2022年01月04日

清風 2022年1月


本年もどうぞよろしくお願いします
         2022年元旦

前住職 渡邉晃純
前坊守 渡邉尚子
住職  渡邉貴之
坊守  渡邉陽子

総代  渡邉利夫
     清水令司
     渡邉勝美





昨年は聖徳太子の1400回忌の年にあたり、「和国の教主聖徳皇」と太子を讃仰されていかれた親鸞聖人に導かれて、仏教の根幹について、大変粗雑な了解をしたためさせていただいたことでした。
その結論は、聖徳太子制作の「十七条憲法」第1条に挙げられてある「和を以て貴しとなす」、そしてその和を築く根拠として、各条中にある「人は」という発想(表現)に注目させられると書かせていただきました。

 例)第1条 和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗とせよ。人みな黨あり。

黨は党の旧字。
人は誰でも、気づいてはいないが心の底に闇を持っている。
その事実に気づいている者はない。
日常生活では、本人もコントロールできなくて、その私心(エゴ)にかき乱されている。
家庭なら夫婦の間でのいがみ合いも、隣同士のいがみ合いも、縁さえあれば(カーッとなれば)起きてしまうものである。

この「人は○○である」という太子の十七条憲法での「人」の捉え方は、「人とは何か」を知って初めて「人は何を為すべきか」「人は如何にあるべきか」が決められてくると言われているのだと思います。
そして第10条において「人は皆心ありて、心おのおのと(執)るところあり」と記されています。
皆、人それぞれに心を持っており、ものの見方も考え方も違うので、相手の立場からこちらを見ると、どちらが是か非か、賢か愚かは、まるっきり反対になってくるのです。
そこで太子は「共是凡夫耳(共に是れ凡夫なるのみ)」と言い切っておられます。
人は皆、凡夫なるのみと言われるのです。
もとより太子も「我もまた凡夫なり」と、自分を省みてのことです。

註)以上の“人皆”の発想については『世界史上の聖徳太子』(上原 和 著NHKブックス936 日本放送出版協会 2002年発行)による。

引用者註)この「以和為貴」の“和”が「人の和」を指すとしたのは、太子が最初という上原氏の指摘は、特に注目すべきであろう。

この発想に教えられたことは、来月号に「私たちはどこから来たのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか」という画家・ゴーギャンの問題提起、つまり人類の未来について、考えていきたいと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 14:01Comments(0)

2022年01月04日

お庫裡から 2022年1月


2022年、あけましておめでとうございます。
なんと私は4分の3世紀、75回目のお正月を迎えたのです。
ふっと、子どもの頃のお正月が思い出されます。
元旦、目が覚めると枕元にお年玉の品々が置いてありました。
晴着に新しいこっぽり、羽子板に追羽子、お菓子等です。
家族で百人一首もよくしました。父が読み手となり、節をつけて読み上げるのです。
『心あてに折らばやおらん初霜の 置き惑わせる白菊の花』「これを尚子の札にして『心あてに』と読まれたら『おきまどわせる』の札を取りなさいよ」と母が教えてくれました。
(何故この札かというと、有名な歌はみんなが得意札にしているからなのだそうです。)
父はゆっくり読んでくれるのですが、百人一首は字ばかりのカルタなので、子どもにはなかなか取りづらいものです。
そのうちに父も取り手に加わり、父と母が競い合い、子どもたちを置いてきぼりにして、もう一度、もう一度と、カルタ取りに興じるのです。
懐かしい若き父と母の姿です。
さて、私たちは3人の子に何を残せたのでしょう。
お寺の事に一生懸命で、子どもの事は二の次、三の次に過ぎてきてしまったように思います。
そうしてここまで年を重ねました。
もう子どもの心配より自分の心配をする年齢です。
後4分の1世紀、とても100歳まで生きられるとは思えません。
今後迎えるお正月には、今年一年のいのちかもしれないと思って生きようと、心密かに決意している私です。
本年も、どうぞよろしくお願い致します。

  

Posted by 守綱寺 at 13:58Comments(0)お庫裡から

2022年01月04日

今月の掲示板 2022年1月


  あのね、
  ひとは、ね
  死ぬまでは
  ちゃんと生きていますよ

  あの夢も 希望も
  どこへ消えたのだろうか
  ふりかえれば
  枯草茫々の幾山河
  別れ別れてきた人々
  はかなくて
  一輪の花さえ
  いとし かなしき

  地獄は
  善意の石畳によって
  敷きつめられている

  生活の中心を持たなかったら
  私達は他人に動かされて生きるしかない

 まっすぐに
  見つめてくる
  幼な児のまなざし
  もう一度
  あんなまなざしが
  欲しいと思う

  いまいる
  ここが
  宇宙の中心

  向こうばかり見るくせは
  なおらないが
  足もとから
  呼びかけられて歩く

  聞くよろこびが
  自分を知るよろこびが
  如来の子に生まれたよろこび
  これは三世の諸仏が
  よろこびたもうた
  よろこびのようです

  真宗とは
  私たちがそれによって生き
  それによって死んでいくことのできるような
  人間生活の中心
  自分たちの生活の要をいうのです

  

Posted by 守綱寺 at 13:57Comments(0)今月の掲示板

2022年01月04日

本堂に座って 2022年1月


今年、年末のお参り(お取りこし)のお話として“本当に大切なことは、「滑って転ぶ」ことからでも届いてくる”…という文章を読んでいます。
あるおうちでお勤め・お話が終わった後、「今日のお話を聞いて、ずっと前に聞いた“ちょうどよい”のお話を思い出しました」とお声かけをいただきました。
この文章をお渡しする約束をしたのを機に、あらためて読み返してみたので、ここで紹介したいと思います。

   ほとけ様のことば

 お前はお前でちょうどよい

 顔も体も名前も姓も
 それはお前にちょうどよい

 貧も富も親も子も
 息子の嫁もその孫も
 それはお前にちょうどよい

 幸も不幸も喜びも
 悲しみさえもちょうどよい

 歩いたお前の人生は
 悪くもなければ良くもない
 お前にとってちょうどよい

 地獄へ行こうと
 極楽に行こうと
 行ったところがちょうどよい

 うぬぼれる要もなく
 卑下する要もない
 上もなければ下もない
 死ぬ日月さえもちょうどよい

 ほとけ様と二人づれの人生
 ちょうどよくないはずがない

 これでよかったと戴けた時
 憶念の信が生まれます

 南無阿弥陀仏
(『少年少女の仏教 生きるって、なに?』土屋昭之 著 朝日新聞社発行より引用しました)

最近、「親ガチャ(どんな親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまう)」という言葉が流行っています。
経済的な格差が原因で機会を奪われてしまう状況は出来る限り改善して欲しいと思いますし、その他にも深刻な訴えが込められている表現でもあると感じます。
…が、多くの場合は、もっと身近に“自分の思うようにならない”“理想と現実のギャップに苦しんでいる”ことを表している様です。
冒頭に紹介した文章には、私たちが本当に大切なことに「目覚める(気づく)」ように、仏さまが「これでもか、これでもか」と様々なことを起こしてくださっていると書かれています。
あらゆる出来事が私にとって「ちょうどよい」と受け止められる様に「南無阿弥陀仏」という言葉があると、両方のお話が教えてくれています。

  

Posted by 守綱寺 at 13:55Comments(0)本堂に座って

2022年01月04日

今日も快晴!? 2022年1月


先日、会員制SNSサービスのFBで、清水友邦さんという方の文章を読む機会があり、はっと目の覚めるような衝撃を受けました。

 「1956年、マルセル・ジーバーという子どもの知能の研究者が、ウガンダの子どもを研究して画期的な発見をしました。ウガンダの子どもは、世界のどこの子どもよりも早熟で、賢く、知能が進んでいたのです。ウガンダの子どもは絶え間なく嬉しそうに笑っていて、血液中にはストレスを表す副腎ステロイドが見られませんでした。赤ちゃんは母親をまっすぐに見て焦点が定まり、にこにこと笑って顔は知性に輝いていました。
…生まれる前の赤ちゃんは、母親の子宮に居ます。羊水の中は静かで体温と同じ暖かさで安全で栄養と酸素が与えられて何の心配もいらない天国の状態です。…この世に生まれると言うことは、子宮という天国と極楽から追い出されることを意味しています。病院での出産は、赤ちゃんに強いストレスを与えます。眩しい手術用の照明は赤ちゃんの目には眩しく、焼けるように感じます。そしてすぐに切断されるへその緒は脳にダメージを与えてしまうのです。…シドニー大学の2017年の調査では出産後すぐにへその緒を切らないと、2歳になるまでの死亡率が30%減少し、脳性麻痺、視力喪失、難聴、発話障害などが17%減少していました。…自然出産とテクノロジー出産の赤ちゃんとは対照的です。…赤ちゃんが未熟で無能力であるとの観察結果は常識となっていました。ただしこれは近代医学テクノロジー出産でストレスを受けた子どもの研究結果だったのです。…現代人を不安に駆り立てるあらゆる過ちの元凶は、病院の分娩室に集中しているとまで言っている研究者もいます。
 …ウガンダの母親は赤ちゃんが生まれる5分ほど前まで日常の仕事をしていました。出産間際になると一人でしゃがみ込んで赤ちゃんを産んだのです。そして1時間もすれば仕事を始めました。ウガンダの赤ちゃんは、病院では無く自宅出産でした。先住民の生活ではそれが普通だったのです。母親は裸の胸にぶら下げた吊り帯の中におしめをつけずに赤ちゃんを入れました。母親は絶えず赤ちゃんをさすり撫で、唄い絶対に赤ちゃんと離れることはありませんでした。…常に赤ちゃんは母親のマッサージを受けていたのです。…マーガレット・ミードによると、母親と赤ん坊が肌を密着させて何時間も愛撫を受けて育った部族は非常に穏やかで、争いごとが無く、逆にバスケットに入れられて肌を密着させないで育った部族は攻撃的で争い事が好きだったと言うことです。…ウガンダの赤ちゃんはほとんど泣くことが無く、満ち足りていました。 母親は子どもと深い絆で結ばれていました。子どもが泣く前に、母親はそれを察知して、子どもの要求を叶えていたのです。おもらしをしないウガンダの赤ちゃんを不思議に思って、研究者は次のように質問しました。「赤ちゃんがおしっこしたくなるとき、あなたはどうやって分かるの?」質問を聞いたウガンダの母親はなんて変な質問をするのだろうと驚いて答えました。「あなたはおしっこをしたくなるとき、どうやって分かるの?」ウガンダの母親と子どもは言葉を使わない深い絆で結ばれていたのでした。…きずなの研究をしたオハイオ州、k・w・リザーブ博士によると、正しく絆で結ばれた子どもは知的で穏やかで幸福感に満たされ、決して泣かないと報告しています。アフリカだけで無く、愛と思いやりを十分受けて育った世界中の子どもたちは、人生に対して肯定的で聡明、幸福、社交的、多才、柔軟、健康で適応力に富んでいました。アフリカのウガンダでも、ヨーロッパ型の病院が作られるようになり、そこで生まれた赤ちゃんは欧米と同じく2ヶ月半しないと笑わなくなりました。」

 我が身を振り返れば、三人育てても、我が子のおしっこのタイミングなんて全く分かりませんでした。
自分のお産は、「母親ファースト」で、「赤ちゃんファースト」では無かったなぁと思い出されます。
今の日本で行われている様々な「当たり前」は、誰の、何を基準にした「当たり前」なんだろうとつくづく思いました。

  

Posted by 守綱寺 at 13:54Comments(0)今日も快晴!?