2021年07月05日

清風 2021年7月



(聖徳太子 No.3)
 和をもって貴しとし、
忤(逆)らうことなきを宗とせよ。
人皆黨(たむろ)あり。
 また達る人 少なし。

 忤う(さからう。逆らうの意。)
 達る(通じる。心が通いあう意。)
「黨」は「党」の旧字。意味は、暗黒不明にして鮮ならぬこと。
『大字典』講談社 1970年版 P2578

「黨」について、今月号の後半で、また以降の号でも考えていきます。


この「十七条憲法」には「人皆有黨 亦少達者」とあります。
人は皆、党派心・争う心がある。特にそのことは第10条において、「人皆心有」と確かめて、
「我必非聖 彼必非愚 共是凡夫耳」
私が必ずしも何でも分かっているわけではなく、彼が何も分かっていない愚か者でもなく、人はすべて内心、自分がかわいい凡夫である。
「是非之理 詎能可定」
良い・悪いという判断をするのだけれども、人は誰でもそれぞれに執するところがあって、―例えば、学歴とか社会的地位とかで人間を評価しているが― どうして是非を簡単に定めることができよう、いやできやしないのだ。
と、「人皆心有」の実情を説かれています。

この「人皆有黨」の事実を、十七条憲法・第1条によりながら、もう少し確かめたいと思います。
聖徳太子没後551年に誕生された親鸞聖人が「和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし」と記されたことについてはいろいろ考えられるのでしょうが、この「人皆有黨」に続く「亦少達者」の「少達者」と書かれてあることについて、「和国の教主」と述べられてあることと深く関わっていると思うからです。

さて「人皆有黨 亦少達者」の一文です。
先ず「黨」の漢字について。上記のとおり「党」の旧字で、「暗黒不明にして鮮ならぬこと」という意味です。
人には誰でも、自分にすら分からない、しかし縁さえあればいつでも顔を出す、決して他人には知られたくない私心(貪欲・瞋恚・愚痴)がある、しかし、そのことを本当に分かっている者はいないのではないか(亦少達者)、と言われているのではないでしょうか。

聖徳太子はおそらく、推古天皇からの「三宝興隆の詔」が発せられた翌年に高句麗から来日した僧・慧慈を師として仏法を学ばれることにより「世間虚仮 唯仏是真」という、いわゆる仏教でいう法・ダルマについて、師である僧・慧慈より「ダルマとは鏡である」と聞かされていたのではないかと思われます。
自分の顔ですら鏡に映さなければ本人には分からないように、法・ダルマとは、公・おおやけ、つまり私心に対してなら普遍・公性とでもいうのでしょうか、深い人間認識に気づいていかれたのでしょう。
当時の朝廷内の皇位継承をめぐっての権力闘争から、第10条において「共是凡夫耳 是非之理 詎能可定」(共に是れ凡夫なるのみ。是非の理、なんぞ能く定むべけんや)と言われているように、人間理解について、最深の境地を開かれたというか、頂かれたのではなかったでしょうか。

明治維新の時代に西洋の文明を大胆に学んだように、遣隋使などにも見られる先進国・中国、朝鮮半島の国から、当時の推古政府は聖徳太子を摂政とし、蘇我馬子を大臣として、また仏教を国教として、文明開化を推進しようとしたのでしょう。
その文明開化の基軸を示されたのが「三宝興隆の詔」であり、その基軸が「十七条憲法」の第1条に示された「以和為貴」の宣言であったに違いありません。
(この項 続く)

  

Posted by 守綱寺 at 14:00Comments(0)清風

2021年07月05日

お庫裡から 2020年7月



挿し木で育てた紫陽花を頂いて、頂いて、参道から山門下の駐車場にかけて植えた株が大きく育ち、見事な花をつけて、この季節、参道を通る人を楽しませてくれます。
株を数えると60株程あります。
境内にも鐘楼の西側を中心に頂いた株を植え、こちらはまだ参道程大株に育ってはいないものの、ここ2、3年、きれいな花をつけるようになりました。
紫陽花は、色々新種も出て、めずらしい花を見つけると買い求め、花を楽しんでから地植えにします。
私が植えたそんな株は、大抵消えてしまいます。
今年、草を取っていた時、草に埋もれながらも、紫陽花が小さく葉を出しているのを見つけました。
私が植えた事も忘れているのに、「ああ、あなたは生きていたの。よく生きてくれていたのね。頑張って大きくなってね」
その紫陽花が愛しくて、草を取る手も軽やかになります。
去年、挿し木をした芽もよく育ち、この梅雨時に10株程土に下ろしました。
挿し木にした時は、この花、この花と分けていたのに、育てているうち混ざってしまい、どの株が育ったのかわからなくなりました。
植えたものが全部育つとは限りませんが、各々に咲いてくれる日が楽しみです。
欲ばりの私は、境内を見て、「あー、ここに植えたらいいなー」「あー、ここも植えられる」と紫陽花を増やす所を物色しています。
目論見通り紫陽花が境内に咲きほこるのは何時の事でしょう。
「そう、うまくはいかないよ」どこかからそんな声が聞こえてきました。でも、元気でいなくちゃ。
  

Posted by 守綱寺 at 13:59Comments(0)お庫裡から

2021年07月05日

今月の掲示板 2021年7月



「つくべき縁あれば ともない
はなるべき縁あれば はなるることのあるをも」
「歎異抄」第6章
娑婆はご縁で動いている

業縁がもよおすと
何事をしでかすかわからない
心がけなどというものは
間に合わない
「さるべき業縁のもよおせば
いかなるふるまいもすべし」
「歎異抄」第13章

人を見てうらやましがるのは
これは自分を
引き受けていない証拠です

我々が苦しんでいるのは
自分が自分を
引き受けられないからです

私を苦しめ悩ませていたもの
それは他ならぬ
自分の心であった

悪いことが悪かったと
間違えれば間違ったと
頭が下がることが
一番純粋なこと

仏法は悪魔退散はいらない
悪魔が消えてゆくのだから
智慧で悪魔を照らすと
悪魔は消えてゆく

俺は今
初めての体験をして
新しい生を生きている
一日一日が人生さ(田中泯)

今の世界というものは
足らん物をもう一つ欲しいと思っているが
それは違う
裸になれるもの
その原理がないんだ(安田理深)
  

Posted by 守綱寺 at 13:58Comments(0)今月の掲示板

2021年07月05日

本堂に座って 2021年7月



コロナウイルス感染症が騒がれるようになって1年半ほどになります。
この間、マスクをしての外出、多人数での会食の自粛、イベントなどの延期や中止、在宅勤務の推進などなど、さまざまな行動に影響があったように思います。
法事や葬儀についても、(法事を中止・延期される方もありましたが)重要なお仏事(儀式)として執り行っていただけていますが、家族葬や身近なご親族のみの参加など、お参りに足を運んでいただく方が少なくなっているのを感じます。
家族葬は、ここ数年少しずつ増えてきていましたが、この1年半ほぼすべての葬儀が家族葬になっています。
家族葬についての真城義麿先生のQ&Aを紹介します。

Q>親戚の方が亡くなりました。お葬式は、家族などの近親者だけで行う「家族葬」にするそうです。
お葬式にもいろんな種類があるのですか?

A>古来から集団で生活している者は、人が亡くなると必ず「弔い(とむらい)」をしてきました。
それは、残された者がともに生きていくために必要なことで、必ずしも個人だけのプライベートなことではありませんでした。
私たちは、人生のそれぞれの段階で、出会いと別れを繰り返します。
家族を中心とした関係の中に生まれ、成長過程や地域や職場等々で、深浅はあっても必ず「つながり」のなかに生きています。
相互に強い関係をもって生きてきたなかで誰かを喪う(うしなう)ことは、残された者にとって大きな喪失感となります。
その死を受容し再スタートを切るためには、亡き人の人生を尊い事実として共有し、感謝の気持ちを心に刻みつけることが必要なのです。
現代は時代の流れとともに、葬儀(葬式)の在り方も、家族などの近親者だけで行う「家族葬」をはじめ、さまざまなスタイルが生まれています。
亡くなられた年齢や交友関係の広さ、親密さによって、直接にお別れを望まれる方の数や範囲が自ずと出てきますから、家族だけでという選択肢もあるのかもしれません。
しかし、葬儀の場で、会葬者や弔問者から、自分の知らなかったエピソードや、イメージと異なる面を知らされて、亡き人と出会い直しをすることもあります。
また多くの人がお別れに来てくれたという事実が、慰めや励ましを与えてくれることもあるでしょう。
さらに七日毎(ごと)に集まって亡き人を偲ぶなかで、集まった人の話題は、昔話から今の話へ、そしてこれからへと移っていき、徐々に大切な方の死を受けとめることができるのではないでしょうか。
人生には、生まれる前も亡くなった後もあります。
私が生まれる以前の長いいのちの歴史という事実があり、また亡き後も多くの人の心のなかで生き続けていくのです。
もしあなたが、遠くへ行ってしまい帰って来られないとしたら、誰とお別れの言葉を交わしたいでしょうか。
死にゆく者は残される者に、盛大な葬儀は希望できません。
大切なことは、亡き人の意志を尊重しながらも、残された者がその人の人生をよく考えて葬儀をなさるのがよいと思います。
かかる経費の多寡(たか)だけで考えると後で後悔することにもなりかねません。
もちろん、死に伴って多くの事があり、さらに儀式や接待などに忙殺され、死を静かにかみしめるような状況にならないかもしれません。
お寺さんとも、葬儀だけのつきあいでなく、日ごろからお話を聞いたり、疑問をぶつけたり、「いのち」を一緒に考える関係を築いておくことが大切だと思います。
(『仏教なるほど相談室』真城義麿 著 東本願寺出版発行より引用しました)

お参り先で「コロナ後も戻らないことは? 在宅勤務と家族葬かな…」という話がありました。
その一方、「大勢の方に送っていただけて良かった」「○○さんの葬儀なら地域じゅうの方が集まったのに…残念。」という声も聞かれます。
あらためて今回の状況を、葬儀の意義を見つめ直す機会としていきたいと思います。

  

Posted by 守綱寺 at 13:58Comments(0)本堂に座って

2021年07月05日

今日も快晴!? 2021年7月



大阪市の久保校長先生が、松井市長に郵送した提言書がネット上で公開されていましたが、「本当にその通り!」と思う素晴らしい内容でした。
是非共有したいと思います。

「大阪市長 松井一郎 様

大阪市教育行政への提言  豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために

子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。
学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。
そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒される。
そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。
さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。
今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。・・・(略)・・・
また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。
3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。
結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。
社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。
虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。
10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。
これほどまでに、子どもたちを生き辛くさせているものは、何であるのか。
私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。
グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。
過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。
誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。
そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。
世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。・・・」

この後「1点2点を追い求めるのでは無く、子どもたちの5年先10年先を見据えて今という時間を共に過ごしたい・・・」と続く後半も、是非紹介出来たら良いな思います。
この提言書の最後に「令和3(2021)年5月17日 大阪市立木川南小学校校長 久保敬」と実名が掲載されていたことも胸が熱くなりました。
匿名では無く、きちんと名乗って堂々と自分の意見を述べる。
なかなか出来ないことだと思います。



  

Posted by 守綱寺 at 13:57Comments(0)今日も快晴!?