2023年06月16日
清風 2023年6月
仏教は
「人間奪還の教え」
である
高光大船(1897~1951)清沢満之に師事
暁烏敏・藤原鉄乗・師で、加賀の三羽烏と言われている。
現代は、「宗教」という言葉自体を吟味しなければならなくなっている時代と言えます。親鸞聖人は比叡山を下って法然上人に出会われ、その感激を『教行信証』に執筆され、その内容を同書「後序」において「真宗の詮を鈔し、浄土の要を?う」と述べておられます。
「真宗」との名告りについて、この2、3年の「清風」巻頭で紹介してきた文を参考にしつつ、宗教について共に考えたいと思います。
人間の本質はGDP(国民総生産額)によって計られうるものではない。我々は「学びの社会」に入ったということをしばしば耳にする。これは確かに、真実であることを希望しよう。 (『人間復興の経済』佑学社刊 P14上段L10)
シュマッハー(1911~1977)
シュマッハーは次のように述べた後、続いてガンジーの言葉を引用しています。
経済的観点からすれば、人間の英知の中心的概念は永続性である。我々は永続性の経済学を研究しなければならない。長期にわたる継続が不条理に陥ることなく確保されるのでなければ、なんら経済的な意味はなさない。限定された目標に向かっての“成長”はありうる。しかし、無制限に一般化される成長はありえない。
(同書P24上段L11~下段L1)
地球はすべての人間の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての貪欲を満たすほどのものは提供しない。 (同書P24下段L2)
ガンジーの言葉(貪欲は「欲望」と理解すべきであろう。)
このガンジーの言葉について、「生命科学」に代わり「生命誌」という名のもとで研究をしておられる中村桂子さんの提言を、次に紹介します。
“科学”から“誌”への移行にどんな意味があるのか、この生命誌から生きものやヒトについてどんなことがわかるのか、それが、自然・人間・人工の関係づくりにどうつながっていくのか。そこからどんな社会がつくれるのか。ヨチヨチ歩きを始めたところですので、スパッと答えは出ませんが、一緒に考えていただくための素材を提供したいと思います。
(『生命誌の世界-私たちはどこから来て どこへ行くのか-』
NHK教育テレビ講座テキスト 1999年4月~6月)
中村桂子(1936~)前生命誌研究館長
「人間は生きものであり、自然の中にいる。」これから考えることの基盤はここにあります。これは誰もがわかっていることであり、決して新しい指摘ではありません。しかし、現代社会はこれを基盤にしてでき上がってはいません。そこに問題があると思い、あらためてこの当たり前のことを確認することから出発したいと思います。
まず、私たちの日常生活は、生きものであることを実感するものになっているでしょうか。朝気持ちよく目覚め、朝日を浴び、新鮮な空気を体内にとり込み、朝食をおいしくいただき……これが生きものの暮らしです。目覚まし時計で起こされ、お日さまや空気を感じることなどまったくなしに腕時計を眺めながら家を飛び出す……実際にはこんな朝を過ごすのが、現代社会の、とくに都会での生活です。ビルや地下街など、終日人工照明の中で暮らすのが現代人の日常です。これでは、生きものであるという感覚は持てません。(略)そこで、ここでの提案は、まずは一人ひとりが「自分は生きものである」という感覚を持つことから始め、その視点から近代文明を転換する切り口を見つけ、少しずつ生き方を変え社会を変えていきませんかということです。一人ひとりの気持ちが変わらないまま、例えばエネルギーだけを脱原発、自然エネルギーに転換と唱えても今すぐの実現は難しいでしょう。しかもそれはあまり意味がありません。自然エネルギーを活用する「暮らし方」が大切なのであり、その基本が「生きものである」という意味なのです。
(『科学者が人間であること』中村桂子著 岩波新書 第6刷 2018年発行)
Posted by 守綱寺 at 12:50│Comments(0)
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