2021年08月17日
清風 2021年8月
先月号で、594(推古2)年に「三宝興隆の詔」が出されたと紹介したのですが、これは現代風に言えば「仏教の教えを中心とする国造り」ということです。
その願いを受けて、当時仏教の先進国であった朝鮮の高句麗から僧・慧慈が、更に百済から僧・慧聡が、三宝の棟梁として来日し、太子の師として仕えることになったのでした。
こうした渡来僧の貢献もあり、太子が仏の教えについて理解を深められた結果、一つには十七条憲法として実り、さらには十七条憲法制定の翌年に造られた太子の住まい「斑鳩宮」に象徴されている(斑鳩宮が瓦葺きであることに示されている)と言われます。
板葺きか瓦葺きかというのは、今日では特に建築材料の違いを表すとしか意味が取れないのではないでしょうか。
しかし太子の時代(600年代)においては、その材料が深く習俗と関わっていたはずです。
宮は御屋(みや)であり、御は神を意味していました。
宮は神の住居でもあり、住まいといっても一代限りの住まいだったのです。
何故なら、神は死を穢れとして忌み嫌うからです。
穢れを払う、これが神に対する道(神道)でしたし、今もそうではないでしょうか。
だから先代が亡くなれば、一代限りで宮殿を新築するか、穢れを払うのが、当時も今も習俗の一つとなっています。
ところが上宮王家(聖徳太子)の人びとにとっては、全く顧みられていないのです。
何故でしょうか?上宮王家の人びとにとっては、死というものが穢れとは全く違ったものになっていたからだと言えるでしょう。
当時の上宮王家の仏法の受容について、これは象徴的な事実と言えます。
現代では特にそうかもしれませんが、宗教というと先ず浮かぶのは「救われる」とか「助かる」という言葉で表現されるものです。
しかし聖徳太子が亡くなると、太子夫人であった橘太郎女妃は推古天皇に願い出て、「天寿国繍帳」を作成し、「我が大王、告りたまわく、世間は虚仮にして、唯だ仏のみ是れ真なり」の言葉を書き記しておられます。
この言葉は、勿論「三宝興隆の詔」の願いを端的に示したもので、その願いとは、それこそ『十七条憲法』の第一条「人皆黨有り」と第二条には「それ三宝に依らなければ、何をもってか枉(まが)れるを直さん」、また第十条には「人皆心あり、心おのおの執れること有り、我れ必ずしも聖にあらず、かれ必ずしも愚にあらず。共に是れ凡夫なるのみ。
是非の理、詎(なん)ぞ能く定む可けんや。相い共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端無きがごとし。自分をかえりみて我があやまちを恐れよ。」と記されていることに示されています。
「天寿国繍帳」に「世間虚仮、唯仏是真」とあるように、十七条憲法も新国家づくりを目指すための国を構成する官吏一人ひとりの心構えを示すこと、つまり人づくりの指針を示すことが、何よりも急務であったのです。
“人とは何か”、“人とは何をなすべきか”、“人は如何にあるべきか”
「人とは何か」、この問いに答えるべく、十七条憲法第一条は「以和為貴」をもってこられたのです。
そしてその「和」はどうしたらもたらされるのか、それが第十条に「彼是なれば、則ち我は非なり。
我是なれば、則ち彼は非なり。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫なるのみ」と示されています。
「和」とは、この「共に是れ凡夫なるのみ」という目覚めに開かれることだと。
この「共是凡夫耳」という目覚めの開く世界が、「天寿国繍帳」に記されてくる「世間虚仮、唯仏是真」と太子をして言わしめた世界(境涯)と言えるのです。
ここで第一条の「和を以て貴しと為す。忤(逆)らうことなきを宗とせよ。人皆、黨(たむろ)あり。また(和の大切さについて)達る者少なし。」の文意について考えてみます。
現代では、便利で快適という道具・機械の発達の成果が全ての評価の基準となり、その前提となる “人とは何か”、“人とは何をなすべきか”、“人は如何にあるべきか”ということが既に「分かったこと」となっていて、改めて問うという前提が立てられにくくなっているのではないでしょうか。
今から1400年も前に作られたこの十七条憲法では、「自己とは何ぞや」「何故、生きるのか」という最も人間らしい問いが持つ意味について、前提とされていると言えます。
この憲法の前提は「人皆黨あり」です。つまり、それは私心でしょう。
『華厳経』には「重々無尽、法界縁起」、人間存在にとって、生きることはそのままで実に豊かな生を生きているのだと説かれています。
次号で、さらに第二条・第十条によりながら、太子の開かれた仏教理解について学んでいこうと思います。(続く)
Posted by 守綱寺 at 15:34│Comments(0)
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