2021年01月05日

清風 2021年1月


参加型儀式の執行という考え方に至った背景~

今年80歳を迎え、私自身、正直よくこの歳まで生きさせてもらったことだと驚くと同時に、有り難い人生であったと思うことです。
私は細身で小さい身体でありましたが、それぞれの時点において、先生というか、よき人というか、友にも恵まれてきたのだと思います。

名古屋大学の教育学部(3年生、4年生)の折、上田薫先生との出遇いも忘れられないことです。
先生は、私が寺の生まれであることを話している時に、「君の寺は、「東」か「西」、どちらか」と聞かれました。
「東です」と答えたところ、「君の寺の事情が許すなら、大谷大学へ行って勉強したらどうか。大谷大学には今(1961年頃)、鈴木大拙、曽我量深、金子大榮、西谷啓治という先生が講義を持っておられる。」と言われ、大谷大学で学ぶことを勧めてくださったのでした。

これには背景があって、1960年代は「日米安保条約』の再締結をめぐって、締結を強行する政府に対し、大学も全学ストライキで授業はほとんど行われておらず、自分自身も何をどう学んでいっていいのか、踏ん切りがつかない状態でおった頃でした。

勿論その頃、親鸞について深く学んでおるわけではなく、寺には兄もいましたので、寺を継ぐということも考えなくてよい環境ではあったのです。

そんな時、上田先生は教育哲学を担当され、最後は都留文科大学の学長を務められました。
祖父は「西田哲学」の西田幾多郎で、先生自身、京大で哲学を専攻されています。
先生は「戦場を経験し敗戦直後のきびしい教育実践に直接向かい合ってからは、哲学でもいわゆるアカデミックなものに強い不満を覚えるようになった。
文部省で新教育の創成に関わった後、人とは違って教育現場の生の問題と深く切り結んだ。」(『西田幾多郎歌集』岩波文庫 解説)と記しておられます。

先生も京都大学で学ばれた方でしたから、多少は大谷大学の学風についても理解しておられたのだと思います。
(祖父・西田幾多郎は大谷大学で講師として哲学を教えられていた。)全く宗門とは関係のない大学で、当時の私たち学生の行動を見ておってくださった先生からの「「親鸞に学んだら」という助言は大きな後推しとなり、大谷大学で親鸞に学ぶ御縁となりました。(この項、続く)

  

Posted by 守綱寺 at 16:52Comments(0)清風

2021年01月05日

お庫裡から 2020年1月


2021年が明けました。
今年はどんな年になるのでしょうか。

「めでたさも 中ぐらいなり おらが春」
という一茶の句に共感してしまいます。74年も生きて、74回もお正月を迎えたのだから、お正月慣れをしてしまったのでしょうか。

「ぞくぞくと よろこびわきて この朝は
早く起きけり ひとり勇みて」(「このいのち」より)
病弱で、小さな身体で、苦難の多かった人生をお念仏に生きられた赤禰貞子さんのこの短歌は、私の琴線をゆすって止みません。

親鸞聖人は9才で得度を決意された日、夜なので明日にと促された時、
「あすありと思ふ心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠われ、その夜得度を上げてもらわれたとお聞きしています。

74回もお正月を迎えたから、お正月慣れをしたなんて呑気な事を言っていてはいけません。75回目はないかもしれないのに。
これからの老いの人生、一コマ一コマをお念仏に問いかけ、問われて歩みたいと思っております。
今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

  

Posted by 守綱寺 at 16:51Comments(0)お庫裡から

2021年01月05日

今月の掲示板 2021年1月


念仏三昧
  大根には 大根の甘み
  キャベツは キャベツの甘み
  人生にも さまざまな味がある
  甘くて 辛くて 苦みもある
  この人生を 味わい尽くす
  このことを
  念仏三昧と教えられた

   愚かしさ
  恥ずかしい私が
  恥ずかしくないことが
  出来るように思っている
  この愚かしさ

   そのままの
  知らぬ間に 撮られた写真
  気に入らないが
  そのままの自分が写っている

   悲喜の涙
  アタフタと
  また一年が夢か幻
  その夢幻のうちに流される
  悲喜の涙の尊さよ
  人間とは
  その涙の容れものでした

   空しさ
  心のすれ違い
  言葉の行き違い
  そんなことで
  人と争うのは止めよう
  よけい
  空しくなるではないか

   光
  ひと それぞれ
  気が強かろうが弱かろうが
  光に遇えば
  青色青光
  白色白光

   全財産
  愚痴いっぱい
  欲望いっぱい
  腹立ちいっぱい
  煩悩いっぱい
  恥ずかしいけれど
  これが私の全財産

   そのほかに
  一日の終わりに
  一日をふりかえり
  一年の終わりに
  一年をふりかえる
  損じゃ得じゃ
  勝った負けた
  そのほかに
  何かあったろうか
  

Posted by 守綱寺 at 16:50Comments(0)今月の掲示板

2021年01月05日

本堂に座って 2021年1月

 

先月、地元の学校で新型コロナウイルス感染症の陽性者が判明したことを受けて、
「偏見や差別を撲滅するために心の教育や人権教育」が行われたようです。
授業で使われた資料を読んでみたいと思います。
(詳細は資料を検索してみてください。)

「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~」
新型コロナウイルスによる感染が流行しています。
実はこのウイルスが怖いのは、「3つの感染症」という顔があることです。
知らず知らずのうちに私たちも影響を受けていることをみなさんはご存知ですか?

第1の感染症は病気そのものです。
このウイルスは、感染者との接触でうつることがわかっています。
感染すると、風邪症状や重症化して肺炎を引き起こすことがありま

第2の感染症は不安と恐れです。このウイルスは見えません。
ワクチンや薬もまだ開発されていません。
わからないことが多いため、私たちは強い不安や恐れを感じ、ふりまわされてしまうことがあります。
それらは私たちの中でふくらみ、気づく力・聴く力・自分を支える力を弱め、瞬く間に人から人へ伝染していきます。

第3の感染症は嫌悪・偏見・差別です。
不安や恐れは人間の生き延びようとする本能を刺激します。
そして、ウイルス感染にかかわる人や対象を日常生活から遠ざけたり、差別するなど、人と人との信頼関係や社会のつながりが壊されてしまいます。

3つの感染症はどうつながっているの? 負のスパイラルで感染症が拡がる
第1の感染症「病気」→ 未知なウイルスでわからないことが多いため不安が生まれる → 第2の感染症「不安」→ 人間の生き延びようとする本能によりウイルス感染に関わる人を遠ざける → 第3の感染症「差別」→ 差別を受けるのが怖くて熱や咳があっても受診をためらい結果として病気の拡散を招く → 第1…
これらの感染症をふせぐために、私たちはどのような工夫ができるでしょうか?

第1の感染症をふせぐために
1人1人が衛生行動を徹底しましょう。
「手洗い」「咳エチケット」「人混みを避ける」など、ウイルスに立ち向かうための行動を、自分のためだけではなく周りの人のためにもすることが大切です。

第2の感染症にふりまわされないために
不安や恐れは私たちの「気づく力」「聴く力」「自分を支える力」を弱めます。
不安や恐れは身を守る為に必要な感情ですが、私たちから力を奪い、冷静な対応ができなくなることもあります。

第3の感染症をふせぐために
不安を煽ることは病気に対する偏見や差別を強めます。
みなさんそれぞれの場所で感染を拡大しないように頑張っています。
この事態に対応しているすべての方々をねぎらい、敬意を払いましょう。

まとめ 3つの感染症をみんなで乗り越えていくために
このように、新型コロナウイルスは、3つの感染症という顔を持って、私たちの生活に影響を及ぼします。
このウイルスとの戦いは、長期戦になるかもしれません。
それぞれの立場でできることを行い、みんなが一つになって負のスパイラルを断ち切りましょう!
(日本赤十字社新型コロナウイルス感染症対策本部 発行の資料より引用しました)

この資料は新型コロナウイルス感染症をもとに作られていますが、それ以外の日常生活の中にも以前から同じような感染症が蔓延しているようにも思います。
これをきっかけに、すでにある第2・第3の感染症にしっかり目を向けたいものです。
  

Posted by 守綱寺 at 16:48Comments(0)本堂に座って

2021年01月05日

今日も快晴!? 2021年1月

 

10月に豊田で「フリースペースたまりば」理事長・西野博之さんの講演が行われました。
(主催・不登校を考える豊田の会まちあいしつ)子ども、学校、教育といったテーマには興味があるので、FBで記事が上がっていたのを読ませて頂いたところ、なるほど、その通りだなぁと頷くことばかりでした。

「・・・小中学生のなかでいじめが一番多いのは何年生かわかりますか? 
正解は、小学校2年生。いじめが驚くほど低年齢化しています。小さなころから、子どもたちはストレスをためている。
社会のありようや、目に見える子どもたちのありようは変わっても、子どもが抱えている生きづらさは変わっていない。
むしろ強まっているように見えます。
では、なんで子どもたちは苦しんでいるのか。
苦しんでいる子どもたちの特徴のひとつに「自己肯定感の低さ」があります。
令和元年版の「子供・若者白書」では「自分自身に満足をしているか」という質問に対して、堂々と「満足している」と答えられた日本人は10%しかいません。
「子どもの自信を奪っているのは、いったいなんなんだ」。
これが私のライフテーマでした。
ずっと考え続けて、10年前にひとつの仮説を立てました。
それは、子どもの自信を奪っているのは、「大人たちの不安」なんじゃないか、ということです。
「私の子育てはこのままでいいの? 正しい親って評価を受けられるの?」。
大人はそれが心配なんです。
そして他人から「正しい親」と言ってもらうために、子どもの評価を親の評価と結びつけて考えてしまう。
「お宅の子は〇〇高校へ行ったの? そして〇〇大学まで進学したの? やっぱり親の育て方がよかったのね」と言われたいんです。
今、早期教育が全盛です。
習い事をとにかくたくさんやらせる。手遅れにならないように、やらないよりやらせたほうがいい、と。
先日、保育園の運動会に呼ばれたんですが、驚きました。
年長さんの障害物競走では、子どもたちが鉄棒で逆上がりしてから前に走っていくんです。
保育園で逆上がりですよ。小学校の課題が、どんどん保育園に降りてきている。
もう子どもたちの生きにくさはピークに達しているんじゃないかと思います。
大人たちは不安なんです。
そして子育ての完璧さ、正しさを求めすぎているんです。
それも、子どもに対して求めている。だから子どもたちは弱音が吐けない。つらい感情を外に出せない。
そして子どもたちはそのストレスを別の子にぶつける。
そうやっていじめが再生産されていくんです。 
…大人に求められているのは、子どもを信じて、腹をくくれるかどうかです。
…あなたのお子さんは大丈夫です。そうあなたが思ってあげてください。
そして「大丈夫」という眼差しに包まれたら、子どもは自然と自分の頭で考えて動き始めます。
子どもが「大丈夫」を手にいれる前に、大人たちが自分たちの不安を押しつけて子どもをつぶしていく…
苦しんでいる子どもたちが全身全霊で訴えているのはたったひとつのことです。
「学校へ行けない私はだめですか? 生きている価値はないですか?」。そしてこの訴えに応える言葉はとてもシンプルなものだと思います。
「生まれてくれてありがとう。あなたがいてくれて、私は幸せだよ。」このメッセージを親が伝えられたら、子どもはちゃんと自分の人生を生きていけます。」

お寺で開催している寺っ子クラブも絵本の読み聞かせ会も、「大丈夫だよ」というメッセージを伝える場であるようにと願い、続けてゆきたいと思っています。

  

Posted by 守綱寺 at 16:47Comments(0)今日も快晴!?