2021年06月08日

清風 2021年6月



其れ三宝に帰(よ)りまつらずんば
何をもってか
枉(まが)れるを直(ただ)さん
   『十七条憲法』(第2条)より


親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主聖徳皇」と崇めておられます。
この表現は、「日本に生まれて正法を興した主」とも、また「釈尊を教主世尊と崇めるのに準じて、太子を日本の教主と尊称する」とも受け取ることができ、いずれも聖徳太子を讃嘆しておられます。

太子の十七条憲法については、官吏の服務規程程度のものだというように解釈されてきた向きもあるようです。
しかし、その内容から言っても、大乗経典の三経を生涯において講釈しておられることも、またこの「十七条憲法」公布に先立つ10年前に推古帝から摂政である聖徳太子と臣蘇我氏に「三宝興隆の詔」が出されていることからも、この憲法はこうした経過の中から生まれてきたことがうかがわれます。
さらに推古新政府が当時の部族間の皇位継承権を巡る血なまぐさい権力闘争を経て樹立された政権であることも、大いに影響を与えていると思います。

十七条憲法の第一条に「和をもって貴しとす。忤う(人に逆らう)こと無きを宗とせよ。
人皆党(たむら)あり。また達(さと)る者(ひと)少なし。」というのは、こういう血なまぐさい権力闘争をくぐってこられた太子の血塗られた経験からの祈りの心根が表されているのだと思われるからです。

その経験とは、「和(人間相互の間に対話が可能となる信頼関係が、どうして開かれるのか)」が当時の氏族(例えば、物部氏と蘇我氏)の間の熾烈な権力争いを経験した当事者として、第一条の結びに「然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成(然れども、上和らぎ下睦み、事を論(あげつら)うことに諧(かな)えば、則(すなわ)ち事理(物事の道理)自(おの)ずから通ず、何事か成さざらん)。」と書かれてあるところにも、よく心情が表現されています。

この第一条に記されている「上和下睦」という状況を、どうしたらこの世間において開くことが可能でしょうか。
そうすれば「諧於論事 則事理自通 何事不成」という事態も可能となるでしょう。
このことは、第十条に「人皆心有り」とあり、続いて「我必ず聖にあらず、彼必ず愚かにあらず。
共に是、凡夫(ただひと)ならくのみ。是非の理、詎(なんぞ)能(よ)く定むべけんや。
相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端(はし)無きが如し。
是を以て、彼の人は瞋(いか)ると雖(いえど)も、還りて我が失(あやま)ちを恐れよ。」と記されていることからもうかがえます。
この第十条の文言によりながら、「上和下睦(上和らぎ下睦む)」という事態がどうしたら可能か、確かめたいと思います。

まず、第十条では「人皆心有り」と前提することを挙げてあります。
これは第一条の「人皆党有り」という文言と響き合っています。
「人皆党有り」、人は皆集まれば党派を作り、そして党派の間で争うことになる。
その争いを解決しようとすれば、自分がどういう立場に立っているかがはっきり自覚されていなければならない。
それを指し示した論理が、第十条にも示されているということでしょう。
「人皆心有り」、そしてその心は、各(おのおの)執(と)るところがあるのであると。
その時考えられた一つの立場を執っているのである。
しかしそれは、その時にはこの立場しかないと、我々は各々思い込んでいるだけの事が多いのである…と。

ここに掲げられた一句、「共是凡夫耳(共に是、凡夫(ただひと)ならくのみ)」をどういただいていくのか。そのことを示しているのが第二条の最後に「其不帰三宝 何以直枉」と述べられているところであり、また親鸞聖人が聖徳太子を「和国の教主」とまで言われている意味なのだと思われます。
(この項 続く)

  

Posted by 守綱寺 at 11:16Comments(0)清風

2021年06月08日

お庫裡から 2020年6月



6月が来ると毎年、「エー、今年ももう半分来てしまったの」と、いつも時の流れの早さに驚かされます。
と同時に、「えらいこっちゃ」という焦りのような気持ちが湧いてくるのです。
「えらいこっちゃ」という何か具体的なものがある訳ではないのですが、多分、この世に私の頂いている時間(持ち時間)が段々少なくなっている事から来る思いではないかと思うのです。
頂いている時間(持ち時間、限りある時間)は各々違うものの、その中であるのは、子どもであろうが、若者であろうが、壮年であろうが、老人であろうが、変わりはありません。
この度のコロナ禍は、その事を教えてくれるいい機会だったのではないでしょうか。
最初、コロナは軽い風邪程度と聞きました。
それが高齢者、基礎疾患のある人は重症化し亡くなる。
今や変異株のコロナでは、壮年や若者も区別なく同じようなリスクを受けてしまう。
やはり人は、自分も死ぬ者だという所から、自分の人生を見つめる眼が必要なのではないでしょうか。
こう書いてきて思い出した事があります。
私の父は、大きく頑丈な身体をしていました。
その父が、私たち子どもに何か頼みたい事があると、「わしはもう死ぬ」「わしは死ぬ」と言うのです。
そんな父のおどしに、私たちは笑って父の背中を掻いてあげたりしていました。
あの戦争を兵として生き抜いた父に、死は常に身近なものだったかもしれないな、と、今になって思われます。
(父が「わしは死ぬ」と言うと、「そんな事は言わないで下さい」と母はプンプン怒っていました。)
そんな父は84歳で亡くなりました。父の年まで丁度10年の私です。
遠き日の家族団欒父の日や 尚子
心をぬくめながら歩みたいと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 11:15Comments(0)お庫裡から

2021年06月08日

今月の掲示板 2021年6月



今月のことばは、仲野良俊著作集「歎異抄講義」より

のぼった心(高慢心)は
必ず落ちます
高い所へのぼったほど
落ちたら痛いです

仏さまに、
「おい、お前のぼっとるぞ」と
教えられて
ハッと気づくと自分で降りる

自分で降りればけがはしません
落ちたらけがをします
落ちるのと降りるのでは
えらい違いです

善人はその善を誇る
つまり、凡夫を忘れる

仏さまは人間に
自分を知れ、と
唯、それだけを注文なさる

自分というものは苦にならず
他人ばかり苦にしているような
そういう人を善人という

凡夫ならたすかる
凡夫を忘れているからたすからない

己れ知らず
ここから
色々な症状が起こってくる

教化(仏さまに教えられること)によって
心病める者を
その病から解放させること

自分がわかった心
わが身が知らされた心
それを「南無阿弥陀仏」と申す信心

鳥が卵をぬくめるように
私は心をぬくめる
これが私に残された
ただ一つの仕事(榎本栄一)

みんなには
それぞれあるんだ
いいところ(小2 中尾浩輔)
  

Posted by 守綱寺 at 11:15Comments(0)今月の掲示板

2021年06月08日

本堂に座って 2021年6月



4月から5月にかけて、イスラエルとパレスチナの衝突が起こりました。
この地域の対立は、宗教的な背景や歴史的な経緯が複雑に絡み合い、また対立を政治的に利用する向きもあって、解決の方法を探すにも一筋縄では行かないと思います。
この問題について学び・考えることは大切なことですが、ここでは宗教と争いの関係について真城義麿先生が質問に答えてくださっている文章を紹介します。

Q> 
いま世界で起きている戦争は、ほとんどが宗教間の戦争だと聞いたことがあります。
宗教は良いことを説いているというけれど、殺し合いをしたり、自爆テロまで起こしたり、少しも良くない気がします…。

A> 
内戦は別として、国家間の戦争がどのようにして起こるのか、少し考えてみましょう。
たいていは、支配する領土を拡大したいとか、奪われた領土を奪い返すため、あるいは資源が欲しいなどの理由で戦争が起こります。
他の宗教を滅ぼすために戦争をするということではありません。
ただ、戦争や侵略の理由(言い訳)として宗教が使われることは大いにあります。
世界のほとんどの国では、宗教は生活や政治と密接に関わっており、別に考えることはできないからです。
実際の戦争は敵味方ともに多くの兵士の死を伴います。また民間人を巻き込むことになります。
戦争に行くことになった兵士は、戦場で直接関係のない、いわば知らない他人を殺すという大きな罪を犯すことになります。
それによって殺した側の兵士の心は深く傷つきます。
命令されたとはいえ、殺したときのおぞましい実感を一生抱えて生きていくことになるのです。
その人生は、最後にどう裁かれるのか、不安であり恐怖でしょう。
また戦争では、知らない誰かに殺されるという最もつらく受け容れがたいことが起こるのです。
死後の安心を保証する宗教なしには、国民に戦争を強いることは困難です。
つまり、宗教が原因というよりも、戦争をしようとするときに、宗教的な保証をすることで、殺し殺されることを兵士に強いていくのです。
ですから、戦争には宗教が必ず持ち出されるのでしょう。
宗教の本来のはたらきは、そういう自他を傷つけずにおかない戦争の愚かさを自覚させるものです。
自己や自国中心に立って、他を傷つけ否定する、そういう人間の営みや志向とその罪悪性に気づき、恥じ、見つめ直すはたらきです。
互いに存在を認め合いながら、「ともに」生きていくために、宗教があるのです。
(『仏教なるほど相談室』真城義麿 著 東本願寺出版発行より引用しました)

今回の衝突は、イスラム教の断食月(ラマダン)に合わせてイスラエルがパレスチナ人を退去させたことで始まった、パレスチナ人の少年がユダヤ教徒の顔をたたく動画が拡がったことが拍車をかけた、といった話が聞こえてきます。
多くの方が死傷する出来事でも、きっかけはこうしたことの積み重ね、なのでしょう。
新聞記事などを見ていると「攻撃(進んで敵を攻めうつこと)」とは書かず「衝突」や「報復(不当な行為に対し同様の行為で報いること)」と表現していて、どちらかが一方的に仕掛けた…という受け止めではない様です。
“戦争”ではないとしても、上記のような心の問題は生じていると思います。
 遠くで起きているこうした出来事は、どうしても他人事になってしまいますが、国と国という大きな問題はもちろんのこと、近所や家庭内などの身近なところでも、“互いに存在を認め合いながら、「ともに」生きていく”ことを考え、見つめ直す大事なきっかけにしていきたいものです。


  

Posted by 守綱寺 at 11:14Comments(0)本堂に座って

2021年06月08日

今日も快晴!? 2021年6月





両親の元に、コロナワクチンの接種券が送られてきました。
父母ともに高齢者と呼ぶに十分な年齢なので、コロナに感染するリスクとワクチンの副反応のリスクは本当にどっちもどっちだなぁと思いながら、以下のような文章を見てしまうと、やはりあまり積極的に勧めたくないし自分も打ちたくないと思う私です。
以下は、スイスのお医者さんがまとめたものだそうです。
日本も接種券と一緒に送って欲しいです。

COVID-19 RNAワクチンを受ける前のインフォームドコンセント
私があなたにワクチンを注射する前に受け入れるべきいくつかの真実:
1.私は、2020年の夏まで大量投与されたことのない新しい成分を含むまったく新しい治験用ワクチンを受け取っていることを理解しています。

2.損害賠償責任を負わない製薬会社や政治家による国際実験に参加することに同意します。(略)
4.ワクチンはまだ実験段階にあり、フェーズ3の臨床試験が進行中であることを理解しています。
その完了は、モデルナでは2022年10月、ファイザーでは2023年1月に予定されています。

5.現時点では、これらの治験用ワクチンの安全性と有効性の最終結果は不明であると認識しています。

6.この実験用ワクチンは、100%合成の遺伝子工学製品であることに気づきました。
これは、遺伝子組み換え生物であるGMOであり、私の体に注入されます。(略)

11.これまでにこの実験的ワクチン接種キャンペーンの結果として数千人の死亡が報告され、神経障害重度の炎症、心血管系の副作用(血栓症、脳卒中、梗塞)で数十万人が負傷したことを認めます。

12.Covid病は高齢者と免疫不全のリスクが高いだけであり、人口の99.7%以上が死亡するリスクはないことを理解しています:99.7%の生存! 

13.補償と補償に関するスイスの方針と合意を読みました(最大支払額= 70,000スイスフラン)。
 私の健康への損害または死亡の原因となった場合、Covid-19に対してこの注射の製造業者を訴えることが不可能であることが判明する可能性があることを理解しています。

14.Covid-19に対する注射に関連して報告された重大な副作用のリストを理解し、読みました。 
 既知の副作用には、Covid-19感染、アナフィラキシー、神経学的問題、重篤な心血管障害、自己免疫 疾患、慢性疾患、失明と難聴、生殖能力の問題、胎児の損傷、流産、死産、死亡などがあります。

16.「ワクチン」という名前で販売されていますが、これらのCovid-19mRNA注射は実験的な遺伝子治療であることを学びました。 

 私は正しく読み、理解し、インフォームドコンセントを行い、実験用ワクチン モデルナ / ファイザー を自由に接種することに同意し、この注射とその起こり得る結果に関するすべての民事および刑事責任から医師を完全に免除します。    
署名


 まるで遺伝子組み換えの人体実験のようで、しかも、不具合が生じても何の保証もないようです。
「ワクチンありき」のような報道のあり方や、不安からワクチンを求めてしまう自分たちの心理、双方ともに少し落ち着きを取り戻し、恐れるべきものは正しく恐れても、過剰な不安はなくなると良いなと思うのですが・・・。

  

Posted by 守綱寺 at 11:11Comments(0)今日も快晴!?