2020年04月10日

清風 2020年4月



うちつけに死なば死なずでながらへて かかるうき目を見るがわびしさ
(ただこうして生きながらえてきたために、こういうひどい目を見るのが実に辛い)
しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがる妙法にて候。
かしこ(良寛和尚(1758~1831))   


良寛さんと親しみを込めて呼ばれてきた人。
佐渡島の向かい、越後の出雲崎の名主の家に生まれる。
春は子供たちと草を摘み、手まりをついたり、おはじきをしたりして遊んだという逸話が残されている。
良寛さんの74年の歳月は、凶作や地震の飢饉のうち続く時代だったことが分かるという。
そんな時代の自身の生き方を、良寛さんは次のようにも詠んでいる。

なにゆえに 家を出しと 折ふしは 心に愧じよ すみぞめの袖
身を捨てて 世をすくふ人の 在すものを 草の庵に ひまもとむとは

さて、新型コロナウイルスによる肺炎の拡大。
人間とウイルスとの闘いと言おうか。
万物の霊長であると思い込んでいた近・現代の私どもも、最近は3・11の原発といい、昨年の関東(千葉)における豪雨による1ヶ月に3度もの洪水の被害といい、人間(人知である科学)と自然(ウイルス)の闘いというか、生態系(生き物)で言えば、一番原始的なウイルスから「万物の霊長」と自称してきた人間が、自然界において人類の進歩と称してきた歩みが問われているのではなかろうか、と思う。
ウイルスも生き物の一種であることに間違いなかろう。
地球に生きるものとして考える場合、人類は一番最後に地球に現れた生物と言われている。

コロナ・ウイルスやエイズ・ウイルスは、増殖する(複製を作る)ために様々な補助設備を利用していると言われる。
その補助設備の代表がタンパク質であり、タンパク質を持たないものは、他(例えば人)の細胞に入り込んで、そこに備わっているタンパク質を利用して自己増殖をする。
いわゆる寄生である。
ウイルスは人を自分の複製のために利用するそうだ。

人間は他を利用するという観点から言えば、どれほど他の生き物と自然から恩恵を受けているだろうか。
もうそれは計り知れないものであろう。
しかし、私ども人間にとって、それは「当たり前」と、何の感銘も、感動も、驚きも、恥じらいも持てないようになってしまっているのではなかろうか。

ここに、その一端を告白というか、顧みた感興の言葉がある。
壊れた原子炉よりも 手に負えないのは きっと「当たり前」という気持ちに
汚染された 僕らの心
人間の進歩と言われてきたのは、豊かさ(GNP)を獲得することであり、豊かさは快適さと便利さによるということであろう。
それは例えば、交通機関の発達に、人類の歩みが示されていると言える。

人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない。
徒歩から俥(くるま)、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。
どこまで伴(つ)れて行かれるか分からない。実に恐ろしい。
(夏目漱石著『行人』岩波文庫 354ページ)

漱石をして、進歩を「実に恐ろしい」と言わしめたのは、進歩と言われ、豊かさと言われた事象の全ては、人間にとっては、成ってみれば「当たり前」に過ぎないということになってしまっている、その事実にではなかったろうか。

すべてが「当たり前」としてしか受けとめられないのなら、一体私ども人間は、ずっと進歩と幸せの途中を彷徨っていて、ついに進歩と幸せを感受できないまま、人生を消費するのみで一生を送っているということになってしまうのではないか。

ある年寄りが、こうつづられていたという。考えさせられる。
おもうように ならざることを よろこばん
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)清風

2020年04月09日

お庫裡から 2020年4月


突然、「学校を休校」というニュースが流れた時は、「エ!卒業式はどうなるの」「受験は?」と心配になりました。
(何と言っても我家には小学校卒業、中学卒業・高校受験を控えた孫が2人もいたのですから)
それ等も無事終えて、4月から中学生、高校生が誕生しました。
休校中、何が良かったかというと、3人の孫が毎日、お内仏のお夕事に連なってくれた事です。
本当に嬉しく、張り合いのある時間でした。
次男(この度高校生になった)の誓くんが幼かった頃、お兄ちゃんにあこがれたのか、「ぼくのこと、開くんって呼んで」と言いました。
その時、ああ、ここにも阿弥陀様のお目当ての子がいる、と思い、お夕事の〆は口称、十声念仏をすることにしました。
念仏(ナムアミダブツ)は、生きている私の、私が私と思っている部分をはぎ取っても、まだ残っている私、言わば究極の私の名前です。
「そんなー、はぎ取ったら何も残らないじゃん」と思いますが、じゃあ何で「何も残らないじゃん」と言えるのでしょう。
ナムアミダブツは、私が私と言える、その私を根底から支えているハタラキ(他力)の名前です。
口で称えるナムアミダブツは、私が言っていますが、根底の私が、私の都合にしか立たぬ私の耳に「お前はどこに立っているのか」と呼びかけ、「ここをどう生きてくれますか」と問い、願っている(本願の)私への呼び声なのです。
孫達の新しい門出は嬉しいけれど、これからは一緒にお夕事の回数はぐっと少なくなることでしょう。
問われ、願われているのは孫達ばかりではありません。私も「尚子よ、ここをどう生きてくれますか」と問われ願われています。
スタートは孫達ばかりではありませんでした。
73歳も、スタート地点に立たしめられる。これがお念仏の功徳かと。
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)お庫裡から

2020年04月08日

今月の掲示板 2020年4月



(今月のことばは、『毎田周一全集 第二巻』より。)

宗教とは
内省ということだ

私たちは
生かされて生きている

内省とは、
自己が自己を見ること

自己の全体を見るのが内省
自己のあれやこれやの断片ではなく
人間そのものが見られなければ
内省とはいえない

内省とは
自己の人間存在の根源を
見ることでなければならない

内省とは聞くということ
真に聞くことの出来る人が
内省の人

内省は、絶対の生命力に乗托して生きる
自己なることを知らしめ
この生に安住せしめる

宗教という言葉を口にしても
内省が欠如しておれば
それは名のみで 実のないもの

人間は「私」という
自覚的なことばを持つ動物
(動物のことばは合図としてのことば)

私が私を見ることができるのか?
人が「私は」と言うことを言う限り
出来るのです

一体、私が
私を見るということなしに
どうして「私は」と言えるのでしょう

  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今月の掲示板

2020年04月07日

本堂に座って 2020年4月



4月の声が聞こえてくると、それぞれ新生活が始まります。
長男・開くんはいよいよ大学受験生に、次男・誓くんは高校生に(第2志望校でしたが、無事に公立高校に合格しました。)、長女・在ちゃんは中学生になります。
本人たちはもちろん、親としても期待と不安が入り交じる複雑な心境で4月を迎えることになりそうです。
ウチの子どもたちには、まだ少し気の早い話だと思いますが、新たな環境で生活を始める皆さんに、ぜひ気をつけていただきたいのが“怪しい宗教(カルト宗教)”の勧誘です。
まずは以下のQ&Aを読んでいただきたいと思います。

○ 宗教というと、「洗脳される」というイメージがあります。
一度入ったら抜け出せなくて、お金もたくさん寄付しなくてはいけなくて、何か怖いものだという気がしていて…。

宗教との出会いはさまざまです。
かつては貧・病・争のつらく苦しい状況から抜け出して楽になりたい、苦痛を軽減してほしいと、思いどおりにならない不都合の解消や好都合化を目指しての神仏信仰ということが多くありました。
便利で豊かになった現代ですが、何となく空しいとか、よくわからない不安があり、目標を実現したのに満足感や喜びがなく、生きる意味がわからない。
そこで勧誘された宗教(らしきもの)に入信して、献金を要求され、洗脳される不安があるわけですね。
洗脳(マインドコントロール)というのは、自分の自由な考え方が心理的に操作され、正しく見たり批判することができなくさせられることです。
しかし、本来の宗教体験とは、自分の考えや価値観、それに基づく進み方が通用しないことに出会って、これが自分だと思っていたことが大転換する、言い換えればそれまでの自分が崩れてしまう経験です。
そして、そこから、揺るぎない真実に立脚した歩みが始まっていくのです。
世の中には、宗教の顔をしたお金集めがあります。いわゆる怪しい宗教です。
その特徴は、まず、「これを信じなかったら不幸になるぞ」と脅して勧誘する。
次に、法外な献金を要求する。
最初はごく少額でも、どんどん膨れあがっていく場合もあります。
そして三つ目は「これを信じれば、あなたの願いが叶います」と近づいてくる宗教です。
意外に思うかもしれませんが、本来の宗教は、そういう自分中心の欲が争いや不和を引き起こして自他を傷つけていたと気づかせてくれるものです。
さまざまに縛られ閉塞している状況に気づいて、それが起因する元と目指すべき方向を知ることで、さまざまな課題を抱えながらも安心していきいきと生きる道が開かれます。
苦悩している自分が、自分を超えた世界から願われ呼びかけられていたと気づいたとき、現実は違って見えてきます。
自分の請求することを都合よく達成するためにと宗教を利用したつもりが、逆に怪しい宗教につけ込まれて利用され、疑うことを許されずひたすら献金させられ、ノルマ達成のために周りを勧誘することに汲々となってしまっては、それこそ「こんなはずではなかった」ということになります。
宗教は、人生の大事なことに気づかせてくれるものです。冷静に関心をもって学んでいただければと思います。
(『仏教なるほど相談室』真城義麿著 東本願寺出版発行より引用しました。)

 今までと違った環境で過ごす中で、不安や寂しさを感じている時に優しく声を掛けてもらえると、安心感や心強さを感じることでしょう。
でもその際に、ちょっと立ち止まって「これって大丈夫かな?」と考えてみたり、家族や友人などに話してみてください(東本願寺からはカルト宗教についてのリーフレットやチェックシートが発行されています)。
“本当の宗教”はどういうものかをほんの少しでも知っておくことで、“怪しい宗教”に気づくことができるようになると思います。
  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)本堂に座って

2020年04月06日

今日も快晴!? 2020年4月




この春、いよいよ一番下の娘が小学校を卒業します。
長男の時から11年通った地元の公立小学校は、私の母校でもあります。
4年前に、区画整理事業に伴って移転し、新校舎に建て替わるまでは、自分も通った古びた鉄筋の校舎に子どもたちも通いました。
毎年校門の正面で美しい花を咲かせてくれたしだれ桜、道路からの急な坂道、同じ校歌、同じ茶色の標準服。
昔から変わらず行われている地元の神社の秋祭りや、同じ目的地の修学旅行。
子どもたちの成長や豊かな経験を喜ぶと同時に、(懐かしいなぁ。同じことをやったなぁ。)と自身の経験や記憶を懐かしむことも出来るなんて、本当に幸せなことだったなぁと思えます。
一方、自分たちが子どもの時にはなかった「絵本の読み語り」のボランティアとして、学校に出入りさせて頂くことも出来ました。
「あー!○○ちゃんのお母さんだ!」と子どもたちに迎えられたり、長年ボランティアを続けて来られた先輩ボランティアの方たちと親しくさせて頂いたり、読み語りに関わる学校の役員の方と新しくお知り合いになれたりと得るものも多く、より深く学校とも関わらせて貰うことも出来て、親子共々楽しい小学校生活を送ることが出来ました。
娘が卒業することで、自分は「在校生の保護者」として学校に出入りする理由がなくなることになりました。
これが、思った以上に「色々もう良いかな」という気持ち的な区切りとなっているなぁと思えます。
長年続けてこられた先輩ボランティアの皆さん方は、現在ご自身が病気になられたり、家族の介護に打ち込まれたり、家庭の事情で引っ越しをされたりと、続けることが難しい状況になられた方もあります。
毎月一回でも子どもたちの前で絵本を読む時間がとれるのは、たまたまの条件が整ってこそのことなのだと教えて頂いているようです。
いつでも卒業できるよう心の準備だけはした上で、ゆっくり身を引いていこうと思います。
今まで自分のアイデンティティだった「子育て中の母親」という肩書きが、そろそろ外れてゆく時期になりました。
自分がこの先どちらの方向を向いて生活してゆけば良いのかを考えたときに、やはり守綱寺だなぁ、お念仏だなぁと思えるのです。
自身の子育ての時間と重ねるようにお寺で続けてきた絵本の読み聞かせ会や寺っ子クラブ。
育児サークルの卒業生の仲間で始まったお茶やお花や着物のお稽古など、どれも大切な友人や仲間を得ることが出来た活動です。
全ての活動のベースに「仏さまの子育て」を意識してきたように思うのですが、では、それは具体的にどういうことだったのかと聞かれたら、ものすごく漠然としていて言葉ではうまくまとまりません。
春からは少し時間に余裕が出来ると思うので、後回しにしてきた本当に自分がすべき勉強もきちんとしないといけないなと思います。
「私はこう思うのだけど、果たしてそれは正しいのだろうか?」と問うとき、真宗ではどのように答えてもらえるのか尋ねてみたいのです。
子どもの手がかからなくなるのと引き換えるように、元気だった母の体が弱ってきて、これまで頑張ってくれていた庭掃除や境内の環境を整備することが十分に出来なくなってきています。
そうしたことを交替していかないといけないし、お寺の行事も自分たちで回していけるようにならなくてはいけません。
先代が急に亡くなられて、何も分からないまま突然お寺の仕事を任されて大変だったというお寺友達の話を聞くこともあるので、両親が元気なうちに色々教わりながら徐々に交替してゆけるのは本当にありがたいことだと思えます。
「居ない方がどれほど楽か!」と思うときも多々ありますが(笑)、居なかったら居ないで大変なことも多かったと思います。
核家族には核家族の苦労があるだろうし、大家族には大家族の苦労があるのは当然だとは思いながら、度々腹を立てては自分の中の鬼を見せて貰っています。
とりとめなく物思う、区切りの春です。  

Posted by 守綱寺 at 20:00Comments(0)今日も快晴!?