2020年08月05日
清風 2020年8月
速くできる、手が抜ける、思い通りにできる、
・・・ありがたいことですが、困ったことに
これはいずれも生きものに合いません。
中村桂子(1936~) 東京大学理学部化学科卒、JT生命誌研究館前館長。
著書『ゲノムが語る生命』集英社新書、『生命科学から生命誌へ』など多数。
自分も生きものの一つという原点を見据えるためにも、
農業を学べと生命誌科学者は言う。
朝日新聞 2018年5月28日『折々のことば』より。
鷲田清一(1949~) 哲学者。大阪大学総長、京都市立芸術大学学長を歴任。
仏教の教えを端的に表現すると、「人身受け難し」あるいは「人間に生まるることをよろこぶべし」(「横川法語」源信僧都 作)と言えるでしょう。
「生まれたら、人間であった。」「生まれて気づいたら、人間として生きていた。」というのが、私どもの偽らざる正直な気持ちではないでしょうか。
しかし、現代はそういう意味からすると、大変貧しい人間理解にしか触れられない時代かもしれません。
そこには「人間らしさ」と言われることが全然問題とされない、人間に生まれたという意味が当たり前のこととして問われる、あるいはあらためて学ぶ、という余地がもう残されていないかの如くに見なされて、処理されていって当然ということになっているとも云える事態だということでしょうか。
冒頭に掲げた中村さんは、そのことを端的に以下のように指摘されています。
「「人間は生きものです」ではなく、「人体は株価を引き上げる宝の入ったお蔵です」ということが当たり前になりかねないという気がするのです。」
「生きもの」という表現をしておられますが、これは「いのちを生きている」ということは本質的に「もの・モノ・物」とは違うと次のように言い添えておられます。
「もちろん、経済も科学技術も人間の活動の一つとして大事なものであることは認めます。でも「命あっての物種」という言葉があるように、一番の基本は“生命”。そのうえで、科学技術も経済も動かすという逆の発想をした方が、暮らしやすい社会になるのではないかと思えてしかたがありません。」
こうした議論がされていくということは、極めて大切なことと思われます。先月号に、漱石の小説『行人』で主人公の
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かって我々に止まることを許してくれたことがない。(略)どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴(つ)れて行かれるか分からない。実に恐ろしい」
という発言を紹介しましたが、もうそういう「どこまで伴れていかれるか分からない。実に恐ろしい」という指摘が現実になっていると云えるのではないでしょうか。
人間に生まれたということが、どういうことであるのか。
それを仏教では、冒頭に紹介しているように「人身受け難し」、「人間に生まるることをよろこぶべし」と言っているのですが、それはあらためて、いのちそのものから「私たちが人間に生まれたのはどういうことか」と問われているということを示唆しているのでしょう。
それは「当たり前のことではない」のだと。現代に生まれた私どもは、人間に生まれたことを「当たり前」として自明の如く思い、問わないでいることに、今や耐えきれなくなっていると言えるようです。
こうして「自明のこととして、放棄すること」で、今どういう事実となっているのかを、中村さんが私どもに問題として提起し、投げかけてくださっているのだと、私は受け止めたいと思っています。
冒頭で「速くできる、手が抜ける、思い通りにできる。…ありがたいことですが、困ったことに、これはいずれも生き物に合いません。」という言葉を紹介しました。
また、「コロナ禍」後という言葉も聞かれます。
「with korona」という言葉も。
「生まれた」という受け身で語られてきた歴史には、「与えられた」という意味が込められているように思います。
「あなたは あなたで在ればよい。あなたは あなたに成ればよい。」釈尊
この言葉は、釈尊が「自灯明・法灯明(自らを灯とし、他を灯とするな。法を灯とし、他を灯とするな。)」と伝えられる遺言の意訳です。
「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾にこの現前の境遇に落在するものすなわちこれなり。」 (清沢満之 1863~1903)
「この現前の境遇に落在するもの」という告白こそ、「この世に生を受けた事実の告白」と言えるのではないでしょうか。 (続く)
Posted by 守綱寺 at 10:58│Comments(0)
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