2018年06月21日
清風 2018年5月
人間は時代(状況)に翻弄されて、いつの時代でも自己の作り出した状況に振り回されてきたのだと言えばそれまでだが、どうだろうか。
ここで、フロムの言う「…への自由」に私は注目したいと思う。
歴史上(3月号でも少しふれた様に)、紀元前6世紀~5世紀にかけて、ソクラテス(ギリシア)・孔子(中国)・釈迦(インド)らが、地域を異にしながらも共通して「自己とは・生きるとは」といった、実存(現実存在)・「ここに、今、生きる」とはどういうことなのかという問いを投げかけた、その事実の意味を考えたいからである。
また、これがフロムの出した問い「…への自由」ということであり、いつの時代も人間は「生きる」ことへの問いを内に持っており、これこそが人類史を一貫する問いかけだと思うからである。
俳句にも「去年今年 貫く棒の ごときもの」(虚子)とあるように。
「考える」ことは、反省(内省)とも内観とも言われる。ことに現代においては、人(私)は対象的に知ることは(外観・観察は訓練せず(習わず)ともおおよそ)できるのであるが、「考える」ことはなかなかできにくくなった(というか、不得意になったとでも言ったらいいのか)。
上に述べたスマホやテレビのように、機器の発達も輪をかけて、情報化社会と言われる現代は特にその傾向が強いと思われる。
「…からの自由」というのは、「生きる」ための「環境が整う」「条件が整っていく」ということであろう。
それに対し「…への自由」というのは、何かを始めることができる、もっと言えば始めることが見つかる、とでも言えばいいだろうか。
「何故、生きるのか」と問われ「生まれたから、やむを得ず、ついでに生きているのであって他意はない」と答えた人がある。
あなたはどうだろうか?
悩み・悲しみ・苦しみ・喜びがこの人生にあるのは、何故なのか。
「生きるとはどういうことなのか考える」、そのきっかけこそが、先に挙げたソクラテス・孔子・釈尊であった。
この世界にあって、本当の意味で我が人生全体を私の人生として担いたいからではないか、それをこの三人の先人が示しておられるのであろう。
「…からの自由」とは、実は、身の周りばかりに気をとられていること、成れば(実現すれば)「当たり前」になるだけのこと。
つまり道具の世界のことなのである。
道具とは、生活を便利で快適にするモノのことである。
人類は、「…からの自由」をずっと「進歩」と言い換えて(カモフラージュして)21世紀まで歩み、その限界を知らねばならない事態に遭遇したことで、考えさせられ始めたのではないか。
「…からの自由」とは、本当に「生きる」ことを全うさせる道ではないのではないか、と。
その「…からの自由」という生き方からの転換をせまる生き方として、「…への自由」という表現で、E・フロムは指し示してくれていたのだろう。
自由は、私に馴染んでいる言葉としては、仏教の教えとして表現されてきた「自在」ということにおいて実現されていたのです。