と聖人は仰せになりました。
「聖道の慈悲」というのは、「いいことをしよう」「いい人になろう」「かわいそうだから施しをしよう」というもので、自力の利他です。これにはどうしても限界があります。一時的で徹底しないもの(=「この慈悲始終なし」)です。
これに対して「浄土の慈悲」は、他力の慈悲です。自分はどうしようもない人間で、本質的な悪から逃れることのできない存在です。そのことを認識したとき、私たちに念仏がやって来ます。私たちは他力に導かれ、死後に浄土へ行きます。そして、浄土で仏になり、仏業によって衆生を救済します。これが「浄土の慈悲」です。
私たち衆生には、「自力」を超えた「他力」の働きかけがやって来ます。私たちは、その力を受けて生きています。「他力」を受けるためには、自己が「煩悩具足の凡夫」であることを自覚しなければなりません。自分の「罪業深重の業」を認識することで、仏業を受容することができるのです。
人間が行う利他的行為は、この他力が宿ったときに行われるものです。意思的な力(=自力)を超えてオートマティカルに行われるもの。止まらないもの。仕方がないもの。どうしようもないもの。あちら側からやって来る不可抗力なのです。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)
中島さんは「利他」と「利己」をしっかりと分けてとらえておられますが、ここでは“自力の利他”には“限界があり、一時的で徹底しないもの”(=聖道の慈悲)と書かれています。人間が行う「利他(的行為)」は“意思的な力”を超えて、「他力」(仏さまのはたらき)を受け取ることで行われる(やってくる)ものなのです。