2019年01月04日
清風 2018年9月
君は
何をしに この世に
生まれてきたのだね。
西村見暁
今夏の盆会のお勤めをしながら考えさせられたことを記します。
今年の夏は、天気予報でも「今までに経験したことのない異常気象」が続いていると毎日伝えていましたが、正直参りました。
残暑お見舞い申し上げます、と言いたいのですが、この暑さ、どうなるやら…。
引き続き、お体に気をつけてお過ごしください。
さて、お盆にちなんでと前置きしたのですが、お盆は正式には盂蘭盆会と書いて「うらぼんえ」と呼び習わしてきました。
お盆はその略称です。これはインドの言葉(サンスクリット語のULLAMBANA)ウッランバナの音を漢字で写した文字です。
「ウッランバナ」の意味は「顚倒している」で、「苦悩、悩んでいる」という意味です。
顚倒とは「頭を下に、足を上にしていること」で、これは苦しい状態です。
つまり人間が苦しみ悩むのには、それなりの理由があるというのです。顚倒、それが理由であると。
そこで、仏教という言葉に返って、仏教の考え方(原理・原則)を確認しておきたいと思います。
仏教とはブッダの教えです。
ブッダとは、これもインドの言葉で、目覚めた人・迷いを克服した人の意味です。
ですから、「成仏」も意味のある言葉なのです。
成仏とは「目覚めたものに成る」という意味なのです。
現在、日本で圧倒的多数の方の理解は、成仏とは死ぬことになっています。
「あいつもとうとう成仏した」というように。そしてまた、亡くなった人が迷っているという意味で、「まだ成仏しとらん」と使われているようです。
成仏とは「亡くなったこと」や「成仏しとらん」と他の人のことについて言う言葉ではなくて、私が人と生まれたことには「成仏」という課題のあることに気づかねばならないということを示す、仏教からのメッセージなわけです。
成仏は、釈尊においては「出世本懐」といわれているように、私が世に出た(出生した)意味を問う言葉なのです。
それを簡潔に表現したのが、冒頭のことばです。
ところで宗教というと、「救い」「救われる」というように日常的には使われ、「救い」の内容は自分の思い通りに成ること、自分の都合のいいように成ること、のようです。
都合よくならなければ「神も仏もあるもんか」となり、もし思った通りに成れば「オレにも相当運が向いてきているぞ」と。
仏教も宗教の部類に入れられているようですが、多くの人は、仏教についてもだいたい上に述べたように理解されているのではないでしょうか。
ふつう仏教は、古来「仏・法・僧」と言われているように、仏(人)・法(真理)・僧(サンガ=ブッダの法を聞く仲間・グループ)と、三つの宝から構成されていると言われます。
法が真理と言われてきたように、釈尊もその法(真理)に目覚めた人であり、ブッダとも言われます。
目覚めた人は何に目覚めたのかといえば、法(真理)に目覚めたのでしょう。
だから釈尊も、自らこの法を真理として尊んでこられ、後世、ブッダ(仏)は「法から生まれた人」と呼ばれてきました。
仏教で法というのは、ダルマ(真理)を指す言葉です。
我が国で法といえば法律を意味していますので、同じ語(法)を使いますが、相当意味は違っています。
親鸞、その人もお師匠・法然上人を「阿弥陀如来の化身」と敬っておられます。
阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまいにき (源空=法然上人)
仏教で「愚痴」ということをいいます。愚痴とは「道理がわからない意。言ってもどうしようもないことをくどくど言うこと」とあります(『新明解国語辞典』三省堂書店刊)。
ここで面白いのは「道理がわからない意」とあることです。
「ものの道理」という言い方もあるように、ものごと、そのことがそうなっているのにはそうなる道理があるのに、その道理が分からないから愚痴を言っているわけで、言ってもどうしようもないこと(つまり、愚痴)を言っているというわけです。
その道理とは一言で言えば、「私が悩めるのは、すでに与えられているからであるのに、そのことは“当たり前”としてしか受けとめることができず、足らざるものがあるから悩むのだと思っている」ということを示しているのです。
(つづく)
Posted by 守綱寺 at 15:34│Comments(0)
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