2021年02月01日

清風 2021年2月


人間とは
その知恵ゆえに
まことに深い闇を持っている
             
高 史明(1932~ 作家。在日朝鮮人2世として生まれる。一子・真史君自死。
それ以前から『歎異抄』を読み、深い悲しみを契機として一層深く親鸞に親しむ。)

今年の大学受験生の第一次テストと言われている共通テストは、コロナ禍の中で行われるということも通常の状況ではなかったのですが、いわゆる成績に順位をつけるだけのことではなく、読解力というか、数学のように正解は一つではなく、そのような正解になった考え方を問う内容のテストだったようです。
60年も前の老僧の頃の試験とは、だいぶ様変わりの様です。
今、私どもがコロナ禍で体験している事態は、今年の大学受験生の受けるテストのような質を持った文明史的な課題に直面しているようです。
コロナ禍と言われるのは、先ずワクチンが間に合わなかったことでしょう。
とにかく応急処置しか、お医者さんもコロナには対応できなかったこと。
そこで言われたのは、不要不急の外出は避けること、コロナは人から人へ人を媒介として感染することぐらいしかわかっていないから、人が集まる事(密集)が危険視されました。

人間と言われる如く、「ひと」は人の間で人と成っていくので、一つの文明の在り方、都市化という人口の密集を必然とする近代という文明・文化、物の考え方は、人間の在り方として、人間も生物として「人間はいきものである。自然の中にある」(『科学者が人間であること』岩波新書)という生命誌学を提唱しておられる中村桂子さんの提言は、コロナ禍を引き起こしてきた近代文明の課題を知る上で、大変貴重な問題提起だと思います。
さて、何か面倒なことを言いかけました。
この近代のもつ課題性について、近代の産業革命の最先端の国・イギリスへ留学した直後の1913年からほぼ1年、漱石が新聞に連載した小説で、主人公が語る次の言葉にも注目させられます。

人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許してくれたことがない。
徒歩から俥(くるま)、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。
どこまで伴(つ)れて行かれるか分からない。実に恐ろしい。(夏目漱石著『行人』岩波文庫 354ページ)

科学は人間に便利さと快適さをもたらしたと言えるでしょう。
しかし、一端そのもたらす便利さと快適さを経験すると、それはもう「当たり前の事」になります。
そして、進歩の名のもとに、さらにもっと快適さ・便利さを求め、製品(商品)開発に力を入れることになります。
人間(現代に生きる我々)は今や、仏教が言う餓鬼的状況、つまり際限のない欲望に振り回されているということでしょう。
そしてまた商品社会と言われるように、どういう商品を身に付けているか(消費者)という評価の目にさらされているわけです。
その近・現代においても、そういう意味では先人が伝えてきた行事というか習慣の中で、ほとんどその行事に含まれている意味が顧みられなくなっている行事の一つが“正月を迎える”ということではないかと思われます。
正月の「正」は、「一」に「止」を組み合わせた形で、その解釈はいろいろにあるようです。
仏教では、悩んだり困ったり虚しいと感じた場合、よく「それを縁として、そこで深く掘れ」あるいは「そこで深く考えよ」と、自己の有り様を問われてきました。
つまり人間は、生きる意味を求めて生きているから、例えば「正月を迎える」と言ってきたように、正月を大事な客として迎える特別な行事として受け止めてきました。
寺では正月の法会を「修正会」と呼んで今も勤められています。
「正を修める」というわけです。
上に「正」は「一」と「止」を組み合わせた形という説を紹介しましたが、「一度止まって、一からよく考えてみよ」という如来(仏・先祖)からのご催促を聞くのです。
「あなたは内に煩悩を欠け目なく備えていることを忘れ、いつでも外に邪魔者を作り、それに責任を転嫁して、いつも愚痴をこぼし、世を火宅無常の世界としてしまっているのではないか」と。
「人間の身をいただきながら、それではあまりにも無残ではないか」と。
外と内とのわきまえもつかない私だと気づかせて頂く行事、それが、身を正す・正月を迎えさせていただくという行事の意味なのです。
だから、それを忘れないようにするために、1年には12回、一日から暦は始まることになっているのです。
その意味では、暦というものは人間にのみ与えられています。
毎月一日から始まる、一日とは「始まりを確かめる」大事な日なのです。
それこそ漱石が、人間の成果として顧みられることのなかった科学に20世紀初頭に「恐ろしい」という評価を与えていることは、今回のコロナ禍(闇)にあたって、今一度ここに止まって、生命を頂いている身として、生きものの来し方・行く末を反省する機会(チャンス)と言えるのではないでしょうか。
私の人生が、「この状況でお前はどう生きるのか?」と問いかけています。   (この項、続く)
  

Posted by 守綱寺 at 15:32Comments(0)清風

2021年02月01日

お庫裡から 2020年2月


お風呂に入ると、正面に鏡があります。
一瞬、「あっ、お母さん」と思う。
写っている姿が、晩年の母とそっくりなのです。
「あっ、いかん、いかん」とあわてて背中を伸ばします。
湯ぶねに入って考えます。
母はいくつの時、父を送ったのか、と。
父の死後、母はよく泊まりに来てくれ、旅行に何度も一緒に出かけました。
津から電車で来るのに、こちらでは売っていないからと、重い漬物をいつも二軒分(姉の所)持ってきてくれて。
指折り数えると、母が父を送ったのは、丁度、今の私の齢に当たります。
ああ、母は若かったなーと驚きます。
今の私には、母と同じような体力はありません。
母と同じでなくても、生きているという事は、そこを生きよ、と命に願われているという事なんだと、独り言って湯ぶねを出る。
鏡は湯気で真っ白。何も写りません。
と、又、新たな考えが。
老人になって、姿が老人臭くなって、何の不思議があろうか。
当然の事ではないか。若くあろう、若く見せようと計らう所に無理がある。
身が段々教えてくれる。
ここを生きよ。そこを生きよ。ありのままに。
あーあ、そうでした。わかっちゃいるけど……。
私の事です。それを忘れて悪足掻き、何度もしそうです。

  

Posted by 守綱寺 at 15:31Comments(0)お庫裡から

2021年02月01日

今月の掲示板 2021年2月


 今月の掲示は、榎本栄一さんの「群生海」から頂きました。

   潮
  私はこの一ヶ所で坐り
  一生を終わりたい
  来るものは きたり
  去るものは 去り
  潮の干満を
  見るようである

   あるく
  私を見ていてくださる人があり
  私を照らしてくださる人があるので
  私はくじけずに
  こんにちをあるく

   くらし
  一日こまごまと仕事して
  夜がきたら ねむる
  このありふれたくらしから
  私は 生きるちからをいただく

   けいこ
  私は 照らされてあるく
  けいこをしているが
  自分のあしあとの
  ギコチナイことが
  まことに よくわかります

   シワ
  この顔のシワには
  人の世の風雪が
  ふかく 刻まれている

   一生
  私のぐるりの
  無名平凡な人びとも
  よく見れば
  一生かかって
  それぞれの世界を
  創造している

   そっと
  どうにもならんことは
  そっと
  そのままにしておく

   おゆるし
  残りのいのちが
  すくないので
  よみたい本だけよみます
  耳がわるいので
  きこえる話だけききます
  おゆるしください

   次の生
  人間には
  つらいことも
  かなしいこともあるが
  私はこの次も
  人間にうまれたい
  

Posted by 守綱寺 at 15:30Comments(0)今月の掲示板

2021年02月01日

本堂に座って 2021年2月



以前ここでも紹介した料理研究家の土井善晴さんと、政治学者で親鸞聖人についての造詣も深い中島岳志さんの対談が本になったということで、さっそく読んでみました。
一見縁遠そうな料理と利他について、興味深いお話が進んでいきます。

中島)土井さんの料理論のとても重要なポイントは、日本の家庭で料理をしている人たちがなんでこんなに苦しいのかというと、「ハレの料理」を毎日つくろうとしすぎているからだと。
      それに対して一汁一菜という提案があると思うんですけれども、僕たちはやはり過剰にものを消費しすぎているんでしょうかね。

土井)そうです。毎日の生活はケハレなんですね。
      日本人の世界観であるケハレとは、ハレの日(まつりごと)・ケの日(弔いごと)・ケハレの日(日常)の三つに分けられます。
      ですから、ケハレの日常生活にも、ハレ的な小さな楽しみがあるものです。
      現代ではハレをまつりごとではなく、ご馳走を食べる日(贅沢をする日)として、みんな大好きな握り寿司やステーキのようなわかりやすいおいしさのもの、きれいに整えられたものを食べるようになり、それではカロリー過多になっても仕方ない。
      メタボの原因をつくり、また食品ロスの問題にもつながって、地球にとっても不健康です。

中島)そのハレを日常の食卓に持ち込みすぎているのではないか。
      もう一度日常のなかに、重要な料理のあり方というのを見直そうということだと思うのですが、そこにもうひとつ、「はからい」という問題とこの問題が関わっていると僕は思うんですね。
      浄土系の仏教のなかでも、親鸞なんかはとくに、人間の賢しらなはからいというものが、自力で美しいものをつくろうとか、有名になりたいとかですね、そういうものが自分を苦しめているんだと。
      それよりも、自分自身の無力というところに立ったときに、阿弥陀仏の本願という大きな他力がやってくるんだというのが、日本の家庭料理のなかにもある観念なのだと思うのですけれども。
     (土井先生が)人間業ではないのが料理である、というふうにおっしゃっていることは、とても重要なことであると僕は思ったのですが。

土井)基本的にね、おいしいものをつくろうということは、和食では考えないんですよ。
      もったいないという言い方があるけれども、おいしいものはもともとおいしいから、おいしいものをおいしく食べなさい、それでないともったいない。
      相手は自然ですから、おいしくないときもあるんです。
      それは自分の責任でもなんでもなく、そのまま受け取ったらいいというのが、実は一汁一菜の心というか、誰がつくってもおいしいという世界がそこにあるんですよ。

中島)自然のものをどのように生かすのか、そこに人間が果たすちょっとした作用というものが料理なんだと。
      この世界観と「利他」というものは非常に直結していると私は思います。
      利他というときには、いいことをしようとか、いい人間になろうみたいな、そういう問題意識が非常に強くはたらくんですけれども、親鸞、あるいは浄土教的な発想からすると、それこそが実は、苦しみのもと、自分自身がいい人間になろうというはからいとか、作為性という問題に、なにか人間がとらわれているというふうにみえるんだと思うんですね。

土井)利他は対象(者・物)と自分のあいだにはたらきます。
      私の考える料理の利他は、つくる人と食べる人のあいだに生まれるものと思います。
      家庭料理の経験のなかに無限の人と人の関係、人の向こうの自然との関係、人と道具との関係、料理と自分との関係、さまざまな無限の経験の蓄積が、その過程でおこなわれているんだということ。
      目に見えないものをはたらかせる力、いわゆる健康のため栄養のために食べるという以上のものが、料理をして食べることのなかには生まれてくる、ということですね。
(『料理と利他』土井善晴・中島岳志著 ミシマ社発行より引用しました)
  

Posted by 守綱寺 at 15:26Comments(0)本堂に座って

2021年02月01日

今日も快晴!? 2021年2月

 

コロナ渦によりマスク必須の生活になりましたが、着用していると誰が誰だか分からないし、どうも好きになれません。
小学生のお子さんを持つ友人から「子どもがマスクが嫌で学校に行きたくなくなってしまった」という話を聞くこともありました。
マスクで鼻と口を覆うことによって恒常的な酸素欠乏状態になり、「脳の機能が少しずつ損なわれていく」という指摘もあり、気になっていましたが、最近「本質的に、そういう(身体の)問題ではない」という文章を目にして、なるほどと思いました。
以下は、赤ちゃんたちが表情と感情を学ぶことについて、様々な医学論文や科学記事から引用して書かれている2017年のアメリカの記事だそうです。

生まれたばかりの赤ちゃんは、・・・「世界を認識するために、必死で物を見て、音を聞く」のですけれど、過去の研究で、「赤ちゃんが最も見続けているのは《人々の顔》」だと知ったのです。
児童の発達の専門家の書かれたものに、 乳幼児は生後1年の間、人々の顔に集中的に注意を向け続けるとあります。
つまり、赤ちゃんは「人の表情を見て、人間というものやその社会での関係を学んでいく」とすれば、たとえば、「生まれてから、丸1年間、周囲の誰の表情もわからない中で生活した赤ちゃんはどうなるか」というと、「人の感情を学習する最初の、そして根本的な機会を失う」ということになりはしないだろうかと思ったのです。
人間の成長は遅いようで早いもので、子どもによりますが、10ヵ月くらいから 1歳過ぎくらいまでには、言葉を話し始め、そして表情や人への感情への対応(笑顔の相手には笑顔を返すとか)など「人間としての反応と感情」を、ものすごい速度で獲得していきます。
複数の論文や科学記事を読みますと、その「学習の根本は生まれてからの1年ほど」で、かなり決まるということのようで、そして、その学習の基礎となるのが「人の表情」のようなのです。
それが今は、外へ出ると「マスクで、誰も周囲の表情がわからない」世界に現在の赤ちゃんたちは生きています。
もちろん、家では親あるいは兄弟の顔と表情を見ることができるでしょうけれど、人間が生活していく上で最も大事なことは、「社会の中での他人とのコミュニケーション」です。
つまり、乳幼児たちは、親以外の人たちの感情や気持ちも学んでいく必要があります。
通常の社会なら、親が赤ちゃんつれて外出する際に、赤ちゃんたちは外で「知らない多くの人たちの顔を見る」わけです。
赤ちゃんから「じっと見られる」という体験はどなたでも経験されることと思いますが、あれは、赤ちゃんたちの「学習」なのです。
ところが、今現在のマスク社会の赤ちゃんたちは、その学習が阻害されてしまっていることに気づいたのです。
感情の把握には、「口」の表情がとても重要だと思われるのですが、そこがマスクで見えない。
・・・外では親もマスクをしているので、「自分の親が他人と接触する時の表情と感情も学べない」ということにもなっています。
現在のこの状態が長引けば、「人間の感情を把握することができない人たちの集団が形成されていってしまう」のではないかと懸念されるのです。

結婚してから約20年、毎日マスクなしで顔を合わせている旦那さんとも「分かり合えない…」と思う日々なのに、マスクをした相手と心を通わせるのは相当ハードルが高いと感じます。
マスク社会の最も深刻な弊害はきっとこういうことなのでしょう。
感染予防はもちろん大切ですが、「人の感情を学ぶ機会を失う」というリスクも頭の隅に置いておきたいと思います。
  

Posted by 守綱寺 at 15:24Comments(0)今日も快晴!?