2022年06月01日
清風 2022年5月

万有の進化は人間に至りて一段の極を結び
形態的進化は此より転じて精神的の進化に入らんとするか。
(略)吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなりや。
『臘扇記』清沢満之全集 第8巻 P358~359
私たちは どこから来たのか。
私たちは何者か。私たちはどこへ行くのか。 ゴーギャン
昨年は聖徳太子の1400回忌法要の年ということで、「十七条憲法」に学びました。
太子は具体的に「人とは何か」を知ることによって初めて「人は何を為すべきか」「人は如何にあるべきか」が決められてくると示しておられます。
そして、太子はその人について、「人」とは「共是凡夫耳(共に是れ凡夫ならくのみ)」と決定しておられます。
仏教では言われる凡夫について、親鸞聖人は中国の善導の教えに依りながら、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と頂いておられ、また『歎異抄』第13条では「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と記し、そのすぐ後に「ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか」と言われています。
これらの文言に関して、聖徳太子の「十七条憲法」10条には「人は皆心あり。心おのおの執れるところあり」と記されています。
また、経典にはすでに、次のようにも記されておることです。
「この劇悪極苦の世の中で、尊い者も賤しい者も、富める者も貧しい者も、若きも老いたる者も、男も女も共に銭財を憂う、有無同じく然り。心に走り使われて安き時あることなし。(『仏説無量寿経』下巻『真宗聖典』P58三毒段・瞋恚段より)
巻頭に掲げた『臘扇記』の言葉に注意したいと思います。
「形態的進化は此より転じて精神的の進化にはいらんとするか。吾人は絶対無限を追求せずして満足を得るものなりや。」の問題提起をどのように受け止めるかが、我々現代人は問われているということでしょう。
そのことについて、二つの具体例を挙げて考えたいと思います。
一つは短歌です。
人生とは ないものねだりの歳月か 得てはすぐ慣れ 無くて欲しがる
二つ目は
先生、私はいい生活はしてきたのですが、本当に生きたことがありません。
という患者からの訴えです。
つまり、形態的進化とは「自己の思い通りにしたい」という段階にいる私であると気付きなさい、とでも言ったらどうでしょう。
「精神的進化」とは、私のモノサシが、実は仮なものでしかないのだと気付かされる段階のことなのです。
「万有の進化は人間に至りて一段の極を結び」とはどういうことか、その例を挙げて考えてみましょう。
そして次の例はまた、その一つの具体的例ではないでしょうか。
それはIR(カジノを含む統合型リゾート)の計画に関する県議会の否決を受けて、知事が記者会見で「痛恨の極みだ。県経済を良くする最大の起爆剤が失われた」と、また他の県知事は「私の県のIRは、世界一のエンタメ(娯楽施設)拠点を目指す」と語ったというのです。
IRについては、その計画が発表されてから、ギャンブル依存症を懸念する声が出ています。
そのIRを誘致しようとする市なり県では、ギャンブル依存症対策として、病院に専門外来を考えて万全を期すという説明が為されていました。
まさに、このカジノの例が示しているのは、下に引いた、経済成長のためにはなりふり構わぬ、無の者(ニヒッ)の典型を示すものではないでしょうか。
「精神的進化」とは、仏教では次のように語られています。
最上の真理をみないで百年生きるよりも、最上の真理をみて一日生きることのほうがすぐれている。(『真理の言葉 ダンマパダ』(P26 115 岩波文庫))
つづく
Posted by 守綱寺 at 17:19│Comments(0)
│清風
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