2024年02月15日

清風 2024年2月


禍(わざわ)い 転じて 福となす


1月1日、文字通り正月の午後4時頃、大きな地震がありました。
能登半島に大きな被害を与え、復興についての計画も、インフラ(道路・水道・電気など)の復興、そして住まいの課題と、今も余震の続く中で、困難な事態(大地の隆起・沈没等)も起こり、日常の生活を取り戻すのも大変なようです。
災害地から離れて生きている私達にも、実は問われていることがあるのです。
池田晶子さんは、こんな風に言っておられました。

「奇跡とは何か変わった特別の出来事を言うのではなくて、いつも「当たり前」
に思っていたことが、実はすごいことだったと気がつくことなのです。」

この度の能登地震の状況をテレビで見、新聞で読むにつけ、平和というか、「普通の生活を生きることの貴重さ」ということを、自分自身に全く感じられない日常の感性というものの貧弱さを、改めて思われた方もおありになるかと思います。
それにつけても、昨年頃から「清風」紙上でも紹介しているように、憲法第9条(戦争の放棄・軍備及び交戦権の否認)が、現在の与党の解釈で全く骨抜きにされ、もう人間の身体の状況に比して表現すれば、9条はほとんど死に体の状況と言えるような症状に追い込まれています。
自民党は予算に、「専守防衛」を空洞化させる“敵基地攻撃能力”のための長距離ミサイルや、現にある戦艦を改造して航空母艦にする、また陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・システム搭載艦」の費用も計上しました。
敵国のミサイル基地を自衛隊の戦闘機や艦船から巡航ミサイルで叩きつぶそうと、防衛力強化を目指しています。
攻撃は軍事施設だけでなく、民間も犠牲になるでしょう。侵略と亡国の歴史を忘れ、専守防衛の国是を逸脱した暴論でしかありません。
憲法の前文を読み、憲法に込めた先輩の願いを確かめなければならないと思うことしきりです。
日本国憲法前文には、こう書かれています。
日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする
ことを決意し、この憲法を確定する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

以下に、『憲法と戦争』(C・ダグラス・ラミス著)より、著者と対談したチャールズ・M・オーバビー氏の発言を紹介します。

日本を講演旅行していると、アメリカ人が日本国憲法第9条に興味をもったりするのかとよく聞かれます。
よその国の国民に、日本の憲法9条に興味をもってもらえるのか、ということです。
米国内でアメリカ人一般に9条に興味をもってもらえない理由はいくつかあります。
米国政府に、日本国憲法第9条を規範として奨励する気持ちが一つもないことが大きな理由の一つです。     (P142より)

私自身はそれでもまだ諦めようとは思いません。
この73ワードの英文(第9条は英訳されると73ワードになる)は日本人のみならず全人類への未来からの贈りもののようなものです。
地上に生きるすべての人びとのものです。(P143より)

日本がいわゆる「普通の国」になるのではなく、主権者としての日本国民がその指導者に、創造的な「普通ではない国」となるよう働きかけるように私はお願いしたい。
「日本国憲法に書かれているこの言葉は全人類への贈りものなのだ、埃をかぶった意味のない憲法の条項ではなく、全世界で生かされるべきものなのだ」と言えるほどの自信を、何とかして身につけてほしい。日本国憲法を救うことができるのは主権者としての日本人だけなのです。
(P161~162より)

『憲法と戦争』C・ダグラス・ラミス著 2000年8月30日初版刊
C・ダグラス・ラミス
1936年サンフランシスコ生まれ。カリフォルニア大学で政治思想史を学ぶ。
1960年に来日。以来、京都・奈良・東京などに暮らす。津田塾大学教授等を歴任。
チャールズ・M・オーバビー
1926年生まれ。朝鮮戦争に従軍後、ウィスコンシン大学で博士号取得。
湾岸戦争後の1991年「第9条の会」を米国で設立し、日本国憲法第9条・
戦争の放棄を世界に伝える運動を展開。

1947年に施行された憲法が持つ大いなる使命は、戦争終結(1945年)までに世界で第一次・第二次世界大戦などがあり9千万人が戦死したとされる、この尊い犠牲を思う時、日本の戦争責任の告白は、この憲法第9条こそが、世界に向けた、ことにアジア各国への戦争責任を果たすことだったと思います。
今、能登地震の惨状を聞くにつけ、この震災をきっかけとして、この地震の犠牲を無にすることのないことを願い、「日本人は勇気を出して、9条の原理と一致する方向に進路を変えよう」と働きかけていく責務を果たしていきたいものです。


  

Posted by 守綱寺 at 13:42Comments(0)清風

2024年02月15日

お庫裡から 2024年2月



『正信偈』は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」で始まります。
この二句は、お釈迦様のお覚り、ナムアミダブツ(インドの言葉)の内容を中国の曇鸞大師が「帰命尽十方無碍光如来」と、インドの天親菩薩が「南無不可思議光如来」といただかれたのです。
親鸞聖人が『正信偈』を作られる時、「尽十方無碍光如来」を、その言葉の書かれている『無量寿経』の「無量寿」を使われ、「南無不可思議光如来」からは「如来」の字を取って七言の偈にされたと聞いております。
ちなみに聖人は、このお二人から親鸞と名告られたのです。
さて、「帰命無量寿如来」を意訳すると(仏法を聞く時はいつも私が対象です)、尚子よ、命に帰ってみよ、お前が誕生するまでに、どれ程の命の伝達があったか、気が遠くなる程だ。その集大成がお前なのだ。
途中のどこかで一つ欠けてもお前はいない。
今、生まれて生きているのは、無量寿の願い(真=如)が私となっている(来)。
だから身(命)を頂いた事は尊い。しかし身は借り物なので、必ず返さねばならない。
かつて検事総長までされた方が「人間死ねばゴミになる」という本を出されました。
その頃乳癌を患っておられた北海道の鈴木章子さんは「あなたは後に残された妻や子にゴミを拝めとおっしゃるのですか」と痛烈な批判をされました。
彼女は死が近づいた時、夫や4人の子、親しい人、一人一人の名をあげ、「私は○○さんのナムアミダブツになります」「私は○○ちゃんのナムアミダブツになります」と語られ、「人間死ねば仏になる」ことを示し、47才でお浄土に還られました。
お仏壇の灯明の上に下がっているお飾りは瓔珞(ようらく)と言い、私に先立ってお浄土に還られた方が、蓮の芭になって、私に念仏を促している姿だと教えられています。
念仏申すのは私ですが、ナムアミダブツのことばは、常に「お前はどこに立っているのだ」と問い続け(不可思議光)、私の本性(思い通りにしたい、勝ちたい、誉められたい)があばかれて、頭が下がった時(ナム)、よく気づけたねと喜んでくださる世界(浄土)を感ずるのです。
生も死もなむだみだぶつ。
「死んだらどうなるのですか」と問うてくださった方へのご返事。

  

Posted by 守綱寺 at 13:41Comments(0)お庫裡から

2024年02月15日

今月の掲示板 2024年2月


人身受け難し 今すでに受く
この身今生において度せずんば
いずれの生においてか
この身を度せん(度す=渡ると同意味)

今、いのちがあなたを生きている

南無阿弥陀仏
人と生まれた意味を たずねていこう

『私』と言えるのは、自分のことを
『あなた』と言ってくれる人が
そばにいて はじめて成り立つ

天命に安んじて 人事を尽くす(清沢満之)

人間の本質はGNP(国民総生産)によって
計られるものでは ない

人間の必要とするものは無限である
しかし、物質の領域では
決して達成できない

自己とは何ぞや(清沢満之)

自己とは他なし
絶対無限の妙用に乗託して
任運に法爾に
この現前の境遇に落在せるもの
即ち是なり(清沢満之)
  

Posted by 守綱寺 at 13:41Comments(0)今月の掲示板

2024年02月15日

本堂に座って 2024年2月


少し前から「利他」ということばをよく耳にするようになりました。
まず相手の利益・幸せを考えること…という意味では大切なことですが、そこに“自分”が入ると「利己」になってしまう危険もあります。
「利他」とはどういうものかを考えるきっかけを、中島岳志さんの文章から教えていただきました。

利他は自己を超えた力の働きによって動き出す。
利他はオートマティカルなもの。利他はやってくるもの。
利他は受け手によって起動する。そして、利他の根底には偶然性の問題がある――。
私たちが利他的であろうとするとき、そこには利己的な欲望が含まれていることも見てきました。
利他には、意識的に行おうとすると遠ざかり、自己の能力の限界を見つめたときにやって来るという逆説があります。
そうすると、私たちは何をすればいいのかわからなくなってしまいます。
利他的であろうとすると利他が逃げていくのだったら、私はどうすればいいのか。
利他が偶然性に依拠しているとすれば、偶然の出来事が起こることをただ待っていればいいのか。
そんなふうに思うかもしれません。
しかし、偶然は偶然には起こりません。
九鬼周造は『偶然性の問題』の中で次のように言っています。
「東洋の陶器の鑑賞に偶然性が重要な位置を占めていることを考えてみるのもいい。いわゆる窯変は芸術美自然美としての偶然性にほかならない。」窯変とは、陶磁器を焼く際、炎の性質や釉の中に含まれている物質などの関係で、色彩光沢が予期しない色となることです。
では、窯変は本当に偶然だけに依拠しているのでしょうか?
私は陶器を制作したことが全くありません。ろくろを回したこともなく、窯を使ったこともありません。
そんな人間が、唐突に窯変の美しい陶器を作ることができるかというと、不可能でしょう。
そもそも私は釉薬のかけ方も知らず、焼き方も知りません。
そんな人間が、いきなり秀でた芸術作品を作ることはできません。
つまり、裸の偶然は存在しないのです。職人は、長い年月をかけた修行と日々の鍛錬の積み重ねの上で、偶然を呼び込みます。
窯変は、蓄積された経験と努力のもとにやって来ます。確かに、陶器がどのように焼きあがるかは、窯から出してみなければわかりません。
人間の力では制御できない火の力によって化学反応が起き、思いがけない美が誕生します。そこには「他力」としか言いようのない「力」が働いています。
しかし、その美が生まれるためには、窯に入れるまでに様々な技巧が施されなければなりません。
「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではありません。
大切なのは、自力の限りを尽くすこと。
自力で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。
そうして、自己の絶対的な無力に出会います。重要なのはその瞬間です。
有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。
そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。
そして、その瞬間、私たちは大切なものと邂逅し、「あっ!」と驚きます。これが偶然の瞬間です。
重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。
しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、その器にやって来るものが「利他」です。
器に盛られた不定形の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。
その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。
このような世界観の中に生きることが、私は「利他」なのだと思います。
だから、利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。
私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。
能力の過信を諫め、自己を超えた力に謙虚になる。
その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。
 いま私は、利他をそういうものとして認識しています。
(『思いがけず利他』中島岳志 著 ミシマ社発行 より引用しました)
  

Posted by 守綱寺 at 13:40Comments(0)本堂に座って

2024年02月15日

今日も快晴!? 2024年2月


1月に、『武器としての国際人権』の著者、藤田早苗さんの講演会「同じかな?人権と思いやり」に参加しました。
とても面白い内容でしたので、せっかく聞いたことを忘れないように、印象に残っている部分を書きとどめたいと思います。

○沖縄戦のときに、一般人が逃げ込んだガマ(洞窟)で、日本軍から集団自決を迫られ、家族同士で殺し合い、悲惨な状態になったガマと、一人も亡くならなかったガマがある。
後者は、移民を経験した人が中にいて、『国際法で、兵士は民間人を殺してはいけないと決まっているから、米兵が我々民間人を殺すことは無い』と、中にいる人を説得して自決を思いとどまらせ、結果全員捕虜となり、命を失うことが無かった。
「知らない」というのは、恐ろしいこと。
○今の日本でも、国際的な人権保護の基準を満たしていないがための出来事が多々あり、国連機 関から勧告を受けているにも関わらず、「一方的な見解」、「法的拘束力は無いから従う必要は無い」by安倍政権(2013年)と、政府は無視。
本当に恥ずかしい。でも、その政府を選んでいるのは我々有権者。
「そういう問題をメディアできちんと報じない」と憤ったところで、そうしたメディアを支持しているのは私たち視聴者。
○クリティカル・フレンド(批判もする友人。
相手のために耳の痛いことでも忠告してくれる友人の意)である国連人権勧告を無視して、国際社会で信頼と評価を得るのは難しい。
○ドイツの若者は、自らの国の過ちを学び、アウシュビッツも多数のドイツ人が訪れているが、日本では従軍慰安婦問題や、関東大震災時の朝鮮人虐殺や福田村事件など、教科書からも消ている。
教科書に載っているか載っていないかの差は大きい。
○日本では、人権は「思いやり、優しさ」と習うが(それはそれで大切ではあるが)、「思いやり」は、自分の仲間にしか機能しない。
「外国人だから、煮て食おうと焼いて食おうと自由」by法務省高官、という風になる。
ウィシュマさんの事件など。
○本来は、人権を守る義務を負っているのは、政府であり、国が責任を持ってやるべきこと。「自己責任」と切り捨てられたり、子どもの貧困を子ども食堂などの美談にしてしまっていてはダメ(それ自体は素晴らしいことだけれど)。
本来は、国がきちんと解決すべき問題。
○人権を主張するのは「わがまま」ではない。
自分らしく生きる権利、幸せになる権利、学ぶ権利、差別されない権利等々…人間が本来持つ、守られるべき当然の権利が阻害されている状況には声を上げるべき。
「人権のレンズ」を通してみること。「人権のレンズ」を持てる教育を。

講演の三日前には、朝日新聞の「オピニオン」に藤田さんが紹介されていました。
「人権とは、一人一人をかけがえのない個人としてリスペクト(尊重)するということでしょう。日本ではそういう価値が十分根付いていないという問題があるようです」と語られています。
藤田さんの言葉は、「あなたはあなたになればよい。あなたはあなたであればよい。」という釈尊の言葉と重なって聞こえました。
  

Posted by 守綱寺 at 13:40Comments(0)今日も快晴!?